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ZERO HOUR【2008年 初期Ver.】1/2

 ゼッカー帝国の若き統治者である第9代皇帝ラザリス・ヴォン・ゼッカー(19歳)は人々から賢君と称えられる有能な皇帝だが、感情をうまく認識・表出できないという欠点がある。花を美しいと思えない、誰かを愛しいと感じたこともない。

 そんなラザリスはある日、突如現われた大鷹『ザザ』を介して少年フィノ(14歳)と出会う。 

 心優しいフィノと知り合い、言葉を交わすうちに、つねに無表情でどこか空虚だったラザリスの心に光が満ち始める。

「―—不思議だ。お前といると世界がこんなにも違って見える」

 だが、ある日突然、フィノはラザリスの前から姿を消してしまった。

 ざわつく心。言いようのない焦りと不快感。そして、強い執着心。

「——言え! フィノはどこだ!!」

 フィノが大鷹を連れている理由と秘密。隠れなければいけなかった理由とは。

「——フィノ、お前の本当の名を教えてくれ。お前の口から聞きたい」

 孤高の皇帝の、初めての恋。



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ファンタジー / BL / 両性具有 / 妊娠・結婚 / 年の差 / 身分差 / 健気


<0.運命の時>

——リジィ。お前はとても賢い子だけれど、とても感情に疎い。

 怒りや悲しみ、寂しさや嬉しさ。それらは、とても、とても、大事なものだ。

 ひとは、何かを美しいと想える心をもっている。何かを愛しいと思える心をもっている。

 リジィ、ひととはね。いとしい生き物なんだよ。

 お前にもそう思える誰かが、早く現われてくれればいい——。



 ゼッカー皇家第8代皇帝が崩御した後、弱冠17歳でその座を継いだのは、前皇帝の唯一の一人息子、ラザリス・ヴォン・ゼッカーである。

 彼は幼少の頃からその優秀な頭脳を高く買われ、次代の皇帝として申し分ないと言われていた。勉学はもちろん帝王学にも長け、武道もこなす。一度覚えたことはそう簡単に忘れることはないし、元から読書を好んでいたこともあって、その知識量も半端ではなかった。冷静沈着で、何事も客観的に見て考え、そして判断を下すことができる。

 15歳の時には、彼は既に立派な大人そのものだった。老翁の大臣と話す内容は経済や国の治安、緒各国の政治状況についてばかりだったし、その内容も本当に充実していて、おおよそ、遊びたいざかりの子どもには決してない冷静さだった。

 いや、いっそ冷めているという表現の方が適当だろう。そう、彼は冷めているのだ。

 大臣はもちろん、皇城に仕えている使用人や給仕人、付き合いのある同年代の貴族でさえ、彼の笑顔を見たことがなかった。笑顔どころか、無表情以外の顔を見たことがないのだ。

 次代を担う若き殿下として必要な知識や判断力や決断力はもっているのに、大概のひとが当たり前のようにもっている感情が感じられない。

 食べ物の好き嫌いはない。読書は好きなようだが、他に関心をもっているものは何かと問われたら、彼専属の使用人でも首を傾げてしまう。動物も特別好きなようには見えないし、花や絵画や音楽が好きかと思っても、むしろそんなものは視界にも入れていないようだった。

 だが、彼は父である第8代皇帝、ハイドマンド・ヴォン・ゼッカーの部屋には足繁く行き来していた。

 40代に入って急に身体を壊したハイドマンドは崩御するまでの余生をほとんど寝台で過ごしたが、回りから『冷めている』と評される一人息子がわざわざ自分の部屋にまで足を運んでくれることをとても嬉しがった。

 ラザリスは父親の部屋に来て何をするわけでもない。むしろずっと黙り込んで寝台横にある椅子に腰掛けているだけだったけれども、それでも何か思うところがあって自分に会いに来てくれているのだろうとハイドマンドは思っていた。

 ハイドマンドの心残りは、一人息子、ラザリスのことだけだった。

 未来の皇帝としての器が充分備わっていることは、彼の幼少期から気付いていた。だから心配は微塵もない。が、彼を一人の人間として見てみると心配は募りに募って仕方がなかった。

 感情が表に出ない息子。

 唯一、父である自分には愛情とも呼べるような曖昧なものを抱いてくれているのはわかるが、それが等しく他のものにも向かっているとは思えない。自分の大切なものを見つけられていない瞳をしているのだ。そう、どことなく寂しい瞳を。

 ときどき息子の表情が翳る、その一瞬に、ハイドマンドの心には心配と不安の種が蒔かれる。

 だから息子には早く、自分にとって大切な何かを見つけてほしかった。母も兄弟もいない彼を、本当の意味で一人にしてしまう前に。自分のこの命の灯火が消えてしまう前に。

——だが、ハイドマンドの願いが叶えられることはなかった。

 第8代皇帝ハイドマンド・ヴォン・ゼッカー皇帝、崩御。同時に、第9代皇帝ラザリス・ヴォン・ゼッカー新皇帝、誕生。

 


 ハイドマンド前皇帝の葬列に参加し、そしてラザリス新皇帝の誕生を祝福する人々を、孤児院塔の一番上から鋭い目で眺める大鷹がいた。その大鷹はぐるりと城下街を見下ろすと両翼を大きく広げ、弧を描くように空を舞う。

 風に乗って優雅に飛ぶそのさまは、下から大鷹を見上げていた人々の感嘆を誘った。

——運命の歯車が静かに音を立てて、動き始める。




<1.国家の繁栄と光の象徴・ヴィーザー>

 ゼッカー帝国は皇城を中心として何重も輪が広がったように城下街が存在する、緑に囲まれた広大な国だ。一番内側の輪(内街)には貴族の屋敷が、真ん中の輪(中街)には商人の家やさまざまな店や学校が、一番外側の輪(外街)には一般庶民の家々が立ち並ぶ。さらにその外側には高い外壁があり、外国からやって来た不審な輩が入り込むことのないよう、幾人もの門番が常に控えていた。

 街は活気に溢れている。ここ数十年、大きな戦争も事件もない。とりわけ平和な時代が続いているおかげで、人々の顔には笑顔が絶えない。ありがたいことに天候にも恵まれ、作物もそれほど苦労することなく収穫できていた。

 ゼッカー帝国の人々には、昔から毎晩寝る前に必ず皇城の方角を向き、膝を着いて手を組んで祈る習慣がある。人々が祈り、崇拝する相手は、国家の保護下に置かれている『ヴィーザー』と呼ばれる両性具有者だ。ヴィーザーは貴族、中流家庭、一般庶民に関係なく、一皇帝の時代に約3人は生まれるとされ、不思議なことに生まれつき神秘的な力をもっていた。

——ただそこに存在するだけで花は生き生きと咲き誇り、空は晴れ、導きの光を民に注ぐ。

 この言葉は、ゼッカー帝国の前衛であったストックマグナ小国の時代から言い伝えられてきた、ヴィーザーの神秘を伝える言葉だ。このことから、大昔からヴィーザーとして生まれた者は幼少期から皇城の一角に集められ、人々に崇められ、護られ、『国家の繁栄と光の象徴』とされてきたのである。

 ストックマグナ小国がゼッカー帝国となり、そしてその皇帝が3代目になった、ある時。『国家の繁栄と光の象徴』とされるヴィーザーが当時3人も存在しながら、治安が悪くなり、諸各国との国交問題や経済不況、作物も育たないという大恐慌が起こった時代があった。

 この事実と現状に狼狽した第3代皇帝はこの時どうしたかといえば——彼は、皇城で保護されていたヴィーザー全員を激昂のままに虐殺してしまったのだ。「所詮は言い伝えか!」と狂ったように叫びながら。

 途端、空には雨雲が広がり、雷鳴が轟いた。どこからともなく冷気を纏った風が吹き始め、それはさらに雷雨となり嵐となり、かと思えば吹雪に変わった。原因不明で治療法もわからない謎の病が蔓延し、それはたちまち国中に感染、第3代皇帝はあっけなく命を落とした。

 突然のことに人々は驚き、錯乱し、なにより慄いた。皇帝がヴィーザー様を殺めてしまったからだと悔い、嘆き、許しを請うた。そんな暗黒時代は、ある一般家庭に新たなヴィーザーが生まれるまで続いたという。

 この話はゼッカー皇家が保管する膨大な歴史書の中に明記されていることであり、また、帝国の人間であれば誰もが、それこそ子どもですら知っている史実である。

 だからこそ人々はヴィーザーを恐れ、そしてそれ以上に感謝し、崇める。今が平和であるのは、すべてヴィーザー様が心安らかに在って下さるからだ、と。



 一日の最後に、みんなで皇城にいらっしゃるヴィーザー様に向かって礼をとり、お祈りをする。それがこの孤児院の昔からの習わしだ。

 祈りを終えたフィノ・ラピアスはゆっくりと顔を上げた。

 ヴィーザー様に、一日を楽しく幸せに過ごせたお礼と感謝の祈りを捧げる。そんな、もう何百回、何千回も繰り返したこの行為がときどきとてももどかしいような苦しいような、曖昧な気持ちを連れてくる。

 原因はわかっているけれど、でもどうしようもない。そう、多分、どうしようもないことなのだ。この、小骨が喉に刺さったような違和感はきっと、一生を終えるまでずっと抱え込まなければいけないのだろう。それで良いと決めたのは自分だ。

 フィノは一度固く瞳を閉じ、数度瞬いてから、左目が緑、右目が青というめずらしい澄んだ瞳を眼前に聳え立つ皇城に向けた。

「ヴィーザー様、か……」

 呟き、ひとつ溜息をつく。と、ポンと肩を叩かれた。

「フィノ、部屋に戻ろうぜ。明日は早く起きてラッジの店に行くんだから」

「あ、うん」

 声をかけてきたのはこの孤児院で一緒に暮らす、気の良い友達であるイリだった。ちょうど歳が同じこともあって、フィノはよくイリと行動を共にしている。

 フィノの部屋はこの孤児院塔の一番上、屋根裏にある小さな部屋だ。本当なら孤児院の子どもたちに一人部屋など与えられない。フィノはもう14歳だし、孤児院にやって来たばかりの小さな子たちの面倒を見るためにも相部屋になるのが当たり前だ。だが、フィノの場合は少し特殊で、小さいとはいえ一人部屋でなければならない理由があった。

 自分の部屋に戻るとフィノは窓を開けた。まだ幼馴染みは帰ってきていないようだ。

「ザザ、最近帰りがすごく遅い」

 どうしたのかな、と、フィノの眉間は少しだけきつくなる。

 フィノの幼馴染みとは、大きな翼と鋭い爪と嘴、そして、まるで心が見透かされるような金色の瞳をした大鷹ザザだ。

 ザザはフィノが物心がついた時にはすでに自分の隣にいた。毎日一緒に寝起きをして、食事をし、野を駆け、水で清め、そして母の待つ家へ帰った。そう、ザザはまるで自分の兄のように、いつだって自分の傍にいた。母も、ザザがフィノの隣にいることを当たり前のように受け入れていた。

