ACT.2-3
楓ちゃんからの脅迫を受けてキャリイに乗り込んだ俺は、そのまま楓ちゃんの運転で夜の峠に連行されることとなった。
行先は不明なものの、恐らく甲府方面に向かっていると思われる。
「楓ちゃん、一応聞くけど、どこ向かってるの?」
「……御岳」
やはり、そういえば先日も楓ちゃんは御岳を走っていた。
御岳なら俺のホームコースでもあるし、俺から具体的なアドバイスを得られるかもしれないという考えだろうか。
こうして横から見ていると、楓ちゃんは初心者としては運転が上手だった。
第一にクラッチミートがとても丁寧だ。
優しく繋いで、クラッチとミッションを労わった走り方である。
回転も合っていて、シフトショックがまるでないため、忙しそうな左半身を見なければマニュアル車であることに気づかないレベルだ。
意識的なのか、無意識なのかは不明である。
本当に、横に乗っていると眠ってしまいそうな運転の仕方である。
そう思わせる理由はクラッチミートの上手さだけではなく、こうして横に乗っていて感じる不快なGが無いからだろう。
荷重コントロールが上手い、ということなのだろう。
ある程度の技量を持ったドライバーなら、一切ショックのないクラッチミートや、同乗者に不快な思いをさせない荷重コントロールは無意識にできる芸当だ。
しかし楓ちゃんは、それを免許取って二週間で実践している。
これはとてもすごい事である。
俺や健二が免許取って二週間くらいの頃は、もっと下手糞だった。
「確か、次の交差点右折だったよね?」
「ああ、曲がったらあとは道なりだから」
目の前の歩行者用信号が点滅しているのを確認し、もうすぐ信号が変わることを合図していたが、楓ちゃんがアクセルを緩めることはなかった。
こういうところの予測はまだ甘いんだろうな。
急ブレーキを覚悟し、身構える。
「えーっと、確かこうだっけ……」
小さく、真剣な表情で呟きながら、楓ちゃんは強めのブレーキを踏んだ。
左手は四速から三速、そして二速へと、瞬く間にシフト操作をする。
強めのブレーキによるGの変動こそあれど、シフトショックの類は無く、低いギアに入れられるのに合わせてエンジンが唸りをあげた。
楓ちゃんはステアリングを切り込んで、ノーズがスムーズに右へ入り込んだ。
クリッピングポイントを掠めて、出口に向けてアクセルを開けていき、ほぼ全開の踏みっぷりで御岳に入る道を立ち上がっていった。
「まあ、こんなもんか……」
などと独り言を呟いているが、はっきり言おう、上手い。
この速度域では少しブレーキが強すぎた印象はあるものの、きっちり回転を合わせてヒールアンドトゥを決めてきたし、何よりコーナーを脱出する際にアクセルを開けるタイミングは完璧だった。
これが免許取って二週間かそこらの腕かよ、信じられない。
「凄いね……ヒールアンドトゥできるんだ」
「別に、マニュアル車の仕組みはわかってるし、あと一日猛練習した」
「猛練習、ね……なるほど」
リズムで人の運転を言い当て、かなり走り込んだとは思われるものの、たったの一日でヒールアンドトゥを習得する楓ちゃんのドライビングセンス。
もしかすると、この子は走り込めば簡単に俺や健二、もしかしすると天宮さえも超えるドライバーになるのではないだろうか。
そんな期待を胸に、やがて御岳の上りへ差し掛かった楓ちゃんの運転を、じっくりと観察した。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
御岳の頂上には美術館があり、日中は警備員のおじさんが立っているため、美術館の利用者以外は追い返されてしまうが、夜間帯は警備員がいない割に駐車場は閉鎖されていないため、俺たちはこの場所をたまり場に使っている。
