ACT.2-2
長谷川とティータイムを楽しんだ後、俺は一人でバイト先へ向かう。
家庭教師のバイトがある金曜日と火曜日だけ、本業のガソリンスタンドのほうには店長に相談し、休みにしてもらえた。
おかげさまで全休の日は殆ど無いが、お金が欲しいので後悔はない。
今日も西野邸の敷地内に駐車させていただき、インターホンを鳴らす。
「こんばんは、家庭教師の奥田です」
「あら先生ね、いま開けますね」
女性の声が聞こえて、ドアを開けてもらう。
スラリとした金髪ショートヘアの、碧眼が美しく目鼻立ちが整った女性だ。
「あっ、お母さんのほうでしたか。今日は、お父さんは?」
「あの人なら今日は寄り合いがあるとかで、帰りが遅くなるって言っていたわ……また飲酒運転でもしてくるんじゃないでしょうね、あのバカ男」
いま不穏なワードが聞こえてきた気がするんですが、聞かなかったことにしようか。
「さあ上がってください、娘なら部屋で待っているわ」
「はい、お邪魔します」
靴を脱いで、お母さんの先導で家の中にお邪魔させていただく。
早速、二階の楓ちゃんの部屋にいこうとした時だった。
「先生、凄いですね」
楓ちゃんのお母さんが、唐突に俺を褒めるようなことを言った。
「……えと、何がですか?」
「うちの楓、滅多なことで誰かに感心を持つことってないのよ」
「はあ、そうなんですか?」
「ええ、あの娘は昔から虐げられたり、裏切られたり、だから人のことをいつも警戒していて、何事にも無関心で、だからいつも誰かを威嚇するような素振りをするんです……でも、先生のことは随分気に入っている様子だったわ」
心、気に入られているんですかね?
おちょくられているような印象しかないし、いつも不機嫌そうだけど。
だけどお母さんの瞳は寂しそうで、だけど嬉しそうな、そんな感じだった。
……やっぱり、楓ちゃんって俺の思った通りの子なんだろうか。
「……そうだったんですか」
「ええ、だから先生は凄いんです。たった一回だけなのに、あの娘はあの後、先生の話ばかりしていたんですよ」
「俺の話ばかり?」
あの楓ちゃんが?
いまいち想像できないが、お母さんの表情を見る限り嘘とは思えない。
「変なことをお話してごめんなさい、先生には勉強さえ教えていただければいいはずなのに」
「い、いえ。俺なんか別に、何もしてないですから」
あの日、少し話をして勉強を教えただけなので、特に好かれる要素はないはず。
「それじゃあ、今日も娘のことお願いね」
「……はい、わかりました!!」
ここまでお母さんに期待されているのでは、手を抜いたらますます殺される。
覚悟をもって、絶対に楓ちゃんを合格させなければならないという使命感を持って、今日の仕事に臨むことにした。
どうせ返事は帰ってこないだろうという予想のもと、楓ちゃんの部屋のドアをノックするが、案の定返事は無かったので、お母さんの言葉を信じて勝手に入ることにした。
ドアを開けると、楓ちゃんがデスクチェアの上で左足を抱え込みながら座っていた。
「……入っていいなんて言ってないけど」
イライラのこもった声だった。
「返事を待つまで待ってたら、どうせ日付変わるだろ」
「わかってるじゃん」
やっぱり開ける気なかったのかよ、そのわりに施錠はされていなかったけど。
「宿題やったか?」
「はい、コレ……」
宿題を手渡され、一問一問確認していくと、前回さらりと教えた所は八割以上理解できている様子である。
凄いな、やはり俺の思ったとおり頭は良いみたいである。
「だいたい理解できているみたいだから、わからなかった問題だけさらっとおさらいして今日の内容に入ろうか」
「……んっ」
それから今日の授業に関しては、前回のお喋りっぷりと比較すると雲泥の差があるほど、楓ちゃんは無言で与えられた課題に取り組んでいた。
