たいせつなもの
固く瞑った目蓋の裏に蘇った景色に、レイモンドはかき抱くようにして身を丸めた。
「……怖いんだ」
意識を失ってぐったりと男に担がれたステラの姿が、追いかける俺を見つけて必死に腕を伸ばしてきた姿が、あの時サリーに重なって見えたんだ。
だからあの時、咄嗟に助けなきゃと身体が動いた。でも俺には何も出来なくて。
離れていくステラを追いかけながら無力な自分を嫌と言うほど思い知らされていた。
俺には民衆を導くような地位や権力など無く、ロンの様に真剣に鍛錬をしてきたわけでもないし、ステラの様に必死で勉学に取り組んできた訳でも無い。
特出した能力などない平平凡凡の人間、それが俺だった。
だってそんな事しなくても生きてこられた。
孤児だという理由で殺されかけたことも、まして犯罪に手を染めたこともない。
精々ひもじい思いをした事があったくらいで、それでも絶望を感じるほどでは無かった。
―――俺には貧しくても助け合える家族がいたから。
それは境遇を支え合える同士であり、己に勇気をくれる存在だった。
(そういう風に導いてくれたのがこの人で……)
卵の様に蹲った姿勢から顔だけ持ち上げてふと隣を見上げる。すると探す間もなくすぐに柔らかな視線とかち合った。
ただ静かに、ありのままの自分を見守って尊重してくれている、昔から一つも陰らない、慈しみを映した瞳でずっと俺を見てくれていた。
漠然とした俺の不安を、纏まらない感情を、全部解ってくれているんだろう。
そう信じられるだけのものを俺はずっとこの人から受け取ってきたのだから。
(俺はたいせつなものを護る事ができない……)
一瞬でも騎士の派遣や警備強化に気を抜いた自分が許せなかった。
芽生えた懸念を人任せにした過去の自分を殴り飛ばしたかった。
せめて自分が少しでも関われていたら、気付いた不安を解消するために何某かの助力を乞うていたら、ここまでの無力感に苛まれていなかったかもしれない。
男爵家に貰われて、人の善い両親と共に奉仕活動に励んだこの数年で、俺はいつしかそれだけで満足してしまっていた。
リンデンベルに、サリーに孝行できていると、慢心していたんだろう。
(……なんだ、全部人任せじゃん)
俺がしてきたことは、常に誰かにくっ付いていただけ。
幼き日の様に、生活が少しでも良くなるように頭を悩ませたわけでも、サリーに喜んで欲しくて一等綺麗な野花を探してきた訳でも無い。
もしかしたら理想の自分に成れていたかも知れない捨てられた時間に気付いてゾッとした。
途端に後悔という底なし沼に嵌まっていく。
「レイモンド、大丈夫よ」
絶望に呑み込まれそうになった俺を何でも無い事の様に引き上げてくれたのはやっぱりシスターだった。
「何をそんなに怖がっているのか分からないわ。ねぇ、レイ……優しい子。貴方にはいつも助けてもらっているのよ?」
いつの間にかサリーの腕に包まれていた俺は規則的に頭を撫でつけられていた。その感触が増える度に、トロリとまどろんで脱力した。
「あなたがベイン様に受け入れられてから、もうずいぶん経つのね……。いろんな事がありすぎて、本当にあっという間だったわ」
しんみりと語るサリーの声だけが身に染み込んでいく……
「やんちゃなレイはいつだってお兄さん風を吹かせていたわね。皆のリーダーで小さい子のお世話も面倒がらず見てくれて。しっかり者のそんな貴方が里子にと望まれた時、勿論嬉しかったけれど、私ね……、実はちょっとだけ不安だったのよ」
懐かしむ様にとつとつと届く声音は子守唄のように優しい。
「いつだって私を助けてくれたレイはもういなくなっちゃうんだわ―――って。自分勝手でしょ?」
クスリ、自嘲が耳を擽る。
「でもね、貴方は全然変わらなかった。足繁くココへ来ては何くれと世話を焼いてくれて。養子に出たのが夢だったのかしらなんて思えたくらい、いつだってみんなを笑わせてくれていたでしょう? 本当に、心強かった……」
―――ああ、助けられていたのか。自分は、この人を。
まどろみの中にゆるゆると擡げた芯が彼女の言葉にどんどんと硬度を増していく。
「ありがとう、レイ。私たちのお兄ちゃん。貴方がいてくれるから、私たちは毎日前を向いていられるのよ」
国から忘れられていた孤児院は、今や上流階級の注目の的。
貴族という住む世界も常識も違う人達と接さなければならない恐怖も、間にレイモンドがいたことでどれだけ助かっただろうか。
最初の縁だってお貴族様の気まぐれで打ち捨てられていたっておかしくなかったのに、レイがその人徳で繋いで育んでくれたからここまでのものになったのだ。
「レオーネこそ、貴方のこれまでの賜物だと私は思っているわ」
ハッとしてサリーの胸から抜け出した。再び見つめ合う形で彼女の瞳を覗きこむ。―――其処に答えがある気がして。
レオーネ、と呟くと脳裏に緋色が過った。
颯爽と現れて武勇を揮いステラを助けたダンデ。
貴族の力を使いユーリを、ステラを、孤児院を護ってくれたナターシャ。
(今のままじゃ、並び立つことさえ出来ない……)
高みに上る努力をしなければ女神に届くことは一生ないだろう。
「ふふ、迷いは晴れたみたいね」
正面の穏やかな笑みに照れた苦笑を返して小さく肯く。「ありがと、シスター」とか細く呟いた。
「周りと比べたって意味ないなんて知ってたはずなのに。俺は俺に出来る事をするし、出来ないなら工夫すればいい。大切なものは自分の手で護るんだ!」
その為の努力なら苦では無い。
自分にとって何が大切かさえ見失わなければきっと大丈夫。
折れて朽ちた自信は目標を見つけて立派な柱になった。
目の前のかけがえのない女性に心中で誓いをたてて、レイモンドは晴れやかに笑った。
うちの子の中でレイモンドが一番の男前だと神那は思っているw




