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小説家になろう  作者: 巴邑克弥
1/6

いつもと違う朝

━※━


ブゥ~ンという低い連続した音をベースにして、ギュン、ギュン、ギュン、ギュンと規則正しい音が私の頭の周りを回っている。


なんてやかましい検査なんだ。このMRI検査というのは。検査台の上に頭と身体を固定されて仰向けに寝ている私は、そう思いながら検査が終わるのを待っていた。


ブゥ~ン、ギュン、ギュン、ギュン


それにしてもやかましい。

「まあ、いいや」

この検査が終わったらきっと家に帰れる。もうちょっとの辛抱だ。

しかし、今は何時だろうか? この米郷総合病院にやって来たのが昼前だった。それから血液検査やCT検査をして、このMRI検査に呼ばれたのが……

確か三時半を回っていたような……

 神経内科の待合から、このMRIの検査室までは、病院内の複雑に折れ曲がった廊下を歩かなければならなかった。


「しっかし…… この病院の中はまるで迷路だな。きっと増築、増築で建物をつなぎ合わせてきたから、こんなに複雑な迷路のような廊下になったんだろうな」

まだフラフラする身体で歩くことがやっとではあったが、私は廊下の手すりを頼りにして歩きながらそんなことを考えていた。


 MRI検査の受付に検査票を出すとすぐに準備室に呼ばれた。準備室は必要以上に明るくきれいであったが、不要なものは何もなく殺風景なところであった。

 その準備室で私は検査着に着替えて、耳栓を付けヘアーキャップをかぶると検査室の中に入った。

 検査室は薄暗く無駄に広い部屋であったが、薄い検査着だけでも寒くは無かった。その薄暗い部屋の真ん中に巨大なドーナッツが立っていた。そうまるで巨大な白いドーナツを立てたような輪っかの機械があり、その手前に検査台があった。私は検査技師に言われるとおりに検査台の上に仰向けに横になると、身体と頭を固定されて検査が始まった。


ブゥ~ン、ギュン、ギュン、ギュン


それにしてもうるさい検査だ。

「まあいい、もうちょっとの辛抱だ」

 やがて機械が静かになった。

 検査台がドーナツの中から出ているのが分かる。やがて隣の部屋から検査技師がやって来て、私の頭のカバーとヘッドホンを外してくれた。


「お疲れ様でした。検査は終わりましたよ。立ち上がって先ほどの準備室で着替えて…… 」


私はてっきりそう言われると期待していた。しかしその期待は簡単に裏切られて、身体を固定しているベルトは外されることは無かった。

「あらら、どったの? 」

などと考えている暇もなく、私は身体を固定されたまま、検査台と一緒にガラガラと隣の準備室に運ばれた。

 準備室は検査室と違って、蛍光灯が明るく眩しい。その眩しさの中、私が薄っすらと目を開けて見ると、そこには先ほどから私を診察してくれている神経内科の出雲郷先生と看護師さんが私の顔を覗き込んでいた。

