戦場の父さんへ。ミアは元気です
一 手紙
前線の塹壕に、郵便が届くのは月に一度だった。
補給の荷馬車が泥の道をのろのろと上ってくると、兵士たちは誰からともなく塹壕の縁に集まった。弾薬よりも、乾いたパンよりも、皆が待っているのは手紙だった。
「ヨハン・ベルク伍長!」
郵便係が名前を呼ぶ。ヨハンは泥だらけの手を軍服で拭いてから、封筒を受け取った。
少し厚い。それだけで、胸の奥が温かくなる。
塹壕の隅、雨よけの板の下に腰を下ろし、ナイフで丁寧に封を切った。
中には便箋が二枚と、折りたたまれた画用紙が一枚入っていた。
『ヨハンへ
お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています。
村の麦は今年もよく実りました。ミアは毎日、畑の端の柵に登って、あなたが帰ってくる道を眺めています。危ないから降りなさいと言っても、父さんが帰ってきたら一番に見つけるのだと聞きません。
どうか、体に気をつけて。無理をしないで。
あなたの帰りを、ずっと待っています。
アンナ』
画用紙を広げる。
クレヨンで描かれた、三人の人の絵だった。真ん中の小さな女の子が、両脇の大人と手をつないでいる。一番背の高い人の頭の上に、たどたどしい文字があった。
――おとうさん。
その下に、もっとたどたどしい文字で。
――はやく かえってきてね。
「また娘さんの絵か」
隣に腰を下ろした戦友のトマスが、覗き込んで笑った。
「上手くなったじゃないか。前のはジャガイモに手足が生えたみたいだったのに」
「うるさい。あれはあれで味があったんだ」
ヨハンは画用紙を丁寧に折りたたみ、胸のポケットにしまった。そこには、出征してから届いた手紙が全部入っている。十一通。ポケットはもう、はち切れそうだった。
ヨハン・ベルク、二十九歳。ヴァルデン王国の北部、ヘルムという小さな村の出身だった。
本業は鍛冶屋だ。だが、少しばかり魔力があったせいで、戦争が始まると魔導砲兵として徴用された。
炎槍砲。王国軍の主力兵器で、砲身に魔力を込めて、巨大な炎の槍を撃ち出す。一発で家が三軒燃える。砲手の魔力の質によって、炎の色が変わった。ヨハンの炎は、ひときわ赤かった。
「なあ、ヨハン。お前、この戦争が終わったら何がしたい」
トマスが、遠くの稜線を眺めながら言った。東の空の向こうに、敵国ガルド帝国の軍が陣を張っている。
「娘を肩車して、村の祭りに行く」
ヨハンは即答した。
「出征の前の日、約束したんだ。次の夏祭りには、肩車して、一番前で花火を見せてやるって。あいつ、背が低いから、いつも大人の背中しか見えないって泣くんだよ。手紙にも毎回書いてるんだ、その約束だけは絶対守るってな」
「花火か。いいな」
「お前は?」
「俺は、そうだな……」
トマスは少し考えて、照れくさそうに笑った。
「ヘルムの麦で焼いたパンが食いたい。お前がいつも自慢してるやつ」
ヨハンは声を上げて笑った。
それが、出征して一年目の秋のことだった。
二 第七目標
冬が来る前に、戦線が動いた。
ガルド帝国の軍が北へ回り込み、王国の北部へ侵攻を始めたのだ。ヨハンの中隊は急遽、北の高地へ移動を命じられた。
移動は夜通し続いた。兵卒には地図も見せられず、行き先も知らされず、ただ前を行く荷馬車の灯りを追って歩いた。
三日目の明け方、中隊は丘の上の陣地に着いた。
眼下には、朝靄に沈んだ谷が広がっていた。谷底に、小さな村らしきものの影が見える。教会の鐘楼の先だけが、靄の上に突き出していた。
「総員、砲撃準備」
中隊長のハルトマン大尉が、作戦指令書を一枚掲げて告げた。
「目標は、谷底の集落。作戦上の呼称は『第七目標』。昨夜、ガルドの補給部隊が入ったとの情報がある。住民は、一週間前に避難済みだ」
兵士たちは頷いた。避難済み。その言葉さえあれば、引き金は軽くなる。
「敵に村ごと拠点にされる前に、焼き払う。補給物資も、家屋も、井戸も。何一つ残すな」
ヨハンは、自分の炎槍砲に手を置いた。
谷を見下ろす。
靄の向こうの景色に、何かが引っかかった。教会の鐘楼の形。谷を流れる川の曲がり方。丘の斜面に並ぶ、低い木々の列。
どこかで見たことがある気がした。
