ナターシャとナハディウム
『兄様と仲良くなろう計画』は順風満帆だった。
ナハトはいつも優しく、私が周囲をうろちょろしても嫌な顔一つしない、とっても良いお兄ちゃんである。
先日は『ナターシャ』と名前を書きつけてもらって書き取りをした。自分の名前を文字として認識できたのは何とも言えない喜びがあった。私とナターシャがようやく1つになった気がして…。
―――この日兄様に書いてもらった名前は記念として額縁に入れて、私の寝室に飾って貰った。
音と文字を手っ取り早く勉強するため、絵本の朗読も始めた。残念ながらまだ読めない文字が多くて中々捗らない。そこで兄様を巻き込んで読み聞かせしてもらう事に――勝手に――決めた。音を覚えればもっと文字も理解できるはずだ。兄様は日中、何かと稽古事に忙しい。ならば夕食後に押しかけよう!
その晩―――。
「たのも~~!!」
気分は道場破り。アポなんかすっかり忘れて兄様の寝室に突撃した。
兄様は最初驚いていたけれど、私がおねだりすると優しく抱き上げてベッドに入れてくれた。絵本を開き、歌うように中性的な――変声期前の高めな――ナハトの声が響く。とっても綺麗なその声は3歳児に効果覿面子守唄となったようで、気づけば眠ってしまったらしい……。
(…絵本読んでもらってる最中に寝ちゃうとか、ホント子どもだわ…)
不可抗力に自己嫌悪しても始まらない。ここで諦めたらちっとも勉強にならないじゃないか。
兄様の部屋まで迎えに来てくれた侍女に手を引かれて、朝支度のため自室に戻り、程なく。今度は逆に迎えに来た兄様に手を引かれながら、父母が待つ食堂へ向かった。
「にぃさま、ごほんよんでくれて、ありがとう」
「それくらい、何時でも構わないよ。…寂しくなったらまたおいで。」
道中昨晩のお礼を言うと、空いている方の手でポンポン頭を撫でられた。独り寝が寂しいと思われたのか…。そうじゃないんだけどね、実際は。
しかし、言質は頂きましたよ兄様!子どもの利点、フル活用させて貰います!!遠慮?何それ美味しいの??
その日、稽古事に励むナハトを見学したり、お昼寝したり、母様とお茶――私はジュース――をしたりして過ごし、その夜、再び兄様の部屋を訪ね昨晩の絵本の続きをせがんだ。
兄様は嬉しいような困ったような複雑な笑みを浮かべたけれど、快くベッドに迎え入れてくれた。
しかし結果は昨晩と同じ。子どもの抗えぬ習性恐るべし…。
私は連日兄様の部屋を訪ねてはお話の続きをねだり、そのまま兄と眠るようになった。
―――毎朝目覚めると、肌寒さからか私はナハトの抱き枕と化している。子ども体温、温かいよね!わかるわかる。
目の前のあどけない兄様の寝顔を眺めていると、
(甥っ子はよくお気にのぬいぐるみ抱いて寝てたなぁ…)
なんて前世の甥っ子――当時6歳だった――とナハトを重ね合わせてほっこりしていた。
ナターシャから見たらおっきな兄様だけど、ナハトだってまだ8歳の子どもだものね。小学校低学年なんてワンパク盛りだろうに、ナハトはとても理知的で落ち着いた子どもだった。
(私の面倒もよく見てくれるし、怒った所も癇癪起こしたのも見たことがない。……この子ホントに子どもなのかしら?)
少なくとも記憶に残る甥っ子はそうでなかった。全力全開で遊び、小学校で初めて出来た友達に舞い上がり、下品な言葉に喜び、母親に怒られては癇癪をおこしてビービー泣く…。
……これがお貴族様の英才教育というものか。きっと庶民とは根底から違うのだろう。
(それにしても……。
こうやってぎゅっとナターシャを抱きしめて眠るナハト、超可愛い。たまらん!)
等身大の子どもらしい部分に母性本能が擽られまくっていた。しかも見目の整った美少年だしね。朝のこの一コマは、精神大人な私には贅沢な時間ですよ、毎朝ご馳走さまです!……もうちょっと起きないでいてね、兄様。
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
兄様の引っ付き虫として過ごし、あっという間に一年が経過した。
子どもの吸収力とは恐ろしいもので、全力投球からの爆睡を繰り返すだけでメキメキと能力を上げていく。
私はこの一年でかなりの才女となっていた。
もともと言語に躓いていただけで、それさえ解れば難しい本も読めるようになった。思考を実現させるための身体能力はまだ追い付いていないが、口も随分回るようになってきたし、あと二三年もすれば、子どもの無限体力も手に入るだろう。若さって素晴らしい!!
