風邪
※投稿後、細部を微調整しました。
―――風邪をひきました。
「申し訳ありません、お嬢様。……息子がご迷惑を……。」
私は今自室のベッドに横たわっている。
発熱中の為、おでこに氷嚢が置かれていた。それをずり落とさない様に注意しながら、隣のハンナを見やる。申し訳なさそうに小さくなっている彼女に微かに笑んで見せた。
「大丈夫、ミケルのせいじゃないわ。…私が好きでやったんだもの」
…と言っても納得できるものでもないだろうけれど。
ぎこちなく笑み返してくれたハンナに暫く寝ると告げて退室してもらう。…ほぅ、と一息ついた。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「ダン兄ちゃん、これは何ていうの?」
積極的に勉強に乗り出したミケルを連れて河川敷に来ていた。
奮発して『木漏れ日の丘』図書室に植物図鑑を入れたところ、大興奮のミケルに連れ出され、あれはこれはと質問攻めにあっている。
読み方の分からない文字を教えるのはレイに任せた。その方がお互いの勉強になるだろう。
ミケルは大きな赤い目をこれでもかと開いて、図鑑と植物を忙しそうに見比べている。その没頭の仕方が危なっかしくて、足もとに気を付けてと注意を喚起しようとした時だった。
こういうフラグは必ず回収されるのが世界の法則なのか、――お約束を踏襲するように――徐に立ち上がったミケルがバランスを崩し、大きな図鑑を両手で抱きしめたまま後ろ向きにぐらついた。トットットとリズミカルに、まるで踊る様に後ろずさった先は水辺。このままでは川に落ちてしまう!
先が予想されれば身体が勝手に動いた。駆け足でミケルの後ろに辿り着き、その背を川と反対方向へ強く押しやった。
が、しかし。駆け足分の勢いと、ミケルの背を押した反動で私は水面へ向かって放り出される形になり、「あ。」と声にする間もなく――
―――ボッチャンッッ!!
見事川に落ちました。
「ダンッ!!!」「ダン兄ちゃんっっ!!!」
二人の焦燥こもった叫びが聞こえたけれど、そこまで深くも流れが速いわけでもない川です。
全身ずぶ濡れにはなったものの、至って冷静に水から上がり無事をアピール。泣いて謝り続けるミケルを宥める方が大変だった。
幸い馬車の中にはナターシャの着替えがある。
木漏れ日の丘に帰り、髪の毛だけ念入りに乾かしてからその日は帰宅したのだけれど……。
――翌日に見舞われた猛烈な怠さと体の火照りに『ああ、風邪をひいたのか』と暢気に思ったのだった。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
「…………………?」
「…ああ、悪い。起こしちまったか」
うっすら目を開ければ微苦笑した師匠がいた。頬に彼の手があてがわれていて、じんわりソウガの高めの体温を感じる。発熱中の身体は冷気を求めているはずなのにちっとも不快じゃなかった。
「姫さんが寝込むほど体調を崩したのは初めてだな……」
ポツリ空間に放り出された呟き。
…そういえばそうかもしれないなぁ。ぼんやりとした視界でソウガを見つめた。
「エルバスが心配してちょっとした恐慌状態になってるぞ」
「そ、れは……」
何してるの父様!突っ込みたいけど言葉が出ない。
「水、飲むか?」
コクリと頷けば――つもりほどしか動けなかったけど――師匠がいつかのように身体を起こし支えてくれた。また熱が上がってきたのかもしれない。思うように動かない身体に驚いた。
そんな私の様子に師匠はすぐに気付いて、私も水の入ったグラスも支えて介護してくれた。少しずつ、ゆっくりと傾けられて流れてくる水を気怠く嚥下する。
「疲れも出たんだろうなぁ……」
静かに私を布団に戻しながら師匠が呟いた。何事かと視線だけ彼に向ければ、何とも言えない苦笑のまま頭を豪快に――でも決して乱暴な力任せ感は微塵も無く――撫でられた。
「……姫さんは頑張ってるよ」
―――嗚呼、この人の優しさはどうしてこんなに沁み込んでくるんだろう。
じわり眦に熱いものがこみ上げてくるのを感じた。
ふっと優しく笑う気配と共に、私の眦を師匠の人差し指が掠めていった。
氷嚢はすっかり溶けてその役割を放棄していた。
…だからだろうか。部屋の向こうからナキアが寝室に向かってくる気配がする。私の世話をする為に来てくれるのだろう。
ソウガがゆっくりと離れていく。私は思わず目で追いすがった。その視線に気づいて師匠が一瞬困ったような、次いでお日様の笑顔が咲いた。
「大丈夫、ちゃんと姫さんの傍にいる。……俺が護ってやる。」
最後に優しく頬を撫でて師匠の気配が消えた。入れ違いに寝室の扉が開く音。
ナキアが看病しに私の傍らに辿り着くより早く、私は意識を手放していた。
体を休めるため、自然と深い眠りに落ちていったのだ。
―――此処には絶対的な安心があるのだから。……何も心配はいらないのだから。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
―――気が付けば私はまた古ぼけた映画館の中に座っていた。
スクリーンの中には単色のサイレント映像。
(……これは……領都………?)
何となく見覚えのある街並みが映されている。人々はそれぞれの日常を過ごし、往来を行きかっていく。
アングルが少しずつ移動していくにつれて、ふと脳内に直接音声が響いた。
「どうしてっ!!」
惨痛の叫びだった。
スクリーンは一人の少年を映し出す。単色の世界では分からないけれど、私はその少年のふわふわの髪が淡い桃色である事を知っていた。…人懐っこくて少し甘えん坊で。綺麗な赤い瞳がはにかんで少し細められるのを見るのが好きだ。
―――目の前の少年は顔をくしゃくしゃに歪め、滂沱と涙している。
「どうしてっ!!」
悔恨に滲んだ悲痛な嗚咽が脳を揺らす。
少年の傍らに女性が横たわっているのに気付いた。―――誰かなんて言葉にしたくなかった。
悲しさに泣き叫ぶ少年の潤んだ赤い瞳が、憎悪に、復讐心に燃え上がっていく様をただ見つめ続けた。
スクリーン上の一点。ミケルの瞳だけ、単色の世界の中で赤く紅く色づいている。
「………許さない……」
それは絶対に今のミケルからは聞きようがない、世界を呪詛するような声音だった。
ぶわっと全身総毛立った。こんな彼は、知らない。
(……これは、あるはずだった未来だ。)
私が生んだ、ゲームの中の少年の慟哭だ。
『設定』という軽い文字の正体は、こんなにも私の心を削るものだったのか……
(こんなに重たい十字架を彼に背負わせる事にならなくて本当に良かった……)
復讐に取りつかれて誰も信じられない、果ては目的を果たす為に人を殺めてしまうなんて。影なんて可愛らしいものじゃ無いだろう。二度と出られない底なし沼ではないか。
(……でもそれも今消えて無くなったんだ)
ストンとそう思った。
ミケルに訪れる筈だった過去の扉は完全に消滅した。
…ifの世界は私だけが知っていればいい。
……無性にソウガに会いたかった。
目が覚めたら真っ先に彼を呼ぼう。
…でもきっと、私がそうするより早く傍に現れて、曇天を払う眩しい笑顔を見せてくれるのだろう。
そう思えば自然と口角が上がる。
―――私はゆっくりと瞳を閉じて、銀幕を終演させた。