けれど、北部の村など、どこも似たようなものだ。石造りの教会があって、川があって、畑がある。ヘルムだって、そういう村の一つに過ぎない。
それに、ヘルムはここからずっと西にあるはずだった。夜通し三日も歩けば、方向感覚などとうに狂っている。
「撃て!」
号令がかかった。
ヨハンは、砲身に魔力を流し込んだ。
赤い炎の槍が、靄を裂いて谷へ落ちていった。
一発目が着弾した瞬間、谷全体が赤く染まった。続いて、十二門の炎槍砲が一斉に火を噴いた。炎の槍が雨のように降り注ぎ、家々の屋根が次々と崩れ落ちていく。
砲撃は、一時間続いた。
途中で一度だけ、ヨハンは手を止めた。
靄が晴れた谷底、小さな石橋の向こうにある一軒家の庭先で、何か赤いものがひらめいた気がしたのだ。駆け込む人影の首元に揺れた、小さな赤い布。
「ベルク伍長! 手を止めるな!」
大尉の怒声が飛んだ。
ヨハンは、もう一度砲身に魔力を込めた。
次の一撃で、石橋の向こうの家々は炎に呑まれ、教会の鐘楼も崩れ落ちた。
砲撃が終わったとき、谷には黒い煙が渦を巻いていた。風に乗って、焦げた匂いが丘の上まで届く。木の焼ける匂いと、麦の焼ける匂い。そして、それとは違う、何か甘く重たい匂い。
「家畜だろう」
誰かが言った。
「逃げ遅れた牛か何かだ。避難のとき、全部は連れていけなかったんだろうさ」
ヨハンは、黙って頷いた。
その夜、彼は眠れなかった。目を閉じると、庭先にひらめいた赤い布が浮かんだ。
出征の朝、村の外れで見送ってくれたアンナの首には、赤い襟巻きが巻かれていた。去年の冬、ヨハンが町の市場で買ってやったものだ。「こんな派手な色、恥ずかしいわ」と笑いながら、彼女は毎日それを巻いていた。
――馬鹿な。
ヨハンは、胸のポケットの手紙を握りしめた。
赤い布など、どこにでもある。
三 届き続ける手紙
翌月も、手紙は届いた。
『ヨハンへ
お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています。
寒くなってきました。ミアは、あなたが作ってくれた木の橇で、毎日丘を滑っています。父さんが帰ってきたら、一緒に滑るのだと言っています。
どうか、体に気をつけて。
アンナ』
画用紙には、橇に乗った女の子の絵が描かれていた。
ヨハンは、長く息を吐いた。
ほら見ろ。皆、無事だ。
あの谷の村は、ヘルムではなかった。当たり前だ。あの朝の妙な既視感は、疲れのせいだ。
その日の夜、ヨハンは返事を書いた。
『アンナへ
手紙をありがとう。皆が元気でいてくれることが、何よりの支えだ。夏祭りの肩車の約束も、ちゃんと覚えているとミアに伝えてくれ。
ところで、裏庭の桜の木はどうしている? 出征の前に、枝が一本折れていただろう。春までに、添え木をしてやってくれないか。ミアが生まれた年に植えた木だから、枯らしたくないんだ。
ヨハン』
翌月の返事には、桜の木のことは書かれていなかった。
『ヨハンへ
お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています。
ミアは、自分の名前を書けるようになりました。あなたに見せたいと、毎日練習しています。
どうか、体に気をつけて。
アンナ』
画用紙には、大きく「ミア」と書かれていた。
ヨハンは、少しだけ首をかしげた。
――桜の木のことを、忘れたのだろうか。
アンナは、几帳面な女だった。ヨハンが何か尋ねれば、必ず次の手紙で答えてくれた。麦の値段も、隣の家の牛のお産も、村長の腰痛の具合も。
それに、どの手紙も書き出しが同じだった。
『お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています』
前からそうだっただろうか。胸のポケットから、古い手紙を取り出して見比べようとした。
そのとき、砲撃開始の号令がかかった。
ヨハンは手紙をポケットに押し込み、炎槍砲に走った。
戦争は、その冬、さらに激しくなった。
北部の村が、次々と戦場になった。ヨハンの中隊は、命じられるまま、いくつもの「目標」を焼いた。第九目標、第十二目標、第十五目標。どこも、住民は避難済みだと告げられた。
トマスが死んだのは、春の初めだった。
敵の魔導師の放った雷が、彼の炎槍砲に落ちた。ヨハンが駆けつけたとき、トマスはもう、半分しか残っていなかった。