(無意識の電池切れは諦めるにしても、すぐに記憶化されるし、忘れないし、何より筋肉痛が無い!
やったらやっただけ成果になるんだから凄いわ~。スポンジとはよく言ったものよね。)
ナターシャのベースが優秀なのだろう。努力するのは自分だけれど、これから先の展望を思えば素直に感謝出来た。あとは出来る限り能力を伸ばせばいいのだから。
「お母様、兄様ばかりズルいです!ナターシャもお勉強したい!!」
だから思いきって母――ライラ――に申告した。早すぎる事なんて無い。貴族学園に入学する前に整えておきたいことが山ほどある。その為に私は『無能』でいるわけにはいかないのだ。
貴族の教養とは簡単に身に付くものではない。やる気を漲らせた私の様子に母は二つ返事で行動してくれた。
数日後。
私にはピアノ、ダンス、マナーの家庭教師がつけられた。お勉強と剣術は母に強い難色を示されたので今回は我慢。もう少し大きくなったら別の方法を考えよう。貴族図鑑や王国史は我が家の図書室で独学できるしね。
因みにナハトの部屋で寝るのは半年程で卒業しました。後半の方は絵本一冊分起きていられるようになって冊数が増大し、読み聞かせてもらう本が無くなったのが理由のひとつ。その頃には自分の力で読書出来るようになったしね。
兄様は残念そうだったけど、流石に大人用の歴史書を音読させるわけにいかないからなぁ…。
(う~ん…。剣は無理でも護身術くらいは身につけたいのよね。来年に迫ったナハディウムのフラグ処理もあるし、街に出てやりたいこともあるし…。)
その為にも体力をつける事は急務と言えよう。
「…ねぇ、兄様。
兄様は乗馬を習っているでしょう?ナターシャもお馬さんに乗りたいです。」
「う~ん…。ナターシャには難しいと思うよ。僕だって大人用の馬にはまだ1人で乗れないしね。」
「でも、兄様は剣のお稽古もしてて、お馬さんにも乗れるのに、ナターシャはダメだってお母様に言われたの…。」
「ナターシャは女の子なんだから、危ない事はしなくて良いんだよ。」
「兄様は男の子だから、危なくても良いの?
……そんなのズルい!
ナターシャはもっと兄様と一緒がいいのに。」
「ナターシャ……」
幼さ全開で拗ねて見せると、私の目線と合わせながらナハトは屈んで向き合った。癖の無い綺麗な顔は微苦笑を携えている。私の両手を挟むようにそっと包みながら、
「どうしてそう思うの?」
私の真意を探るように問うてきた。
ナハトは聡い。それは一年間傍で見続けて充分理解出来たし、返せばナハトがナターシャを判断する時間にもなったのだろう。
ナハトは目の前の幼気な妹が、年齢通りの子どもではないと確信していた。
言い訳を探すように視線が逡巡する。が、真摯なナハトの瞳に負けてポツリ、ポツリと話し出した。
「……わたしはまだ幼くて…体力が無いから…………もっと強くなりたいの。……兄様の足手まといにならないように」
嘘はついていない。でもばか正直に話せるはずもない。
ナハトは暫く私を見つめて軽くため息をついた。説明不足の私を許してくれるらしい。兄様、困り笑いが板についてきたなぁ…。
「…分かった。しょうがない子だね。
荒事は無理だけど、一緒に出かけることは出来るよ。
今日の習い事はもう無いし、散歩にでも行こうか?距離を伸ばせば良い運動になる。
…あと、時間がある日はダンスの自主練習に付き合ってあげるよ。
剣術よりよっぽどハードかも知れないよ。」
立ち上がり手をつなぎ直した兄様が提案する。ウィンクが自然です素敵過ぎます!!
ナハトは何だかんだで毎回私の意図を汲んでは協力してくれるのだ。
「兄様、大好きっ!!」
その腕にぎゅっと抱きつき、仲良し兄妹は散歩に出かけた。
夕暮れ時。兄妹は屋敷に帰還した。
仲睦まじく楽しげな兄妹とは反対に、連れ回された使用人には濃い疲労が浮かんでいたという……。