 出雲郷先生は

「巴邑さん、ノウコウソクを起こしています。今日はこのまま入院してもらいます」

「ノウコウソク……? 何ですか? それは? 」

などと問う間も無く、看護師さんが

「巴邑さん、こちらのベッドに移れますか? 」

「あっ、はい」

私は身体を固定していたベルトを外してもらうと、検査台の横に準備してあったベッドに移った。

 看護師さんは手に大きなビニール袋を下げており、そのビニール袋の中にはこの病院に着てきた私のスーツやワイシャツがクシャクシャに入れてあった。

「おい、そのスーツは私の一張羅ですぞ、そんな入れ方をしたらシワになるじゃありませんか! 」

と思ったが、もちろん口にはしなかった。

「それでは巴邑さん、移動しますよ。気分が悪くなるといけないので、目を閉じていてくださいね」

そう言うと看護師さんはベッドを動かし始めた。

目を閉じていてくださいって言われると、目を開けていたくなるものだ。それに私は朝から最高に気分が悪い、これ以上気分が悪くなることも無かろうと目を開けていた。

 私が寝ているベッドは、先ほど検査室にフラフラと歩いてきた廊下をゴロゴロと戻り辿り着いたところは、神経内科の緊急処置室だった。

「巴邑さん、病院着に着替えていただけますか」

私はベッドに横になったまま、看護師さんに手伝ってもらいながら、MRIの検査着から、入院のための病院着に着替えると

「点滴を始めますからね」

そう言って看護師さんは、手慣れた手つきで私の右腕の血管を探し始めた。

その横で出雲郷先生が

「HCUの準備ができたら、HCUに移ってもらいますからね。ところで巴邑さん、どなたか連絡のつくご家族の方がいらっしゃいますか? 」

「家には家内がいると思います」

「状況を説明したいので、奥さんに電話をかけてもらっていいですか」

私は先生に言われた通りに、家内の携帯電話に電話をかけて先生に渡した。先生は家内にすぐに病院に来て欲しいと話しているようだった。

 先生が電話を切るのを待って

「先生、入院ってどれくらいしないといけないですか? 一週間くらいですか? 」

「そうですね、早くて三週間、リハビリが必要になったら、もっとかかりますよね」

「三週間ですか…… 」

おいおい、これは大変なことになったぞ。ノウコウソクが何かは知らないけれど、そのノウコウソクのおかげで、三週間も休まないといけなくなってしまたった。私はどうしていいのか分からなかった。とにかく会社に連絡だけはしておかないといけないと判断し、ノウコウソクと診断されて三週間程度入院することになったことを、電話に出た事務員に伝えて電話を切った。


 それにしても、なんて日なんだ。今朝はいつもと同じ一日がスタートしたと思ったのに、三週間も入院だなんて……


━※━


 今朝は、いつもの時間に、いつもと同じように目が覚めた。これから今日一日、いつもと同じ時間が流れるはずであった。


 平成二十七年一月三十日、金曜日、おそらく私はこの日の朝のことを生涯忘れることは無いであろう。


 私はいつもと同じように、午前六時前に目を覚ました。昨晩の酒がまだ残っているような不快な目覚めはいつもと同じであった。

ベッドから出てリビングに行く。冬の午前六時はまだ暗い。リビングの中も暗くて寒い。カーテンの隙間から外を見ると、我が家の前に広がる畑の向こうに、ポツン、ポツンといくつかの街灯が寒そうに灯っている。いつもと同じ静かで、寒い朝であった。

「寒ぶ…… 」

私はいつものように、ファンヒーターのスイッチを入れてから、リビングの明かりをつけた。


チ、チ、チ、チ、 ボッ


と音を立てて、ファンヒーターが暖かな空気を吐き出し始めたのもいつもと同じであった。

 私はいつものようにまだ寒い台所で、珈琲を淹れる準備を始めることにした。


 私は別に珈琲にこだわりを持っているわけではない。

でも朝の一杯のコーヒーだけは私が淹れることにしている。とは言ってもコーヒーメーカーで淹れるのであるが。

 珈琲は豆で買ってくる。もちろん焙煎の終わった豆である。別にこだわりは無いので、豆はなんでもいい。私は安売り専門のスーパーで一番安い、百グラム、百円以下の豆をいつも買っている。時には奮発して、百グラム、千円近い豆を買ってみることもあるが、百円以下の豆と、千円近い豆の味の違いが、はっきり言って私にはわからない。

 買ってきた豆は広口の瓶に入れて保存している。私が使っている広口の瓶は蓋がねじ式になっており、蓋を閉めると密閉出来るようになっている。そして毎朝、その広口の瓶の中から私と家内の二杯分の豆を測って、ゴリゴリと手引きのコーヒーミルで引いている。

 何度も言うようだが、私は別に珈琲にこだわりはもっていない。

よく人は、珈琲の色を琥珀色と例えるが、私にはあの黒い液体がとても飲み物の色とは思えない。そして、今までに珈琲を美味しいと思って飲んだことは無い。

でも毎朝私の淹れる一杯の珈琲で一日が始めるのが、我が家の、いや私の習慣になっている。

そしてその珈琲の珈琲豆は手引きのコーヒーミルで挽きたい。


いつからだろうか、珈琲を飲むようになったのは。


小学生の頃は珈琲を美味しい飲み物だとは思っていなかった。珈琲よりもカルピスの方が美味しいと思っていた。私は今でもカルピスの方が美味しいと思っている。

 中学生になりそして高校生になると、大人の真似をして喫茶店に出入りするようになった。

 『喫茶店』、今ではあまり見かけなくなったし、『喫茶店』という言葉も聞かなくなったが、私が中学、高校の時は、『カフェ』などという店は無く、すべて喫茶店であった。そしてその喫茶店の椅子に座って、私はいつの頃からか珈琲を飲むようになった。私は珈琲を味わって楽しんでいるわけではなく、大人の真似をして喫茶店の椅子に座って、珈琲を飲みながら友人との会話を楽しんでいる自分の姿に酔いしれていたのだと思う。