 鋭く、ときに凶器と成り得るザザの爪や嘴を怖いと思ったことはない。皮製の道具を装着していればザザを肩に乗せても痛いことはなかったし、フィノがイタズラをするようにザザの爪をさわっても、顔に頬を寄せてこすりつけても、ザザは決して機嫌を損ねず怒ることもしなかった。むしろ、幼いフィノがそうやってザザに甘えると、ザザは大きな両翼を広げ、まるでフィノを包み込むような仕草さえした。

 フィノはあれが好きだった。ザザの両翼に包まれ、額と額を合わせるようにしてお互いの存在を感じ合うのが。

 だが、周囲の人間は当然、ザザをひどく怖がった。これはあとから知ったこと——フィノが6歳の時にこの孤児院に来て初めて知ったことだが、ザザは本来ひどく凶暴で攻撃的な性格をしていた。フィノは人間に襲い掛かろうとしたザザを何度も見たことがある。そのどれもが自分を、フィノを護ろうとしたからだとわかっているけれども、風を切るように飛び回り、鋭い爪を相手に向けて威嚇するザザに、フィノは心底驚き、慌てたものだった。

 ザザは基本的に、フィノ以外の人間はすべて警戒する。こんな状態なので、当然誰かと相部屋になることなどできるはずもなく、かと言ってザザを部屋から追い出そうとすれば——実は一度だけ試したことがあるのだが——窓は蹴るわ、腹いせに周囲の人間に八つ当たりして攻撃するわで、とても手に負えなかった。結局、穏便な解決方法としてフィノはこの屋根裏部屋をひとりで使うことになった。

 フィノが下を向いたとき、かすかに、チリン、と澄んだ音がした。フィノの耳のピアスが揺れたのだ。直後、ふと気配を感じて顔を上げれば、開いた窓の枠に音もなくザザが佇んでいた。いつの間に帰ってきたのだろうか。

「ザザ、遅いよ!」

 フィノは咎めるような声で言った。するとザザはチラッとフィノを見て、悪びれたふうもなく大きなあくびをする。

「なに、そのあくび! 眠たいのはこっちだよ!」

 もう、と小さく文句を言ってからフィノは左腕を掲げた。するとザザは音もなくふわりと飛んで、当然のようにその細い腕に舞い降りる。

「おかえり」

 フィノが頬を寄せると、ザザは目を閉じて愛情を返してきた。肩まで伸びたフィノの柔らかい金髪が翼にふれると、くすぐったそうにするのがおかしい。

 この金髪は、美人だった母親譲りだ。そしてこの独特な両瞳も。

「さ、寝ようか。明日は早く起きなきゃいけないんだ」

 ふあ、とフィノはあくびをした。そうしてベッド横にある止まり木にザザを移してから、小柄な身体をベッドに沈ませる。

「明日も一日、幸せに過ごせますように……」

 息が漏れるように囁いてから、フィノはゆっくりと目を閉じた。フィノの安からな寝息を聞きながら、ザザは月を見つめる。

 運命の出会いまで、あと数日。




<2.知らせる者>

「——ラザリス皇帝陛下、失礼致します」

 ノックと共にドアを開けたのは、ラザリスの右腕という高い身分に腰を据えているソイルという名の秘書官だ。彼はまだ若く、この前やっと30歳を過ぎたばかり。

 二人は、ラザリスがまだ『殿下』と呼ばれていた頃からの付き合いで、見た目には少し歳が離れた兄弟のように見えなくもない。ラザリスはすらりと身長が高いが、ソイルはそのラザリスよりもさらに頭ひとつぶん背が高かった。端正で男らしく、だが涼しげな印象の美男子が並んでいると、ラザリスの身支度を整えていた数人の召使いの女たちから、ほぅっと溜息がこぼれた。

「本日のパレードの道順をご確認していただきたいのですが、読み上げてもよろしいでしょうか?」

「ああ」

 柔らかな声でソイルが静かに告げ、漆黒の正装を纏ったラザリスは真珠でできた左袖のボタンを留めながら硬質な声で返した。見た目は同じ美男子でも、口を開けば随分と印象が違った。

 今日はラザリスがゼッカー帝国の皇帝に即位して2年目の記念日だ。大人になりかけていた17歳の美少年は、今や見目麗しい立派な19歳の美青年へと変化した。スマートに漆黒の正装を着こなすラザリスをひとめ見たとき、正直に言ってソイルは思わず目を見張ってしまったのだ。見慣れたとばかり思っていたけれど、こうして正装を纏った彼はいつもの数倍迫力があり、美しかった。

 スラッと高い身長に、必要なだけついた筋肉。質の良い、極上の布でできた正装はもちろんオーダーメイドだ。右腕と左の心臓の上に象られた、金の刺繍で描かれたゼッカー帝国の紋章は漆黒の衣装によってさらに光り輝いている。引き締まった腰の左側に挿している細身の銀色の剣はゼッカー皇帝が代々受け継いできた伝統のあるもので、それがさらにラザリスの足の長さを引き立てている。

 まさに『皇帝』。ソイルはそう、当たり前に感じた。彼は生まれながらの皇帝だと。

 固く引き結ばれた口元が冷静さと聡明さを醸し出している。そしてなによりその鋭い金色の瞳——ゼッカーの名を継ぐ一族だけがもつ金色の独特な瞳としなやかな体つきは、まるで野生の黒豹のようだ。

 ソイルは微笑んだ。ああ、これでこそ自慢の我が君、ラザリス・ヴォン・ゼッカーだと。

 ラザリスの艶のある黒髪と同じ漆黒の衣装は、彼がこの日のために作らせたものだ。彼が皇帝に即位したときと、その1周年を祝った昨年までは、この正装は純白だった。当時の皇族お抱えの仕立て屋や宰相、大臣らが「ラザリス皇帝陛下は黒髪だから、純白の衣装の方が色合いが取れて栄えるだろう」と話し合った結果だった。しかし。

「新しい正装を作れ。黒でいい」

 即位1周年のパレード終了直後、城に帰ってきたラザリスの第一声がそれだった。ソイルは思わず「は?」と聞き返してしまった。

「色が何であろうと別段関係ないと思っていたがな。黒の方が落ち着く」

「はあ……」

 好みなどまったくない、無関心と思われていた我らがラザリス皇帝陛下の口から、まさかちらとでも選好に関する話題がこぼれるとは。パレードの道順についての確認が終わった途端ぶふっと小さく噴き出した秘書官に、ラザリスはちらりと冷たい一瞥をくれた。

「なんだ」

「いえいえ、昨年の陛下のお言葉を思い出しておりました」

 くつくつとおかしそうに笑うソイルをラザリスは無言で見つめていたが、しばらくすると興味をなくしたようにフイッと顔を逸らした。

「黒のお衣装の方が落ち着くとおっしゃった時のことです。ご存知でしたか? あのあと、我がゼッカー帝国では黒、しかも漆黒が流行色になったのですよ。陛下がお好きな色だということで」

「そんなものは知らぬ。興味もない」

 テラスに続くガラス製のドアを見ながら素っ気無く言ったラザリスを見て、ソイルはまたくつくつと笑った。

 ソイルは少しだけ知っている。感情がない、何事にも冷めている、氷の皇帝陛下などと呼ばれることもある彼が、実はそんなに冷めた性格でもないことを。

 ただ、彼には貪欲に求める何かがない。あれを絶対に手に入れたい、手に入れてやると思える対象が存在しないだけなのだ。

 そして彼は——ラザリスは、それを無意識に欲しがっている。執着できる何かを。枯渇した自分の心に潤いをもたらす何かを。

 どこにあるかはわからない。そしてそれがいつ現れるのか、そもそも現れるものかどうかもわらからないけれど。

 でも、求めている。探しているのだ。

「新調なさったお衣装、とてもお似合いです。我が君はいつでも素晴らしいお方ですが、本日はさらにそれが引き立ちますね」

「たかが色だろう」

「たかが色でも、です。陛下は本当に黒がお似合いです。そういえば、ハイドマンド前皇帝陛下は藍色がお似合いでしたね」

 ソイルがそう口にしたとき、ちょうどラザリスの身支度が整い、召使いたちが回りのものを片付けて部屋を出て行った。ラザリスはテラスに向かって歩き、ガラス製のドアを開けて外に出る。晴天だ。雲ひとつない。

「そうだな。確かに父上は藍色がよくお似合いだった。お好きな色でもあったしな」

 ごく小さな声で呟かれたそれにほんの少しだけ哀愁が滲んでいるようにソイルには見えた。

 言葉に出すことは最後までなかったが、ラザリスは父皇をたしかに慕っていた。自分の命と引き換えに亡くなった母、ヴィーザーだったという母・ティアーユを一生涯愛し続けていた父皇。

 皇帝として国を背負う父皇の背中は広かった。父皇は、振り返ればいつでも微笑んでラザリスを抱き上げてくれた。感情というものが何なのかよく理解できない、そんな欠陥を抱えた自分を。抱き上げても笑いもせず声も出さず、ただ無表情に父皇を見返すだけしかない自分を。

 ハイドマンドは微笑んだ。ただ、微笑んでいた。それはきっとどこにでもいる、一人の父親の顔だった。

「——陛下、あと1時間ほどで出発です。30分ほど経ちましたら再度お部屋にお伺い致しますので、ご用意を」

「ああ」

 ソイルが一礼して去って行く気配を背中で感じながら、ラザリスは城下町を見やった。

 本音を言えば即位1周年も2周年もたいして変わりはしないのだから、パレードなんて面倒くさいこと極まりない。だが、この国の民は何だかんだと理由を付けては祝いごとや祭りごとを催すのが好きだ。これはもう昔からの国民性、血なのだと思う。そしてソイル曰く、こうした国ぐるみの催しに皇帝自身が参加して姿を見せることは重要らしい。

 ふ、とラザリスは溜息をついた。その一瞬、目の前が黒く翳る。

 雲だろうか? あれほど晴天だったのに?

