4話 隷属の刻印
「・・・まともな風呂なんて入るの久しぶりだなぁ」
隼人は、ティア達の紹介が終わった後久しぶりに自宅の風呂を使っていた。
風香曰く、
「7人ぶんの食事を作るのは時間が掛かるから、先にお風呂に入ったら?疲れてるみたいだし」
との事。そして疲れている事は事実だったので隼人はその言葉に甘えたわけだ。
「彼方でも温水には浸かれてはいたけど、アレは風呂とは言えないようなもんだったし」
彼らは旅の途中で風呂のような何かを自分達で作って浸かってはいた。
魔法を窪みを作り、魔法で水を打ち込み、魔法でそれを熱する。それが彼らにとっての風呂だったのだ。
勿論、屋外なので屋根も壁も無い。
だが、ここには壁も屋根も当たり前のように存在する。
そのせいで、この当たり前の風呂でさえ彼は若干ではあるが違和感を覚えてしまっていた。
「で・・・どうやって身体洗おうかね」
そして、彼は常人からしたら大分おかしな所で悩み始める。
彼の前に鎮座するのはボディソープとシャンプーとリンス。・・・彼が2年間以上触れてこなかったものだ。
彼としては、魔法でどうとでも出来たので彼方でも必要としなかった。そして、必要としないなら敢えて使う必要も無いのではないか?と思ってしまったのだ。
「・・・まあ、こっちの生活にも慣れなきゃいかんからな」
だが彼は、「こっちの生活に慣れる為」と自分に言い聞かせながら身体と髪を普通に洗っていく。
感覚を大分忘れてしまっているため前よりも多少時間が掛かってしまったものの、彼は無事に全身を洗い終えそのまま湯船に浸かる。
「あぁ〜・・・」
彼は、湯船に浸かると同時に気持ち良さそうな声を上げる。
何時ものように、警戒する必要すらない。それが、彼にとっては一番の癒しだ。
常に警戒していなければ危険であった彼方とは違って、こちらではそんな心配は無用のものだ。
・・・と、彼は今この瞬間までは思っていた。
コンコン
「入るよ、お兄ちゃん」
「・・・ん!?」
突如として風呂場の扉がノックされ、沙耶がその中へと入ってくる。バスタオル1枚だけを体に纏った姿で。
「ちょっ、おまっ!?何してんの!?」
「何でそんなに慌ててるの?昔はよく一緒に入ってたじゃん」
「昔は、な!でもこの年齢にまでなってそれは駄目だろ!」
隼人は、目を閉じながら沙耶に向かって叫ぶ。
確かに昔は、結構な頻度で一緒に風呂に入る事もあった。
だが当然、お互いに成長してからはそういった事はしなくなっていた。よって、油断していた隼人に非はない。
「別に兄妹なんだから何も無いでしょ。・・・それとも、お兄ちゃんは妹の身体を見て欲情するような変態さんなのかな?」
「そ、そんなわけねえだろ!」
沙耶がさも当然のように言い放った事に隼人は即座に言い返す。そのまま認めたりしたら、相当不名誉な扱いを受けることが目に見えたから当然の事だ。
だが、それはこの場だけで見たら完全に逆効果の返答だったが。
「そっか。なら、別に問題無いよね」
「・・・謀られた!?」
その言葉を聞いてそのまま踏み入れた沙耶を見て、そこで隼人は一杯食わされた事を知る。
隼人が制止する声も聞かず、そのまま身体と髪を洗い始める沙耶。それを出来る限り視界に入れないように隼人は湯船に浸かり続けるものの、居心地は悪く安らげない。
そして、風呂から出ようにも入り口までの道は沙耶がいて通れない。よって、隼人に逃げ場はなかった。
だが、彼はまだ心の底で油断をしていた。
「・・・じゃあ、お邪魔するね」
「・・・おいぃ!?」
沙耶は、そう言うとそのまま隼人が入ったままの湯船に容赦なく浸かる。勿論、これも彼は予想していなかった。
「いやいやいやいや待て待て待て待て!駄目だろ!流石にそれ駄目だろ!」
