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小説家になろう  作者: 巴邑克弥
2/6

後遺症

━※━


出雲郷先生は三日もすれば一般病棟に移れるって言っていたが、結局、私が一般病棟に移ったのは、入院してから四日目の午後になってからであった。


米郷総合病院はおそらく鳥取県内でも大きな病院になると思う。病院は鳥取県米郷市の東の外れにあり、北に日本海、南には大山の雄大な姿を望むことが出来る、景色だけは誠にいいが、他には何もない場所にあった。

病院の広い敷地の中に、様々な診療科のある四階建ての外来棟と、八階建ての入院病棟が並んで建っており、その周りに大小の建物が不規則に建てられている。それらの建物をつなぎ合わせているため、廊下はまるで迷路のように複雑になっている。


一般病棟に移ってからも私の右腕には点滴の針が刺さっており、胸には心電図モニターの三色のケーブルが貼り付けられていた。

入院してから四日目にもなると、眩暈はほとんど無くなっており、多少の頭の痛さは残ってはいたが、気分的には随分楽になっていた。

それに左半身麻痺か言語障害といった後遺症が残るかも知れないと聞いてはいたけど、どうもその後遺症も無さそうであった。

しかし私にはまだベッドから起きて歩き回るほどの元気は無かった。


一般病棟に移ると、私は看護師さんに預けておいた携帯電話を返してもらい、さっそく私はベッドに横になったまま家内に電話をかけた。

「もしもし、私だ。今ね、一般病棟に替わったから、西病棟の四階の四一二号室に替わったからね。そうそう個室なんだ。差額を払わないといけないけど、看護師長さんが、まだふらつきがあるから、大部屋より個室がいいと言われるので、そうさせてもらったよ。よかったかな? 」

「そう、よかったじゃない。きっと個室の方が静かでいいわ」

「病室を替わったから、前に頼んでおいた、私のノートパソコンとタブレットを持ってきてくれないか」

「わかっているわ、もう少ししたら行こうかと思っていたところなの、その時に一緒に持っていくわ」

「そうそう電源ケーブルとタブレットの充電ケーブルもお願いするね。それから携帯電話の充電ケーブルも一緒に持って来てほしいんだ」

「はいはい、暗くなるまでには行けると思うわ。その時に持って行くわね」

「それからね、なんだか無性に本が読みたいんだ。本を買ってきてくれないか」

「本って? 何を買っていったらいいの? 」

「なんでもいいんだ。とにかく活字が読みたいんだ」

「そう言われてもね…… 何を買ったらいいのかしら? 困っちゃうわ…… 」

「そうだよね、困るよね。だったら、雑誌を一冊と、そうだね、歴史関係の雑誌をお願いしようかな。それから文庫本を二、三冊、そうだね推理小説がいいかな。縦溝正史がいいな。縦溝正史の小説を買ってきてくれないか」

「へぇ、どうしたの? あなたが歴史の雑誌…… 珍しいわね。」

「まあいいじゃないか。なんとなく読んでみたくなったんだ」

「わかったわ、もう少ししたら出かけるから、途中で本屋さんに寄ってみるわ」

面倒くさくなったのか、そう言うと家内は電話を切った。

 普段はあまり本というものを読まない。もともと勉強が嫌いだった私は、本というものを見ただけで頭が痛くなる方で、我が家の中にある本はほとんど家内が読んでいる本であった。家内はそんな私の本嫌いを知っているので、急に本が読みたいと言い出したことに、ちょっと驚いたようだった。しかし本当に驚いていたのは、他でもない私自身だった。どうして本が読みたくなったなどと話したのだろうか? それも大嫌いな、いや嫌いではない、全く興味の無い歴史の本が読みたいだなんて……

 とにかく今の私は水の無い砂漠の中をオアシスと探して彷徨っている者のように、活字に枯渇していた。

 

家内との電話を切ると、私はため息をつきながら、あらためて病室の中を見回してみた。

 病室は六畳くらいの広さだろうか、部屋の真ん中に私が寝ているベッドがあり、その横にテレビと物入れが一緒になった移動式のベッドサイドキャビネットと、オーバーテーブル、それから窓際にお見舞いに来たの人のためだろうか、簡易ベッドにもなるソファが置いてあるだけだった。病室の壁は腰の高さから下の方は、木目のボードが張られており、何となく高級感がある。そして腰の高さから天井までは薄いクリーム色の壁紙が張られているであるが、ところどころに薄茶色の染みがあった。その壁には丸い時計がかけられていた。天井に張られたボードの模様が、なんとなく毛虫が這いまわっているように見えるのは、まだ目が回っているせいであろうか? 


