天使が降りた日
カタカタと古い映画のフィルムが回る。セピア色の世界が私を包んでいる。
ふわふわと私は漂って……
あぁ、これは夢だ―――。
……微睡みの中、漠然と理解した。
そう理解すればボヤけていた画面のピントがじわじわ合っていく。
……定まった視界の先には、どこかホッとする素朴な女性が腕の中の宝物に笑いかけていた。
『貴方はどんな大人になるのかしら?…色はすっかり私に似てしまったけれど。あの人の部分は現れるのかしらね?』
優しい子守唄が降り注いでいく。小さな泡沫がパチンと弾けるように。妖精の輝く粉がフワリ漂うように。乾いた大地に雨がジワリ滲み込むように。
柔らかく抱かれた赤子を祝福するかの如く、愛し子への調べは空気を揺らし、キラキラ光を反射して親子を包み込むようにゆらゆら揺蕩う。
『…愛しているわ。きっときっと、幸せになってね……』
少し癖のある栗毛の赤子は、世界の祝福をその身に纏い一切の不安もなく安らかに眠っている。
多幸的な元型は長く続かず、徐々に私が引き離されていく。どんどん、どんどん遠ざかっていく、見えなくなっていく……。
何故だか酷く焦燥した。離れちゃいけないような気がして、私は出来るだけ手を伸ばした。
―――…大丈夫、レイモンドは絶対幸せになるからっ!!!!
堪らず叫んだ声は果たして音になったのか…。
薄れ行く景色の中、我が子の幸せを願う母の想いだけが強く強く胸に残った…………
◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
俺は物心ついたときには既にこのリンデンベル孤児院で生活していた。シスター曰く、赤子の俺は施設の前に置き去られていたらしい。おくるみの縁に『レイモンド』と刺繍がしてあり、名前だけは判ったのだという。
当然だが両親の記憶などはない。
ここには似た境遇の子どもがわんさかいたし、ほぼ自給自足の毎日に寂しいと思う暇など皆無だ。
貧乏でも、優しいシスター、沢山の兄弟と賑やかに暮らす日々に不満などこれっぽっちもなく、毎日が幸せで楽しかった。
―――ちょっと前に知り合った『ダンデ』という奴は変わり者だった。
明らかに良いとこのお坊ちゃん然としているのに誰にでも気さくでめっぽう腕がたつ。
出会いは偶然。
孤児院で暮らす兄弟が街でチンピラに絡まれているとの報せを受けて駆けつけた場所で。
そこには大の大人を傅かせ、平謝りさせている綺麗な少年が、俺の兄弟たちを庇うように立っていた。
何でもお使いに出掛けた兄弟たちを狙ったチンピラが、くだらない因縁を吹っ掛けている場面に出くわして割り込んだんだそうだ。
正論という言葉で殴られ続け、逆ギレしたチンピラが遂に実力行使で手をあげると、「待ってました!」とあっという間にやっつけてしまったらしい。…倍以上も体格差があるのにどうやったんだろう?