 珈琲豆を挽くのもそうである。別に珈琲にこだわっているわけではない。ただ珈琲豆を手引きのコーヒーミルでゴリゴリと挽いている自分姿が、がなんとなく、生活に余裕とこだわりを持って創造的な生活をしている文化人になったように見えるのではないかという錯覚に酔っているのだと思う。しかし実際の私は創造的なところは微塵もなく、また生活には経済的な余裕も無く、毎日あくせくと働いているのである。

 

今朝もいつものように、ゴリゴリと珈琲豆を挽いて、コーヒーメーカーにセットしてスイッチを入れた。それからいつものようにテレビのスイッチを入れて、いつも観ているニュース番組を観始めた。

 テレビを観始める頃になると、いつものように家内が寝室から出てきて、いつものように洗面所に行った。私はいつものように家内が洗面所から戻ってくるのを待っていた。

 家内がいつもの時間に、いつものように洗面所から戻って来るころ、珈琲の香りがいつものようにリビングの中に広がっていた。

 私は家内が洗面から戻ってきたので、交代に洗面に行こうと立ち上がった。


 ここまではいつもと同じ朝であった。

しかし私が洗面所に行こうと立ち上がった時から、いつもと同じ朝は、いつもと違う朝になった。そしてそれは私にとって最悪の朝となった。私の今までの平凡で何も無かった五十八年間の時間は、この時に一瞬止り、そして次の瞬間また違う私の時間が流れ始めたのだった。

 

私は洗面に行こうと立ち上がった。

 すると誰かが……? 誰かが私の両肩を掴んで大きくグラグラと…… 私を大きくそして激しく前後左右にゆすり始めた…… いや揺すり始めたような感覚にとらわれた。私はまるで誰かに激しく揺すられているような、立っていることもできないくらいの激しい眩暈に襲われたのだった。

 洗面所までは、リビングを出て五歩も歩けば行けるのであるが、今朝はその洗面所に行くことは出来なかった。

洗面所どころかリビングから出ることも出来ずに、私はその場に倒れこんでしまった。暫くすると今度は吐き気が襲ってきた。私は何度も台所で嘔吐した。

 私は自分の身体に何が起こっているのかがわからなかった。これはただの頭痛ではない、風邪でもない、もちろん二日酔いでもない。これは私が今までに経験したことのない、未知の症状であることだけは確かだった。

私は自分の持っている少ない知識の中より、激しい眩暈と吐き気の症状から、これはメニエルでないかと思っていた。

「メニエルならば耳鼻科だな。耳鼻科に行かないといけない」

私はそんなことを考えながら、気分が少しでも良くなるのを待っていた。

 一時間くらいは経っただろうか、いつもなら仕事に出かける時間になったが、一向に気分は良くはならなかった。

 仕事に行こうか、休もうか…… 今日は週末、今日の私には必ずと言った仕事は無かった。というかあと二年と少しで定年を迎える私には、もう仕事らしい仕事は無かった。


━※━


 私の名前は巴邑克弥、今年で五十八歳になる。私は島根県の東のはずれ、鳥取県との県境にある八杉市で生まれて育った。

 八杉市は平成の合併で今でこそ人口が四万弱であるが、合併前の八杉市は、人口三万弱の小さな市であった。

 島根県の東部の奥出雲地方は、むかしは和鋼の生産が盛んな地方であり、八杉の町はその和鋼の積み出し港として栄えた町であった。今でも町には大きな製鉄会社の工場があり、知る人ぞ知る鉄の町なのである。

 しかし八杉の町が和鋼の積み出し港として栄えたのはむかしの話であり、今では人口も減り寂しい町となっている。また断っておくが、鉄の町と言っても、そこいら中に鉄が転がっているわけではない。

 私の父はその八杉の大きな製鉄会社の工場で職工として働いているごく普通の会社員であった。母もそのごく普通の会社員の妻で、ごく普通の専業主婦であった。私はそのごく普通の夫婦の三男として生まれた。

 私の上の二人の兄は学校の成績も良く、二人とも東京の大学を出て、立派な会社に入り、今でも東京で暮らしている。もう東京の生活になじんでしまったのか、八杉の実家に帰ってくることは無く、私が最後に兄たちと話をしたのは、母の葬式の時であった。

