ACT.2-4
美術館の駐車場を出て、86の横にキャリイが並んだ。
気温は十度、路面状態は完全ドライ、風は弱い。
条件としては悪くはないものの、こっちはドライバーが初心者の楓ちゃんで、クルマは相当な改造が施されているとは言っても軽トラックのキャリイだ。
それに対して相手の86はナンバー付きのチューニングカーとしての完成度は高そうだし、あの86のステアリングを握る茶髪の男は自信に満ちていて、なんだか速そうな雰囲気だ。
こんな勝ち目のないバトル、はっきり言って俺は反対だ。
だけど逃げられるような状況でもないし、当の楓ちゃんはすっかりやる気なので、俺があれこれ言って止まってくれるような状況ではない。
それでも、無理やりにでも俺は楓ちゃんを止めるべきなのか?
いや、そうすべきなんだろう。
だけど少し見てみたい気もするんだ、この娘の今の実力を。
「センセ、助手席側の窓開けて」
「お、おう……そうか、この車パワーウインドウないんだったな」
ぐるぐると手回ししながら窓を開けると、既に運転席側の窓をあけていた茶髪がニヤニヤしながら俺たちを見ていた。
「勝負は下り一本、そっちは好きなタイミングでスタートしていいぜ?」
「……だってさ、楓ちゃん」
「あ? そんなのフェアじゃないじゃん」
「まあまあ、どうせ車の差デカいんだし、少しでも有利なほうが……」
「そういうことだ。言っとくがオレは女なんかに負けはしねぇからな?」
そう言って茶髪の男は、助手席の男と顔を合わせて笑いながら窓を閉めた。
「アイツら、あたしのこと絶対ナメてるじゃん」
それは当たり前だろうと思ったが、言ったら怖いので言わないでおこう。
「楓ちゃん、頼むから無理するなよ?」
「なに、センセ、あたしが負けると思ってんの?」
「いや、だって無理があるだろ……」
楓ちゃんの腕を疑っているわけではないが、それでも経験値の差は大きいし、第一軽トラと86じゃいくら下りでも月とスッポンじゃないかと。
確かに軽トラって下りは意外と速いけどさ……。
「あーもう、どいつもこいつも……絶対見返してやる」
文句を言いながら楓ちゃんはサイドブレーキを引いて、アクセルを煽った。
まさかこの娘、ロケットスタートを決めるつもりなのか。
楓ちゃんのアクセル開度に合わせて、社外品の後付けタコメーターがぐわんと上下を繰り返す。
やがて二速にいれたまま、一定回転数を保つ。
……二速?
「あれ、二速発進するの?」
「ホイールスピンして進まないからね、スタートダッシュは二速」
「そ、そうか……」
そう納得した瞬間、楓ちゃんはサイドブレーキを下ろしてクラッチを繋いだ。
通常よりも高い回転に保たれたまま一気にクラッチが繋がれ、タイヤの音と同時にスピードメーターが一気に二十キロほどを刺す。
上手いな、二速発進でホイールスピンを殆どさせず、理想的なロケットスタートを成功させた。
三速へのシフトアップもタイミングが良い、クラッチミートは完璧だ。
バックミラーに目を向けると、後ろに張り付く形で86が追走してくる。
このキャリイ、かなりパワーが出ていてブースト圧もかなり高いと思われる。
シートに背中を貼りつけさせられるような、軽トラとは思えない立ち上がりの良さで見事なスタートダッシュを決めたが、それでも後ろの86は余裕でついてくる感じだ。
やはり軽トラとピュアスポーツの差は大きいか。
「楓ちゃん、このトンネル抜けたら最初のコーナーだ!!」
「わかってる」
そう言って楓ちゃんはアウト側に膨らんで、次のコーナーに備えた。
大したコーナーではないので、このくらいのスピード域なら軽くブレーキングするだけで曲がれるだろう。
楓ちゃんの軽トラはクリッピングポイントを掠めて、徐々にアクセルを開けて全開で飛び出し、二つ目のトンネルに突入した。
一つ目のコーナーのライン取りは悪くはないが、86はピタリと張り付いている。
86のパワーなら抜けるだろうが、それをしないあいたり相手も冷静だ。
このトンネルは暗いが、長いストレートになっている。
中間付近から次第に下り勾配になり、トンネルの先には入口よりも出口がきつい峠にありがちないやらしいコーナーが待っている。
そういう意味で余所者の86は慎重になっているのだろう。
トンネルを抜けて、楓ちゃんは強烈なブレーキングでキャリイを減速させる。
右、右、左、右と、ここはテクニカルなS字が続くセクションだ。