兎も角。
突如現れたヒーローに当事者たちは尊敬の眼差しでなついてしまった。チビどもは少年の傍を一向に離れようとしない。俺としても兄弟を助けてくれた恩人を放っておけず、半ば強引に「お礼をする」と住み処に連行。シスターに事情を話してお茶を振る舞った。
そして気付く。整った容姿、綺麗な手、着ているものは町人のそれだが、間違いなくお忍びのお坊ちゃんだろう。そんな奴にやっすいお茶を出してお礼になるのだろうか?…此処にはそれしかないのだけれど。
きっとこいつが普段口にするものよりも不味いものだろうに、貶すことも蔑むこともせず、にこやかにシスターからの感謝を受け取っている。そして少年はお茶を飲み終えると、何故か孤児院の中を見学し、兄弟たちと少しの間遊んで帰っていった。
……少年は最後まで俺たちを憐れむことはなかった。
俺はそれだけでこの『ダンデ』という少年が気に入った。
以来、ダンは頻繁に孤児院を訪れるようになった。面白い遊びを次々広めたり、チビを集めておとぎ話を聞かせてくれたり。何より美味しいお菓子を毎度持参するものだから、全員がすっかり餌付けされ、ダンデは孤児院の人気者となっていた。
そんなある日、街中でダンとバッタリ遇った。
「丁度良かった」と徐に菓子袋と土のついた雑草をいくつか渡される。…理由は不明だがこの雑草達を孤児院の裏庭、表広場の右手左手など指示した場所に植えて欲しいと言う。
急いでいるというダンに了承を告げると、ほっとした顔で礼を言ってさっさと走り去ってしまった。
菓子の礼だと思えば大したこともないので、俺はダンデの指示通りに雑草を植えると、数週間でそいつらはあっという間に生い茂ったのだった。
さらに数日が過ぎ、珍しくダンデから俺宛てに伝言が届いた。
『裏庭に植えた葉っぱを適当に採取して談話室で待っていて。ついでにお湯も沸かしてティーポットにいれておいて欲しい。』
昼過ぎに来るというので、言われた通りに到着を待つ。ダンは少し遅れてシスターと談話室に現れた。
「しかしこんな雑草どうするんだ?」
聞けば慣れた手つきで『ミントティー』というものを作ってくれた。変にスースーして正直あまり美味しくない。後に聞いた話だと胃薬のような効能があると言っていたから、薬ならまぁ不味いのも当然かと思った。
ダンデは俺たちに庭に植えたハーブを使った石鹸の作り方を指南し、更に調味料、化粧水や美容液――女が使うものらしい――といったものを作らせていった。完成品を貴族に配るのだという。幸いハーブは――俺には相変わらず雑草にしか見えないが――どんどん成長している。出来たものは孤児院でも好きに使って良いと言うので、シスターを旗頭に女子どもが凄い結束力で制作に力を入れていた。
何でもダンデの親戚のお嬢様がこのハーブを使って孤児院で慈善活動をしたいらしい。その為に何処からか採取してきた株を俺に植えさせたようだ。…お貴族様の気まぐれというやつか。…どうしてうちなんだ?
「なぁ、ダンの親戚のお嬢様ってどんな奴?」
ダンデに引き続き、いつの間にか孤児院に居ついてしまった『シルヴィー』というお嬢様に俺は聞いてみた。
だって、顔も見たこと無い貴族のお嬢様が突然俺達の為に奉仕活動をするというのだ。ダンデは良い奴だし、このシルヴィーも悪い奴じゃないのは分かるけど、基本金持ちは横暴な奴らだろう?兄弟たちが利用されるような事は避けねばならない。
「ふふん!ナターシャはね、とっても凄いのよ!!」
自慢げに彼女が胸を張り顎を反らす。その後如何に彼女が素晴らしい人物であるかを滔々と語り出した。が、いまいち要領を得なかった…。
(……結局ナターシャという名前のお嬢様ということしか理解できなかった…。)
俺はがっくり肩を落とす。
ただ、シルヴィーがかなり懐いている様子から、悪い人間ではないのだと思う。…多分。
何だかんだと準備は進み、イベント開催当日。設営を手伝っていたダンデは昼から用事があると帰ってしまった。
ダンデとたまに一緒に来ていたユージンとかいうお供が残って指揮をとっていく。
「なぁ、ナターシャってどんな奴?」
俺はいつかの問いをユージンにもしてみた。
「…見たらわかりますよ」
一瞬目を見開いたユージンは面白そうに片方の口角を上げた。
(そういうなら見てやろうじゃんか!!)