「ん〜?別に変態さんじゃないんだから問題無いでしょ?」
「だからって・・・っ!」
しかし、彼がそれに対して文句を言おうとも彼女は出ようとはしない。
それでも彼は彼女に文句を言い続けようとしたのだが・・・。その口は、彼女の顔を見た途端に止まってしまう。
「・・・寂しかったんだよ?この2年半、ずっと。だから。少しくらい、昔のようにさせて?」
シャワーを浴びた後なのでパッと見は分かりづらいものの、その目には涙が浮かんでいたのだ。そして彼はそれに気がついてしまった。
そう言われてしまうと、彼はこれ以上強く言うことは出来なかった。
「・・・勝手にしろっ」
だから彼には、せめてもの抵抗として沙耶に背中を向けたまま湯船に浸かり続ける。
だが、彼からしてみればこの選択もまた間違いだった。
「・・・ありがと・・・っ!?」
そして隼人をそうさせた沙耶は涙声になりながら彼にお礼を言おうとし・・・そこで、彼の背中を見て言葉を詰まらせた。
隼人の背中には、今まである筈のなかったものが存在していたのだ。
理解不能の言語に、何が表されているか分からない紋様。構成しているのはその二つだけだが、その意味は全くもって分からない。
それは、一つの大きな魔法陣だった。
背中に深く刻まれ、それは2度と消えそうにないようなそれは彼女の目にはっきりと映ってしまっている。
「・・・っ、俺としたことが幻影張り忘れるとか何やってんだか・・・」
それを見せるつもりがなかったことは、彼の口から出たその言葉からも容易に察する事が出来た。
その彼の自嘲するような口調も、沙耶がその認識を強くする原因となる。
沙耶はそれが何かは分からない。けれど、何故かそれは此処にあってはいけないものだという事を彼女の勘は告げていた。
「お、お兄ちゃん?何なの、それ・・・」
沙耶は、恐る恐るそれが何なのかを隼人に聞く。
勿論、そう簡単に教えてもらえるとは思ってはいなかった。
何せ、彼は今の今までそれを隠そうとしていたのだから。
「・・・」
そして、彼もまたこの事を話すつもりは無かった。
この魔法陣は、彼にとっては然程重要なものでは無い。けれど、彼の家族にとっては重大な事だとは認識していた。
だから、彼は話すつもりは無かったのだが。
「答えてよ、お兄ちゃん・・・」
沙耶は、目に涙を浮かべたまま、されど真剣な眼差しで隼人に迫る。肩越しにその顔を見ている隼人は、それが演技では無い本心だと容易に見破った。
それ故に、彼は沈黙を貫き通せなかった。
「・・・『隷属の刻印』。彼方じゃあ、そう呼ばれてる」
彼は、その魔法陣が何であるかを簡潔に、そして残酷に沙耶に伝えた。
『隷属』。それは、支配されると言った意味を持つ言葉。そんな名を持つものが、彼の背中に刻まれている。
沙耶は、サブカルチャーというものに少なからず触れてきてしまっていたが為に・・・それが持つ意味を直ぐに理解してしまった。その、彼が隠したかったであろう理由を。
「・・・まさか。お兄ちゃんって・・・彼方の世界で、奴隷にされてたの・・・?」
彼女が思い至った理由は、彼が異世界で奴隷にされていたということ。
描かれる異世界像では、奴隷という身分が認められている事が多々ある。
人権なんてものはない、所有物としての扱いを受ける者達。
沙耶は、彼がそう言った身分にいたのだと想像した。
だが、それは半分正解だったのものの、半分はハズレだった。
「正解・・・って言いたいが、少し違うな。・・・過去形じゃなくて、今も奴隷のままだぞ」
彼は、奴隷であることは事実であり、また今も奴隷だと沙耶に言った。
「まあ、そうは言っても形だけだけどな。別にそれで悲惨な目に遭わされたとか、そういったのは無いから安心しろ」