 顔を上げると陽光が目に飛び込んできた。眩しいと思って反射的に目を眇め、片手を掲げる。

「——なんだ、お前か。昼間に来たのは初めてだな」

 ラザリスの目の前に現われたのは美しい大鷹だった。大きな両翼は力強く優雅で、鋭い嘴と爪を携えている。印象的なのは心まで見透かすような眼だった。それがひたとラザリスを捕らえて見つめている。

 大鷹はテラスの柱に留まり、うるさそうに騒がしい城下町を見やった。ラザリスも同じように城下町に視線を移す。

「今日は俺の即位2周年記念日だ。これから街中をまわる。騒がしいのはそのせいだ」

 ラザリスがそう言うと、まるで納得したように大鷹はラザリスに視線を戻した。

 この大鷹は、半年ほど前になるだろうか、突然ラザリスの元にやって来るようになった。決まってやって来るのは夜。子どもも大人も眠りに付いたような深夜だ。夜行性の梟でもあるまいし、鳥類は一般的に夜は目が利かないはずだが、それでもこの不思議な大鷹は夜に——いや、夜にしかやって来なかった。

 ラザリスが政務の残りの書類に目を通していたり読書をしていると、いつの間にか音もなくこのテラスに来ているのだ。最初はもちろん驚いた。大鷹の鋭い嘴や爪を見てしまえば、さすがにむやみに近づいたりもしなかった。

 しかし、いつだっただろうか。あまりにもこの大鷹が静かに羽を休ませに来るものだから気になって、つい、ガラス製のドアをそっと開けたのだ。すると大鷹はピクリと反応してラザリスを一瞥し、じっと眼を向けてきた。まるで何かを見極めようとするように。試すように。

 それは不思議な感覚だった。

 心のなかを覗かれている。直感的にラザリスはそう思った。

「お前の寝床がどこか知らぬが、急がぬようなら見ていけばいい。暇つぶしぐらいにはなるだろう」

 ラザリスがそう言った時だった。柱に留まっていた大鷹がふわっと弧を描くように飛び、ラザリスの手元近くに舞い降りる。ラザリスは一瞬身を固くしたが、大鷹が攻撃をしかけたのではないことは直感的にすぐにわかって、密かに安堵の息をつく。

 やはり、この鋭すぎる嘴と爪には本能として恐怖を抱く。それほどに野生の匂いを纏うこの大鷹は美しいが、同時に得体が知れない。

 大鷹は、ラザリスの瞳をじっと見つめてきた。

 まただ。心を、覗かれている。

 大鷹よ。お前は俺に、何を訴えている?

「——陛下、失礼します」

 ソイルのその声にハッとした瞬間、大鷹はバサッという音とともに両翼を羽ばたかせ、空に舞い上がっていた。

——時は、来た。




<3.フォルクスが繋ぐ運命>

 あまりにも人が多すぎて迷子になりそうだと、フィノは冷や汗をかいていた。つないだイリの手を無意識に強く握りすぎてしまう。

「やっぱ、皇帝陛下の即位記念パレードとなると人の数がケタ違いだよな。前も後ろも人、人、人だ」

「だね」

 第9代皇帝ラザリス・ヴォン・ゼッカーが帝国に即位して今年で2年目。祝いごとが大好きなこの国の民たちは、いわば『即位記念祭』とも言うべき一日限りの大イベントを毎年楽しみにしている。この日のために何ヶ月も前から上等な食べ物や酒、街を彩る花々をたらふく準備し、ある者は通り沿いに国旗を並べ立て、ある者はパレードで宙にまく小さな花やおりがみを配ってまわって、街中、誰も彼もがそわそわと興奮で落ち着かない。

 ごった返すような人混みに気圧され気味のフィノを安心させるように手をつないでくれている兄貴分のイリもまた、少年らしい頬を紅潮させていた。

「今年はラッジの店の前をパレードが通るらしいから、このさき一年安泰だぜ! ツイてるよな~!」

 ラッジというのはフィノとイリがよく行く店の、若い店主のことだ。サバサバとした好青年で、若者が好む洒落た雑貨類を専門に扱う店を昨年始めたばかりだった。パレードの経路は毎年変わり、その沿道沿いに自宅や店を構える者は皇帝の恩恵が受けられる——その年一年は縁起が良く、苦労知らずで過ごせるというのは有名な話である。

 フィノに話しかけてくるイリの声は大きい。もはや人であふれ過ぎていて、これほど近くにいるのに大声で喋らなければ何を言っているかわからないのだ。人に押され、押しのけて、二人がようやっと件のラッジの店の周辺、つまりパレードの沿道までたどり着くと、そこにはさらに多くの人がパレードの開始を待って道の脇に座り込んでいた。混乱が起きないよう、皇城の兵士たちもあちこちに待機したり、誘導したりしている。

 さて、一体どこに陣取ろうか。二人でキョロキョロとあたりを見回していると、前に立っていたふくよかな中年女性がふいにこちらを振り向き、「おや! あんたたち小っこいんだから、そんなとこからじゃ見えやしないよ!」と、太い腕を伸ばしてフィノたちを自分の方に引っ張ってくれた。

「ありがとう、おばさん! 助かったよ」

「構わないさ。今日はお祝いごとだからね。楽しまなくっちゃ」

 中年女性はそう言ってウインクした。茶目っ気があり、親しみやすそうな女性だ。人見知りのフィノとは正反対で人懐こいイリは、にこにこ笑顔で愛嬌いっぱいに女性に話しかける。

「俺たち、去年とその前の年は皇帝陛下のお顔が見れなかったんだ。人が多くて、背も今よりチビだったし、ぜんぜん前に進めなくてさ」

「あら、それは残念だったねえ。私は去年やっと間近で見れたんだよ。運良く、知り合いが最前列にいてね。おばちゃんの図々しさで、ぐいぐい前に入らせてもらってね」

 人を押しのける動作をしながら女性は豪快に笑った。

「あのときの皇帝陛下は18歳でらしたけど、もう立派に『皇帝』のお顔をしてらっしゃってね。それがまた、気品があって、お美しくてねえ~。まさに皇族ゼッカーの後継者、我が皇帝陛下! って感じで……感無量だったよ」

 女性は瞳を輝かせ、まるで少女のように頬を染めながら昨年の興奮を語る。

「馬に乗って颯爽と歩く御姿はもう、言葉じゃ表現できないぐらいでね。私は呆けて、陛下が通り過ぎるのをただただボーッと見ていることしかできなかった」

「へえ~。陛下ってそんなに綺麗なんだ」

「綺麗なんてもんじゃないさ! 気品があるんだよ。それでいて堂々としててね。ああ、私らはこの御方が統治なさる国で暮らせて幸せだって、本当に心から実感できるんだ。実際、ラザリス皇帝陛下の政治力には凄まじいものがあるってさ。前皇帝のハイドマンド陛下の時代ももちろん明るくて平和だったけど、ラザリス陛下の政治にはさらにムダがないんだってさ。私はあんまり学がないから政治の難しいことはよくわからないけど、旦那がいつも仕事仲間と感心してるよ」

 フィノとイリは相槌を打った。とにかく優秀な人らしいということは子どものフィノたちでもわかる。

「ただ、御父上のハイドマンド様はとても明るい御方で私ら民衆とも気安くお話して下さったけど、ラザリス陛下はあんまり人前にお出になるのは好きじゃないみたいだね。親子で、どちらも素晴らしい皇帝だけど、見た目の印象や性格は正反対だなんてなんだか面白いね」

 ま、なんにしても私ら庶民が毎日の食べもんに困らないのは皇帝陛下のおかげさ、と笑顔で女性は話を締めくくった。

 女性の話は興味深かった。自分たちは一般庶民ともまた違う、孤児院という特殊な環境で育ってきたため、こんなふうに第三者の大人から世の中のことを聞くこと自体めったにない。正直、現皇帝であるラザリス陛下についても、かなり優秀な統治者で、艶のある黒髪、ぐらいしか知識がなかった。

 人懐こいイリがそんなことを口にすると、「ああ、そうかい! あんたらダーナんとこの子たちだったんだね」と中年女性は表情をさらに明るくした。孤児院と聞いても眉をひそめられないのは、すべては院長であるダーナの人徳によるものである。

 女性がさらに世間話に花を咲かせようと口を開いたそのとき、パンパンパン! と皇城の近くにある高い塔からパレード開始の合図である空砲の音が鳴り響いた。

 途端、沿道に座り込んでいた民衆が一斉に立ち上がり、歩いていた者は足を止め、お喋りをしていた者は話をやめて、期待の大歓声とともに皇城に続く頑丈な扉を見つめた。しばらくして、ゴゴゴゴ、という重い石を無理矢理引きずるような音が響き、パレードの先頭者——立派な鎧を纏い、ゼッカー国の紋章が描かれた大きな旗をもった近衛兵——が姿を現した。

 ぐわっと大波のような民衆の大歓声がさらに沸き起こって、その激しさにフィノは思わず耳をふさいでしまった。となりでイリもビックリしたように目をまん丸にしている。目が合って、お互い笑ってしまった。

 皇城からやや離れたここからでは、ラザリス皇帝陛下どころか、まだ先頭の一団さえ見えてこない。しかし店の2階からパレードを見下ろしているラッジにはすでに陛下が視認できるのだろう、大興奮しながら「陛下だ! 陛下が見えるぞ!!」としきりに叫んでいる。

 その声を聞いて、どくんとフィノの心臓が鳴った。いまさらながら不安が湧き上がってくる。

 自分の心臓の音が、自分の耳で聞こえた。緊張で、すっと手足が冷たくなる。血管の一本一本がドクドクと暴れまわっているようだ。

(皇帝陛下……。この国を治める人……)

 目にするのがひどく怖いような感覚。でも、たしかに興奮もある。突然心細くなって、フィノは思わずイリの手を強くつかんだ。イリはすでにパレードの方角に釘付けで、手を取られたことにも気づいていない。

(……おかあさん)

 フィノはぎゅっと手を握り締め、今はもうこの世にはいない母を想った。

 皇帝陛下と皇族ゼッカー。彼らに関係している貴族たち。それは——死んだ母がもっとも恐れていた人たちだった。

(おかあさん、でも、僕……自分の瞳で、見てみたいんだ)

 母があの人たちを恐れていたことは知っている。だから隠れるように生きてきたことも。

 でも、フィノは見てみたかった。ダーナ院長や顔見知りの人々が口々に賞賛する、賢君・ラザリス皇帝陛下の姿を。母をあそこまで怯えさせた一族の血を引く皇帝を。その名と存在だけで人々を幸せにできると言われる——国家の繁栄と光の象徴とされる『ヴィーザー』のような、その人を。

 空を飛び交う色とりどりの花と、拍手喝采。ラザリス皇帝陛下を称えて万歳三唱する、怒声に近いぐらいの大歓声がだんだん近づいてくる。それに比例するように、フィノの心臓は例えようもないぐらいの大きな音を、小さな身体のなかで響かせる。

 もう、限界だ。もうあとほんの少しで破裂してしまう——そう思った、その時だった。

「皇帝陛下だ!」

 イリが叫んだ。しかしその明るい声は、フィノの耳を素通りしていった。

 呆然と、目の前の光景を見つめることしかできない。まさに穴が開くほど、ただ一心に、そのひと——第9代皇帝ラザリス・ヴォン・ゼッカーを見つめることしかできない。

(——なんて綺麗なひとなんだろう)

 あまり多くの言葉を知らないフィノが真っ先に感じたことがそれだった。

 ラザリス・ヴォン・ゼッカーは美しかった。陽光に照らされてもなお漆黒に輝き、艶のある美しい髪が乗馬に合わせて揺れている。背筋はスッと伸びて、きりりと前を向く鋭い瞳は意志の強さと聡明さを表している。形の良い鼻梁、真一文字に引き結ばれた唇は硬質な印象だったが、どれもこれも完璧な造形と配置で収まっているため、とにかく美しさが際立った。