 そんなわけで八杉の実家を継ぐのは私ということになり、家内と二人で古くなった家で生活をしている

 二人の兄は優秀であったが、しかし私はというとごく普通の子であり、中学を出て高校に進学はしたものの、学業の成績もごく普通であればよかったのであるが、私の成績はごく普通の成績ではなく、普通をかなり下回った成績のそのまた下の成績で、大学進学なんて微塵も考えることも無く、高校を卒業すると同時に就職することになった。

私は両親の勧めで、父親が働いていた製鉄会社の下請けのそのまた下請けの『ヤマモトメタルテクノス』という小さな町工場に入社した。

 『ヤマモトメタルテクノス』は、名前だけ聞くとなんだか立派な会社に聞こえるが、機械加工を生業とする、本当に小さな町工場であった。

 私は入社してから四十年の月日をこの小さな工場で過ごしている。私が入社したころの『ヤマモトメタルテクノス』は戦後間もなく先代の社長が建てた、おんぼろの小さな町工場であった。そしてその姿は今も私が入社した当時とほとんど変わっていない。

 『ヤマモトメタルテクノス』の工場は、八杉の町の西のはずれを流れる八杉大川にかかった八杉大橋を渡ったところに立っている。まるで割りばしのように細い鉄骨にスレートを張っただけの工場は、夏は暑く、冬は寒い、従業員が社長を含めて二十三人ほどの会社である。

 工場の建物はかなり古びてはいるが、月に一度は工場一斉清掃の日があり、およそ一時間ほど従業員全員で工場の美化活動に取り組んでいる。とは言っても、清掃場所は工場の前を走る道路から見える玄関周りが中心で、道路から見ると工場は綺麗に清掃され、雑草も生えてはいないが、道路から見えない工場裏の従業員の駐車場はというと、車が止まっていないところは雑草の天国であり、『ヤマモトメタルテクノス』の工場美化活動はまともな美化活動とは言えない。

そのような似非美化活動なので、工場の中に入ると、加工機械が置かれている土間の床面は切削油が染み込み黒く光っている。そして加工機械の後ろには、使わなくなった工具や治具、汚れたウエスが埃をかぶって散らかっているのであるが、誰も片付けようとはしない。

 工場の横には建屋を別にして事務所と休憩室の二階建ての建物がある。一階は事務所と社長室になっている。しかし事務所と言っても、狭い部屋に机が四つ田の字におかれているだけで、中には五十前の女性の事務員がひとり電話の番をしている。その事務所の横には、事務所と同じ大きさの社長室と呼ばれる部屋があり、立派な机と革張りの応接セットが置かれているが、社長が部屋にいることはほとんどない。

 事務所の横の階段を上がった二階が休憩室になっているが、長テーブルが六つに、折りたたみの椅子が置かれているだけで、水道等の給湯の設備もないのでお茶を淹れることも出来ずテレビも無い。そんな休憩室ではあるが、それでも従業員はお昼休憩になると、この休憩室に集まって弁当を食べながら、世間話に花を咲かせている。

 しかし私はというと、そんな従業員の仲間には入らず、お昼休憩になると、静かになった工場の隅で弁当を食べ、そして機械の間に段ボールを敷いて昼寝をする。段ボールのベッドの寝心地はすこぶる悪く、冬などは床の冷たさが身に染みるが、それでもこの昼寝をしている時間が、私にとっては至極の時間なのである。

 そんな工場に十八歳で入社したわけであるが、物覚えも悪く図面も読めず測定器も上手く使えない私に与えられた仕事は、工程管理の仕事であった。工程管理というと聞こえはいいかも知れないが、何のことは無い雑用係であった。対外的には親会社の発注した部品の加工を指定された納期までに納入できるように工程と日程の管理をすることになってはいるが、工場に入ったばかりの若造の言うことを聞いてくれる職人はいなかった。そのため私はその年配の職人の機嫌を取りながら、何とか納期に間に合うように段取りをして、職人に頭を下げ、作業をお願いしていた。

しかし、それでも納期に間に合わないことが多く、私の仕事の大半は製品を持って、工場の中や、親会社との間を走り回ることだった。

事務所には一応私の机もあったが、昼間その机に向かえる時間はなく、デスクワークが出来るのは、職人たちが帰った夜になってからであった。


 工場には一応マシニングセンターとかNC旋盤とか呼ばれる工作機械もあるが、なんでも一台がとっても高い機械らしく、私は手を触れたことも無い。そのような機械は工業高校の機械科を卒業して入ってきた、若い従業員が使っている。