せわしなくステアリングを動かす楓ちゃんだが、どうにも違和感がある。
最初のコーナー、ブレーキングが妙に奥すぎた。
おかげでオーバースピードだ、アンダーステアが出てどうにか曲がるに曲がったものの、これでは立ち上がりの失速感が大きい。
特にキャリイのような非力な車では、それは致命的な話である。
そしてこのS字のライン取りも、なんだかあたふたしていて危なっかしい。
なんでだろう、運転自体は上手いはずなんだ。
アクセルだって初心者とは思えないくらい踏めているし、ブレーキング自体も経歴を考えれば決して下手ではないんだ。
それなのに、なんだろうこの残念な気持ちは。
「……くっ!!」
歯を食いしばり、額に汗が滲んだ楓ちゃんの表情に、一切の余裕はない。
はっきり言って危険な状態だ。
こういう場合、つまり安全マージンが確保できていないということだ。
そう思っている間に、この御岳でも最もタイトな直角コーナーからの超低速ヘアピンというセクションに突入する。
長いとは言えないが、ストレートでアウトに寄る楓ちゃん。
その時だった。
「──ッ!?」
楓ちゃんが明らかに驚いたような表情を浮かべる。
それもそのはず、このストレートで86が並びかけて、イン側についてしまった。
妙に仕掛けるのが速いとは思ったものの、確かに86のパワーなら並ぶこともできるし、インさえ刺してしまえば、次のコーナーはタイトで狭いので並ぶことはできない。
楓ちゃんは激しくフルブレーキングで減速し、86よりも鼻先を伸ばしたが、それでも86のノーズはキャリアの荷台付近にある。
これではブロックできない。
ブレーキング自体は軽さと楓ちゃんの技術が勝っていそうなものの、直角コーナーを制したのは86のほうだった。
すぐ訪れるヘアピンに対しても、86はブロックするような取りで、せっかくこちらがインについたのに前に出られる状況ではない。
楓ちゃんは、86に道を譲るしかなかった。
ヘアピンを抜けて完全に前に出た86.
その先の左の直角コーナーで、86は若干アンダー気味ながらもクリアしていき、楓ちゃんは楓ちゃんで焦りからか、やはりアンダー気味で苦しくコーナリングした。
一番タイトな部分を抜けてS字に入るが、差は開かない。
しかしこの先には長いストレートがあるし、御岳の中間付近はかなりのハイスピードセクションである。
……このままじゃ、負ける。
S字をクリアして道の駅手前の長いストレートでは、圧倒的なパワー差で86との距離がぐんと離れてしまった。
キャリイのターボエンジンも断末魔のようにこだまするが、とても及ばない。
それでもその先の緩やかなコーナーで、86との距離が詰まる。
妙に長いブレーキランプ、そして妙に遅いコーナリングスピード。
その先のストレートでまた少し差が開くものの、想定よりは開かない。
多分、楓ちゃんのほうが立ち上がりのスピードが速かったためだろうか。
「くそっ……!!」
荒々しい言葉で悔しがる楓ちゃん。
長いストレートの後の、実質ストレートのような緩やかなS字を抜けて、右のコーナーで86はブレーキングを始めた。
そのブレーキングでまた差を縮めたものの、その後の連続コーナーでも絶対的な距離を縮めることはできない。
……あの86のドライバー、つまりあの茶髪、意外とヘタクソだ。
確かに車の性能はいいけど、その性能を引き出せるどころか、そもそもスポーツドライビングの基礎を理解しているのか怪しい走り方だ。
確かにストレートは速い。
でもコーナーでは過剰に減速しすぎるか、突っ込みすぎるかのどちらか。
コースを知らないことを加味しても、アレはちょっとひどいレベルだ。
おまけに出口でアクセルを開けすぎなのか、かなりの高確率で立ち上がりの時に挙動が乱れて車がユラユラ揺れていた。
楓ちゃんの不慣れな運転でも、辛うじて追走できている理由がわかった
そして同時に、楓ちゃんのドライビングが安定しない理由が分かった。
一つは精神的な焦り。
バトル自体が初めてなんだろう、負けそうな状況が正気を奪っているんだ。
そしてもう一つはコースを知らないこと。
無理もない、楓ちゃんはこのコースは二回目で今日が初めてのバトルだ。
そんな極限状態で、曖昧な記憶を頼りに、御岳の下りで速く走るなんて無理だ。
楓ちゃんは正気を保てていないが、集中はしている。
俺がラリーにおけるコ・ドライバーを担当すれば危機を脱せるか?