 馬に乗っているので正確にはわからないが、おそらく背は高いだろう。それでいて大男に見えないのは、身体つきが屈強ではないことと全体的なバランスの良さに違いない。

 そして、あの漆黒の正装。黒という色がこんなに似合う人を見たのは、フィノは生まれて初めてだった。

「フィノ、フィノ! 陛下ってすげーカッコイイな! てか綺麗だ!」

「う、うん……!」

 イリが大興奮でフィノの肩を揺さぶってくる。フィノもまったく同じだった。目を見開いて、何度も頷くことしかできない。

 生前の母の怯えようを覚えているフィノは、『皇族ゼッカー』とはどんなに恐ろしい人なのだろうと思っていた。身体が大きくて、獣のように獰猛で、見た目からして恐ろしい人に違いない。頭が良くても、統治者として優れていても、目が合っただけで相手を震え上がらせるような人に違いないと。だから「ラザリス皇帝陛下はお綺麗な方」という噂を聞いても、あくまで噂。本物はどうだかわからないと疑う気持ちもあった。

 しかしまさか本当に、これほど見目麗しい人だったとは。

 皇族というのは才だけでなく容姿まで優れていて、こんなふうにあっという間に人々を魅了してしまうのかとフィノが感嘆とともに呆然としていると、ふと、近くにいる誰かがこんなことをつぶやいた。

「——おい、なんだあれ?」

 それは水に落ちた一滴のしずくのように徐々に波紋を広げ、あたりが歓声とは違うざわざわとした異変の雰囲気に移り変わっていく。

 誰かが上空を指さした。その指先が向く方を人々は次々と追視し、なんだなんだとさらにざわつき始める。

 空には青空が広がり、太陽があった。眩しい。手を翳しながらなお空を見上げていると、太陽のなかに黒点が見えた。眩しさに耐えて、さらにじっと目を凝らす。一羽の鳥だ。その影がだんだんと大きくなっている。どうやらこちらに向かって飛んできているようだ。

「……鳥?」

 最初は小鳥だろうと思った。しかしその鳥の影はだんだんと大きくなり、さらにだんだんと大きく、こちらに近づいてきて——。

「——いや、大鷹だ!」

 誰かが大声で叫んだ。

 一羽の大鷹がパレードの上空、いや、ラザリス皇帝の頭上に向かって、まるで突っ込んでくるかのような速さで飛んできている。まさに、野生の獣が獲物に狙いを定め、射止める瞬間のように。

「フィノ、あれって——!」

「——ザザ!」

 ざっと血の気が引いた。

 見間違えるはずがない。自分は物心がつく前から彼と一緒に育ってきたのだ。

 考えるよりも先に声が出ていた。ザザ、まさか皇帝陛下を傷つける気じゃないよね。

「ザザ!!」

 ひときわ大きく叫んだが、フィノのその声は周囲の大きなどよめきと混乱によってかき消されてしまった。異常事態を察した近衛兵たちが騎馬のまま一斉にラザリス皇帝を囲み、金属の音を響かせ、一瞬で鞘から剣を引き抜いて身構える。

「陛下、頭をお下げください!」

 近衛の隊長が短く叫んだ。しかし。

「——よい」

 よく通る、しずかな声が響いた。同時にラザリスは右手を横に払い、近衛兵を下がらせる仕草をする。思わぬ命令に、隊長や兵らは目を見開いた。

「下がれ」

 ラザリスの凛とした声が響く。ざわついていた辺りはいつの間にか時間が止まったかのようにシンと静まり、しかしまばたきもできないほどの緊張感に包まれていた。少しでも身じろげばぷつりと何かが切れてしまいそうだ。大鷹の鋭い嘴は、もうすぐそこまで迫っている。

(ザザ——!!)

 フィノもまた息をのみ、しかし何もできないまま頭上を見上げていた、そのとき。

 それはまるで、スローモーションの映画を観ているようだった。

 ラザリス皇帝は腰に提げていた銀色の細い剣を鞘から引き抜き、目線とほぼ平行になるように左から空を切った。攻撃を仕掛ける動作ではない。まるで剣の型をとったような、演舞のような美しい動き。

 ラザリス皇帝と大鷹の視線が合った。

 直後、大鷹は急にばさっと両翼を羽ばたかせてスピードを落としたかと思うと、差し出されるように伸びていた皇帝の銀の剣の上に、ふわっと舞い降りる。

 しばらく両者の視線が交わった。そして、ふ、とラザリスがほんのわずかに口角を上げる。

「——ザザ!!」

 静謐な空気をフィノの悲壮な声が打ちやぶった。途端、何百という目がフィノに集まり、とっさに両手で口をふさぐ。しかし、もう遅い。

「……あ…」

 フィノは大混乱のなかにいた。頭が真っ白だ。なにも考えられず、これが現実かどうかもわからなくなってくる。

 何か言わなくてはいけない。でも、何を? 自分は今、なにを、どうすればいい?

 ザザの意図がまったくわからない。なぜあんなことをしたのか。なぜパレードを妨害するような現れ方をしたのか。こんな、悪目立ちをしてしまうようなことをしでかしたのか。

(ぜんぜん、ザザのことが、わからない)

 こんなことは今まで一度たりともなかったのに——。

 いまだ両手で口をふさぎ、徐々に青ざめて、かたかたと身体を震わせはじめたフィノの頭上に、しかし落ち着き払った凛とした声音が落ちてきた。

「——少年。こちらに来て顔を見せよ」

 ラザリス皇帝だった。人々の視線が、馬に跨るラザリス皇帝と、小さく華奢なフィノを交互に見やっているのが気配でわかる。

「あ……」

 命令されていることはわかるのに、身体が言うことをきかない。どうしよう、とフィノの混乱はさらに酷くなった。まるで根が生えたように足が動かない。

 助けを求めるように視線をさまよわせたとき、ザザと目が合った。ザザ、と口の中で小さく呟くと、大鷹もまたフィノをじっと見つめている。その眼が、こちらに来い、と言っている気がした。

 フィノは恐る恐る、一歩を踏み出した。緊張で膝が笑う。成り行きを黙って見ている周囲の人々の視線が突き刺さるように痛い。

 ラザリス皇帝を囲む近衛兵から少し離れたところまで近づいたところで、フィノは足を止めた。武器を手にした近衛兵から放たれる威圧で今にも意識を失いそうだ。生きた心地がしない。身体中が冷えていて、俯いた先の自分の足元を黙って見つめることしかできない。

「——顔を上げよ」

 頭上から皇帝の声が降ってくる。彼が纏う雰囲気と同じく、硬質な響き。それにまたひやりとさせられる。

 フィノは命令に従い、ゆっくりと顔を上げた。

 瞳と瞳が合う。美貌の皇帝が、すぐそこにいる。

「この鷹は、おまえの鷹か?」

「は、はい」

「ザザという名か? そう呼んでいたな」

「は、い」

 ぎくしゃくしながらも、返事をせねばとフィノは頷く。

 ラザリス皇帝はザザに視線をやった。ザザはまだ伸びた剣先に腰を下ろしたままだ。一見、悠々としているように見えるが、実のところ周囲の近衛兵を警戒しているのがわかる。鋭く光る眼には油断も隙も見られなかった。

「………おもしろい」

「え?」

 思ってもみなかった一言に、思わず間の抜けた声が出てしまった。口にしてしまってから、ハッと口をつぐむ。

「少年、名は」

「あ、あの、フィノ、といいます」

 名前を確認したラザリス皇帝は軽く頷き、そうしてうっすらと目を細めた。口角もわずかに上がっていて、艶のあるその笑みはハッとするほど美しく、魅力的だった。

「では、フィノ。夕刻、城へ来い。話が聞きたい」

「え………は!?」

 何を言われたのかわからず、フィノは呆けた声を出した。しかし戸惑うフィノにまったく構わず、ラザリス皇帝は周囲の国民をぐるりと見渡すと、よく通る声でこう言い放った。

「みなのもの、我が時代はこれから安泰だとは思わぬか? 一目で凶暴とわかるこのような大鷹までもが、こうして私に挨拶に来たのだから」

 一瞬の間のあと、ワーッ! という大歓声と拍手喝采が起こった。いきなりの音の洪水にフィノはもう何が何だかわからず、あたふたと周囲を見渡すしかない。

 ラザリス皇帝は不敵な笑みを浮かべてザザを見つめていた。ザザもじっと皇帝を見つめ返している。

 ラザリス皇帝が剣先の重みを一切感じさせない優雅なしぐさで剣先をフィノに向けた。するとザザはふわっと飛び上がり、いつもの定位置であるフィノの左肩に身を寄せる。大鷹が動くと周囲の人々の動揺と感嘆で空気が大きく揺れた。

(い、いったい何が起こってるの? どうなっちゃうんだろう?)

 どうしていいかわからず動けないフィノの目の前を、パレード再開とばかりに視線で合図を送り、動き出した皇帝一同が通り過ぎていく。その後もしばらく近衛兵がずらずらと通り過ぎていき、人々の大歓声が再び沸き起こるなか、フィノは真っ白な頭のままそれを眺めていることしかできなかった。

「フィノ! おまえすげーよ! 皇帝陛下直々にお城に招待されるなんて!」

 大興奮したイリに快挙とばかりに後ろから抱きつかれたが、フィノには到底喜べるようなことではなかった。頭のなかは混乱と惑い、それからじわじわと湧き上がってきた恐れでいっぱいで、すでに身がすくみそうだ。

「ど、どうしよう……」

 泣きそうな顔でつぶやいたフィノの本音は誰にも届かなった。ただ、ザザだけが「がんばれ」というように優しく頬をすり寄せてきただけだった。




<4.ラザリスとフィノ>

 まさか自分がこの国の城内に足を踏み入れる日が来るだなんて、想像すらしていなかった。

「『フィノ』だな。話は聞いている。心して通るがいい」

 横柄な態度で告げた大柄な門番兵の合図と共にギギギ……と重い音がして、目の前の頑丈な木の扉が開かれた。夕刻である。フィノはラザリス皇帝陛下の命令通り、皇城にやって来ていた。開かれた扉を前に、フィノはおどおどしながら、それでも仕方なく一歩を踏み出す。

 門番の横を通り過ぎる一瞬、フィノの左肩に乗って周囲を警戒していた大鷹・ザザが、じろりと門番を一瞥した。すると彼はヒッと顔を引き攣らせて、一歩下がる。

「こら!」

 思わず小声で叱り、フィノはザザを黙らせるように鋭い嘴をつかんだ。猛禽類にそんなことができるなんてと、門番が驚愕と畏怖の視線をフィノに寄越してくる。フィノは慌てて、その場から逃げ出すように小走りに扉を抜けた。