パーティーが始まり、主催者を名乗るおっさんが挨拶をしている。遠目にシルヴィーが見えた。子どもはそこにしかいないから、隣に居る薄い若葉色のドレスの奴が『ナターシャ』に違いない。
俺は隙を見て持ち場を離れると、若葉色を探し始めた。
人垣を器用にすり抜け目当てを漸く見つけ出す。サボリがバレない様に近くのテーブルの下に潜り込んだ。そしてそっとテーブルクロスを持ち上げて……
目の前に居たのは陽光を浴びて輝く天使だった。
薄若葉色のドレスにゆったりと咲く薔薇色の髪。瞳は深い森の色。角度によって明度を変え、一度覗きこめば知らず森の奥へと惑わされそうだ。白い肌に映える薄桃の唇は笑みを形作り、その微笑は周囲に愛を振りまいている。
俺が今まで見てきた『女子』とはなんだったのだろう!!?
青天の霹靂が脳天を穿ち、ショック冷めやらず兄弟たちの元へ戻った。
そこには既に人だかりができ始めており、皆忙しなく動き回っている。
魂を抜かれたままの俺は、忙しくて気が立った女子に「邪魔っ!!」と礼拝堂内に放り込まれた。
礼拝堂の奥、その天井近くには、昔の名残でステンドグラスがはめ込まれたままになっている。
色とりどりに煌めく日の光がぼんやりと視界に映った。赤、白、緑…。そうして網膜に焼き付いた少女を形作る。…重症だった。
不意に肩を叩かれた。ハッとして視線を向けると、眉を八の字にしたシスターが居た。
「レイ、大丈夫?何度呼んでも反応しないから心配したわ…」
気付けばパーティーが終わっていた。
主催のおっさんから挨拶があるからシスターは俺を呼びに来たらしい。具合が悪いなら寝ていても良いと心配する彼女に大丈夫だと告げて、一緒に皆の元へ合流した。
目当ての少女はおっさんと偉そうな少年の後ろに隠れるよう、控えめに立っていた。恥ずかしがりなのだろうか?扇で折角の可愛い顔を覆っている。でも瞳だけでも天使の笑みは効果抜群で、彼女の周りだけやけに眩しく見えるのだ。俺の頭はいよいよイカレてしまったらしい。一度目に留めてしまえばもう、片時も逸らす事が出来なかった。
良く分からないままに一日が終わり、また過ぎ、俺は今、こないだのおっさんの家に呼び出されていた。孤児院なんかとは比べ物にならない広くて豪奢な室内についキョロキョロしてしまう。
ふっかふかのソファーに沈み、出された甘い果実水を飲んでいると、おっさんとぽっちゃりしたおばちゃんがやって来た。
ニコニコした二人は「私たちの息子になってくれないか」と開口一番俺に告げたのだ!!!
危うく果実水を思いっきり噴き出すところだった。しかし噴き出すのは堪えたが思いっきり気管に入ってしまい盛大に咳きこむ。
涙目の俺が落ち着くまで、向かいの夫婦は笑顔のまま待っていてくれた。
俺が話しを聞ける態勢になってからおっさんが色々言っていたけど、難しくてあんまり分からなかった。ただ、この前会った時に俺を引き取ろうと思ったという事だけは辛うじて理解した。
まさか俺に養い手が見つかるなんて寝耳に水だ。
だが瞬時に住み慣れた我が家から離れがたい気持ちが占拠する。正直な思いのまま間髪無く断ろうとした時、天使の顔が脳裏を過った。
「あの…。こないだの女の子……」
「この間?…ああ、ナターシャ嬢のことかな?赤い髪のご令嬢かい?」
「そうっ!!…そう、です。」
「彼女が何か?」
「あの……、ここんちの子になれば、ナターシャに会え、ますか?」
夫婦は揃って目を丸くして、次いで示し合わせたように笑い出した。
一頻り笑って後出された答えは『是』
ならばもう、俺に迷いは無くなった。
―――そうして俺はこの日から『レイモンド・ベイン』と成ったのだ。