「ヨハン……」
かすれた声で、トマスは言った。
「ヘルムの……パン……食いたかった、な……」
ヨハンは、彼の手を握った。握り返す力は、もうなかった。
その夜も、手紙は届いた。
『ヨハンへ
お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています。
春になりました。ミアは、野の花で冠を作るのが上手になりました。
アンナ』
ヨハンは、その手紙を何度も読み返した。
皆、変わりなく過ごしている。
それだけが、彼をこの泥の中に繋ぎ止めていた。トマスが死んでも。何十もの村を焼いても。毎晩、あの赤い布の夢を見ても。
ヘルムには、アンナとミアがいる。
それだけを信じて、ヨハンは引き金を引き続けた。
四 凱旋
あの冬の砲撃から二年近くが経ち、ようやく戦争が終わった。
ヴァルデン王国の勝利だった。
ヨハンの中隊は王都で凱旋行進を行い、国王から直々に勲章を授けられた。北部戦線で最も多くの敵拠点を焼き払った砲兵として、ヨハン・ベルク軍曹の名は、新聞にも載った。
どうでもよかった。
勲章を首にかけられたまま、ヨハンは王都の駅へ走った。
北行きの汽車に飛び乗り、窓の外を流れていく景色を、食い入るように見つめた。
胸のポケットには、手紙が三十四通入っていた。
最後に届いた手紙は、終戦の報せの直後だった。
『ヨハンへ
お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています。
戦争が終わったと、村にも報せが届きました。ミアは、毎日畑の柵に登って、あなたの帰りを待っています。
夏祭りには、間に合いますか。
アンナ』
間に合う。
ヨハンは、窓に額を押し当てた。
ちょうど、祭りの十日前だ。肩車をして、一番前で花火を見せてやる。三年越しの約束を、ようやく守れる。
汽車は、北の町の駅で止まった。そこから先は、線路が戦火で壊れていて、歩くしかなかった。除隊の手続きをした駐屯所で、帰郷する兵士たちのために、軍の古い作戦地図が払い下げられた。
ヨハンはそれを背嚢に押し込み、歩き出した。
一日目は、平地を歩いた。
二日目に、丘陵地帯に入った。焼け落ちた村をいくつも通り過ぎた。どれも、見覚えのある焼け方だった。炎槍砲の痕は、屋根から崩れる。家の中心から、外に向かって燃え広がる。
三日目の朝、道に迷ったヨハンは、とある丘の上に立った。
眼下に、谷が広がっていた。
川が流れていた。その曲がり方に、見覚えがあった。
斜面に、低い木々が並んでいた。黒く焦げて、枝の一本も残っていない。
谷底に、崩れた石の塔があった。教会の鐘楼の、土台だけが残っていた。
ヨハンは、しばらくその場に立ち尽くしていた。
それから、背嚢から払い下げられた作戦地図を取り出した。
将校たちが使っていた地図だ。村の名前の代わりに、番号が振られている。
この谷には、こう書かれていた。
――第七目標。
震える指先が、地図の端に触れた。補強のために貼り合わされていた厚紙が、雨と汗でふやけて剥がれかけていた。
ヨハンは、その厚紙をべりりと引き剥がした。
裏面に、戦前の民間地図が印刷されていた。紙不足のせいで、軍は古い地図の裏に作戦図を刷り、表側を糊付けして隠していたのだ。
同じ位置に、村の名前があった。
――ヘルム。
五 ヘルム
どうやって丘を下りたのか、覚えていない。
気がつくと、ヨハンは焼け跡の中に立っていた。
村の中心を通る道。その両脇に並んでいたはずの家々は、黒い土台だけになっていた。パン屋も、村長の家も、隣の家の牛小屋も。
足は、勝手に動いた。
道の突き当たりを左に曲がり、小さな石橋を渡り、坂を上る。目をつぶっていても歩ける道だった。
そこに、ヨハンの家があった。
鍛冶場の炉だけが、黒く焦げて残っていた。母屋は崩れ落ち、屋根の梁が地面に突き刺さっている。
裏庭に回った。
桜の木は、根元から黒く焼けていた。添え木など、どこにもなかった。
畑の端に、木の柵があった。半分焼けて、傾いていた。
――ミアは毎日、畑の端の柵に登って、あなたが帰ってくる道を眺めています。
ヨハンは、膝をついた。