 フィノは、はあ、と息をつく。まったく、こんなところに連れてきたのはザザのようなものなのに、なんでもかんでも警戒してフィノの立場を危うくするのはやめてほしい。フィノにとっては肉親そのもの、きょうだいのような存在でも、何も知らない人にとってザザのすべては脅威そのものである。ただでさえ大鷹は攻撃的というのが一般的な認識なのだから。

 下手をすれば、もう二度とこの扉をくぐることもできないかもしれない。ぞっとする考えを打ち払うようにフィノは首を振ると、一度大きく深呼吸してから改めて一歩を踏み出した。

 目の前には広い廊下が続いていた。天井がものすごく高いせいで空間自体がとても広く見える。そして周囲は予想外にざわめいていた。おそらく城に仕えている召使いたちが——いまは姿が見えないけれど——あちこちで忙しく立ち回っているに違いない。内容こそ聞き取れないが、人の会話らしき声や残響が聞こえてくる。

「来たはいいけど……。どこに行けばいいのかな」

 たちまち不安になり、フィノはきょろきょろとあたりを見回した。うろついている姿を侵入者と疑われたら、たまったものではない。とにかく誰か探して声をかけなければと思ったそのとき、耳に心地いい男性の声で「失礼、迎えに来るのが遅くなってしまいました」と声をかけられた。

 勢いよく振り返ると、そこには端正な顔をした背の高い男性がこちらに歩いて来ていた。

 落ち着いた茶色の髪に、すらりと長い手足。深い赤色の軍服が映えている。よく見れば胸にはゼッカー帝国の紋章と、フィノにはわからない勲章のようなものがいくつか付いていた。爽やかな笑みと立ち居振る舞いから品の良さがにじみ出ていて、育ちが良いのは一目瞭然だ。貴族だろうか。

 フィノの近くまでやって来ると、男性はフィノの肩にいるザザを見下ろして「おお」と声をあげる。

「間近で見ると、これはまた……怖そうですねぇ。凶暴ですか?」

 その聞き方はどこか面白がっている子どものようで、フィノはついくすりと笑ってしまいそうになった。慌てて口元を引き結び、「いえ」と返しつつ、いやでも凶暴なのは間違いないかと考え直す。

「あの……性格は怒りっぽいんですが、僕の言うことは聞くので暴れることはない……と思います」

 そう言ってフィノがザザの喉元をくすぐってやると、ザザは眼を細めて小さく鳴き声をあげた。その様子を、これまた生き物を観察する子どものような目で見ていた男性は関心したように何度か頷き、にっこりと相貌を崩して「なるほど」と言った。

 ずいぶん気さくで、親しげな人だ。背が高いからもっと威圧感を感じてもおかしくないのに、まったくそんなことがない。穏やかでいい人そうだと単純に思った。目が合うと、男性はさらににっこりとフィノに微笑みかけてくる。

「挨拶がまだでしたね。私はソイル。ソイル・ルーグラントと申します。ラザリス皇帝陛下の秘書官です」

「秘書官様」

「『様』はいりませんよ。私はこの城に大勢いる臣下のひとりですから。どうぞお気軽に、名前でお呼びください」

 お気軽にと言われてもそう簡単に呼べるわけもない。どうしたものかとフィノが惑っているうちに、ソイルは「それでは陛下のお部屋にご案内します」と歩いていってしまったので、フィノは慌ててあとに続いた。

 広い廊下を奥に進んでいくと、何人もの召使らしき人たちや軍服姿の人たちとすれ違った。彼らはソイルの顔を見ると一様に笑顔で挨拶し、頭を下げて道を譲る。ソイルもまたにこやかに彼らと挨拶をかわしていて、きっと人徳のある人なんだろうなとフィノは思った。そしてさきほどソイルは謙遜したが、秘書官という立場はやはりかなり高位の職務と思われる。

「こちらの大鷹の名前は、確かザザというのでしたよね?」

「は、はい」

「いつから飼っているのですか? ……と、聞きたいところですが、この質問は陛下もなさるでしょうからあとでに聞いた方が良さそうです」

 二度手間になりますからねとニコニコ笑うソイルは親しみやすく、人見知りをするフィノでも安心感を抱かせる。

「私もさきほどのパレードには参加してたんですよ。陛下より少し後方におりました。大鷹が降りてきたときは度肝を抜きましたが、陛下が場を丸く治めて下さったので大きな混乱もなく、本当によかったです。それと、あなたが必要以上に嫌な思いをしなくてよかったと思っていますが……大丈夫でしたか?」

 心配そうな目で窺うように見つめられ、フィノは慌てて縦に首を振った。

「大丈夫です! ……あの、本当にすいませんでした。ザザが……」

「気にしないで下さい。先程申し上げた通り、陛下が丸く治めて下さいましたから」

 言われてみればそうだと、フィノはこのときようやく気づいた。一歩間違えたらあのパレードはたちまち大混乱に陥り、ザザは近衛兵たちの手によって捕獲——どころか最悪殺されてもおかしくなかったのだ。

 当然、『飼い主』であるフィノとて無事では済まされない。あのときあの場にいたほとんどの人から非難の目を向けられ、なじられ、あるいは物理的な攻撃をされた可能性もある。フィノがまだ子どもだとて、容赦はなかっただろう。パレードが始まる直前まで愛想よく話してくれたあの中年女性にも冷たい視線を向けられていたらと想像したら、途端にフィノは背中に寒いものを覚えた。

 しかし実際にはラザリスの機転で事態は混乱とは正反対の吉兆とも呼べる出来事になり、フィノは今こうして無傷で、しかも皇帝の口から直接謁見のおゆるしまでいただいてしまったのだ。それを身に余る光栄の一言で片づけてしまっていいものなのか、フィノの本心としてはまだ複雑なのだけれど。

「しかし陛下のあの『機転』には、正直なところたまげましたよ。陛下はもともと人前にお出になることを好まれません。皇帝らしからぬと思われるかもしれませんが、目立つことをなさりたくないし、興味がないんですね。政務室で黙々と仕事をなさる方がお好きな方なんです。その陛下があのように国民たちを煽って場を盛り上げることまでなさって」

 思い出したのか、ソイルがくすくすと笑い出した。

 しかしフィノとしては顔面蒼白にならざるをえない。困りきって顔が上げられないでいると、気づいたソイルに「大丈夫ですよ」と優しく肩を叩かかれた。

「ほんとうに大丈夫です。だって陛下、笑っていらっしゃったでしょう」

「え?」

「口の端を上げる程度の、うっすらした笑みでしたけどね。私の家は代々皇帝一家にお仕えさせていただいていて、私自身、陛下が幼少期の頃からおそばにおりますが、あんな愉快そうな顔をした陛下を見たのは生まれて初めてです。なんというか——わくわくする、というような表情をなさっておいででした。おそらく、あの場では私しかわからなかったでしょうがね」

 秘密ですよというように口元に人差し指を当てたソイルににこりと微笑まれ、フィノはどう反応していいかわからないなりに、承諾の意味を込めてとりあえず頷いておく。

 それからお互いしばらく無言で廊下を歩き、角を曲がり。廊下の様相が明らかに豪奢になって、目を瞠るような模様の絨毯や照明が現れた頃、前を歩くソイルがぼそりとつぶやいた。

「——なにかが、変わるんでしょうかね」

「え?」

 うまく聞き取れなかったフィノが思わず問いかけたが、振り返ったソイルに「いえ、なんでもありません」と微笑まれ、口を閉じる。

「さあ、着きましたよ。こちらが陛下のお部屋です」

 廊下の先の、奥の奥。ひときわ豪奢で重厚な、美しく飴色に磨かれた木製の扉の前を見上げ、フィノはこくりと唾を飲み込む。

 コンコン、と慣れた手つきでソイルがノックした。

「陛下、ソイルです。フィノさんをお連れしました」

「入れ」

 少し篭った、硬質な声。それが今日の昼間に初めて耳にしたラザリス皇帝陛下の声であることは間違いなかった。

 不安で落ち着かないフィノのとなりから、ソイルが「大丈夫」と励ますように微笑む。そして。

「失礼致します」

 ギイ、という扉の音が、どこか遠くに聞こえるようだった。フィノは扉が開く寸前、肩に乗るザザに手をそっと手を伸ばし、頬を撫でた。

 客人とはいえただの一般庶民が、政務室ではなく皇帝の私室に呼ばれたその事の重大さを、このときのフィノが知るよしもなかった。



「——待っていたぞ」

 開かれた扉の向こうに佇んでいたのは、昼間に見た顔。さらさらと音がしそうなほど美しい漆黒の髪に、光沢のある黒の軍服。ゼッカー帝国皇帝、ラザリス・ヴォン・ゼッカーはそう言って不敵に笑った。

 ラザリスに命じられて彼に近づいたフィノの動きは、さながら油が足りないブリキ玩具のようだっただろう。ぎくしゃくと音がしそうなほど硬い動きを見せるフィノに、しかしラザリスはほとんど興味を示さず無表情に一瞥すると、ザザに視線を移した。

「放し飼いにしているのか?」

「え?」

「この大鷹だ。名は、ザザといったな」

「は、はい。放し飼い……というか、まあ、あの、はい」

 歯切れの悪い返答しかできないことに焦り、それをまた咎められるのではないかということにさらに焦って、フィノは冷や汗をかきながら喘ぐように答える。しかし硬質な雰囲気を纏った皇帝ラザリスは以外にもフィノのそういった態度についてはまったく意に介さず、熱心にザザを眺めている。

「……飼われているとは思わなかった。どう見ても野生にしか見えぬ」

 つぶやくような言い方とその言葉に少し違和感はあったが、まさか口答えなどできるわけがない。フィノは同意を示すように軽く頷くと、

「あ、はい。野生に近いと思います。僕以外に懐いたことはありませんし、あの……怒りっぽいですから」

「咬みつくということか? あるいは爪で襲ったりすると」

「知らない人には、すごく警戒します。さわられるのも嫌なので、自分を守るために攻撃することも、たしかにあります」

 警戒心が強く、凶暴で、攻撃的。そう聞いたら大抵の人間は恐れ慄くはずだが、ラザリス違った。彼はなおも面白そうに、実に興味深そうに不敵に目を細め、なおも熱心にザザを眺めたのだ。

 フィノから見て、ラザリスは頭ひとつぶん、いや、ふたつぶんは背が高かった。間近で見上げるような彼のその不敵な笑みは、彼が非常に美しく端麗な顔立ちをしていることもあってひどく魅力的で、このように容姿に優れている人を今まで見たことがなかったフィノはそばにいるだけで頬が朱くなるほどだった。

 しかし、少しほっとしたところもある。ザザを熱心に見つめるラザリス皇帝のその様子から、あくまで彼の興味関心はザザにしかないことが明白だったからだ。ゼッカー帝国で大鷹はめずらしい。その凶暴性から捕獲自体が難しく、また、一部の人間の間ではある種の神聖性を抱いている者もいる。