この峠を夜間帯に通行する車は、ごく少数の地元民か、このあたりのお土産屋さんや飲食店に食材などを配達する業者の車か、あるいは走り屋くらいだ。
楓ちゃんの運転で美術館の駐車場まで来るのは、とても新鮮な気分である。
楓ちゃんは俺の想像以上に運転が上手い。
バイクというキャリアが二年ほどあるにしろ、とても免許を取って二週間かそこらで出来る運転とは思えなかった。
ややブレーキングに難があるものの、ヒールアンドトゥができる。
コーナリング中の挙動が安定していて、不快な感じがしない。
ペダル操作が丁寧で、クラッチミートも上手い。
今そこでタイヤとにらめっこをしている十八歳の女子高生が、下手な一般ドライバーよりも上手な運転をしている。
この現実が、俺にはちょっと信じられなかった。
「んっ、センセ、どうしたの?」
しゃがんでタイヤを触っていた楓ちゃんが、振り返って俺を見てきた。
夜風に靡く金髪と、小さくて整った顔が夜なのに眩しく見える。
「いや……楓ちゃんって、上手いね、運転」
「は? 褒めてんの?」
「褒めてる」
「お世辞はいらないし」
「お世辞じゃなくてマジで言ってんだよ。全然、俺が初心者だった頃とは比べ物にならないってマジで思ったんだって
そう言うと、楓ちゃんはまた顔を背けてタイヤとにらめっこを始めた。
「そうはいうけど、全然乗れてないし」
「……そうか?」
免許取って二週間だから、あれだけ運転できれば十分だと思うが。
「バイクだったらもっと開けれてた、なんか怖くて全然踏めない……」
「そりゃまあ、二輪と四輪の違いはあるだろ」
「それは、そうかもだけど……センセにはわからないよ」
「そんなもんなのかねえ、俺からしてみたら箱に入った四輪より、剥き出しの二輪のほうが遥かに怖く感じるけどなぁ」
四輪なら多少はボディに守られるかもしれないが、二輪で事故ったら簡単に腕だの足だの吹っ飛びそうだという印象しかない。
そんなことを考えていると、楓ちゃんが立ち上がった。
むすっとした表情でこちらを見ている。
「……どうした?」
「センセ、運転おしえて」
態度は良くないが、でも真剣な雰囲気だった。
「教えてって言われてもなぁ、なに教えればいいんだ?」
「ほかの人より速く走る方法」
「速く走る方法、ねえ……言っとくけど、難しいよ?」
運転が上手いのと、速いのはまた別の話だと俺は思う。
速さって、確かに腕があればある程度速くは走れるけど、特にこういう峠みたいところだと天宮みたい思い切りがないと難しい気がする。
テクニックと度胸があって、速さは生まれる。
それが天宮とか速い人を見ていて思った、俺の感想だ。
だけど楓ちゃんは俺の言葉に不満な様子で、物凄い形相で俺を睨んできた。
「教える気、あんの?」
「いや、だって危ないぜ? サーキットならともかく、公道は責任取れないもん」
「センセーだって公道走ってるくせに、説教できる立場じゃないじゃん」
「それを言われると痛いんですが……」
だけどいいのか?
いくら西野さん父から許可を貰っているらしいとは言え、俺その許可の言葉を本人から聞いたわけではないし、流石に家庭教師が教え子に峠の走り方を教えるって、ヤバのではなかろうかと。
だけど楓ちゃんを刺激して、変な嘘つかれて立場危うくなるのも嫌だ。
……とりあえず、ご機嫌をとろう。
「そういや喉渇いたんだけど、楓ちゃんもなんか飲む?」
「えっ、センセ奢ってくれんの?」
「今日は特別だ」
食費をケチる俺に本来、奢る金銭的余裕などないが、楓ちゃんのご機嫌を取るためなら必要な出費である。
脅されている以上、下手なことして犯罪者に仕立て上げられたくない。