 私が寝ている右側は窓になっていて、ブラインド越しに外の景色が見えるのであろうが、ベッドに寝ている私には、暗くてどんよりと曇った山陰の寒々とした冬の空しか見えなかった。

山陰の一月は寒さが厳しい。きっと今日も外は身震いをするような寒さに違いないと思うのだが、病室の中は暖房が効いていて暖かく、外の寒さを感じることは無かった。

私はこれらら少なくとも二週間と少しの間の時間をこの病院で過ごさないといけない。私はこんなに長い休みを過ごすのは、高校を卒業して以来で、何をして過ごそうかと考えていた。原因はどうであれ、せっかく出来た時間だ、今までしたことが無いことでも始めようかなどと思ってはいるが、さて何を始めたらいいものなのか、私にはわからなかった。


 しかし、外は寒いだろうな。工場のみんなはどうしているだろうか? きっとストーブだけの寒い工場の中で頑張っているんだろうな…… みんなが寒い中を頑張っているのに、ノウコウソクがどんな病気か知らないが、私はこうして暖かなベッドの中で寝ていていいのだろうか? 

ところで今日は何曜日だっけ? 一月三十日に入院したから、今日は二月の三日…… で、何曜日だっけ? かなり曜日感覚が無くなってきたな。毎日、朝の検温の時に看護師さんから聞かれて答えてはいるが、だいぶ怪しくなってきた感じがするな…… しかし外は寒そうだな。もしかしたら雪になるかも…… ?

 私は暗くてどんよりとした雲を見ながらそんなことを考えていた。


━※━


 午後四時を少し回って窓の外が少し暗くなってきたころ、家内が病室の扉を開けて入ってきた。

「こじんまりとしていいじゃない。それに思ったよりきれいだし、いい部屋じゃない」

「でも、何もすることがないんだ。まだ二週間以上こうしていないといけないかと思うと気が滅入ってくるよ」

「何言っているのよ、仕方がないじゃない病気なんだから、今はしっかりと治すことが一番だわ。そうそうあなたのパソコンとタブレットを持ってきたわ」

家内はそう言うと、ベッドの横のベッドサイドキャビネットのテーブルを引き出して、パソコンとタブレットを置いた。

「はい、これが充電ケーブルで、これがパソコンの電源ケーブル。それからこれは携帯の充電ケーブル、これでよかったかしら」

「ありがとう。これで少しは暇つぶしが出来そうだよ」

そう言いながら、私はベッドの横でパソコンや電源ケーブルを紙袋から出しながら並べている家内の横顔を見ていた。


 結婚したころは長かった髪も、いつの頃からかショートカットにしており、最近ではあまり化粧もしなくなったし、美容院に行くこともあまりないようだ。普段の洋服はいつも同じような物を着ており、近頃は新しい洋服を買ったのを見たことがない。もうお洒落に興味が無くなったのだろうか? いやそんなことは無いだろう。本当はお洒落もしたいし、化粧もしたいに違いない。きっと今の私の収入では、そんなことは到底望め無いことだとあきらめているのだろう。もしかしたら家内の心の中は、いま窓から見えている山陰の冬の空のようにどんよりと曇っているのではないだろうか?

 私は、そんな家内の横顔を見ながら、家内は私と結婚して幸せだったのだろうか? 本当は心のどこかで私との結婚に失敗したと思っているのではないだろうか? もっと豊かな生活がしたいと思っているのではないだろうか? 


 私は今まで家内のことを考えてやったことがあっただろうか? 

