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リンカーネーション

作者: 魚島時枝

「ごちそうさまでした」


 (りん)は、米粒一つ、野菜のかけら一つも残っていない朝食の膳の前に、箸を置いて両手を合わせた。


「はい、おそまつさまでした」


 居間と繋がったキッチンで洗い物をしている母、()()の横まで食べ終わった食器を持っていく。そして梨子が洗い終わった食器を拭く。


「いつもありがとねえ、稟ちゃん」

「別にいいって」


 皿を拭きながら時計を見上げる。9時40分。弟は今ごろ授業中だ。


 稟は学校に行っていない。行っても意味がないと、高校に通い始めてしばらくしたある日を境に思い知った。

 稟はほとんど外出しない。梨子も稟にお使いを頼んだり気分転換を勧めたりといった野暮はしないので、必然的に稟は日中を家の中で過ごす。


「洗濯物、畳んどくね」

「お願いね」


 今日の午前は洗濯物を畳んで戻す、布団を干す、梨子が夕飯に豆をむくのを一緒にやる――で終わった。





 昼ご飯を食べながら梨子とバラエティを観る。


「最近あんま面白くないね、この人」

「ネタ尽きたのかもねえ」

「昼からは何するの?」

「稟ちゃんが手伝ってくれたから少し休むわ」

「じゃ、私も」


 梨子が昼のお休みタイムに入ってから、稟はようやく自室に戻って適当に時間を潰す。

 つまり稟の一日は、母親の手伝いと暇つぶしでできている。

 ――それを苦には感じない。習慣と化している。母の負担が減るのは嬉しい。


 しかし、今日は篭れない。


 稟は自室に入ると真っ先に勉強机の上の菓子の缶を開けた。中には千円札が数枚と小銭。内一枚を財布に入れて部屋を出た。





 夕方。夕飯の準備にキッチンに来た梨子の背を、稟は指でつつく。


「なあに、稟ちゃん」


 稟は背中に隠していたものを梨子の前に出した。


「あらあら! どうしたのこれ?」


 セロハンでラッピングした真っ赤なカーネーションが一本だけだが、梨子を驚かすには充分だった。


「だって今日は母の日だよ」


 カレンダーは5月の第2日曜日をさしている。


「いつも頑張ってくれてありがとう。お母さん」


 カーネーションを受け取った梨子は、くしゃりと笑顔を作った。花一本でそんなに感極まるならもっと豪華な買い物を――いや、無理か。これが今の稟の精一杯だ。


「ありがとうね、稟ちゃん」


 もっと贈りたい物や尽くしたいことがあったが、今の梨子の泣き笑いを見ると、ここらが潮時か、と受け入れることができた。


「それとね、母さん」


 軽やかな足取りで、グラスにカーネーションを挿しにシンクに向かい、稟に中を向けた梨子に、告げる。


「明日から私のごはん、要らないから」


 梨子の体が石化した音が聴こえた気がした。


 今日まで二人とも分かっていて気付かないフリをしていた。そうしてくれた母に稟は心から感謝した。


(母の愛って、深い)


 もっと早く気づきたかった。少し目をやれば、耳を澄ませば、分かるはずだったことなのに。


「あのね、お母さん」


 ふり返らない梨子に告げる。


「ありがとう。大好きだったよ」


 稟は背を向ける。梨子の震える背中を見るのは忍びなかったし、自分の中の母親像を保ったまま行きたかった。親というものは、稟のような、子供じみた泣き方や悲しみ方はしない――と思っていたい。


 リビングのドアを開ける。

 廊下に踏み出す。






 梨子がふり返った直後、リビングと廊下の境界線を越えた稟は跡形もなく消失した。


「稟ちゃん……稟ちゃん!」


 梨子は急いで廊下に飛び出すが、どこにも娘の姿はない。

 それでも一階を走り、二階へ駆け上がり、全ての部屋を見て、――諦めるしかなかった。


 梨子はぼんやりとした心地のままある部屋の前まで来て、障子を開けた。

 畳の一室の奥には、稟の写真を飾った仏壇。

 梨子は仏壇の前に立ってその写真と向き合ってから、横の位牌を見下ろした。


 ――天堂稟。享年十五歳。





 稟は四月に学校に行く最中に交通事故で死んだ。


 通学路は山裾を自転車で走って通り抜けるが、そこで稟は落岩に遭って死んだ。加害者もなく、稟自身にも運転ミスはなかった。まさに不運な事故だった。遺された者が誰も恨まなくていい最期だったのだ、と梨子は思っている。


 葬式からしばらく経ったある日、稟は普通に朝の食卓にいた。


 それからは稟と家の中で過ごす日々が始まった。なぜいるの? と聞いたら稟が消えてしまう気がした。

 死んだ稟がなぜ梨子の目にだけ映ったのか、何を思って梨子と毎日を過ごしたのか、それは梨子にも分からない。

 ただ確かに、今日まで稟は梨子のそばにいた。

 そして、とうとう行ってしまった。


 ――ありがとう。大好きだったよ――


 梨子は和室を出てキッチンに戻った。


 シンクの横には先ほど置いていった赤いカーネーションが横たわっている。

 誰にも見つけてもらえないはずの稟が奇跡のように買ってきた、花の形をした、愛の結晶。


 梨子はカーネーションを指でそっと持ち上げる。


「お母さんもね、稟ちゃんが大好きだったよ」

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