ナハディウムとナターシャ
『ナハディウム・ダンデハイム』
これが僕の名前である。ダンデハイム伯爵家の長男で跡取り息子。3年前に妹が出来た。
身近に自分より小さい子どもなんていなかったから、初めて見る赤ちゃんに驚いたけれど、兄妹が出来たことは素直に嬉しかった。まぁるくて、ふにゃふにゃで、屋敷中に笑顔を咲かす妹。僕も夢中になって、時間を見つけては乳母の元に足を運んだ。
小さくてコロコロしていた妹――ナターシャ――は、3歳になったけれどやっぱりコロコロしている。僕は8歳になった。
ナターシャも少し大きくなったので、食事マナーの訓練を始めるらしい。
そのお陰で一緒に食事を摂れるようになったから、食事時に妹を迎えに行くのが僕の仕事になった。妹の事は可愛く思っているので全然厭じゃない。
ナターシャはこれまで部屋から出してもらえなかったからか、あっちへちょこちょこ、こっちへちょこちょこ、好奇心いっぱいに屋敷を動きまわってとっても危なっかしい。…僕がしっかり護ってあげなければ。だって僕はナターシャの兄様なのだから。
僕たちと妹が一緒に食事を摂るようになってから、ナターシャはすっごくおしゃべりになった。いっぱい喋るから慣れてきたのだと思う。随分と聞き取りやすくなってきたから。
……そして初めての食事の日から、僕の後ろをヒヨコみたいについて回るようになった。
「にぃさま、わたしもごいっしょちていいですか?」
今日も家庭教師が来る時間に僕の部屋にやってきた。大きな絵本を一生懸命抱え込んでいる。「うんしょ、うんしょ」と言いながら本を運び――本が歩いているみたいだ――最早定位置となったソファーの端によじ登った。それだけで偉業を達成したみたいな良い顔をしている。
大人たちは「何でも真似したい年頃なのよ」と口ぐちに笑っていた。
昨日は机に向う僕の所へやってきて、「自分の名前を教えてほしい」とせがんできた。適当な紙を出して大きく『ナターシャ』と書いて渡してあげると、妹は大きな瞳をキラキラさせてその紙を受け取った。
それをお手本に何度も何度も広げた紙に書きとっていく…。
やがて満足したのか、とてとて僕の所に戻ってきて、
「にぃさま、これ、いちばんきれいにかけたの!」
得意げに披露してきた。どや顔で満面の笑みだ。
(――お世辞にも文字と言い難い芸術大作だなぁ…。)
だけど妹が初めて頑張って書いたものだから、すごいねって褒めて頭を撫でてあげた。
嬉しそうに照れ笑いする妹。なついた仔猫みたいだ。可愛いから暫く撫でて癒された。
その後ナターシャは自分の手習いと僕のお手本を交互に何度も見比べて、「むむ~」「ふぅむ~?」と謎の唸り(?)をあげながら紙を陽に透かしたり、片目で見つめたり――器用だなぁと感心した――、掲げたり下ろしたり。
…散々矯めつ眇めつして何に納得したのか分からないけれど、大きく頷くと満面の笑みで再び僕の方へ駆け寄ってきた。
「にぃさまのじはとってもきれいね!」
徐に誉めると妹は、僕が書いた『ナターシャ』を大事そうに抱えて僕の部屋を退室した。
(ただの走り書きなのに…。もっとちゃんと書いてあげれば良かったな…。)
宝物を抱き締めるみたいな妹の後ろ姿にちょっとの後ろめたさを感じつつ、何だか心があったかくなった。
ナターシャが僕の周囲をうろつく日が続き、僕もそれに段々と慣れた頃。僕は妹の無意識の癖(?)に気づいた。
――妹はことあるごとに僕の事をまじまじと見つめているのだ。
一度気づいてしまえば、向かってくる視線に敏感になる。妹と目が合うことが増えた。
(きっと真似できる事を探しているんだろうな…。)
ナターシャのお手本になれるように、もっと真剣に色んな事に取り組まなければ。勉強も乗馬も剣術も、いっぱい稽古に励もう。
――妹には格好良い兄様だと思ってもらいたい。
何か手解きする度に大喜びで懐いてくる可愛い妹。
僕たちは年が離れているから、ずっと一緒にいられるのもあと数年だ。
13歳になったら僕は寄宿学校に入らなければならない。貴族の跡取りとはそういうものなんだって。夏と冬にしか屋敷に帰ってこられないって家庭教師が言っていた。
ナターシャが僕を忘れてしまわない様に、少しでも長く一緒にいようと思う。
―――ナターシャは最近絵本を読むのに夢中らしい。たまに音読しては上手く読めなくてしょげて――分からない文字は跳ばして読むからだ――いる。
今日も音読に失敗したナターシャは何と寝る時間に昼間の絵本を持って僕の部屋にやってきた。
「にぃさま、ごほんよんで?」
小首をかしげて上目づかいに本を差し出してくる。赤毛の仔猫に甘えられているみたいだ。
「ナターシャ、もう遅いよ。寝る時間だろう?」
「にぃさまがごほんよんでくれなきゃねないもん」
「寝ないもんって…。仕方がないなぁ。…ほら、おいで。」
可愛いおねだりに微苦笑して、妹をひょいと抱き上げ自分のベッドに寝かせる。肩まで布団をかけてあげて、僕は枕を背もたれにして座り込むと、絵本を膝の上で開き…ゆっくり読み聞かせ始めた。
…暫く真剣に朗読に聞き入っていた妹からいつしかすやすや寝息が溢れている。
いつもならもう就寝している筈の時間だから無理もないね。
読みかけの絵本をサイドテーブルに置き、スタンドライトを消すと妹の隣にもぐりこんだ。布団の中は既に温かい。そっと妹を抱きしめたら柔らかくってぽかぽかで、何だか安心した僕はすぐにぐっすりと眠ってしまった。
この日から夜の絵本の読み聞かせは僕らの日課となった。妹は遂に自分の枕まで持ってきた。まぁナターシャはまだちっちゃいから一緒に寝ても問題ないだろう。何よりくるくる変わる妹の表情を見ながら終わる一日は中々に悪くない。
思わず笑みが零れた。
すやすやと気持ち良さそうに、安心しきったふやけた顔で眠る赤毛の仔猫。その様子に兄としての使命感が満たされる。
起こさないよう優しく妹の頭を撫でて満足すると、庇護欲を掻き立てる仔猫を腕に閉じ込め、その柔らかな温もりに僕は自然と穏やかな眠りに誘われていった……。