ステラ meets クロード
「ステラ嬢、おはよう」
ハルマと別れて自身の教室へと向かう途中、追い越し様に爽やかな微笑が通り過ぎて行った。ごく自然に、何の気なしに軽く挨拶された相手はこの国の王子様、『クロード・クロムアーデル第二王子殿下』である。
本来なら話す事すらままならない雲上人。そんな方に私はひょんなことから『友人』の資格を賜った。その嘘みたいな現実をまざまざと見せつけられて瞠目してる間に「おはよう」という小さな呟きを落として長身の男も横をすり抜けていった。『ロン・オーウェン』クロード殿下の従者見習いとして常日頃から殿下に侍っている強面の美丈夫だ。
二人の美男子の綺麗な横顔を呆けたまま見送り、コンパスの差であっという間に彼等の背中が遠ざかっていく。その背中を数秒見つめてハッとした。
(私、王子の挨拶に返事してないじゃん!?)
私は慌てて二人の背中に声を飛ばした。このままじゃ不敬もいいとこだ。
「お、おはようございましゅ!」
……噛んだ。
慌てて捲くし立てたお陰で挨拶は見事に失敗。……込み上げてきた羞恥心に泣きたい気持ちを味わっていると、眼前のクロードの肩が僅かに揺れた。
(うう……殿下に笑われてしまった……)
トホホと肩を落として私はとぼとぼと教室へと足を動かした。
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午前の授業が終わり、昼を告げるチャイムが鳴る。
机に教材をトントンと打ちつけて端を揃えつつ片付けていると、昨日から突如気さくになったシルヴィーが私に声をかけてきた。
「ステラ、先に行ってるわね!」
元気よく宣言してそのまま教室を飛び出していく。……どうやら今日も、私も昼餐のメンバーに含まれているらしい。若干の気まずさを感じていると、続けて凛と良く通るテノールが鼓膜を揺らした。
「今日も楽しみだな」
しっかり私と目を合わせてクロード殿下が柔和に微笑みシルヴィーの後を追って行った。――それを動いた空気の気配で感じながら――私は殿下を見上げたままの首の角度で硬直していた。至近距離で揺れたサラサラのブロンド、女性なら誰でも溶かしてしまいそうな極上の微笑みに真っ赤に惚けて機能停止していたからだ。
……慣れない、いや慣れる筈がない。
嬉しいのか恨めしいのか判断に困る複雑な心境のまま、未だバクバクと激しく動き回る鼓動に頭を抱えそうになっていると、三度声をかけられた。
「ちょっと貴女、少し調子に乗っているのではなくて?」
ずずいと私の前に仁王立ちしてきたのは見慣れないご令嬢だ。少なくともクラスメイトではないので、他クラスから遊びに来たのだろう。
ツインテールを強く縦に巻いたキツイ相貌のご令嬢は、嫌悪も顕わに眉間に深い皺を刻んでいる。更にその後ろから湧いて出た取り巻きらしきご令嬢方が口々に援護射撃を始めた。
「そうよ! 卑しい平民の分際で、クロード殿下からお言葉を賜るなんて!!」
「特待生だかなんだか知らないけど、王子様方と懇意にするなんて羨ま……許せませんわっ!!!」
「どうやって取り入ったのよ! 大方平民という身分で殿下の同情を誘ったのでしょう? 嫌らしい!!」
何とも分かりやすい嫉妬である。思わず「うわぁ……」と感嘆してしまった。センカお姉さまの懸念が数日越しに実現したのである。
……そりゃあ唯でさえ憧れの殿下と別のクラスで接点がなく焦っている中、ぽっと出の平民娘が親しげに笑いかけられていれば文句の一つも言いたくなるよね。
でもね、憧れは鑑賞するくらいが丁度良いって私は身を以て体感したばかりなんだ。お嬢様方も、実際に王子様たちの破壊力に直に触れてみればきっと納得してくれると思う。
喧々囂々と投げられる罵倒にもならないやっかみを浴びながら、しみじみと優しい気持ちで生温かい笑みが浮かんだ。
「何よ、その顔は! 余裕ぶって、生意気よっ!!」
全然そんなつもりは無かったのだけど、ギリと口端を噛みしめたツインテールのご令嬢が勢いよく平手を振り上げたのを見て『あ、ヤバイ』と心の中で呟く。次いで『打たれる!』と冷静に予測した思考から、私は衝撃に備えてギュッと目を瞑った。
――パシン!