 いつ倒産してもおかしくない小さな町工場で働く私の収入なんてわずかなものだ。そんな少ない収入で毎月の生活をやりくりしている家内の苦労なんて私は考えたことも無かった。もしかしたら私は家内に苦労ばかりかけてきたのではないだろうか? そのうえ今回の入院だ。おそらく呆れ果てているに違いない。

 考えてみると、私は今まで家内に何一つ買ってやったことが無い。旅行にだって連れて行ってやったことも無い。いま、こうして私の世話をしてくれている家内の横顔を見ていると、なんだか私の不甲斐無さに憤りを感じていた。そしてまた、私は家内と結婚して二十数年たって、初めて彼女のことを愛おしく感じたのであった。


 家内の旧姓は森美也子といい、私より二つ年上である。美也子は岡山県北部の新見からまた山の中に入った鳥取県との県境の万屋という小さな村の出身である。美也子は高校を出ると岡山市内の短大に進学し、その時に出会った男性と結婚していた。しかしその結婚生活は長くは続かず、離婚して実家に戻っていた。

 私の父方の親戚が鳥取県のかなり山の中の岡山県との県境に近い神巌美という小さな町で暮らしており、その親戚が美也子の実家と親しく、離婚して実家に戻っていた美也子との縁談を私の両親に勧めてきた。

 私の両親ははじめ、何も年上で離婚歴のある女性と見合いをしなくてもと難色を示していたが、息子には自分で結婚相手を見つけてくるような甲斐性の無いことは重々承知しており、その上、すでに三十を超えた息子は、今まで何度見合いをしても先方から断られてばかりいたので、今回も断られるだろうと思って、しぶしぶ承諾したのだった。

 当の私はというと、結婚に関しては特に強い願望も無く、私と一緒になってもいいと言ってくれるのであれば、誰でもいいと思っていたので、親戚と両親が勧めるままに美也子と見合いをしたのであった。

 しかし縁とは不思議なもので、会ってみると意外に意気投合し、とんとんと話は進んで結婚することになった。しかし、別にお互いに恋愛感情を持ったわけではなく、ただ何と無くお互いに邪魔にならない存在だと感じたからだったと思う。いや、おそらく美也子にとっては、妥協の積み重ねであったと思う。

 私たちが結婚すると私の両親は安心したのか、結婚後数年の間に、まず父親が、次いで母親と相次いで亡くなった。

 私たちは結婚、両親の葬式と数年間はバタバタと月日が過ぎていった。そして私たち夫婦の間には子どもは出来なかったので、母親の葬式が終わると、その後は二人きりの生活になった。二人きりの生活は単調な毎日の繰り返しであったが、美也子は何一つ不平を言うことも無く今まで暮らしてきた。


 今こうして家内の横顔を見ていると、不平ひとつ言わずに甲斐性なしの私についてきた家内のことが不憫でならず、学も無く能も無い私のこれからの仕事は、家内のこれからの人生を今よりもっと楽しいものにしてやるこのではないのかと思うのであった。

 家内が欲しいと思うものは全て買ってやりたいし、旅行にも連れて行ってやりたい。毎日の生活も今のようにお金の苦労をかけたくはない。そう思うのであるが、安月給取りで預金なんてものもない私には到底無理な話であることは、誰に言われなくても私が一番分かっていた。

 だがそんな私ももうすぐ定年だ。定年になったら退職金があるではないか。いや待てよ、私の会社の退職金なんて、おそらく知れたものだろう。なんせ今まで新卒で入社してから定年まで勤めた社員なんていないのだ。もしかしたら、私が初めての定年退職者になるのではないだろうか? だから誰もまともに退職金を貰った者がいないので、その金額を知っている者はいない。おそらく社長だって計算したことも無いと思う。いや、待て、待て、もしかしたら退職金なんて無いかもしれないぞ。あのケチで金に汚い社長のことだ、辞めていく者にびた一文ん払う気なんて無いかも知れないのだ。

 私は退職金でも入れば、家内に何かしてやれるのではないかと考えてはみたものの、それは非常に難しいことだという結論に簡単に至った。

 しかし、もうすぐ定年を迎えるのであるが、その後の生活はどうなるのだろうか?