 工程管理の仕事を十年以上もやっていると、工場には後輩になる、若い従業員が増えてきたが、知識や技術を持った若い従業員は、知識も技術も無い私をすぐに馬鹿にするようになった。

 私は何年経っても、毎日従業員の機嫌を取り、製品を持って走り回り続けることに変わりは無かった。

しかしそんな若い従業員達は長くは続かず、ひととおりの技術を身に付けると、もっと条件のいい会社に転職していってしまった。そんなわけで私はこの工場で最も勤続年数が長い従業員になってしまった。

おそらく『ヤマモトメタルテクノス』の山本社長は、役立たずで、雑用しか出来ない私を早く解雇したかったと思うのであるが、社長と私の父は中学生の時に仲のいい同級生であり、その縁で私の採用を決めた経緯があったので、私を辞めさせることは無かった。しかし社長ももう年だ。もうすぐ社長の息子が新しい社長になると聞いている。息子の代になったらわかったもんじゃない。でも私もあと二年で定年を迎えるのだ。もう従業員の機嫌を取ったり、製品を持って走り回るのにも飽きてきた。別に辞めろと言われたらいつでも辞めるつもりでいる。


 なんだか話が横道にそれてしまったが、そんな仕事であったので、私は三週間の入院が何だか楽しくもあり、また休みを取ることになんのためらいも無く、即決で休みを決めた。


━※━


 今日は仕事を休むことにして、病院の開く時間になったら、耳鼻科に行こうと考えていたのだが、この気分の悪さとひどい眩暈では車の運転ができそうにない。私は自宅から一番近い耳鼻科はどこかと考えていた。

 私の自宅から車で五分もかからないところに『溝川耳鼻咽喉科クリニック』があった。しかし我が家の近所の人はみんな『溝川耳鼻科咽喉科クリニック』は藪医者だと言っている。だから本当の医院の名前は『みぞかわ耳鼻咽喉科クリニック』なのであるが、近所の人は『どぶがわ耳鼻科』と呼んでいた。

だいたい藪と呼ばれる医者は、内科、小児科の医者が多いような気がしているのであるが、耳鼻科で藪と呼ばれているのであるから、相当な藪なのであろう。

 そのようなわけで普通であれば『溝川耳鼻咽喉科クリニック』は、私の選択の中には無かったと思うのであるが、今朝はそのようなことを考える余裕はなく、とにかく一分でも早く、この眩暈を何とかしてほしいという気持ちで、病院が開く時間になるのを待って『どぶがわ耳鼻科』に駆け込んだ。

 思った通り眩暈のせいで車はまっすぐに走らせることがむずかしかったが、何とか『どぶがわ耳鼻科』の駐車場にたどり着くことが出来た。

 だいたい病院というものは、朝はどこも賑わっているものだと思うのであるが、『どぶがわ耳鼻科』の中に入ると、さすが藪で有名な病院らしく、待合室には誰もいなかった。それどころか、私の姿を見た受付の女の子は

「えっ、患者さんが来た! 」

といった驚きの表情で私を見ていた。

 受付を済ますと、一番に診察室に呼ばれた。私以外に誰もいないのであるから、当然と言えば当然である。診察室に入り藪で有名な先生の前に座ると

「巴邑さん、今日はどうされました? 」

と、藪の『どぶがわ先生』が訊ねてきた。

『どぶがわ先生』は、よく太った男性で、年はまだ五十前だと聞いているが、短く刈った頭髪はすでに白く、パンパンに腫れたように大きな顔に窮屈そうに黒縁の眼鏡が食い込んでいる。先生が着ている白衣はところどころに黄色い染みがあり、とても綺麗とは思えなかった。

「朝、いつもと同じように起きたのですが、急に眩暈がして、それから吐き気もあって」

私は朝からの状態を説明した。

「ほう、眩暈に吐き気、メニエルかな? 今までにメニエルの発作が起きたことは? 」

「いえ、ありません」

そんなやり取りをしながら『どぶがわ先生』は私の耳の中や、目の動きを診ていたが

「巴邑さん、これは耳鼻科で対応できるものではないと思いますよ。私は専門外ではっきりと診断することは出来ないが、これは○○□□△△ではないかと思います。それもかなり危ない状態ではないかと思いますよ。紹介状を書くので、すぐに米郷市の米郷総合病院に行きなさい」