「んー、なんでもいい、テキトーにジュース飲みたい」
「はいはい」
楓ちゃんの要望を聞いて、美術館の横にある自動販売機まで歩く。
その時、ちょうど一台、御岳の頂上に上ってくる車のエキゾーストノートが耳に入ってきた。
トンネルに入って、意外と静かな車だとはわかる。
しかし結構踏んでいることもわかる。
ギアを下げながら、やがて眩い光が真っ暗な駐車場を照らした。
この明るさはLEDか、そしてようやく車種がわかった。
黒いボディに鋭く切れ上がったヘッドランプ、フロントバンパーと一体化された大きなグリルが特徴の、セミノッチバックの車体形状を持つ車だった。
トヨタの86か、スバルのBRZか。
あのしゃくれたフロントのリップ、尖りを主張したサイドスカートは、恐らくTRDのエアロパーツだろうか。グリルの形状、ドアに貼られたトヨタ系を得意とするショップのステッカーなどから、十中八九ZN6の86だろう。
この辺では見ない車だな。
興味はあるものの、早く戻らないと楓ちゃんに怒られそうなので、手早く小銭を入れて楓ちゃんと自分の飲み物を買った。
両手にペットボトルを持ちながら、車へと戻る。
ふと顔をあげると、楓ちゃんと誰か二人が話をしている様子だった。
……いや、楓ちゃんは話を聞いていない。
一方的に二人、ガラの悪そうな男が話しかけているといった雰囲気だ。
「これお嬢ちゃんのクルマなの?」
「すっげー、オーバーフェンダーついてるぜ?」
「ていうかお嬢ちゃん何歳? 免許ちゃんと持ってる~?」
短い茶髪をツンツンに尖らせた、眉毛が細いスウェットにパーカー姿の男と、もう一人は長めの金髪のシャツにジーパンという猿より頭の悪そうな男の二人組だった。
あまり雰囲気は良くない、というより下心丸出しとも思える態度だ。
「オレたち神奈川から来たんだけどよ、山梨って走り屋少ないんだな」
「そうそう拍子抜けだぜ。けど思わぬ収穫はあったなぁ?」
「…………。」
怖いのか、はたまた相手にしていないのか、楓ちゃんは沈黙を貫いていた。
「お嬢ちゃんさ、俺たちに道教えてくれない?」
「そうそう、コイツの86のナビシート座っていいからよ」
どうやらあの86は、茶髪の所有物らしい。
道案内を頼む態度とは思えない、どう考えてもお持ち帰りを狙っているとしか思えないゲスな連中にしか見えない。
……って、こんなこところで突っ立っている場合じゃないな。
固唾をのんで、覚悟を決めて、俺は一歩ずつ歩き出した。
「あのさ、アンタら」
「……あ?」
「なんだ、テメー?」
楓ちゃんに向けていた表面上の笑顔とはまるで違う、いまにも殴り掛かってきそうな怖い顔で二人は俺を睨んできた。
「楓ちゃん、これ持ってて?」
「え?」
二人の動きに警戒しつつ、俺は楓ちゃんのところに回り込んで、楓ちゃんにペットボトル二本を手渡した。
「おいテメー、人の話聞いてんのか!?」
茶髪が怒声をあげる。
正直、足がガクガク震えそうだが、とりあえず俺も二人を睨んだ。
「悪いけど、コイツは俺のツレなんだ。ナンパなら他を当たってくれないか?」
ごめんなさい楓ちゃん、いまだけ彼女のフリでも何でも演じてください
「はあ? おい……」
「……へへへっ」
二人組は顔を合わせると、不敵な笑みを浮かべて再びこちらを向いた。
「カレシぃ~、随分ショボいクルマ乗ってんじゃねえの?」
「軽トラだぞ軽トラ、常識ってモンがねーんじゃないんかぁ~?」
「ショボい車だ? これは俺のクルマじゃないんだ」
「はあ~? …………ぶっ!! おい聞いたかよ、彼女のクルマだってよ!!」む
「だっせぇ、今日一番笑ったぜ!! おいカレシくぅん? 免許は持ってまちゅかぁ~?」
もしかして俺、地雷踏んだ?
