ミケルのベクトル →
ミケルが母であるハンナの転職によって住み慣れたダンデハイム領都から離れ、王都に移住してから何年経っただろうか。
(引っ越しした時、僕は6歳だったから、え~っと……8年、かな?)
この8年間で本当に色々な事があった。
狭い狭いミケルの世界は14歳になった今や果てが見えないほどで。
(全部ダン兄ちゃんと逢えたから変わったんだ……)
幼き頃、自分の世界には母しかいなかった。
やがて物心ついた頃には仕事へ行く母に代わって、地域のまとめ役だったジョンが広場で遊んでくれて、お隣のレンや仲良しのエリーと過ごす。それが一日の全てでその繰り返しがミケルの日常だった。
そこに突然現れたのがダンデだ。
年に一度か二度、一週間程度やってくるダンデはミケルにとっての非日常であり、非常に刺激のある時間だった。
そうしてミケルが6歳となった年、母が仕えていたお家が取り潰しになるという事で、責任を取った領主様が従業員たちの面倒を見てくれると言われたらしい。
そこで今の主人であるナターシャに拾われたハンナは、お嬢様に仕えるべく王都へと移る事になった。――勿論息子である自分も一緒に。
住み慣れた土地を離れる事も、仲良く過ごしていた友人たちと離れる事も心細くは思ったけれど、未知の場所への好奇心の方が勝ったこと、何よりもうお母さんが苦しまないという事実がミケルの心を浮き立たせていた。
魔法の手紙に導かれて、期待いっぱいに王都へやってきた日を昨日の事のように思い出せる。
ミケルの新しい家は『木漏れ日の丘』と呼ばれる集会所の裏手にある集合住宅だった。
領都から共にやってきた母の元同僚たち皆で住まうと聞いて目を輝かせた。
しかもすぐ隣には親のいない子供達が大勢住んでいる『リンデンベル孤児院』という所もあって、ミケルは淋しさとは無縁の生活を送れるようになった。
領都ではずっと――働きに出た親を待つ子供達と――広場で遊んでいたので、同年代の子たちと遊ぶことに何の違和感も抱かなかったけれど、親がいないという子どもも世の中にはいるのだという事を初めて知った。
(僕のお父さんみたいに途中で死んじゃったわけじゃなくて、最初っから知らない、解らないって言われてびっくりしたんだよね)
貧しいながらもハンナに愛されて育てられたミケルにとって、自分の子供を捨てる親がいるという事実が物凄い衝撃だったのを覚えている。
今まで『子どもは親の仕事が終わるまで広場で集まって待つもの』が常識だったミケルの中に、『親のいない子どもは孤児院で暮らす』という知識が加わった瞬間でもあった。
しかしその常識もまたすぐに塗り替えられたのだが。
それはある日の木漏れ日の丘での事。
集会所にやってきたじいちゃんばあちゃんの思い出話に花が咲いた日があった。
自身が子どもの頃を振り返って懐かしむ老人たちの中に一人、過酷な半生を送ってきた爺ちゃんがいた。
「王都は王様のお膝元だというだけあって、本当に恵まれていると思ったよ。ここでならやり直せる、新たな輝かしい人生を過ごせるだろうって、そりゃあもう躍起になったもんさ」
何でもこの爺ちゃんは子どもの頃、王都からは遠くの辺鄙な土地で暮らしていたらしい。採掘が生活を支える村で親も無く一人で生きてきたと話していた。
「そりゃあもう酷いところだった。石を掘るってぇ仕事は容易いものじゃあねぇ。出稼ぎに来た屈強な男たちが多かった事もあって、おれみたいな孤児も少なくなかった。何処の家も貧しかったからな。若い女たちも稼ぎの先でこさえた赤子の面倒など見ていられなかったんだろうさ。みんながその日を生きる事に精一杯だった。生きるために泥水だって啜って過ごしてたが、ここには孤児院がある。面倒を見てくれる人がいるだけお前達は幸せってもんだ」
街で出会った友達の生活とリンデンベルでの暮らしを比較して愚痴を零した子どもにその爺ちゃんは昔を語ってくれたのだ。
親も無く家もなく、気づいた頃にはその身一つしか無かったという。
本能のまま死にたくないから生きていたのだと。
雨風を凌ぐのに採掘する為に出来た横穴で寝泊まりして過ごしていた子ども時代。
同じような境遇の子どもたちとたまに助け合いながら暮らしていた彼は、やがて青年になると村を飛び出し旅してきたという。
「今までだってその日暮らしだった。それならどこでだって変わらねぇって気付いたのさ」
そして世界の広さを知ったのだと笑う。
様々な経験を経てたどり着いた王都に腰を落ち着けて今ではひ孫もいるのだと。
「あんたも苦労してきたんだねぇ」と周りに労われている爺ちゃんを見ながらミケルは更なる衝撃を受けていた。
世の中には色んな人がいる。
幸せになりたくてもがいている。
柔らかい頭に知らない事がどんどん増えていく。
むしろ自分が今まで知っていた世界とはなんだったのかと思えるほど。
やがて仲間になっていたマルベックという名の物知り爺さんと出逢う事でミケルの世界は一層の広がりを見せていった。
そんな中、足を運んだガオエルに襲われた村で、マル爺と一緒に行った寒波に苦しむ町で、ミケルは色んな人を見てきた。
そして気付いた。――――『誰しもが生きたがっている』ということに。
(僕もお母さんには元気でいて欲しい。辛いのも苦しいのも悲しいもの……)
その為にミケルはどうしたらいいのだろうか?
身近にあるものだけを大事に抱えて漠然と生きてきたミケルの心に大きなハテナが芽を出していた。