 私はこの藪の先生が言っている○○□□△△をはっきりと聞き取ることが出来なかったし、また聞き取れていたとしてもそれが何なのかを理解することは出来なかったと思う。

 私は藪の『どぶがわ先生』に言われた通りに、紹介状を受け取ると、米郷総合病院に向かった。


 鳥取県米郷市は、私の住む島根県八杉市に隣接する商業都市であり、八杉市とは違って昔からデパートなどもあり、近年では大型のショッピングセンターも出来て、八杉市民は何かというと米郷市に出かけるようになっていた。

 私が子ども頃はまだ自動車というものが各家庭に普及しておらず、米郷市への交通手段は、バスや汽車等の公共交通機関に頼るしかなく、米郷市に出かけるという時には、私たち子どもはよそ行きの上等な服を着せてもらって出かけるところであった。

以前の八杉市民は普段の生活に必要なものは八杉市内で買い物をしていたものであるが、自動車が普及するとちょっとした買い物でも米郷市に出かけていくようになった。それが私の住む八杉市の衰退に拍車をかけたのだと私は思っている。別にどうでもいいことなのだが。

 買い物にしてそうなのであるから、医療に関しても同じく、八杉市民は風邪をひいても米郷市の病院に行くことが多い。普通なら私も『どぶがわ耳鼻科』ではなく、米郷市の耳鼻科を選択していたと思うのであるが、今朝の私にはそのような余裕は無かった。

 しかし結果として、私は米郷市の病院に行くことになったのであるが……

 

また自分でフラフラと車を運転して、米郷総合病院の受付を済ませたのはもう午前十一時を回っていた。すでに新患の受付時間は過ぎていたのであるが、紹介状を持っていたこと、それからあの藪の『どぶがわ先生』が電話を入れて頼んでくれていたので、スムーズに受付を済ませると、すぐに神経内科の外来受付に案内された。

きっと藪の『どぶがわ先生』は私のことが心配だったのでは無く、私以外に診なければいけない患者は無く、何もすることが無かったので電話をしてくれたのに違いない。


 神経内科の外来受付で受付を済ませると、やれ血液検査に行ってこいだの、CTを撮ってこいだのと、迷路のような病院内を歩きまわされた。そのため私はフラフラではあったが、初めて受診した米郷総合病院の施設のだいたいの位置関係を把握することが出来ていた。

 いろんな検査を終えて神経内科の待合の戻って来ると、しばらくして診察室に呼ばれた。

 診察室は明るく六畳くらいの広さで、入口のドアを開けた左側に医者のデスクとパソコンが置かれており、その前に丸刈りで丸顔の、小学生がそのまま大人になったような、童顔で小太りの男性が白衣を着てチョコンと座っていた。

 私がその白衣の男性の横の椅子に座ると

「初めまして、神経内科の出雲郷と申します。よろしくお願いします。それで今日は? 」

「朝から眩暈と吐き気がひどくて、八杉の『溝川耳鼻科』で診てもらったのですが、紹介状を書くので、こちらの病院を受診するように言われまして…… 」

私は今朝からのことを関単に説明した。もちろん『どぶがわ耳鼻科』とは言わずに『みぞかわ耳鼻科』と言った。

「そうですね。いま血液検査とCTの結果をみているのでですが、なんともないですね。巴邑さんは、お酒を飲まれますか、多少肝臓の数値が悪いくらいですね」

「はあ…… ? 」

私は二日酔いで来たのではない。肝臓の数値より、眩暈を何とかしてくれと言いたかったがもちろん黙っていた。


どうもなんともないらしい。やっぱり『どぶがわ先生』は藪だったか。しかし、なんともないと言われても、朝からの眩暈はなんなんだ? 現に今でも頭がクラクラしているじゃないか。本当になんともないのか? もしかしたら、この出雲郷先生も藪の仲間か。藪は藪に紹介するのか? 私は先生の話を聞きながらそんなことを考えていた。

「巴邑さん、今までの検査では異常はないのですが、念のためにМRIを撮っておきましょう。予約で一杯だと思うので、少し時間がかかるかも知れませんが、いいですか? 」

「はい、お願いします」

今日は一日休みしているのだ。とにかく時間がかかってもいいので、このクラクラの眩暈を何とかしてほしい気持ちでいっぱいだった。


 午後三時半を回ったころ、МRIの検査に呼ばれた。


━※━


 HCUの準備ができると、また私はベッドに寝たまま移動することになった。病院内の廊下を看護師さんがベッドを押して進んでいく。私はもうどうにでもなれと言った気持ちであった。