わからないところはもちろん質問を貰えたが、それ以外に彼女が言葉を発することはなく、かえって不気味な印象を覚える。
もっとも家庭教師と教え子の関係とは、これが正しい形なのかもしれないが。
楓ちゃんは俺の想定外に集中力と理解力が高く、教えたことを一度か二度で覚えてくれるので、本当に要領の良い子だと感心させられる。
それだけに、謎が深まる。
はっきり言って馬鹿ではないし、むしろ頭が良いのではないかと思ってしまうほど、楓ちゃんは教えたことをすんなりと吸収してくれる。
ということは、本来は勉強ができる子なはずだ。
それなのに学校をサボりがちで、つまらないということは、学業で躓いて退屈さを感じているというわけではなさそうだ。
やっぱり、お母さんの言葉の通り、なのだろうか。
「……ほい、じゃあ今日はこれで終わり!! 次はまた金曜だから、これ宿題ね」
今日の範囲を予め想定しておいて作成した宿題を、楓ちゃんは無言で、無表情のまま受け取った。
「……センセ」
「ん、なんか質問か?」
「ちょっとこのあと顔貸して」
「……はい?」
言葉の意味が理解できなかった。
えーっと、顔を貸す……?
「一応聞くけど、何のために?」
「別に、ちょっと走るのに付き合って」
「走るの? ……えーっと、ランニングでもするの?」
「は? 違うし……」
走る、もしかして峠?
峠と言えば、俺も楓ちゃんに聞きたいことがあった。
「そういえば走るで思い出したけど、楓ちゃんこの前、御岳峠ってところ走ってた?」
「……えっ?」
表意をつかれたような顔で俺を見てくる。
「じゃあ質問を変える、御岳行った日に灰色の車とすれ違わなった」
「……は? え? でも、センセの車って……」
あー、やっぱりあの軽トラは楓ちゃんだったか。
だと思った、なんとなく見覚えのある車だったような気がしたので。
「いや、あの日は俺、オヤジの車に横乗りしていたから」
「そういうこと、うん……まあ、走ってたよ」
俺の感、またしても当たる。
「やっぱりそうだったか……でも、なんで御岳に? はっきり言ってここからは遠いだろ」
バカみたいに遠いわけではないが、少なくとも西野家がある周辺を調べれば、御岳よりも近いところに走れそうな山はいくつか存在する。
俺たちは普段そこへはいかないが、多分走っている人間は他にもいるはず。
走り屋が見たいのであれば、金曜か土曜の夜に行けば大抵いるはずだが。
「……パパから聞いた、センセーのお父さんは昔、御岳の下りで最速だったって」
「オヤジが? 確かに速いけど、でもオヤジはもう現役じゃねえぞ?」
確かに今でも時々峠にセッティングを確かめに行くことはあるし、時々ではあるがサーキットの走行会に行くこともあるが、基本的にあの人はもう現役を退いた人間だ。
あの人が走りに行くことといえば、前回のような試運転ぐらいである。
「いや、センセのお父さんに用はないけど……ただ」
「ただ?」
「……ちっ、察しろ」
なんか急に舌打ちされて睨まれたんですが。
「いやーキレられましても」
「キレてないし……ただセンセーが走っているかなと思っただけ、それだけ」
恥ずかしいのか、少しもじもじしながら西野は悔しそうな表情でつぶやいた。
「……なにあれ、御岳って全然走り屋いないじゃん」
「そりゃあいくら金曜の夜でもな、時間帯早すぎるよ」
十時くらいでもたくさん集まっているような時代は、それはおそらくオヤジが現役だった走り屋全盛期の話で、少なくとも俺たちが走るのは深夜から明け方になるまでの時間帯だ。
台数だってさほど多くはなく、俺のチームと他数台が点々と走っている。
現代の峠事情など、どこもそんな感じではないだろうか。
