噂の山村で ~続・三日目~
多少暴力的で血なまぐさい表現が出てきます。
ご注意ください。
一団の天幕に戻り、ようよう暑さを凌いでいた私たちは、傾き始めた陽の高さを見てそろそろ動きだそうと腰を上げた。汗ばむ肌に手団扇を仰ぎながら村へのアーチへとそれぞれが歩き出した、そんな時。
「キャアアアアッ!!」
絹を裂くような甲高い悲鳴が広場の方から飛んできたのだ。
何事だと首を伸ばす大人と違い、フットワークの軽い子どもたちは反射で声の方へ駆けだしていた。
「で、殿下っ!! お待ちくださいっ!!」
随分距離の出来た頃漸く制止の叫びが背中に届くがもう遅い。
駆け付けた先、そこには既に広場へと集まり始めた人々がどよめきを瞬時に消して、不自然な体勢のまま一点を見つめて動きを止め息を殺していた。
「どうしたんですか――――」
声を上げながら近づくと、言葉の途中で人の切れ間から何かが見えた。
「ダンデ?」
「動かないでっ! ゆっくり、下がって」
並行して走っていたシルビアがこれ以上前に行かないよう瞬時に腕を広げて行方を阻んだ私は、視線を『それ』から決して逸らさず指示を出す。一拍遅れてそれに気づいたらしいシルビアが短く息を呑み、出かかった悲鳴を自らの両手で封じた。
「……良い子」
やはり視線を動かす事無くともすれば独り言のように零れた私の言葉をきちんと掬いあげ、シルビアがじりじりと後退を始める。一番後ろにいたミケルが隙をみて一団に駆け戻ったのが気配で分かった。その時にはうちの子全員が事態を把握して青ざめていた。
人々に取り囲まれるようにして、広場の中心にいた『それ』。口端から涎を垂らしながら唸る狼に似た獣が獲物を見定めるように低い姿勢で佇んでいた。
大人たちが我が子を抱き止めその背に隠し、出来るだけ『それ』を刺激しない様に回避行動を取っていく。その内の一人が「ガオエル……」と呟いた事で『それ』の名を知った。
「ガオエル……調書にあった、今回の討伐対象か」
通常の狼より一回り大きい体躯。四本の脚先からは長く伸びた鉤爪が大地を踏みしめている。その尖端は鋭く、軽く引っかけただけで何でも裂いてしまいそう。根元から分たれた二本の尻尾は猫のように細く、レーダーのように周囲を窺っている。
恐らく山狩りを避けてきたのだろう。空腹と、縄張りを荒らされた怒りが湯気のように立ち上って見えるようだ。
膠着状態のように見えて、離れた場所にいた人々は屋内に逃れたり、じりじりとガオエルから距離をとった事で人々の隙間が広がり、遂に開いた人垣から空腹に苛立つ獣が――その視界にうちの子たちを――、柔らかそうな子どもの肉を見つけてしまった。
ザラリと舐められるような、身の危険を直接肌身に叩きつけてくる捕食者特有の殺気に子どもたちの身が凍る。
そうして竦んだ獲物の気配を野生で生きる捕食者が見逃すはずがなかった。同時にミケルからの救援を受け後方の野営地から飛び出してきた護衛達の気迫が、ガオエルに猶予が無い事を悟らせてしまい、野獣の決断を早まらせてしまう。
瞬発力を出す為に瞬間で低く低く下げた姿勢から跳ね上がるようにして駆けだした野獣は何秒とかからず一番容易そうな獲物――即ち震えて抱きしめ合うシルビアとユーリに向かって飛び掛かった。
地面にへたり込み動けない少女――とその様な者――を隠すに十分な影が落ちる。咄嗟に初撃を叩きこもうと地を踏みしめた私の前を、半拍早く行動に移っていた小さな影が風の様に通り過ぎた。
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私の目の前に広がる光景に、何時かの敗北の苦味が蘇った。