面倒くさい、こんなとこになるなら百点取ったら乗せてやるなどと言わず、今日ここにS14でくれば良かったと今更ながら後悔している。
「だから何だ? 俺は今日、コイツの練習に付き合ってるんだ。お前たちには関係ないだろ、気が済んだならとっとと帰ってくれ」
「カレシくんさぁ、粋がるのはいいけど相手見てケンカ売れよな?」
「そうそう、こっちは二人だぞ。テメーみてーなヒョロヒョロが勝てるかよ?」
君たちだって痩せてるし、ヒョロヒョロじゃないかとは思ったものの、いきなりぶん殴られそうな気がしたので言わないでおこう。
しかも人数頼みかよ……。
「おい、どけや」
「くっ……!?」
勢いづいた茶髪が力強く、俺を押しのけて前に出た。
かなり力強くやられたようで、普通に胸が痛い。
「お嬢ちゃん、こんなヘボいの放っておいて行こうぜ?」
「そうそう、オレたちにさぁ、教えてよ~山梨の夜景スポット」
「楓ちゃ──うぐっ!?」
金髪が、俺の足の指を思いっきり踏みつけてきた。
「元カレシくんは黙っててねぇ~?」
そして胸倉を掴みながら、金髪がにこやかな顔で俺を威圧してくる。
元カレシくんとは一体、そもそも俺たち付き合ってすらいないんですが。
「さあ、行こ──痛ぇ!?」
茶髪が手を出した瞬間、楓ちゃんは鬼のような形相で男の手のひらを叩いた。
「いい加減にしろよテメーら、センセー離せよ」
「せ、センセ? ……はあ!? コイツ先公なん!?」
「おいおいセンセー君、もっとイケない関係じゃねーかよ、あ?」
金髪の胸倉を掴む力がさらに強まる。
「お嬢ちゃんよ、先公と不純異性交遊するのとオレらと不純異性交遊するの、そんな変わら──はぐっ!?」
懲りずに楓ちゃんに詰め寄る茶髪だが、楓ちゃんは恐れるどころか、さらに強烈なビンタを茶髪の顔面に放った。
その瞬間、金髪の手が離され、茶髪のところに駆け寄った。
そのタイミングで俺も楓ちゃんの横に並び、二人の前に対峙する。
「こ、このアマ!! ぶっ殺されてえかよ!!」
「あーあ、センセー君はボコ、お嬢ちゃんはブチ犯し確定だねぇ?」
最悪だ、完全にコイツらを怒らせてしまった。
なんとかこの場を離脱する方法を模索しようとあれこれ考えてみるものの、何一ついい手段が思い浮かばない。
コイツらに手を出されれば、正当防衛は成立するだろう。
しかしそれでは楓ちゃんが無傷で済むとは思えない。
俺は喧嘩に自信もないし、多分やってもボコボコにされるのがオチだ。
「あのさ、テメーらも走り屋なら走りで勝負したらどう?」
緊迫した状況の中で俺が固まっていると、その静寂を楓ちゃんが打ち破った。
「……おいおい、まさかオレたちとバトルしようってのか?」
「当たり前でしょ、あたしより遅いやつなんか眼中にないから」
楓ちゃんはとても強気な啖呵を切った。
「……おいおい聞いたかよ、この嬢ちゃんヤル気らしいぜ?」
「へっ、オメー見せてやれよ。走りの聖地って言われてる神奈川の実力をよ」
「……いいぜ? 嬢ちゃん、相手してやるわ」
「その代わりオレたちに負けたら、その時は問答無用でホテルだからな?」
二人の男は下心に満ちた笑みを浮かべながら、86のほうへと歩いていった。
定番メーカーの白い鍛造ホイール、足回りも社外品のキャリパーが入っていて、車高も下がっているので恐らく結構弄っているのだろう。
マフラーもどこのメーカーかは知らないが、十中八九社外品。
TRDのエアロと、どこかのGTウイング。
恐らく見えないところも相当に手が加えられているはずだ。
車だけ見たら走行会にも行っていそうな、よく完成された車だ。
……もしかしてアイツら、速いのでは?
「おい、楓ちゃん、無茶だぜこんなバトル」
「あ? なにが?」
「なにがって、楓ちゃん初心者でしょ!! しかも相手の車はかなり速そうだし、車の差もデカいんだぜ?」
楓ちゃんは初心者、こっちの車は改造されているとは言っても軽トラ、相手の86はサーキットでもタイムを出せそうなチューニングカー。
はっきり言って勝ち目がないし、こんな危険なバトルはやらせられない。
「ンなもんやってみなきゃわからないし、センセもはやく助手席乗りなよ」
「いや、だからさ……そうだ、俺が走る、だから楓ちゃんは──」
「うっさい!! あたしがやるの、じゃなきゃ意味ないでしょ」
何の意味かは知らないが、楓ちゃんにしては珍しく大きな声で抗議をしてきた。
「センセ、早く乗って、もうここには戻ってこないから置いてくよ?」
「えっ、おい、ちょっと待てよ!!」
そう言いながら運転席に乗り込む楓ちゃんを見て、俺は慌てて躓きそうになりながら駆け寄って、キャリイのナビシートに座った。