ACT.1-5
授業を終えて帰ろうと、西野さんご夫妻に一言挨拶をして家を出る。
セルを回して火を灯し、冷えた心臓に暖を入れてやる。
自分の車の姿が目に飛び込んで、自分の手で鍵を開けてやって、乗り込んで、そしてエンジンをかけてやる。この一連の流れ、この僅かな時間の間に行われる動作に、言葉で表現するのが難しいくらいの幸せを感じる。
悦に浸っている俺を現実に呼び戻したのは、窓をコンコンと叩かれる音だった。
「……センセ」
楓ちゃんだった。
長い亜麻色の髪が、今日は強めの夜風によって美しく靡いていた。
「どうした、俺なんか忘れ物でもした?」
パワーウインドウを開けて声をかけるが、西野は相変わらず機嫌の悪そうな顔で佇むだけ。
「……別に、ただ」
「なんだよ、そろそろ帰るぞ」
「今度そのS14、乗せて」
俺の車に興味でも持ったのか、楓ちゃんの要求は俺の予想外のものだった。
「乗せたら俺がクビになるだろ」
生徒に手を出すなって、会社からも厳しく言われているんだ。
第一、楓ちゃんに手を出したら西野パパが怖そうなので……。
「ケチかよ、もういい帰っていいよ」
「ンだよ口悪いなぁ……んじゃあ、次のテストで百点取ったら乗せてやるよ」
どうせ百点は取れないだろうと思って、軽い気持ちで言ってやった。
「童貞の癖に生意気すぎ、じゃあ百点取ってやるから」
「どんだけシルビア乗りたいんだよ……じゃあまた火曜な、宿題やっとけよ」
「はいはい」
やる気の無さそうな返事を聞いた後、俺はパワーウインドウを閉めてクラッチを丁寧に繋いだ。
スポーツマフラーから吐き出される太めのサウンドを西野邸に残しつつ、少しだけ勢いよく田舎道を駆け抜けた。
◇ ◆ ◇ ◆ ◇
家に到着して、自宅ガレージにシルビアをバックで入庫させる。
我が家は父親が自動車整備工場を営んでおり、自宅の敷地内には事務所と作業場所のほかに自分たち用のガレージも立っている。
肝心の家は築五十年近いボロ屋なのだが、改築するほどの経済的余裕はないらしい。
ガレージ内で、シルビアのアクセルを煽るサウンド以上の爆音が木霊する。
シルビアの横に停められた、ハイメタルツートンのトレノから発せられる爆音だ。
AE86、スプリンタートレノ、GT-APEXの前期型。アニメ化やゲーム化、映画化もされた某峠バトル漫画のおかげで人気を博し、中古車市場の相場が高騰した三十年以上前の小型で軽いFRスポーツカー。
流石にもう古いせいか、乗っている人は大切に扱っている人が多く、ハチロクで走っている人はドリフトの走行会ならともかく、純粋にタイムを削るために乗っている人は減った気がする。
ハチロクが旧車とされる今の時代、ハチロクを弄って現役で走らせている物好きなんて、多分うちのオヤジのような物好きくらいだろう。
そのオヤジである、今ハチロクのエンジンを吹かしていたのは。
「なにやってんだよオヤジ、近所迷惑だろ」
俺が苦言を呈すると、運転席からタバコを咥えた眼鏡のちんちくりんなオジサンが顔をのぞかせた。
目つきの悪いこの小柄で額に皴のあるパーマのオッサンこそ、奥田自動車整備工場の代表で俺の父親である奥田淳である。
容姿は全く俺に似ていないような気がするが、もうこの世にいない母親曰く、俺の目元と鼻の形は父親似らしく、それ以外はオヤジ曰く母親似らしい。
「おう、帰ったか。いやぁ、オーバーホールが終わったんでな、よく吹けるようになったぜ。ついでに新しく足も作ったんで、これからテストがてら軽く流しに行こうと思ってな」
最近、エンジンをバラしていたと思いきや、オーバーホールしていたのか。
本業そっちのけで何やってるんだよ、このオヤジは……。
「足を作った? なにやってんだよ……いい年こいて、しかも今時ハチロクで」
「うるせー、オメーだってイチヨンじゃねえかよ。しかも前期だぞ、前期」
ガキかよって感じだけど、この人の作る足回りは本当に良いから侮れない。
何だかんだで俺のS14の足を組んだのも、結局オヤジだったりする。
そういえば我が家も、かつては自動車整備工場だなんて大層なものではなく、ただ足回りを中心にやっていたチューニングショップだったような気がする。
とにかくこのオヤジ、足を組ませたら恐らく山梨一の腕かもしれない。
「そういやオメー、俊之んところで仕事始めただろ」
「俊之? ……もしかして西野さん?」
「そうだ、アイツからえらい久しぶりに電話があってな、奥田恵って俺のガキかって」
「……一応聞くけど、なんて答えたんだよ」
「下品なS14乗ってるヘタクソの倅」
「テメーぶっ殺すぞ」
ヘタクソは余計だ、最も俺の腕ではオヤジに到底敵わないが。
