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羊の三題噺。

【三題噺】一番目の女。

作者: シュレディンガーの羊



自分は雑誌の定期購読の紹介にきたはずだ。

それなのにどうして人様の庭でシャベルを持って立っているのだろう。

青年は自分の立たされている現状を確認してため息をついた。


「そのあたりにお願いします」


後ろからか細い声が木の根元を示す。

木を見上げてみるが花が咲いていなければ青年にはなんの木かさえわからない。


「そのあたりにって」


青年はうんざりと声の主を振り返る。

そこに立つのは黒いエプロン型のワンピースを着た一人の若い女だ。

表札には三人の名前が連なっていたからおそらく娘でないとすれば妻だろう。


「えぇ、お願いします」


艶やかな唇が妙に冷めた笑みを浮かべるのを見て、青年は再度、彼女に見えないようにため息をついた。



百軒だ、百軒。

定期購読の雑誌紹介がこんなにも骨を折る仕事だとは思わなかった。

炎天下の中、スーツ姿で次々とチャイムを押しては表情筋を駆使して涼しげな営業スマイルを浮かべ、既に言い飽きた雑誌推奨の常套句を唇にのせる。

加えてノルマがあるのだ。

本当にやっていられない。

日給の良さだけに釣られた先日の自分を内心で口汚く罵る。


「奥様、いかがでしょうか」


それでも見本の雑誌を見開き、既に引き攣りかけてきた笑顔を向ける。

その家に辿り着いたのは百と十ほどチャイムを鳴らした後でもうその頃には青年はうんざりしきっていた。

この家についた時には焦った。

女がちょうど出かけようとしていたところを慌てて捕まえたのだ。

訪問は辛いがそれが減ればノルマの達成はそれだけ厳しくなるのだからもう必死だった。


「ごめんなさい。私、あまりこういうものに興味がなくて」

「そうですか」


ぱたりと閉じたページにため息がつられそうになって、慌てて青年は口角を上げた。


「それではお忙しいところありがとうございました。失礼いたします」


けれど背を向けようとすれば、ふと言われたのだ。


「私が契約すればお兄さん、助かりますか?」

「え?」


驚いて振り返れば、黒いエプロン型のワンピース姿の女はにこりと笑った。


「少し私のお手伝いをしていただけたら契約します」



庭に穴を掘って欲しいんです。

女はそう言った。



人様の庭にスーツ姿で穴を掘る。

なんて滑稽だろうか。

額から伝う汗を無意識に袖口で拭ってから後悔する。

大学の入学式以来、袖を通していなかった甲斐もあって新品同然だったスーツは今日一日でずいぶんとくたびれてしまった気がした。


シャベルを手渡されたとき、戸惑う自分に女は背広を、と手を出した。

言われるままに背広を手渡せば、もう穴を掘らないという選択肢は見当たらなかった。


「どれくらいの深さですか」


ざくり、とシャベルが庭の土を暴いていく。


「できるだけ深くお願いします」

「なにを埋めるんですか」

「生ものです。この暑さで腐ってしまいまして、近所に臭うと困るでしょう?」


なにが可笑しいのかくすくすと女は少女じみた声で笑う。

なんだか釈然としないまま青年は穴を掘り進めていく。


「それぐらいで結構です」


そう女に声をかけられたのは八十㌢立方ほどの穴を掘った頃だった。

自分でもここまで掘り進めていたと気づいていなく、青年は一人で驚く。


「どうぞ、冷茶ぐらいしか出せませんが」


青年を縁側に招き、女は奥に入っていく。

青年はその厚意に甘えて遠慮がちに縁側に腰掛けた。

ポケットから取り出したハンカチで汗を拭っていると女が戻ってきてお盆から青年の脇にお茶を置いた。

湯飲みを縁側に置く指は白く華奢でなんの装飾もなされていない。


「契約書をお書きするのはポールペンで?」

「あ、はい」


慌てて鞄から契約書を取り出す。


「ここから住所と電話番号と……」


記入欄を示すと女はさらさらと個人情報を埋めていく。

ふと、その手が名前の欄で止まった。

どうしたのかと様子を伺えば女は青年に話しかけながら、ゆっくりと名前を書き始めた。


「お兄さん、知ってます? 東雲って明け方のことを言うんですよ。私とあの人が結ばれたことって運命なんです」


書かれた名前は「東雲 朝子」。

うふふ、と笑うその顔に幸せが見てとれて青年はなんだか微笑ましくなった。

きっとこの女はこの苗字を気に入っていて、家族をとても愛しているのだろう。


「お子さんのお名前も東雲に纏わるものにしたんですか?」


室内を何気なく見やれば写真たてが伏せられていた。


「いいえ。私とあの人の間には子供なんていません」

「え?」

「あの人の隣は私だけで十分です」


うっとりとした声で女が言う。

表札に三人の名前が連なっていたのは別の家だったのだろうか。

暑さでどうやら記憶がはっきりとしない。

熱にやられたらしい頭をすこしでも正常に近づけるために冷茶を啜っていれば、どこかをじっと見つめている女の視線に気づいた。

それを追えば庭の隅にある茂み。


「あそこに何かいるんですか」


無意識に口をついて出たのはそんな問いで、女はまるで澄み渡った湖のような顔を青年に向けた。

じっとりとした汗をすっと冷ますような瞳だった。

女は質問には答えずに薄く微笑んだ。


「実は猫、なんです」

「猫?」

「えぇ、実は埋めるのは猫なんです。ちょっと困っていた泥棒猫。轢かれていたのを見つけたので埋めてあげるんです」


戸惑う青年に女は視線を緩める。

彼女は茂みに目を戻して続けた。


「困った泥棒猫でしたけど死んでしまったなら埋めてあげなくちゃ可哀想でしょう?」


片目が潰れている白くて細い猫だったんですよ、と女は懐かしむように茂みを見つめていた。

茂みから赤く染まった白が見えた気がした。



青年は記入事項で埋められた契約書を鞄にしまい、女に頭を下げ、その家を後にした。

なんだか不思議な女だったと思いながら道を折れれば目に入ったのは一匹の猫で。

片目の潰れた歪んだ顔に骨と皮しかないような貧弱な白い、猫。

あぁ、と青年の口から形容しようのない吐息が零れた。

たちまちそれは幻のように逃げていく。

結局、その後青年は雑誌の定期購読のノルマをこなすことができず日給を減らされた。




翌日、青年はテレビで例の家を見た。

それは母親が失踪した、というニュースだった。

映された表札に並ぶ名前はやはり三つ。

画面の向こうでアナウンサーが原稿を淡々と原稿を読み上げる。

『なお母親の東雲まりこさん38歳はその日、赤いワンピースに白のエプロン姿だったということが娘である東雲ゆきこさん14歳の証言から明らかになっています』



後日、東雲ゆきこの遺体が見つかることを青年はまだ知らない。









三題噺として書きました。

茂み、エプロン、雑誌。


よく内容がわからなかった方にはすみません。とりあえず言えることは好きな人のことはなんでも知ってる気になるのが危ない女の特徴です。主成分は妄想ですね。

「ようやくこれで私が一番」




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