それとも余計に気が散ってしまうか。
どうする、やるか、やらないか。
……このまま、黙って負けるのを見ていられる性分じゃないんだよな。
「……楓ちゃん」
「なにっ、いま忙しいからセンセ話しかけないで!!」
「いいから黙って聞け!! 俺の言うとおりに攻めろ、絶対に勝たせてやる!!」
「は? どういうこと?」
「いいから、このままじゃ負けるぞ!? 負けたくなかったら、次のコーナーは自分がそうだと思う手前からブレーキングしてみろ!!」
「……わかった」
不満げながらも楓ちゃんは俺の提案に納得してくれた。
天宮ほどではないにしろ、俺だって御岳のコースは知り尽くしている。
いま楓ちゃんにしてあげられることは、アドバイスだけだ。
「楓ちゃん、このトンネルを出るタイミングでブレーキだ!! その先すぐ左コーナーがあるから、我慢する要領でアウトには膨らませるな!!」
「う、うん」
俺の指示したタイミングにピッタリ合わせて、楓ちゃんはキャリアを減速させる。
それにしても凄い車両感覚だ、草木が生い茂るガードレールで草木を掠めながらガードレートとの間は十センチ。いや、下手したら五センチしかないかもしれない。
そんなインベタを攻めながら、アウトには膨らまず対向車線上で立ち上がる。
やがてすぐ飛び込んでくる左コーナーへのアプローチ。
「左側に岩肌が途切れてガードレールが始まるポイントがある、そこらへんでもう全開でいい」
「わかった」
指示通りにタイヤをめいいっぱい使ってコントロールしながら曲がれるスピード域で飛び込んで、楓ちゃんは理想的なポイントでアクセラを開けた。
そして全開、立ち上がり重視で脱出したキャリイと、相も変わらず危なげなコーナリングで脱出した86との車間が詰まった。
「すごい、追いつきそう……!!」
この先の緩やかなヘアピンを超えれば、パワー差の出にくいテクニカルセクションに突入する。
勝負を決めるとすれば、だいたいそのポイントだろうか。
いかにそこまで、86に離されずに食らいつけるかがキーポイントだ。
「次、この緩やかなコーナー抜けたら緩いヘアピンだが、無理せずに減速だ。ここもイン側で脱出すれば次のS字は実質ストレートだ」
車体の軽いキャリイは、技術の差こそあれどブレーキングで86より有利だ。
なので必要以上にブレーキングで頑張る必要はない、むしろタイムを削るためにはその先のアプローチのほうが大切なんだ。
特にこういう非力な車では、如何に失速させないでトップスピードを維持するかが肝になる。
それと、このヘアピンは橋の上にあるんだ。
つなぎ目がちょうどギャップになっているため、あまり調子に乗ると危ない。
ほら、目の前で86が跳ねて挙動が乱れた。
なんとか立て直した様子だが、既にそれらを考慮させて進入するよう指示した楓ちゃんは、うまいこと指示通りのライン取りで的確に立ち上がる。
一方、アウトに膨らんだ86はS字をストレートとして使えない。
その差は瞬く間に縮まり、86を射程圏内に捉えた。
「次、左、その次は右、全部結構キツいがグリップ走行でいい」
「うん」
「で、四つ目のコーナーでインを刺して、五つ目でアウトから並びかて!!!」
そうすれば、最終コーナーの立ち上がりで86を抑えきれる計算だ。
「いまだ、ブレーキ!! そのあとは86に惑わされずに自分のペースでいけ!!」
「わかった」
後追いにはもう一つ、有利なポイントがある。
相手の車を参考に、次のコーナーが予測できるんだ。
後ろについた楓ちゃんは86の突っ込みを参考に、その86よりもやや手前からブレーキングを初めて、86よりも適切なポイントでアクセルを開けていく。
上手い、やっぱり楓ちゃん上手い。
こんなちょっとしてアドバイスしていないのに、うまくそれに合わせて指示通りの走りをしてくれる。
センスのある奴っていうのは横に乗っていてすぐ分かる。
過去にも何人かいた。
楓ちゃんもその一人だということが、とてもよく伝わる。
「ここ、インだっけ!?」
「そうだ、並べ!!」
横に並ばれた時の閉塞感は大きい、その心理を突いた作戦だ。
楓ちゃんの軽さと技術を活かしたハードなブレーキングと、どこか甘い相手のブレーキングでは差が大きく、見事に楓ちゃんはコーナーで並びかけることに成功した。
楓ちゃん越しに見る。
茶髪と金髪は、露骨に焦ったような表情で一瞬こちらをチラ見した。
左を抜けた先のヘアピンに近いタイトコーナーは、こちらがアウトとなる。
低速で回らざるを得ない86と、大回りながらスピードを乗せやすいキャリイ。
立ち上がりのスピードは、わずかながらキャリイのほうが上だった。
「次、最終コーナー、このまま引かずにミラーのあたりから開けて!!」
頭一つ前に出たキャリイは、センターラインギリギリのところを攻める。
対する86は幅に対する恐怖か、精神的なものか、並びかけてはくるものの全く踏めているような感じではない。
やがて運命のミラーが見える。
楓ちゃんはアクセルを開けた。
クリップを掠めて徐々に車体が外側へ膨らんだ。
一方、コーナリングスピードで劣っていた86は俺たちを先行させるしかなく、眩いLEDランプが背後に回った。
ここからゴールまで数百メートル。
86は完全に後ろ。
──勝った。
ギリギリの勝負だったが、相手がヘタクソだったことが幸いしてか、元々楓ちゃんが持っているポテンシャルを後半で引き出すことができたから、なんとか勝てた。
「勝てた……!!」
楓ちゃんの表情から緊張感が消えた。
俺も一緒に、安堵のため息をもらした。