 私は自慢ではないが、今の会社に入社して以来、工程管理以外の仕事をしたことが無い。工程管理には資格も何もない。一般的に考えれば、四十年近くも機械加工の仕事に携わっていた人間は、おそらく職人と呼ばれるだけの技術を身に付けており、定年前には後進の指導にあたっているに違いないであろうが、雑用ばかりしていた私にはとても後進の指導なんて出来る技術や知識を持っていない。つまり何もできないのである。

 おそらく定年で退職した後に私に出来る仕事なんて無いに違いないし、六十を超えた無能な者を雇ってくれるような奇特な会社は世の中には無いであろう。そうなのだ、定年になったら私は完全な無職になるのだ。

 そうだ、私には私が今までずっと掛けてきた、年金というものがあるではないか。老後は年金で生活が出来るのではないか。しかし、年金がもらえるのは六十五歳からだと聞いている。そしたら年金がもらえるまでのおおよそ五年間は無収入の状態になってしまう。その五年間を食つなぐ預金なんて無い。五年間も無収入になったら、私たちは飢え死にしてしまうに違いない。私たち夫婦は生活していけるのであろうか? 

 今でも金銭面では家内に苦労をかけているのであるが、定年後はもっと苦労をかけることになるのではないだろうか? そしたら欲しいものを買ってやるなんて絶対に無理な話になるし、旅行なんてとんでもない話だ。私たちの老後はどうなるのであろうか?

 だいたい今まで老後のことなんて考えたことなど一度も無かった。第一、まだ私は老後のことなど考える年ではない。老後、なんていやな響きの言葉なんだ。


私はまだ五十八歳なのだ。そうだ『山本五十六』の父つぁんは、五十六歳の時にできた子どもだから、『五十六』と名付けたと何かの本で読んだことがある。山本五十六の父つぁんは五十六歳で子どもをつくったのだ。山本五十六の父つぁんは五十六歳でも元気で若かった。だから私も若いはずだ。でも今の私にこれから子どもをつくる元気はない。だって私はもう年なのだ。

 あれ、どっちだ? 自分では若いつもりだけど、考えてみればもういい歳なのかも知れない。


 高校生の頃、五十歳を過ぎた男性を見ると、私はみんなジジイだと思っていた。棺桶に片足を突っ込んだ、いや片足どころか両足を突っ込んだジジイだと思っていた。私は今その五十歳を過ぎたジジイになったのだ。まだ棺桶に足は突っ込んではいないがジジイになったのだ。今の若い人は私のことを見て、棺桶に片足を突っ込んだジジイだと思っているに違いない。あぁ、やだやだ、私はとうとう歳を取ったジジイになったのだ。


 私の心の中は、山陰の冬の暗くてどんよりとした雲からゆっくりと降り出した雪が、アッという間に激しい雪になっていた。

「どうしたの? そんな顔して…… ?」

「いや、なんでもない。ちょっと考え事をしていたんだ」

「そうなの…… あっ、それから雑誌と本、これでよかったかしら…… あなたの好みが分からないから、適当に買ってきたわ」

「ありがとう、そこに一緒に置いといてくれないか。後で読むから」

そうなのだ、家内と結婚して二十数年という時間を一緒に生活をしてきたが、家内が私の好みを理解していないように、私も家内のことを本当に分かっていない。家内を幸せにしてやるには金銭面以外にも、彼女のことをもっと理解してやらないといけないのかも知れない。私は今まで家内とゆっくりと話もしていなかったことを悔いた。

「あら、雪が降ってきたわ」

いつの間にか、窓の外は雪になっていた。

「ほんとうだ」

私の心に降っていた雪は、既に先の見えない吹雪のようになっていた。

 窓の外から救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

「あら、救急車が入ってきたわ」

家内はサイレンの音を聞きながらそう言った。

「ああ、ここは救急病院だから、今朝からもう数えきれないくらい救急車が入ってきているよ。病院の先生たちも大変な仕事だよね」

窓の外を見ていた家内は救急車の音がしなくなると振り返って

「雪が強くなってきたみたいだわ、積もるといけないから、今日はこの辺で帰るわね。また何か必要なものがあったら電話をして頂戴ね」

「ああ、そうするといい。雪道は危ないから、気を付けて帰ってよ」

「明日は雪が積もったら来れないかも知れないわ」

「無理しなくていいよ」

「じゃあ、また来るわね」

そう言うと家内は病室を出て行った。窓の外はすでに暗くなっており、病室の明かりに映し出される雪だけが見えていた。


━※━


 午後六時を回ると夕食の時間である。

 一般病棟に移ったので、今晩から私にも病院食が運ばれてきた。焼き魚に里芋の煮物が二つ、切り干し大根の煮物の小鉢に、キャベツの味噌汁。そしてご飯。しかし、私は食欲も無く、夕食はオーバーテーブルの上に置かれたままにしていた。

