プロローグ
この物語はフィクションです。実在する人物、メーカー、団体、道路、地名等とは一切関係がございません。また作中での走りを真似する行為は大変危険ですので、公道では道路交通法を守って安全運転に努めましょう。どうしてもやりたかったらサーキットへ行きましょう。
──上手くなりたきゃ腰でクルマの声を感じるんだ。
オヤジがよく言っていた言葉だ。
──腰を軸に全身に伝わっていく感覚を忘れるなよ。
五感も大切だけど、腰からクルマの声を聞くことが上達への近道だってオヤジは言った。。
俺が小学生の頃、レーシングカートを始めた時から、十八歳で免許を取ってS14シルビアを買って以降、今に至るまでずっと同じことを言っていた。
今でこそ分かるような、分からないような、掴みかけの状態になるくらいには、オヤジが言いたいことは何となく分かるようにはなった。
確かに、自動車っていう乗り物は俺自身、つまり人体と車体を一体化させるような感覚でなければ上手に操ることはできない。頭でどれだけじっくり考えたって、それだけでベストなラインを通せるわけじゃないし、タイムだって縮まるわけでもない。
クルマという乗り物は、本当に奥が深い乗り物だ。
──お前は下手じゃないが、まだシルビアと完全に一つにはなれていない。
調子の良いことを言うオヤジだけど、これで本当に速いから困る。
近くのミニサーキット、いつも走っている峠、どこで走ってもオヤジに勝ったことは無い。
それどころか俺が立ち上げたチーム゛ほっとけやれーしんぐ゛というチーム内ですら、俺より非力な車に乗っていながら俺より速いヤツが一人だけいる。
今よりレベルアップするためには何をすべきなのか、目先のコーナーをどうクリアすれば相手より速く走れるのか。いつもそういうことを考えながら、今日も一台の青いクルマを追い続ける。
ここは深夜の峠道。
御岳峠と呼ばれるこの道は、前半のタイトコーナーが連続する低速セクション、中間のスピードが乗る高速セクション、そして終盤にまたタイトなコーナーが現れ始める長めの峠道で、俺たち山梨の走り屋はここを選んで走るヤツも多い。
現在、中間の高速セクションの長いストレート。
ライトチューンされた直四のSR20DETターボが全力で咆哮するその先に、四角張った特徴的なリアビューの青い車が間近に迫る。
大きなリアスポイラー、包丁のような形状のテール、LEVINと刻まれたエンブレム。
ストレートはやっぱりS14のほうが速いんだ。
AE111の心臓部に収まる4A-GEは、恐らく相当にチューニングされており200馬力近くは出ているだろうが、1.6リッターの自然吸気から絞り出せるパワーには限度がある。
上手いこと立ち上がり重視のドライビングをしてやれば、多少差をつけられていてもこっちのパワーであればストレートで追いつくことは容易だ。
問題は、ここからのブレーキング勝負。
──あとは死ぬような思いを何度もして走り屋ってのは上手くなっていくんだ。
ふと、オヤジの言葉が過ぎる。
死ぬ、そう、このハイテンションのまま次の直角コーナーに突っ込んでいけば、オーバースピードで膨らむ可能性が高い。
落ちれば、死ぬ。
やばい、このスピードだとこれ以上ブレーキを遅らせられない。
冷や汗ダラダラ、ブレーキを強く踏み始めてもなお、前のレビンのブレーキランプは全く光る気配を見せない。
またか、また負けるのか?
ようやく光ったレビンのブレーキランプも、たった数秒光った後に瞬く間にその車体が俺の視界から消えた。
ようやく俺も曲がる。
レビンとの差はドバっと開いていた。
それでも立ち上がりで少し追いついたけど、進入スピードではとても敵わない。
ダメだ、ブレーキングで離される。
今日も、勝てない……。
「……はああ」
麓まで降りて、車から降りた俺は大きなため息を吐いた。
ちょうどそのタイミングで、アイドリングを続けるレビンの運転席のドアがゆっくりと開かれる。
「んん~っ、奥田~、お疲れ!」
背伸びしながら気持ちよさそうな表情で挨拶してきた、長い栗色の髪を一つにまとめたポニーテールの女の子。同い年くらいで、活気のある釣りあがった赤い瞳に、アイドルグループのセンターだと言っても違和感がないレベルに綺麗な肌。小柄ながら手足とのバランスも良く、出るところも出ている。
まごうこと無き可愛さ、およそレビンに乗っているとは思えない女の子だった。
「相変わらずキレてるわ、お前の下り」
「そういう奥田だって、ちゃんとあたしの後ろ付いてきてたじゃん」
「ついていくのがやっとなんですよね!?」
悔しいながらも、不思議と笑いがこみあげてくる。
御岳のカミカゼダウンヒラーの異名を持つ、天宮智咲の下りが異常に速いのは今に始まったことではないし、仲間内で走っていると降りればいつもこういう雰囲気なのだ。
疲れ果てながらも笑った後、少し遅れてもう一台、爆音を轟かせながら下ってくる音。
「あ、ケンジようやく来た」
ケンジと呼ばれたそいつは、駐車場手前のストレートでアクセルを煽りながら減速したのち、ゆっくりと駐車場に車を入庫させる。
白のアルテッツァのカクカクとした動きが、足回りが硬い事を物語っている。どこかの社外のエアロパーツに軽そうなホイール、そしてGTウイングまで生やしている本格的な車両で、マフラーの音も恐らく車検には通らないほどの爆音であった。
その危なそうな車の運転席から、黒髪短髪の眼鏡の男が降りてきた。
「遅ぇぞケンジ」
「やかましい、こっちはタイヤ終わってるんだよ……金がねえ」
「奮発して国産ハイグリップなんか買うからタイヤ代無くなるんだよ、ウケる!」
「食ってた時は天宮だって射程距離内だったのになぁ……」
天宮に笑われて悔しがっている堀内健二は、俺と同じ大学に通う友人。天宮は違う専門学校に通っているが、俺たち三人は高校時代からよく遊んでいた友達グループだ。
それが免許を取って、なんでか三人とも車に乗り始め、気が付けば集まっては走っている。
「さて、と……どうする? もう一本いく?」
「そうねー、ケンジのタイヤも終わってるし、ラーメンでも食べて帰ろっか」
「頼む、そうしてくれ。もうマジで溝ねえから……」
今日もそこそこの充実と、そして俺は一定の口惜しさを覚えつつ、走るのをやめて三台で市街地のほうへ繰り出した。
これがいつもの俺たち、走り屋の日常であった。
──あの天才ドライバーがデビューするまでは。