だが、それでも沙耶が思っているような扱いは受けてはいなかったと補足する。
沙耶は、彼が本当の事を言っているかいまいち判断がつかない。
彼女は彼ほど洞察眼が鋭いわけでは無いのだ。
だが、少なくとも・・・その過去について、これ以上聞いてもはぐらかされるという事だけは察する事が出来た。
「・・・その、お兄ちゃんの主人にあたる人はどうなったの?」
だが、これだけは聞いておきたかった。
恐らくは異世界クライノートにいるのだろうが、それによって隼人に不都合が生じたりしないのか。
それだけは知っておきたいと、隼人の身を思う沙耶は問いかけた。
しかし、返答は大分予想外のものだったが。
「ん?今頃リビングで母さんや父さん達と話してるんじゃないか?」
「・・・へ?」
沙耶は、一瞬その答えの意味を理解できなかった。その考えは、全く予想もしていなかったものなのだから。
だが、沙耶は別に馬鹿なわけでもなく、寧ろ比較的賢い方だ。だから、その意味をそんなに時間を置くことなく理解してしまった。
「ま、待って!それじゃあ、まさか・・・!」
「ああ、そのまさかだよ。・・・あの紹介した3人のうち、誰か1人が俺の主人に当たるやつだよ」
隼人は、そう言いながら湯船から上がる。
沙耶にとっては、それは決して聞き逃せない事だった。何せ、あの3人の内1人が隼人を縛り付けているのだから。
だが、隼人はそんなことは然程気にしてはいないようだった。
「でも、さっき言った通りそれは形だけ。彼方にいる時、俺みたいな身分も何も無いような奴を守るためには"誰かの所有物"っていう立場が有用だった。攫われても、殺されても。誰も気にしないような立場よりは奴隷の方がまだ安全だったんだ」
寧ろ、彼はそれに守られていたという。にわかには信じ難い話だが、その口調は真面目そのものだ。
よって、沙耶はそれを信じるしか出来なかった。
これについては、隼人は本当に嘘は言っていない。
所有物扱いされる奴隷には、基本として人権というものはない。
だが、それに対して他者が下手に手を出そうとするならば、その主人の怒りに触れることになる。
そして、その主人になるものは基本として権力者が多いため、大抵の者はその奴隷に直接手を出せないのだ。
だからこそ、それは彼を守る隠れ蓑となっていたのだ。
「・・・まあ、俺はそろそろ上がらせて貰うわ。彼方じゃ長々とお湯に浸かることなんてなかったからこれ以上浸かるとのぼせちまいそうだし」
だが、その詳しい背景は伝えることなく隼人はそのまま風呂の扉を開けて出て行ってしまう。
そして、風呂場の中には沙耶1人だけが取り残される。
「・・・お兄ちゃん。この2年半、一体どんな道を歩んできたの・・・?」
沙耶は、そんな独り言を思わず漏らしてしまう。
兄が異世界で、どういう生活をしていたのか。
それは、少なくとも生易しいものでは無かったのはもう分かっている。
だから、隼人はそれを詳しく教えてはくれないのだろう。
けれど、沙耶は知りたいのだ。
彼女たちが平和に過ごしていた日々の裏で、彼がどんな苦難を味わってきたのかを。
それを知ったところで、何かが出来るわけではない。
けれど、家族として、妹として。それを知らないままで果たして良いのだろうか。
彼女の頭には、そんな考えが渦巻いていた。
「・・・今度、ティアさん達にも聞いてみよう。そうしたら、何か分かるかもしれないし」
だから、沙耶は1人、風呂場の中でそう誓った。
あの3人、特に、形だけとはいえ隼人の主人である者は隼人の過去を一番よく知っている筈だから。
恐らく、誤魔化されはするだろう。
それでも、聞かなければいけないのだ。
それを知らなければ、異世界で苦しんできた兄の心を癒すことさえできないのだから。