 午後七時過ぎに出雲郷先生がやってきた

「調子がいいみたいですね。明日には点滴もやめましょう」

そう言いながら、箸を付けていないオーバーテーブルの夕食を見て

「今までは点滴で栄養が入っていたけれど、明日からは食事はしっかりと食べてくださいね。それから水分もしっかり摂ってください。いいですね」

そう言って部屋から出ていった。先生が出て行くとすぐに看護師さんが夕食を下げてしまった。

 食欲は無かったが、なんだか一口も食べなかったことが、損をしたように思えてならなかった。

 先生が出て行ってしまうと、何もすることが無くなってしまった。私は夕方家内が持ってきてくれた、タブレットを手にすると『ノウコウソク』と検索サイトに打ち込んでみた。

検索ボタンをタップすると、『脳梗塞』という三文字がすぐに画面に出てきた。どうやら脳梗塞は、急性心筋梗塞、がんと並んで、三大疾病で、日本人の死亡順位のワースト3であるらしい。

続きを読んでみると

“脳梗塞とは、脳の血管が詰まったり何らかの原因で脳の血のめぐりが正常の五分の一から十分の一くらいに低下し、脳組織が酸素欠乏や栄養不足に陥り、その状態がある程度の時間続いた結果、その部位の脳組織が壊死(梗塞)してしまったものを言います。”

 また、脳梗塞を発症した者の六割には半身麻痺等の後遺症が残ること、後の四割には後遺症が認められないが、四割の半分、つまり脳梗塞を発症した者の二割の者は死に至るため、後遺症が認められていないこと、また非常に再発率が高いこと等が書かれていた。

 最近では元アイドル歌手のSさんやミュージシャンのSさんも発症していることも書かれていた。

 私はそこまで読んでみて、どうやら私は結構大変な病気をやってしまったかもしれない、もしかしたらもしかして私はあの日あのまま、あの世というところへ行っていたかも知れない。結構やばかったのかも知れない、本当に棺桶に両足を突っ込んだのかも知れないと思たった。

 しかし、考えてみれば、こうしていられるのは、あの藪の『どぶがわ先生』のおかげかも知れない。『どぶがわ先生』の診たてが正しかったから、私は助かったのかも知れない。もしかしたら『どぶがわ先生』は藪ではなくて、本当はすごい名医なのかも知れない。今後私は誰がなんと言っても、きちんと『溝川先生』と呼ぶことにしようと心に誓った。

 今、私は棺桶に突っ込んでしまった足を抜いて、こうしてベッドに寝ている。こうしていられるのは幸運なのだろうか? いや待てよ、あのまま、あの世というところへ行っていれば、来るべき老後の心配もしなくてよかったはずだ…… 私は生命保険もかけている。あの世に行っていれば保険金も出るだろうから、家内の老後の生活費の足しになったのかもしれない? いやいや、待て、待て、そんなに簡単ではないかも知れない。すんなりあの世へ行っていればいいけれど、足を抜きそこなって、後遺症が残って半身麻痺の状態になってしまったら、今まで以上に家内の世話にならないといけない。そしたらもっと家内に苦労をかけることになってします。だから、こうして後遺症も残らずに寝ていることができるのは、やっぱり幸運だったのだ。『溝川先生』は名医だったのだ。私はそう思うことにした。

 しかし、どちらにしても、私は棺桶に片足を突っ込んだジジイになったことは確かだった。


━※━


 病院の夜はおそろしく早い。今晩も午後の九時を回ると

「消灯の時間です。巴邑さん、ゆっくり寝てくださいね。おやすみなさい」

と、看護師さんが病室の電気を消して行った。

 ベッドライトの明かりだけになった薄暗い病室で私は天井を見つめていた。

 いつもの生活ならば、午後の九時はまだお金にならないサービス残業という仕事の時間であって、寝るなんて考えられない時間である。でも不思議なもので、こうしていると、次第に眠くなってくる。きっと先ほど飲んだ入眠剤の効果もあるに違いない。