「陛下は、大鷹をご覧になるのは初めてですか?」

 言ってしまってから失礼な物言いだっただろうかと冷や汗をかいたが、ラザリス皇帝は特に気にならなかったらしい。

「まったくの初めて、というわけではないが、これほど間近で見るのは初めてだ。歴史書に4代前の皇帝の時代までは大鷹が複数存在していたという記述があったが、その次の代には激減、今ではほぼ絶滅に近いと書かれていたからな」

「4代前…」

 フィノのつぶやきに、後ろに控えていたソイルが補足するように言う。

「つまり、第5代皇帝フォルドー様ですね」

「愚か者のフォルドー。我が一族最大の汚点だ」

 耳ざわりがいい代わりにひどく冷たくも聞こえるラザリスの声音が、すっぱりと切り捨てる。自分の先祖を愚か者呼ばわりするとは一体なにがあったのだろうと思いつつ、その冷やかさに背筋が寒くなる思いがした。

 フィノはそうっと視線を動かし、ラザリス皇帝の表情を窺った。無表情のラザリスは高位の職人が丹精込めて作り上げた精巧な人形のように隙もなく美しく、迫力があった。頭脳明晰で、統治者としてかなり優秀であり、賢君であるとも。しかしその瞳の奥にある鋭さは何を考えているのかわからない恐ろしさもあり、見つめられたら最後、身動きひとつ取れなくなるような威圧感もある。

 ふいに、ラザリスが背を向けた。かつかつと靴を鳴らし、近くにあった豪奢なソファーに腰掛ける。

「フィノといったな」

「は、はい!」

「姓は」

「ラピアス、です。フィノ・ラピアス」

 鋭い眼差しに見つめられ、ただでさえ速かった鼓動がさらに大きな音になってフィノの胸を叩く。

「出自は」

「た、ただの庶民です。両親はいなくて、外街の、ダーナ孤児院に身を置かせていただいてます」

 ふむ、とラザリスがひとつ頷く。

「では——いつからその大鷹と共にいる?」

 目を細めたラザリス皇帝の視線の強さにフィノは縮み上がる思いがした。

 当然の質問だ。ソイルからも一番に尋ねられたのだ。だが、できれば避けたい話題だった。言及されてもどう答えていいかわからなかった。けれど、話さないという選択肢はフィノには無い。フィノはおずおずと口を開いた。

「気がついたときには、もう」

「具体的に、何歳のときだ?」

「たぶん、6歳より前には。6歳のときにお母さんが病気で死んで、一人ぼっちになって、ダーナ先生のところで暮らすようになったので」

「父親は」

「お父さんはお母さんより前に死んじゃったんです」

「母親はなんと言っていた。その大鷹のことを」

「あの……特に、なにも……」

「何も?」

 ぴくりとラザリスの片眉が動いた。心臓が嫌なふうに鳴って、フィノは視線をさ迷わせながら思わず肩に乗ったザザの頬を撫でる。

 するとザザはフィノに顔を寄せて、励ますように自分からも嘴の先をこすりつけてきた。その親しげな様子をどう思ったのか、ラザリスはただじっと観察するような目で見つめてくる。

「……どう表現すればいいかわからないんですけど、きょうだいみたいな感じなんです。いつから一緒にいるのか、僕自身にもわかりません。お母さんは何も言わなかったし、むしろお母さんはザザを頼りにしてるみたいでした。ザザは警戒心が強いから僕を守ってくれると思ってたんだと思います」

「……」

 しばらく、否、だいぶ長い沈黙がつづいた。しかしその間もラザリスの視線がフィノとザザから離れることはなく、文字どおり穴が開くほど見つめられて痛いと感じるほどになったとき、沈黙に耐えかねたフィノが根を上げる寸前でラザリス皇帝が突然立ち上がった。そして唐突に、「その大鷹は、いまは警戒しているのか?」と聞いてくる。

「え? あ、いえ……ものすごく警戒してるわけでは、ないです」

「乗り移ったりはするのか?」

「乗り移る?」

「ここに、だ」

 ここ、と言って皇帝が差し出したのは自分の左腕だった。フィノの肩から飛び移ることはできるのか、と問いたいらしい。

「ええと……僕以外の人に乗ったことがないのでちょっとわからないんですが……」

 ちら、とフィノはザザを見た。ザザはいつものようにすまして前方を見ている。動くそぶりはない。が、フィノに『やらない』という選択肢は無い。

 フィノは自分の左腕を上げ、「ザザ」と飛び移るように促した。……が、やはりザザが動く気配はない。顔すら動かさず、まるで石になったように完全に無視している。

 もちろん焦るのはフィノだ。皇帝陛下の忍耐がどれぐらいのものなのかフィノは知りようもないので、とにかく彼が怒り出してしまわないうちに、なんとかザザに言うことを聞いてもらいたいのだが。

「ザザ! わかんないフリしないでってば!」

 小声で怒っても、やはりザザは無視を決め込むようだった。おろか、突然大きな両翼を広げて皇帝とソイルを驚かせたと思ったら、なんと開いていた窓から外へ出てくるりと旋回し、テラスの柵に舞い降りたのである。

「ザザ!」

 なんてことをと真っ青になったフィノの後ろで、ソイルがおかしそうに笑い声をあげる。

「まあ、相手は動物ですからねえ」

 アハハとソイルはのんきに笑っているが、フィノの頭は『どうしよう』でいっぱいだ。陳謝が先か、ザザを叱るのが先か。頭のなかがてんやわんやでもうどうしたらいいかわからない。

「あ、あのっ、陛下、ほんとうに……!」

 申しわけありませんと土下座せんばかりのフィノが恐怖をこらえてラザリスを見上げたとき、彼はフィノの予想を裏切って、無表情ともいえるほど冷静にテラスに留まるザザを見つめていた。そして、

「——夕刻だ」

「……え?」

 振り返ったラザリス皇帝はあの魅力的な不敵な笑みで、フィノにこう告げたのだった。

「明日の夕刻、またここに来い。もちろん、あの大鷹の連れて」

 おもしろいものを見つけた、子どものような瞳をして。

「おまえたちが気に入った」

 この翌日から、フィノはザザを連れて、毎夕刻、皇城に足を運ぶことになる。

 ラザリス・ヴォン・ゼッカーと、フィノ・ラピアス。二人の時間が重なり始めた頃の話である。



 翌日から、孤児院育ちの庶民の少年は一国を統率する若き皇帝と、毎夕刻を共にすることとなった。

 最初のうちの話題はもっぱら『大鷹』のことだった。書物以外に特に関心を持たなかった皇帝は、今や小さき少年が連れてくる生き物に興味津々だ。大鷹が優雅に空を飛ぶさまや、羽を繕うさま、少年に撫でてもらっているさまを食い入るようにじっと見つめている。それは本当に、まるで子どものように。

 背が高く、顔立ちも端正な我が国の皇帝陛下。本来なら雲の上にいるようなそんな御方が、なんとなく『かわいい』と思えてしまったのは、フィノだけの秘密だ。

 皇城には広い庭がある。腕の良い、専属の庭師が誇りと愛情をもって整えている庭は今日も綺麗だ。

 赤い花に黄色い花、この国では少しめずらしい紫の花まで咲いている。育ててくれる者の愛情と太陽の恩恵を受けた花々を前に、フィノはニコニコと頬を緩ませながら匂いをかいでいた。

「いい匂い…」

 うっとりしていると、気持ちの良い風が吹く。もうすぐ夏が近いからだろう、日没までの時間も随分長くなった。

 フィノは空を見上げた。この庭の中にいるといつも思うことだが、本当に、現実ではない不思議の国にでもやって来たような錯覚を覚える。どこまでも広い庭に、小鳥の囀り。近くを流れる小川からは清純な香りとともに澄んだ音色が流れてくる。

「平和だなあ……」

「――その平和を生み出しているのがこの俺だということ、忘れてはおらぬか」

 ついこぼれた独り言に返事がきたことに驚き、フィノはびくりと肩を揺らした。そしてゆっくりと首をめぐらした先、フィノの後方で両腕を組んで佇んでいたのは、まさに本人が言ったとおりの『平和を生み出している人』、そのひとだった。

 瞬間、フィノは満面の笑みになって即座に立ち上がる。

「陛下! お仕事、おつかれさまです」

 ラザリスはそんなフィノを見て小さく息をついてから近づいてきて、すっと長い腕を伸ばしてきた。反射的に身構えてしまってから、彼がフィノの金髪にくっついていた葉を取ってくれたのだと気づく。

「ありがとうございます、陛下」

 照れたフィノが頬を赤らめてはにかむと、ラザリスはまるで子ども相手にするように、フィノの頭をぐしゃぐしゃと撫でまわした。

 今でこそこんなやりとりは普通になったが、最初は緊張と萎縮で、フィノは自分がどんな発言をしたか、どんな話をしたかの記憶もおぼろげなほどだった。しどろもどろにならない程度に話せるようになるまでおよそ1ヶ月もかかり、さらに自然に笑えるようになるまで2週間はかかった。

 それまで耳にしたことのあった『表情のない皇帝』という噂は本当だった。ラザリスは実に淡々としていて、笑うことはもちろん、怒ることも寂しがることも悲しがることもない。顔立ちが美しいだけによけいに無表情が際立つのだろう。話す声音にもほとんど温度感がなく、そもそもラザリスは言葉数自体が少なかった。二人の間に沈黙が横たわることが常だった。

 反応に乏しいラザリスのそばにいるのは、正直ものすごく疲れた。精神が疲弊すれば当然身体的にも疲弊する。皇城に行く前は『どうしよう』で頭がいっぱい、皇城から帰れば『疲れた』で頭がいっぱいの毎日。しかしフィノに拒否権はない。孤児院長であるダーナはもちろん、仲間である子どもたちや近隣に住む大人たちもみな、一日中ぐったりしているフィノを心配した。

 しかし、状況は静かに、けれど少しつずつ確実に変化していた。

 ある日、フィノは自分が疲れて帰ってくる日の方が少ないことに気づいた。そして、夕刻をなんとなく待ち遠しく思っている自分がいることを自覚して驚いたのだ。

 緊張で石のように固まっていたフィノはいつの間にか緊張のしすぎで疲れてしまい、それが逆に張り詰めた糸が一気に緩んだようになって、ラザリス皇帝をむやみやたらに怖いとは思わなくなっていた。

 相手は確かに我が国の皇帝だ。長く続く血統と、それにを見合った気品を併せ持つ、この国の頂点に座している者。しかし大鷹を見つめる瞳はまったくもって興味津々の子どものそれで、美麗ゆえに圧倒はするが、気分を害したら即刻処刑などの横暴さや威圧さは微塵もない。そのことに、1ヶ月半もかかってようやくフィノは気がついた。

 そうして二人はいつの間にか、出会った頃に比べたら格段に会話をするようになった。

 否、会話といってもべらべらとおしゃべりをするわけではなく、ただぽつぽつと、フィノが孤児院の仲間たちのことや面白かった遊びのこと、ダーナや知人から聞いた話をするだけだ。しかし意外なことに、ラザリスはそんな他愛ない話を好んで、「それで?」とフィノの話のつづきをねだった。これは後になってラザリスの秘書官であるソイルから聞いたことだが、ラザリスが何かを好んだり望んだりすることは本当にめずらしいことらしかった。