予想よりとても軽い、乾いた音が教室に鳴り響く。
(あれ? 少しも痛く、ない……?)
訪れる筈の痛みが無いのを訝しんで恐々瞼を持ち上げると、私を庇う様にして立った真紅の絹髪が視界を覆った。
「そんなに興奮されて……。どうなさったの? ホリデー様」
ホリデーと呼ばれた――ツインテールの――お嬢様の平手は、精緻なレースの上品な扇子に止められていた。扇子の持ち主は優雅に微笑んでいる。凡そこの場に相応しくない穏やかな笑みに、取り巻きたちもたじろんだ。
「ナターシャ?」
私は目の前の麗しいご令嬢を見上げる。するとニコリと笑み返された。
「ステラが中々来ないので迎えに来たの。さ、皆お腹を空かせて待ってるから行きましょう?」
「ちょっと!! 貴女何処の人間よ!! 子爵令嬢たる私に無礼じゃなくて!!」
吠えるツインテールをナターシャはまるで相手にしていない。微塵も損なわれない余裕の笑みで噛みついてきた相手を向いた。
「……何度かお会いした事もありますのに。覚えて頂けてないとは悲しいですが、改めまして。私、ナターシャ・ダンデハイムと申します。ダンデハイム伯爵が娘でございますわ」
そう言ってナターシャはヤジ馬どもも見惚れる完璧な礼をとって魅せた。
「伯爵家!?」
「ホリデー様不味いですわ!」
ツインテールの取り巻きたちが不利を悟ってざわめきだした。しかしこのホリデーという令嬢は気性が激しいのか、激昂を抑えきれずにナターシャに更に噛みついた。
「ふんっ! この私が覚えていないなんて、よっぽど影が薄いか大したことないんでしょ!! 生意気にも楯つくというのなら貴女も覚悟なさい」
意地悪い嘲笑を浮かべたホリデーに、ナターシャの眉尻が下がる。その表情はまるで駄々っ子に困る母親のよう。ナターシャは軽く嘆息すると、そのまま小さい子に言い聞かせるようにゆっくりと話し出した。
「ホリデー様? 私の兄様は王太子殿下の近侍ですの。ですので、私にも護衛が付けられているのですが、この意味がお解りになりますか?」
「な、何よ……。力で脅そうっていうの!」
『護衛』という単語に少しの怯えを見せながらホリデーが強がる。そんな彼女を見て残念そうにナターシャがゆるゆると首を振った。
「護衛は危機的状況以外干渉してきません。ですが、彼らには常に報告の義務が生じるのですよ」
そこまで言われてツインテールの顔色が青ざめた。
私もナターシャの言わんとしている事を理解して目を瞠る。ああ、可哀そうに。ホリデーとやらはタイミング悪く誤って霊獣の尾を踏んでしまったらしい。
「つまり、この状況も殿下方の知るところに―――」
「こ、今回は見逃してあげますわっ!! 貴女たち、戻りますわよっ!!!」
ナターシャの言葉を遮って、そそくさと嵐が去った。
脱兎の如く逃げ去るご令嬢方の後ろ姿を見送っていたナターシャが数瞬の後くるりと私を振り向いた。
「さ、ステラ。シルビアたちが待ってるわ。急ぎましょう」
と言いつつ、目の眩む極上スマイルで有無を言わさず私の手をとり私を立たせた。
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「……アーシェ、ステラ嬢に何したんだ」
東屋について開口一番クロード殿下がナターシャを非難した。
「何よ、藪から棒に! く~ちゃん失礼よ!!」
ぷりぷりと頬を膨らますナターシャ。その表情がやけに幼くて、これまでとのギャップにときめいた。
(……ん? ときめいた??)
私は無意識に浮かんだ感想に首を傾げる。そんな私に同情の色を濃くしたクロード殿下が、
「ステラ嬢、困ったことがあったら遠慮せず相談してくれて構わない」
と言って、哀愁漂う笑みを浮かべた。
聡明な殿下はきっとこの時既に、私の末路が見えていたんだと思う。この日を境に、やけに殿下が私に対して親身になったのだが、その理由に私が気付くのは、もっとずっと後のお話。