「おい 」


うとうとし始めたころ、誰かが私に声をかけてきた。私は薄目を開けて周りを見回してみたが誰もいない。あたりまえだ、私以外の人間がいるわけがない。

でも…… 確かに「おい 」って聞こえたような気がする。何だ? もしかしたらこの病室は幽霊でもでるのか? おそらくこの病院で何人もの人が亡くなっているに違いない。病院に幽霊が出るといった話はいくらでもある。この病室で亡くなった人もいるに違いない。いま私が寝ているベッドだって…… 私は少し気味が悪くなってきた。いやバカな、いくらなんでも幽霊なんているわけがない。きっと空耳というやつだ。そういえばHCUでも空耳が聞こえたな。きっと脳梗塞のせいだ。私はそう思うことにして、また目を閉じた。


「おい 」


わっ、また聞こえた。

 今度は空耳じゃないぞ。今度ははっきりと聞こえたぞ。私はしっかりと目を開けて薄暗い病室の中を見回してみた。

 当然誰もいない。私は背筋にゾクッとするものを感じていた。

 いや、本当は誰かいた方がもっと怖いに違いないのだが。

「おい、そんなにびっくりするな。俺だよ」

うわっ! やっぱり誰かいる。私のことが見えているんだ。

「さっきから、おい、おいって失礼な奴だな。誰だ? 」

そう思った時だったが、思っただけで口にはしなかった。

「失礼な奴で悪かったな。俺だよ、俺」

「何だぁこいつ、私の考えていることがわかるのか? 」

「あぁ、わかるよ。お前の考えていることは、だいたいわかるよ」

わっ! なんて気味の悪い奴だ

「だいたいさっきから、オレ、オレって、オレオレ詐欺でもあるまいに、いったい誰ですか? 」

「だから、俺だよ、俺はお前だよ」

「はあぁ? 俺はお前だよって言われてもさっぱりわかんないですよ。誰ですか? 」

「俺はお前、つまり俺の名前は巴邑克弥だよ。だから俺はお前なんだよ」

「何わけのわからないことを言っているのですか。だいたいあなたはどこにいるのですか? 姿を見せてくれませんか? 」

「あのね、俺はお前なの。だから俺の身体は、お前の身体と同じなの。俺の姿が見たけりゃ、洗面所に行って鏡で自分の姿を鏡に映して見るしかないね」

「はあぁ~? 全然わけがわかりませんよ。それじゃなんですか、私が二人になったってことですか? 」

「いや、お前は一人だよ。お前の身体は一つなんだけど、なんて説明したらいいのかな、俺にはうまく説明できないけれどさ、お前の意識っていうのかな、それとも人格っていうのかな、つまりだ、俺には難しいことはわかんないけど、お前の身体の中に、お前の意識と俺の意識が一緒にいるんだよ」

「よくわかんないけど、あなたと私は、人格は違うけど、身体は一緒なんですね」

「そうそう、一緒なんだよ」

「で、あなたはいつから私の身体の中にいるの? 」

「ずっとだよ。お前が生まれた時からずぅっと」

「生まれた時からずっと? 生まれた時から一緒にいるの? 」

「そうだよ、俺はお前と一緒に生まれたんだ。だって体は一緒だからな。だから、お前が幼稚園の時にジャングルジムで遊んでいてウンチをもらしたことや、中学一年の時に豆腐屋の千歳ちゃんを好きになったこと、高校の時に本屋でエロ本を万引きした…… 」

「わぁ~、もいいい、もういい、そんな昔のこと思い出したくもない。あなたが私と一緒に生まれて、私の昔のことを知っていることは、何となくわかりましたけど、だけど今までこうして話をしたことなっかったじゃないですか? 今までどうしていたの? 」