時間が止まってしまったかのように微動だにできない。足が杭となって地に埋まってしまったかのようだ。
……あそこで震えて蹲っているのは幼き自分そのものではないか。弱くて、誰かにすがる事しか出来なくて、それを許容していた、愚かな自分自身。近くにいるアーシェ――今はダンデだが――がそれを助ける為に行動しようとしているのが気配で分かり、それがまたフラッシュバックを補助して、まるで過去を垣間見ているかのような錯覚に襲われた。
獣が動く。間近で体験したからこそ解る、絶対的強者が弱者を蹂躙するための行動予測が脳裏を過った。
『それ』が動く。
――動け。
野獣が沈む。
――動け。
今まさに地を蹴って、
――今度こそ私が、
――誰でも無い、自分の力で、
「助けるんだああああぁあぁぁぁぁっっっ!!!!!!!」
裂帛の気合を込めて叫びながらクロードがダンデの横を通り過ぎ、前足を大きく広げて覆いかぶさろうとしていたガオエルの腹部に強烈な体当たりをお見舞いした。
勝利を確信していた野獣は予想外の攻撃を見事に受け止めた結果、跳ね飛ばされ地にバウンドする。ガオエルから小さく苦鳴が漏れた。同様に勢いの分だけ前進したクロードは咄嗟に地面についた手の平を支えにして、転倒を避け、押し出し、更に前に飛び出していく。
今、彼を動かしているのは何時かの記憶。
何度も何度も思い返してはなぞった兄弟子……ナハディウムの動きを己に憑依させて、一心不乱に、無心に、地面を蹴った。
ただ、成り行きを見つめる事しか出来なかった自分だから。だからこそ、未だ鮮明に焼き付くあの日を、強くなりたいと心底思った悔しさを、憤りを、惨めさを、全部乗っけて少年は跳ぶ。
地面に叩きつけられバウンドした野獣が体制を立て直すより早く、渾身の力でその胴体を再び蹴り上げ、咄嗟に掴んで走っていた長剣の鞘を抜き捨て、空に浮かぶ獣に――その白日に曝された刃を――上から下に向かって振り切った。
遅れて噴き出す鮮血を正面から浴びても怯むことなく、冷静に次撃を繰り出すその後ろ姿に迷いはない。
「キレイ……」
陽光を浴びて煌めくクロードの金髪が空を踊りゆく様を見てシルビアがその瞳を大きく見開く。場違いに溢れ落ちた音が、その少年の姿を見ていたもの全員に突き刺さった。
やがて「ドサリ」という重たい音と共に地に倒れ伏したガオエル。同時に大きく肩で息をしながら、剣を支えにしてクロードも地に膝をついた。
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シンと静まり返った広場にクロードの息の音だけが響く。皆呼吸を忘れてしまったかのように、唯一動く金髪の少年を見つめていた。
そして私はその空気を打ち破って、功労者である英雄の後頭部に手の平を当て、そのまま地面に押し付けた。く~ちゃんに覆いかぶさるようにして、出来るだけ平らになる。刹那、
空を切り裂く風切り音が幾重にも頭上を通り過ぎていくのを感じ、ドドドドドドと鈍い音が止むと、数拍の後再び質量のある物体が地に落ちていく音を聞いた。
「え……?」
困惑の呟きを漏らしたクロードが、地面に伏されたままその振動が響いた方を首だけで向くと、無数の矢が突き刺さったガオエルの絶命した骸があった。じくじくと染み出した鮮血がどろりと地面を濡らしていく。
それは冥途の土産とばかりに最期の力を振り絞った野獣の敗れた姿だった。
命の灯が完全に潰えたのを感じて、私は溜息と共にく~ちゃんを助け起こす。
まだ状況が呑み込めず惚けた王子様が立ち上がると、正体を失うほどの歓声が広場を埋め尽くした。
……大きくなった。
く~ちゃんの成長に書きながら目頭が熱くなりました。