焼け跡の土を、素手で掻いた。何を探しているのか、自分でもわからなかった。ただ、掻き続けた。爪が割れ、指先から血が滲んだ。
母屋の床下には、小さな地下室があった。冬の間、芋や林檎を貯えておく場所だ。崩れた梁の下に、その入り口の板が見えた。
梁をどかすのに、半日かかった。
板を引き剥がすと、暗い階段が地下へ続いていた。
ヨハンは、階段を下りた。
地下室の空気は、ひどく冷たかった。
炎は、ここまでは届かなかったらしい。けれど、熱は届いたのだろう。煙は届いたのだろう。息をするための空気は、なくなったのだろう。
部屋の隅に、色褪せた服に包まれた二つの小さな亡骸があった。
大きな方が、小さな方を抱きかかえるようにして、壁にもたれていた。
干からびたその首元には、鮮やかな赤い襟巻きが巻かれていた。あの朝、砲撃の合間に庭先でひらめいた、あの赤だった。
ヨハンは、声を出さなかった。出せなかった。
ただ、二つの亡骸の前に座り込んだ。
小さな白い指の骨が、何かを握りしめていた。ブリキの小箱だった。ヨハンが鍛冶場の端切れで作ってやった、ミアの宝物入れ。
震える指で、蓋を開けた。
中には、折りたたまれた画用紙が何枚も入っていた。
一番上の一枚を、広げた。
クレヨンで描かれた絵だった。
空いっぱいに、赤い色が塗りたくられていた。その下に、小さな家と、三人の人。真ん中の小さな女の子が、両脇の大人と手をつないでいる。
その下に、たどたどしい文字があった。
――おそらが まっか。きれい。
――おとうさん の ひ かな。
ミアは、ヨハンの炎の色を知っていた。
出征の前の晩、ヨハンは鍛冶場で、娘に魔力の炎を見せてやったのだ。小さな火の玉を、手のひらの上で踊らせて。ミアは手を叩いて喜んだ。「おとうさんの火は、赤くてきれい」と。
画用紙の裏に、アンナの字で、短い走り書きがあった。暗がりの中で書かれたらしい、乱れた文字だった。
『ヨハン
兵隊さんが、村から出るなと言いました。誰も逃げられませんでした。
外が、あなたの火の色をしています。
ミアは、お父さんが迎えに来てくれたのだと笑っています。
熱いけれど、この子が怖がらないように、ずっと目を塞いで抱いています。
愛しています』
日付は、二年前の冬だった。
ヨハンが、第七目標を焼いた日だった。
六 士気維持局
ヨハンが王都の陸軍省を訪ねたのは、それからひと月後のことだった。
どうやって辿り着いたのか、これも覚えていない。気がつくと、彼は陸軍省の地下にある、窓のない小さな部屋にいた。
扉には、こう書かれていた。
――士気維持局 通信課。
部屋の中には、机が二十ほど並んでいた。どの机にも、便箋とインク壺と、クレヨンの箱が置かれていた。壁一面の棚には、分厚い帳簿がぎっしりと詰め込まれている。
部屋の奥で、一人の若い女が、整理していた書類から顔を上げた。
ヨハンは、胸のポケットから手紙の束を取り出して、彼女の机の上に置いた。
三十四通。最初の十一通と、それ以降の二十三通。
女は、その束を見て、全てを悟ったようだった。顔から血の気が引いていった。
「……ヨハン・ベルク軍曹、ですね」
女は、震える声で言った。
「ヘルムの。アンナ様と、ミア様の」
ヨハンは、何も答えなかった。
女は、棚から一冊の帳簿を取り出し、机の上に広げた。
『第七目標(旧ヘルム村)関連兵士・士気維持対象者一覧』。
そこにはヨハンの名前と、アンナ、ミアの名前が記されていた。家族構成。妻の筆跡の特徴。娘の年齢と、絵の癖。出征後に検閲で写し取られた手紙の記録。『夏祭りに肩車して花火を見せる約束あり』という備考。そして欄外には、赤い印で『対象家族:作戦により全員死亡・代筆継続中』と捺されていた。
「……家族を失ったと知った兵士は、引き金を引けなくなります」
女は、消え入りそうな声で目を伏せた。
「脱走する者も、自ら命を絶つ者もいます。特に、あなたのような優秀な魔導砲兵を失うわけにはいかないと、上層部は判断しました。……ヘルムを焼く作戦が決まったとき、あの中隊には、村出身の兵士が七名所属していたのです」
ヨハンは、ゆっくりと顔を上げた。
「……知っていたのか」
初めて、声が出た。
「陸軍省は、知っていたのか。あの村に、まだ人がいたことを。俺の家族がいたことを。それを知っていて、俺に撃たせたのか」
女は、答えなかった。