「そこだよ、そこが俺にもよくわかんないんだよな。どうして急にお前とこうして話ができるようになったのか? 俺はさ、お前の脳みそって言うのかな、意識って言うのか、どこなのかよくわからないんだけど、俺はお前とずっと一緒に生活をしていたんだよな。ほら、みんな意識、意識って言うけど、無意識ってのもあるじゃないか。無意識のうちにやっていることもあるよな。俺はその無意識の中にいたんじゃないかと思うんだ。それがさ、あの朝、そう脳梗塞を起こした一月三十日の朝、急にその無意識の中から意識の中に出ることが出来るようになったんだ。たぶんさ脳梗塞が原因だと思うんだよな、脳梗塞で脳の一部が壊れちゃっただろ、その時に今まで俺を無意識の中に閉じ込めていた何か? そう脳みその機能も一緒に壊れたんだと思うんだ」

「それって、脳梗塞の後遺症…… ? 」

「かも知んねぇな? 」

「先生は、脳梗塞の後遺症は、半身麻痺か言語障害って言ってたけれど、人格障害もあるのですか? 」

「そんなこと俺に聞かれてもわかんないな。だいたい俺の知識はお前の知識と一緒なんだ。身体は一つだから、脳みそも一つだからな。お前は小さなときから勉強が大嫌いで、頭も良くない。だから俺の頭も良くない。だから難しいことは、さっぱりわからない」

「失礼な人ですね。後遺症のくせに」

「おい、おい、“後遺症のくせに”はひどいな。まあいいか、本当に後遺症かも知れないもんな。げどこうして話ができるようになったんだ。これから仲良くしようや。どうせ俺はお前から離れられないし、お前も俺と別れようと思っても別れられないんだからな」

「まあ、何となくわかってきたような? わからないような感じですが、でもさっきからあなたと話していると、私とあなたの考えは少し違うみたいですね。脳は一つ、知識も一緒だけれど、考えることは少し違うみたいですね? 」

「そうみたいだな。おそらく少しじゃなくて、かなり違うと思うよ。俺はお前を小さな時から知っているけど、お前のやることにはいつも疑問を感じていたんだ。それに性格も違うと思うな」

「それって二重人格ってことなのかな? 」

「だ・か・ら、俺にはそんな難しいことはわからないよ。さっきも言ったろ、俺とお前の頭は一つ。お前が知らないことは、俺も知らない。お前が知っていることは、俺も知っている。でも考えていることや、性格は違う。俺もお前もそこまではわかっている。それ以外は何もわからない。だろ」

「だろって言われても、何となく納得できたような、納得いかないような。もしかしたら、これは夢ってことなんてないですよね? 明日の朝、目が覚めたら夢だったなんてね」

「明日の朝になったらわかるんじゃないの。さっきお前が飲んだ薬のせいで眠くなってきたよ。今晩はもう寝ようぜ」

後遺症がそう言った時、救急車のサイレンの音が聞こえてきた。

「やかましいな、今日はこれで何台目だ。朝から晩まで救急車がけたたましくサイレンを鳴らして入って来るな」

「そうですね。でもここは救急病院だから仕方がないですよ」

「しかし何もあんなにけたたましくサイレンを鳴らさなくてもいいように思うんだけどな。近所の人は迷惑なんじゃないのかな」

「どうでしょうね…… ? それより早く寝ましょうか。あなたも眠いんでしょ」

「そうだったな、眠くなってきていたんだよな。救急車のサイレンでまた目がさえてきていたよ。じゃ今晩はこの辺で寝るとするか」


何が何だかわけがわからないが、変なことになってきたことは確かだった。いやこれはやっぱり夢なのかも知れない。脳梗塞を発症して頭の中がおかしくなって、おかしな夢を見るようになったのかも知れない。先生に話してみた方がいいのだろうか? いや待てよ、先生は半身麻痺か言語障害の後遺症の可能性はあるって言っていたけど、変な夢を見るようになるとは言っていなかったよな。ネットにもそんなことは書いて無かったよな。だいたい小説や昔話じゃないんだから、もう一人の私なんているわけがない。私は私で、私は一人なのだ。きっと薬のせいでおかしな夢を見ていたんだ。

私はそんなことを考えながら病室の暗い天井を見つめていた。また遠くで救急車のサイレンの音が聞こえだした。サイレンの音はだんだんと近づいてきて、やがて病室の下辺りに来ると止まった。

救急車のサイレンの音が聞こえなくなると、かすかに窓の外の風の音が聞こえている。私はその音を聞きながら目を閉じていると、またゆっくりと眠りの中に落ちていった。



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