「……楓ちゃんってさ、もしかして走り屋になりたいの?」
ふと思った疑問を、楓ちゃんに投げつけてみる。
「走り屋になりたいっていうか、あたし多分もう走り屋だと思うけど……」
「えっ、そうなの?」
「前に言わなかった? 十六歳の頃からバイク転がしてたって」
「バイク? ……えっ、転がしていたって、もしかして攻めてたの?」
「他になんかある?」
「いえ、別に……?」
この子、もう既にバイクで走り屋やっていたのか。
そういえば初回授業の時にバイクに乗っていたとは言っていたが、バイクに乗っていたって、ツーリングとかドライブではなく、夜の峠をバイクで攻めていたということか。
だからなのか、車とかにも詳しい理由は。
「それで、二週間くらい前に車の免許取ったんだけど」
「……えっ、免許取って二週間だったの!?」
「そうだけど」
それにしては随分手慣れた感じではあるものの、バイクのキャリアがあるなら車両感覚を掴めれば、意外とある程度の運転はできるものなのかもしれない。
某豆腐屋の如く無免許運転をしていなかったことに、若干の安心感を覚えた。
「それよりセンセ、このあと顔貸して」
「言っとくけど、シルビアには乗せないぞ」
約束は約束、百点を取るまでは絶対に乗せる気はない。
そもそも百点を取れるとは思っていないし、乗せる気などハナからないが。
「別に乗せてとか言ってないし、ちょっと練習に付き合ってって言ってるだけ」
「練習? ……何故に?」
「センセー上手そうだから」
「なんでそう思った?」
「この前、うちから出ていく時。なんとなく、リズムが良かったから」
外から発進を見ていただけで人のドライビングを分析できるとは、ひょっとすると楓ちゃんは初心者ながらセンスの塊なのかもしれない。
「……あのな、俺、一応家庭教師なんですよ。だから教え子乗せたらまずいんですよ、わかるだろ?」
こんなことで懲役三年とか言われるのは嫌なので、言われて不機嫌になっている楓ちゃんには申し訳ないものの、はっきりと断らせていただく。
しかし楓ちゃんは一瞬、真っ白な歯が見えるような薄ら笑いを浮かべた。
「別に、センセがあたしの車に乗るだけだし、だから問題ないよね?」
「逆でも問題大ありだろ、第一親がなんて言うよ」
「大丈夫、許可なら取ってる」
「…………はい?」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。
「許可? えっ、どういうこと?」
「パパがね、お前一人で走るよりはセンセのチームにでも入ったほうがまだ安全だとか言ってた」
なに言ってんの、あの親父さん。
仮にも楓ちゃんは大切な娘だろうに、俺なんかに託して大丈夫だと本気で思っているのだろうか。
確かに仮に任されたところで、手を出す気は一切ないが。
「引き受けてくれないならあたし、今からママにセンセに襲われたって言うから」
「なっ……!?」
そういうパターンで脅迫してくるか、これは想定外。
「嫌だった言ったのに、センセ、無理やり……すごく痛くてっ、ぐす」
丸くなるかのように自分を両腕で抱きかかえながら、怯えるようにうねうねと腰を動かして、しかしわざとらしい音色で言葉を紡ぐ。
本当にイライラさせやがる、こんな嘘で尾根のアルバイト生活と人生を終わらされてたるまかよ。
「あー、はいはいわかりました!! ぱぱっと行ってぱぱっと帰ろうな!?」
「わかってんじゃん、センセ」
くそっ、なんて嬉しそうな顔をしていやがるんだ。
まさかこんな年下の女子高生の尻に敷かれることになろうとは、これも長谷川の指摘通り、俺が女慣れしていないせいなのだろうか。
悔しさを覚えつつも、初めて見る気分の良さそうな楓ちゃんの後ろを歩いて、駐車場へと向かった。