「まあどうでもいいけどよ、乗れよ。せっかくだからドライブ行こうぜ」
「ドライブ? ……オヤジの言うドライブって、ただの峠攻めじゃん」
「ンな嫌な顔すんなって、たまにはヘタクソに指導しようってんじゃねえか」
「ヘタクソは余計だ」
文句を言いながらも、久しぶりにオヤジの走りは見てみたいと思ったので、とりあえずハチロクのナビシートに座ることにした。
この車には久しぶりに乗るが、予想外なことに動き出したハチロクの乗り心地は、意外と悪くはなかった。
結局うるさいし、年式相応の振動はあるので知れた程度だが。
甲府の市街地を抜けた後、狭い県道を通って御岳峠の手前にある伊田峠に差し掛かる。
ここは急勾配かつ道幅が狭く、おまけにキャッツアイがあって走りにくく、住宅街も近いため、あまり俺たちは走らないものの、今でも途中の区間でドリフトをやっている人はいるらしい。
「どうだ、意外と悪くねえだろ」
「想定外に乗り心地は悪くないな……」
「だろ、俺も年だからなぁ……ストリート用に快適仕様に組みなおした」
そのわりにはショックの硬さは少し感じるものの、確かに今までの競技車両じみたセッティングとは別物に思える。
とはいえ、十分コレでも普通の人からすれば硬めだと感じると思う。
「そういや俊之のヤツ、奥さんイギリス人だったよな……娘だったよな」
「ああ、女の子だったよ」
「金髪だった?」
「金髪だった」
「可愛い?」
「まあ、可愛いんじゃねえの」
「なんだテメー、オレに紹介しろよ」
「いい年こいて何言ってんだよ、女子高生だぞ女子高生、犯罪だろ」
「うるせえ、民法上は結婚できるだろ」
「何言ってんだこのオヤジ……」
そんなくだらない話をしながらオヤジは快調にハチロクを飛ばし、気づけば御岳のヒルクライムスタート地点に近づいていた。
「誰もいなそうだな」
「そら平日の夜に走ってるヤツなんか、いても多分俺のチームだ」
天宮とかなら今日でも走ってそうだが、流石に見かけたらアレだよな。
うちのオヤジと天宮のキレた下り、どっちが速いのかは正直興味はあるが、いくら天宮が速いと言っても流石にこのオヤジには勝てなさそうな気がする。
というか、勝てないだろうな。
天宮がいくら速いと言っても、俺でも多少はついていけるわけだから。
「さてと、上り……少しだけ行くか」
「少し? その少しが怖いんだよなぁ……」
オヤジの少しは、わりと全開に近いような気がするけど、オヤジにとっては本当に少しなんだろうから走りのレベルの違いを感じる。
そう思っていると、オヤジはアクセルを踏み込み始めた。
「いいねぇ、面白いように回るぜ……今のVABやシビックだって敵じゃあねえ」
「下り、だけだろうけどな」
少なくとも踏んでる感じ、オヤジの運転が上手いのは伝わってくるものの、結局のところクルマがハチロクで心臓に収まっているのがAE111用とは言え、4A-GEなのでパワーは知れた程度だ。
だけどコーナリング性能はかなり良さそうだ。
今までのオヤジのハチロクにしてはマイルドなセッティングながら、結構路面に粘ってくれているうえに、ギャップを上手く吸収してくれるので峠で不安感を感じない。
ストリート用に組み直したとは言っていたけど、こういうことか。
などと分析していたところで、俺は次のコーナーを注視する。
ぼんやりと、灯火のようなものが見えた。
「オヤジ、次のコーナーで対向車とすれ違うぞ」
「わかっちゃいるが、オメーもよく見てるな。コ・ドライバーのほうが向いてるんじゃねえか?」
「やかましいわ」
そのコーナーへ差し掛かると、向こうもこちらに気づいてハイビームを切ったのか、灯りが少しだけ暗くなった。
一瞬のことだった。
和式便所のようなボディが、一瞬だけ見えて、あっという間に通り過ぎる。
こちらが速いので一瞬の事だったが、向こう法定素度よりは遥かに速そうだ。
和式便所、軽トラ……あれ?
「今の車……」
「んっ、今の軽トラがどうした? ……まだまだって感じだったな」
「えっ?」
親父が突如、意味の分からないことを言うので思わず声を漏らしてしまう。
「筋は悪くなさそうだが、乗りこなせていない感じだ」
「わかるのか、今ので?」
「ああわかるね、人の走りなんて一瞬見ればだいたい分析できる」
「ホントかぁ?」
オヤジの言っていることに対しては半信半疑だけど、あの軽トラには見覚えがある。
三角形のようなキャブを持つ軽トラは数多存在するが、どこかカスタムしているような雰囲気だけは一瞬感じた。
そして、その軽トラをついさっき見たような気がする。
まさか今の、楓ちゃんか……?