レイモンドのベクトル →
レイモンドは一人ぼんやりと、リンデンベル孤児院の礼拝室の中に並ぶ長椅子に腰かけて、天井近くにあるステンドグラスを見るともなしに見ていた。
「レイ、どうしたの?」
片膝を抱えたまま何を言っても上の空のレイモンドを心配した孤児院のチビたちが保護者を呼びつけたらしい。静かに響いた優しい声音に振り返ると、何とも言えない苦笑を浮かべたシスターが立っていた。
(……おっと、今はサリー孤児院長か)
レイモンドが8歳の時に開かれたバザーを転機に、今やリンデンベル孤児院は見違えるほど活気づいていた。ボロボロだった壁が修復され、つぎはぎだらけの襤褸着しかなかった衣服も質素ながら清潔な綿布であつらわれ、庭木は整備され、掃除は隅々まで行き届いている。何よりも皆がお腹いっぱい飯を食えるようになった。
レイモンドが幼かった当時、リンデンベルの管理者だったシスターが高齢で離職を余儀なくされ、街で働いていた卒院生のサリーが出戻りで子どもたちの面倒を見ていた。
成人したての女性が一人でよく頑張っていたと今なら素直に尊敬できる。
自分を含めて散々と愛情を求めてサリーに甘え、振り回しては迷惑をかけたけれど、経済力を手に入れた今では世話人であるシスターを雇用できるようになった。サリーの負担は随分減ったように思う。
俺はサリー院長をまじまじと見つめた。
疲労の濃く浮き上がった隈は消え、子ども優先で自分蔑ろの食生活により折れそうだった細い身体は成人女性らしいまろやかさを帯びている。常に衛生品や美容品のテスターをしているお陰で肌つやもよく、仄かに良い匂いがしている。
そんな風にお金持ちのお嬢様と比べても遜色ないと言っても過言では無いほど美しく変わったサリーがゆったりと自分の傍まで歩み寄って来てストンと隣に腰かけた。
俺が目をパチパチさせていると、柔らかな手の平を額に乗せてくる。
「ん~……熱は無いみたいねぇ」
馴染んだ温もりはすぐに離れた。空気に冷やされたおでこが何だか淋しい。
「何か悩み事?」
ゆったりと子守唄のような調べでサリーが問うてくる。みんなの姉ちゃんの愛情はまだ俺にも適用されるらしい。
子供扱いされている反発とくすぐったさがないまぜになって身をよじる。
ベイン男爵に引き取られて8年。孤児院で過ごしてきた期間と同じだけ貴族として生活してきたけれど、未だに安らげる家はココだった。
サリーの手がそっと俺の頬に添えられると、じんわりとした温かさに不安が解けていく。
不意に鼻の奥がツンとして内心で慌てた。
(こんな事で泣きそうになるとかいくつだよ俺! 格好悪過ぎだろっ!!)
俺はバツの悪さから勝手に口が尖るのを止められない。しかし、何枚も上手の相手には何の効果もなくて。
「ん?」と穏やかに首を傾げて待ってくれている姉の優しさに観念してとうとう胸の内を暴露した。
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貴族学園に通う唯一の特待生、ステラ。
平民ながら努力で勝ち得た狭き門を潜って、単身、貴族社会に乗り込んできた女の子。
そんな背景から勝手に親近感を覚えていたのだが、相手もそのようだった。
何につけても貴族の付き合いというものは面倒臭くて、兎に角回りくどい。
学園のご令嬢たちと触れ合う時は、粗相がないか気にして緊張し通しだが――但しどこぞの公爵令嬢は除く――、ステラに関してはノリというかテンポが乱されることがないので、孤児院の兄弟たちと触れ合うような気安さがあった。
そしてどういうわけか我が女神ナターシャ嬢と仲良くなったステラのお陰で、俺とステラは孤児院を主体としたお店を経営する事になったのだ。
これが軌道に乗れば今孤児院にいるチビたちも将来に希望を持てるだろう。
何かと差別されがちな俺達にも認めてもらえる場所が作れるなら、しかもそれを俺の力で為せるのなら、こんなに凄い事は無いと意気込んでいた。
そんな矢先、あの襲撃があった。
前日に怪しい奴の話を聞いたばかりだった俺は肝をぎゅっと潰された。
「う、うるさいっ!! 俺達の用があるのはそこの庶民だけだっ!!! それなら文句ないだろっっ!!!!」
事を起こした先輩たち自体は弱そうで気にならなかったけど、その中の一人が叫んだ内容が俺の頭をガツンと殴ったんだ。
『貴族と庶民は違う』言いかえれば『貴族は庶民をどう扱ってもよい』
―――貴族の常識的には不文律の考えだ。
公爵令嬢や王子といった権力者と親しくしていたのに、俺はそんな簡単な事をすっかり忘れていたんだ。身分を笠に着ない変なやつらしか身近にいなかったから。でも孤児であり庶子であり養子である俺はいくらだって蔑視を浴びてきたではないか。お貴族様ってそういうものだって何度も呑みこんできたのに。
その矛先がステラに向いた。
ならば同じことがリンデンベルの家族に起こったって不思議では無いじゃないか!
冷水を全身に浴びせられた気がした。
でもそんな俺の懸念は騎士の派遣や警備強化によって薄れていったんだ。
そんな時、ステラが目の前で攫われた―――――