「大変なことになったな!」

誰かが私にそう言った。いやそう聞こえたような気がした。

しかし今私は病院の廊下をベッドに乗せられて移動している。私の傍には看護師さんしかいない。空耳か? そうだ空耳に違いない。私は空耳のことより、これから自分がどうなるのかということの方が不安だった。

 HCUの病棟に入ると今度は別の看護師さんが入院の準備を始めた。HCUは各ベッドが薄いピンク色のカーテンで仕切られただけの病室であった。私の身体には、点滴の針以外に、赤色、黄色、緑色の心電図のケーブルが取り付けられた。

 大きなマスクで顔を半分隠しているが、ショートカットの目の綺麗な看護師さんだ。

この病院の看護師さんはみなスポーツウェアのようなスポーティなユニホームを着ている。看護師さんと言うとワンピースの白い看護婦服かと思っていたが、最近は違うようだ。

「では何かあったらこのボタンを押して下さい」

そう言うと看護師さんはカーテンの向こうに出て行った。

 どこかで救急車のサイレンの音が聞こえる。米郷総合病院は救急病院なので頻繁に救急車が入って来るのだろう。

 看護師さんと入れ替わりに今度は出雲郷先生が入って来て、МRIの写真を見せながら

「これが、巴邑さんの頭のМRIの写真です。ほらここが目玉で、この白くなっているところが、今回ノウコウソクを起こしているところです。巴邑さんは、左小脳のノウコウソクです。いま点滴で脳の腫れを防ぐ治療を開始していますが、脳の圧が高くなるようだったら、頭を開けるかもしれません。まあ今の状態だと三日もすれば、一般病棟に替われると思いますよ。ここにはテレビも何も無いけど、一般病棟に移ったらテレビも観れるようになりますよ、しばらくは辛抱してください」

そう言うと、出雲郷先生は写真をサイドテーブルに置いて出ていった。

 私は先生がさっきから言っている

「ノウコウソクって何だろう? 」

って考えていたが、医学の知識などほとんどない私にはわからなかった。


「おい、大変なことになったな! 」

また誰かの声が聞こえた。いや、聞こえたような気がした。

眩暈の次は幻聴か? これもノウコウソクというやつの仕業か? それともカーテンの向こうの患者の声か? 

私がそんなことを考えている時、カーテンの向こうに私の家内がやって来たみたいで、出雲郷先生がノウコウソクの説明をしているのが聞こえている。はっきりとは聞こえないが、場合によっては後遺症が残るような話をしているのが聞こえてきていた。

暫くすると

「あなた、大丈夫? 」

家内がカーテンの中に入ってきた。

「ああ、なんとか」

「いま先生から説明を聞いたわ。発見が早かったから大丈夫ですって」

何言ってんだ、さっき先生と後遺症の話をしていたじゃないかと私は思ったが

「入院は三週間くらいらしいけど、三日もしたら一般病棟に替われるってさ」

と先ほど先生から聞いた話を家内にした。

「そう、早く一般病棟に替われるといいわね。そうそう、ここに歯ブラシやコップを置いとくわね」

「ありがとう、一般病棟に替われたら、悪いけど、私のノートパソコンとタブレットを持ってきてくれないか」

「どうして? いつもはパソコンなんて触りもしないくせに、急にどうしたの? ゆっくり休めばいいじゃない」

「いや、どうせ退屈な毎日になりそうだ。せっかく買ったパソコンだ。入院している間に勉強でもしようかと思ってね」

私は何年か前にノートパソコンを購入していた。別に何かに使おうと思って購入したわけではなく、何となくノートパソコンを抱えて歩いている自分が、珈琲豆を挽くのと同じで、どこかしら創造的な文化人に見えるのではないかと思っただけである。しかし、パソコンの電源を入れることはほとんど無かった。

「わかったわ、持って来るわね。ここは携帯電話を使ってはいけないらしいけど、あなたの携帯は看護師さんが預かってくれるっていうから渡しておいたわ。一般病棟に移ったら連絡して頂戴、そしたらパソコンとタブレットを持って来るわ」

「ああ、そうしてくれないか」


 こうして私の入院生活が始まった。


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