 フィノはふと、その話を聞かされたときのことを思い出す。

「――フィノさん。今日は陛下とお話ができましたか?」

「お話、とまではいかないかもしれないんですけど……。なにかの流れで、僕が友達の話をしたんです。でも陛下はこんな話聞いても面白くないだろうと思って、すぐにやめようとしたんですが……」

「が?」

「話せ、とおっしゃってくださいました。お前の話を聞いてみたい、と」

「ほう!」

「なので、僕のいちばん仲の良い友達の話をしました。その子はとても面白くて、一緒にいると僕はいつも笑ってしまうので、その話を」

「陛下はなんと?」

「あの……ちょっとは笑ってくださるかも、なんて期待したんですが……」

「笑って下さらなかった!」

「はい。ちっとも」

「ちっとも!」

「話し終えたあと、『何がおかしいのかわからぬ』と言われてしまいました」

 一瞬の間のあと、どぁっはっは、と何かが爆発したような勢いでソイルに大笑いされた。フィノは恥ずかしいやら悔しいやらで、正直、心中複雑だったのに。

 とにもかくにも、そうしてラザリスとともに夕刻のときを過ごす時間は、最初のうちは30分、しだいに1時間、1時間半と伸びていき、今では夕食までの時間を過ごすことが定番化している。

 そしていつだったか、こんなこともあった。

 フィノが庭先に咲いていた花を綺麗だと言ったら、ラザリスはいつもの無表情で「なぜだ?」と問いかけてきたのだ。まさかそんな返答がくるとは予想もしていなかったフィノは驚いて固まってしまったのだが、それから時間を共有するうちに、彼は、ラザリス皇帝は――とても『寂しい人』なのではないかとフィノは考えるようになった。しかもラザリスは花を美しいと感じない自分を自覚し、そんな自分を『足りない人間』だと冷静に捉え、平然としていたのだ。フィノにはそれがなによりも衝撃だった。

 この人はこの国でいちばん偉い人のはずなのに、どうして自分のことをそんなふうに言うんだろう?

 この人にとってこれが当たり前だったんだろうか? あるいは、こう生きるしかなかったんだろうか? 

 かつてそれで苦しい思いをしたのだとして、でも、誰も助けてくれなかったんだろうか?

 フィノの小さな胸は、その瞬間きりきりと痛んだ。

 寂しい。そんなのは寂しくて悲しいと、身勝手だけれど思ってしまった。

 そして傲慢にも、おこがましくも、もし自分がなにか、ほんの小さなことでもなんでもいい、彼が喜ぶことや嬉しいと思うこと、なにかに対して綺麗だと思えるようなことを、ほんのわずかでも手助けでできたなら、と。

「――陛下! 今日は、少しだけお庭を歩きませんか?」

 勇気を出して、そんなふうにラザリスを庭に誘った。いっしょに花を見て、名前を教えた。どうやって育つのか、どうやって咲くのかを教えた。虫がいれば、その名も教えた。彼らが何を食べ、どんなふうに生きていくのかを教えた。

 次の日は、勇気を出して城の中が見てみたいとねだってみた。ドアのひとつひとつに彫られた小さな模様まで、二人でじっくり見た。そんなもの今まで意識して見たことなどなかったと言われ、新しい発見にラザリスは少し意外そうな顔をしていた。

 ステンドグラスに描かれた絵を、二人でいつまでも眺めた。上を見上げすぎて、二人とも首が痛くなった。ラザリスは少し苦い顔をして、フィノはそんなラザリスを見上げて笑った。

 大きな書庫に入らせてもらって、二人で肩を寄せ合って読んだ。数えきれないぐらいの児童書に釘づけになっていたら何冊か貸してもらえて、その晩、孤児院のみんなで目を輝かせて読んだ。嬉しい、楽しいと孤児院のみんなで笑った。

 フィノはラザリスにたくさん話しかけた。たくさん歩こうと誘った。

 ラザリスはたくさん聞いた。フィノのあとを追って、彼もまたたくさん歩いた。

 そうして月日は流れて、ラザリスと出会って半年が過ぎた。

 会話の内容は相変わらずゆったりで、陽だまりのようだった。ラザリスも相変わらずで、でも、彼が纏う空気がほんのりと柔らかくなったようにフィノは感じている。こっそり打ち明けたソイルも肯定を示して微笑んでくれたから、気のせいではないと思いたい。

 


 フィノの金髪から小さな葉を取ってくれたラザリスを見上げながら、フィノは小首を傾げた。

「さっき、急なお仕事が入ったとソイルさんからうかがいました」

 今日、フィノがひとりで庭を堪能していたのにはわけがある。

 フィノは夕刻、いつのもの時間に皇城に足を運んでいた。しかし出迎えてくれたソイルはなにやら慌ただしく、「外国から急に使者がやって来たんです」「終わるまで庭で待っているようにと、陛下からの伝言です」と告げられたのだ。

 フィノと話す時間は明日も明後日もあるのだから別段焦ることもないし、むしろ邪魔になるぐらいなら今日は帰った方がいいのではないかとフィノは言ったのだが、ニコニコ微笑んだソイルは即座にそれを却下した。

「実を言うとですね、陛下はいつもとなんら変わらないようなお顔をされてますが、実はフィノさんとの時間を邪魔されたことに大変苛立っておられるんです。執務室でペンを放り投げた陛下なんて初めて見ましたよ。ここでフィノさんが帰ってしまったと告げたら私が何を言われるかわかりません。そういうわけで、申しわけありませんがお庭で少し待っていてもらえませんか」

 そこまで言われてしまえばフィノとて反論はない。それに、あのラザリスがフィノとの時間をなんだかたいせつなもののように想ってくれているようで、ただの思い込みかもしれないがくすぐったく、面はゆかった。

 そうして今、ようやっと今日の政務を終えたラザリスが庭にやってきたというわけだ。

「予定では明日の午前に来るはずだった使者が、手違いで今来たのだ。まったく呆れてものが言えぬ」

 時間帯を考えればわかることだろうと、めずらしく苛立った様子でラザリスは吐き捨てた。どうやらご機嫌ななめだと言っていたソイルの言葉は本当だったらしい。

「使者様ですか。どこの国の方ですか?」

「ヴィクスンだ。知っているか?」

 フィノが首を横に振ると、ラザリスは宙に指で大陸を描いて「このあたりだ」と教えてくれた。以前いっしょに地図を眺めながら話をしたことがあったので、学のないフィノでもなんとなく想像はついた。

 ラザリスはフィノを誘導するように歩を進め、やがて庭の奥の大木の麓に腰を下ろした。

「暇だったか」

「いいえ。散歩したり、花の匂いをかいだり、虫と遊んだりしてましたから。さっきまではザザもいたんですよ。今はどこかに行っちゃいましたけど」

 フィノはきょろきょろと辺りを見回した。

「ああ、ここに来る前に見かけた。西の塔の先端にいたぞ」

「お気に入りの場所なのかもしれないです」

 皇城の西に位置する塔はもともと見張り台だった場所だ。ザザはよくそこに行くようで、城の使用人からも何度も目撃されている。

 目を閉じると、さわさわと葉が擦れ合う音が聞こえた。木と木が内緒話をしているような音だ。額を撫でていく風は少しひんやりして心地よくて、まどろみのなかに誘われているような気になってしまう。

 ふと、瞼の裏に光を感じた。うっすらと目を開けると、聳え立つ山々の間に朱色の太陽が隠れようとしている。空には深い青と赤紫が混じり、そのにじみ具合が幻想的だ。

 今日も、一日が終わろうとしている。

「きれい……」

 フィノがつぶやくと、ラザリスがわずかにこちらに視線を向けたのが気配でわかった。

「……お母さんがまだ生きていた頃、一緒にこうやって夕日を見るのは特別なときだけでした。孤児院に入る前まで住んでた家は、ちょっと夕日が見にくい場所だったので。……あんまり覚えてないんですけど」

 そうか、とラザリスが短い言葉で相槌を打った。以前はこんな相槌さえなかった。

 夕日を見ると、だからフィノは少し寂しくなる。明日もきっと晴れるわね、と笑った美しい母の横顔と、ふわふわと風に揺れていた長くやわらかい髪を思い出すからだ。

「……きれいですね」

 空気に溶けるようにフィノはつぶやいた。もう沈黙が怖いとは思わない。

 刻一刻と色合いの変わっていく空を二人そろって眺めていると、やがてラザリスがしずかに言った。

「不思議だ。お前といると、世界がこんなにも違って見える」

 フィノは、ゆっくりとラザリスの方に顔を向けた。

 端正な横顔は夕日色に美しく染まっていて、空を眺める彼の口元は微笑んでいた。

 フィノは肺いっぱいに、ゆっくり息を吸い込んだ。そしてラザリスと同じように空を眺め、ぽつりと告げた。

「……陛下。また明日も来ますね」

 ああ、とラザリスは短い言葉で返事をかえしてくれた。

 目頭と胸の奥が熱かった。 彼のことが大好きだとフィノは強烈に思った。

 フィノの肩に、ザザはいない。




<5.人とは、愛しいいきもの>

 それは、ある日の午後だった。執務室のドアが2、3回ノックされ、秘書官であるソイル・ルーグラントが席を立つ。ドアを開けた先にいたのは、城の警備を担当する隊の隊長だった。彼はソイルと目が合うとぴしりと敬礼する。

「政務中に失礼致します。フィノ・ラピアスの知人だと名乗る男が来ております」

「うん? フィノ本人さんではなく、フィノさんの知人の男ですか?」

「はい。用件を聞いたところ、フィノ・ラピアスは事情により、本日と明日、皇城に来ることができなくなったとのことです」

「――なに?」

 最後の言葉はラザリスだった。

 書類に落としていた漆黒の眼を上げたラザリスの眉間はきつく、ソイル以外の周囲の者たちが息をのむほどだった。



 ラザリスの許しを得て警備隊長に連れられて来たのは30代後半ぐらいの大柄な男だった。男はひどく緊張していて、見るからに大量の汗が噴き出ている。まさか自分が執務室に通されるとは夢にも思わなかったのだろう、男はラザリスを目にするなりひどく眩しいものを見たように目を瞑り、深々と頭を下げる。

「ラ、ラザリス皇帝陛下! お初にお目にかかります。俺、いや、わたしは、あの~……」

「挨拶はよい。用件だけを詳しく話せ。フィノが来ない理由は何だ」

 ラザリスが男の言葉に被せるように簡潔に告げると、男は戸惑いをあらわに視線を泳がせ、助けを求めるようにラザリスの横に立つソイルに視線を向けてきた。礼儀に則った丁寧な挨拶より迅速さを求めているラザリスの意図を正しく汲み取ったソイルは、男にひとつ頷いてから、「陛下の御前ですが、今だけは言葉遣いも気にしなくて構いません。フィノさんが来られなくなった理由を陛下にお伝えしてください」と答えた。