答えないことが、答えだった。
「敵の補給部隊を確実に誘い込むため、住民の避難は直前で中止されました。そして砲撃の三日前から、私たちは準備を命じられていたのです。アンナ様の筆跡を練習して。ミア様の絵の描き方を、孤児院の子供たちに教えて」
女の目から、涙がこぼれた。
「桜の木のことを、お尋ねになりましたね。私たちは、裏庭に桜の木があることを知りませんでした。検閲した過去の手紙にも、帳簿にも、書かれていなかったから。……だから、答えられませんでした」
ヨハンは、机の上の手紙の束を見下ろした。
二十三通の偽物の手紙。一通残らず、何百回と読み返した手紙。
皆、変わりなく過ごしています。
その一文に縋って、彼は二年間、引き金を引き続けた。トマスが死んでも。赤い布の夢を見ても。何十もの村を焼いても。
皆、変わりなく過ごしている、と。
その手紙を書いていたのは、目の前の女だった。
そして、自分が焼いた家族の筆跡を真似て、自分に「生きて帰ってきて」と書かせたのは、この国だった。
「申し訳ありません」
女は、机に額を押しつけるようにして頭を下げた。
「申し訳ありません。申し訳ありません。私は、三百人以上の兵士に、手紙を書きました。三百人以上の、もういない家族の名前で……」
ヨハンは、手紙の束を手に取った。
それから、何も言わずに部屋を出た。
背後で、女が泣き崩れる声が聞こえた。
振り返らなかった。
七 手紙
夏祭りの日、ヨハンはヘルムにいた。
祭りなど、どこにもなかった。焼け跡には雑草が生え始め、崩れた鐘楼の土台に、鳥が巣を作っていた。
彼は、裏庭に二つの墓を作った。焼けた桜の木の根元に。
石を積み、木の板に名前を刻んだ。鍛冶屋の手は、それくらいのことはまだできた。
――アンナ。
――ミア。
墓の前に、ブリキの小箱を置いた。ミアの宝物入れ。その中に、最後の絵と、アンナの走り書きが入っている。
日が暮れると、ヨハンは墓の前に座り込んだ。
遠くの町から、花火の音が聞こえてきた。どこかの、焼かれなかった町の夏祭りだろう。山の端の向こうで、小さな光が弾けては消えていく。
肩車をして、一番前で見せてやると約束した。
ヨハンは、両手を見下ろした。
この手で、肩車をするはずだった。この手で、娘に炎の玉を見せてやった。この手で、赤い炎の槍を撃った。
赤くて、きれい。
娘はそう言って、笑っていたのだという。
空を焼くその炎が、父親の手から生まれたものだとも知らずに。いや、知っていたのだ。おとうさんの火かな、と書いたのだから。父親が迎えに来てくれたのだと、信じて、笑っていたのだから。
どこかで、蹄の音がした。
顔を上げると、郵便配達の男が、焼け跡の道をこちらへ向かってくるところだった。陸軍の徽章のついた鞄を下げている。
「ヨハン・ベルク軍曹ですね。除隊してヘルムに戻られたと聞いて」
男は、鞄から一通の封筒を取り出した。
「野戦郵便局から、転送に転送を重ねてやっと届きました。ご家族からです」
ヨハンは、封筒を見つめた。
見慣れた筆跡だった。何百回と読み返した、几帳面な、少し右上がりの文字。
男が去ったあと、ヨハンは封筒を裏返した。一ヶ月以上前の消印が捺されていた。ヨハンが王都の地下室を訪ねる前、終戦に合わせて機械的に投函され、行き場を失って彷徨っていた最後の嘘が、今さらこの焼け跡へ辿り着いたのだ。
ヨハンは封を切った。
中には、便箋が一枚と、画用紙が一枚入っていた。
『ヨハンへ
お元気ですか。こちらは皆、変わりなく過ごしています。
戦争が終わって、本当によかった。
ミアが、絵を描きました。
アンナ』
画用紙を広げた。
夜空に、大きな花火が描かれていた。その下に、背の高い男の人がいて、その肩の上に、小さな女の子が乗っている。
たどたどしい文字が、添えられていた。
――おとうさん おかえりなさい。
――かたぐるま やくそく だよ。
その絵は、彼が待ち続けたどの絵よりも上手だった。
ミアは、こんなに上手には描けなかった。
遠くの空で、また一つ、花火が赤く弾けた。自分の掌から撃ち出した炎と、同じ色だった。
ヨハンは、誰とも知らない子供が描いた画用紙を、胸に強く押し当てた。
黒く焦げた桜の根元で、彼は朝が来るまで、一度も顔を上げなかった。