 すると男はいくらか安堵したように肩から力を抜き、はい、と頷く。そして一度大きく深呼吸すると、やや緊張はしているものの落ち着いた口調で話し出す。

「俺は、フィノが世話になってるダーナ孤児院の近所に住んでるモンです。今朝、孤児院に長年勤めていたマートルという老婆が亡くなりまして……。70に近いトシだったんですが、孤児院の子どもらはそりゃもうみんな懐いてまして。私らみたいな近所のモンにも評判が良くて」

 男はそこで、ふうっとため息をついた。

「3日前でした。マートル婆さんが急に体調を崩して……。トシがトシだから、俺たちみんな、万が一のことは覚悟してたんです。それですぐ医者に診せたんですが、本当に突然で、あっという間で」

 そう言って力なく首を横に振る男を見つめながら、3日前という言葉にラザリスは思い当たる節があったことを思い出した。

 確かにその日、フィノの様子は変だった。心ここにあらずといった調子で、名前を呼んでもどこかぼーっとしているフィノに、「体調でも悪いのか」と思わず声をかけたほどだ。フィノは慌てた様子で「すいません。少しぼんやりしていました」と笑っていたが、その笑顔にはあきらかにいつものような輝かしさはなかった。

 ラザリスはそれ以上聞かなかった。フィノの方から話してくれたならいつもどおり聞いただろうが、フィノはそうしなかった。だったらラザリスが聞き出すことではない。

――が。ラザリスの胸の内にはなにか例えようのない、不快感のようなモヤモヤしたものが湧き起こっていた。

 なんなんだこれは。

 経験したことのない感覚にラザリスは深く深く息を吸い込み、しずかに吐き出す。眉間のしわは深く寄ったままだ。

「――そういう事情で、今日と明日でマートル婆さんの葬式をすることになりました。ですから陛下、フィノが来ないことをどうかお許しいただきたいんです。お願いします」

 がばっと音がしそうなほどの勢いで男が頭を下げる。その様子を数秒見つめてから、ラザリスは「ソイル」と秘書官の名を呼んだ。

「フィノを連れて来い。今すぐだ」

「へ、陛下!」

 今それができない事情を話したではないかと、男が悲痛な顔で訴えてくる。ソイルも意外そうな顔をしてラザリスを見ていた。しかしラザリスは命令を下げる気はない。

「事情はわかった。だが、フィノは連れて来い」

 睨みつけるような眼をしたラザリスの様子を少しばかり観察したあと、「かしこまりました」とソイルはきれいに一礼した。



 男が帰り、ラザリスの命を受けた兵たちがフィノを連れてくるまでに実に2時間を要した。

 普通ならありえない遅さだ。ダーナ孤児院は外街に位置し、国の中心地である皇城からもっとも遠い場所にあることになるが、あのあたりは土地の地形や要塞の構造上、近道をうまくつないで歩けばその半分以下の時間でたどり着くことが可能だ。まして、フィノを迎えに行った兵たちは馬に乗っているのだから早すぎることはあっても遅れることなどありえない。

 心がざわざわして落ち着かないまま、フィノとの時間を作るためにいつもより格段に早い速度で書類に目を通し終えたラザリスは、フィノの到着を半ばイライラしながら私室で待っていた。そうしてようやく目的の人物の到着を知らされ、ドアをくぐってきた彼に一言言ってやろうと口を開きかけたラザリスは、

それまでの胸のざわつきが嘘のように、スッと冷えた心地を味わった。

「……フィノ」

 フィノの顔色はひどかった。真っ青で、ひどく泣いたせいだろう、瞼が重く腫れぼったくなっている。まるで何年も会っていなかったかのようにやつれた印象で、眩く光らんばかりだった瞳は見る影もなく、暗く濁っているようにさえ見える。なにより、生気というものが感じられなかった。

 フィノの肩に乗っていたザザがバサッと両翼を広げ、この部屋での定位置でもある本棚の上へ飛び移る。そしてラザリスを責めるように、鋭く眼光を細めた。

 ドアのところでぼんやりと立ったままのフィノに視線を戻したラザリスは僅かに逡巡したあと、コツコツと靴を鳴らして小柄な彼に近づいた。

「……泣いたか」

 俯き加減でも、フィノの瞳が充血していることははっきりわかった。長い睫毛は涙を吸って重く垂れている。ただただ痛々しい。

 ラザリスはフィノの目尻を優しく撫でた。猫のように細められる。

 ラザリスは顔を上げた。ドアの脇にはソイルが控えている。

「何か温かいものを」

「かしこまりました」

 そしてラザリスはフィノの肩を抱くと、ソファーに促した。



 ラザリスは自分が戸惑っていることに狼狽していた。

 フィノの肩を抱く腕に困惑が滲む。少しでも強く触ったら壊れるのではないかと心配になる。もともと小さな身体が、昨日よりはるかに小さく感じられるのだ。

 出会ったばかりの頃のフィノとは違う。あの頃は皇帝であるラザリスを前にただただ緊張し、無礼のないようにと気を張り詰めていただけだったが、今は弱りきって頼りない。ここ最近は他愛ないことでもすぐに笑顔を見せてくれていただけに、ラザリスもどうしていいかわからない。

 ソイルはすぐに鎮静効果のある茶葉で淹れたお茶と、身体も冷やさない方がいいでしょうと、柔らかな毛布を持ってきた。ラザリスはそれでフィノの身体をくるみ、改めて肩を抱いてやる。

 フィノはお茶の器を持ったまま飲みもせず、虚ろに、ぼうっと座っていた。ソイルがドアの向こうに消え、パタンと小さな音を立てるのがやけに重く響いた。

 沈黙が場を支配する。

 ラザリスは自分が今どうすればいいのか、どうしたいのかがわからなくなっていた。

 フィノが来ないということを聞いたときはとにかくそれを許すことはできず、「今すぐ来い」と強引に命じてしまったが、いざこんな状態のフィノを目の前にしたら何をどうしていいかさっぱりわからなくなってしまった。ただ、はっきりわかるのは罪悪感だ。

 ラザリスは深く息を吸うと、心を決めて口を開いた。

「話は聞いた」

 ラザリスが静かにそう告げた瞬間、フィノの瞳からどっと大粒の涙がこぼれた。

 眉間をぎゅっと寄せ、顔はくしゃくしゃと歪んで、声が出るのを耐えるように震える口元をきつく引き結ぶ。しかし涙は止まらず、次々にあふれ出る大粒の涙はあっという間にぼとぼととお茶の器に落ちていった。フィノは声にならない嗚咽を必死に嚙み殺す。

 瞬間、ラザリスはフィノを強くかき抱いていた。

 理由はわからない。だが、そうしなければならないと強く思った。目の前で声もなくフィノがかわいそうで、哀れで、ラザリスの胸の方がはち切れそうなほど痛かった。それは強烈な衝動だった。

 ラザリスが抱きしめると、フィノはついに糸が切れたように声をあげて泣いた。生まれたての赤ん坊のように泣いた。

 ラザリスの耳元で泣きつづけるフィノの声は悲痛という言葉そのものだと思った。ラザリスはやりきれなくなって、何度もフィノの頭を優しく撫で、自分の頬をフィノの頬にすり寄せた。

 どうしていいのかわからないのに身体は勝手に動いた。ラザリスは宥めるように、抱いたフィノの身体を揺らしてやった。背中をポンポンと規則的に叩いてやると、フィノは何度もしゃくりあげながらラザリスの頬に自分の額を押し当て、顔を埋めてまた泣いた。

 ひっくひっくと喉を引き攣らせるような声を出しながらも、次第にフィノは泣き止んでいった。昨日から泣きつづけて疲れたのだろう、ぐったりと全身の力を抜いてラザリスにもたれかかってくる。

 すでにお茶は冷めてしまっていたが、ラザリスは器を手に取り、手ずから飲ませてやった。幼子のようにお茶を飲むフィノの様子を観察しながら、ラザリスは少しだけ安堵する。器をテーブルに置き、涙を優しく拭い取ってやると、ラザリスはまたフィノを抱きしめた。いま自分にできることはそれしかないと思った。それでいいと思った。

 ラザリスの両腕にすっぽりと収まってしまう小さな身体を抱っこするように軽々と持ち上げ、窓に近寄った。太陽が沈みかけている。もうすぐ夜だ。

 フィノをくるんでいる毛布を直し、ラザリスの肩に片頬を預けているフィノを見つめた。フィノは目を閉じ、規則的な呼吸を繰り返している。泣き疲れて眠ったのだろう。懐いていた老婆が危篤状態だったのだから、もしかしたら3日前からほとんど寝ていなかったのかもしれない。滑らかだった頬は荒れ、少しこけている気がした。食事もほとんど喉を通らなかったに違いない。ラザリスは手の甲でフィノの頬を撫で、それから額にかかった前髪をどかしてやりながら頭を撫でた。

「――ソイル」

 ドアに向かって言い放つと、秘書官はすぐに顔を出して一礼する。

「馬を出せ」

「どちらまで」

 ラザリスはフィノの丸く、子どもっぽい額にひとつ口づけを落とした。

「ダーナ孤児院だ」

 ザザが両翼を広げ、たったいま開いたドアから出て行った。まるで案内役を買って出たように。



 ラザリスがソイルと護衛を伴ってダーナ孤児院を訪れると、当然ながらあたりは騒然とした。一国の皇帝がお忍びとはいえ外街に、しかも孤児院にやってきたのだ。前触れを出しておいたので場が混乱することはなかったが、葬儀準備に追われていた大人や子どもたちはみな驚き慌てて、転がるように孤児院前に集まってきた。なかには孤児院関係者ではなく近隣住民とおぼしき人々も多く、昼間に城にやってきた男が言っていたように、マートルという名の老婆がいかに地域に愛されていた人物だったかがうかがえた。

 大人たちや子どもらがラザリスに深く頭を下げる。愛馬に跨ったラザリスは彼らの頭上からその光景を眺めた。ここまで先頭をきって優雅に飛んできたザザは、今は孤児院の玄関に掲げられているエンブレムの上に止まり、羽を休めている。

 ラザリスはここまで大事に抱えてきた毛布の塊をしっかりと抱きなおすと、いっさい無駄のない動きでなめらかに愛馬から降りた。両手がふさがっているラザリスをソイルが補助し、愛馬は護衛隊長に預けられる。

 ラザリスは上等の毛布の中身を少し開けて、中を確認した。そこには目元を赤くしたフィノが赤ん坊のように健やかな寝息を立てて眠っている。馬で駆けてくる間も一度も目を覚まさなかったので、かなり熟睡しているようだ。

「フィノ……!」

 大人たちの間から這い出るようにひとりの少年が駆けだしてきた。年の頃はフィノと同じぐらいだ。もしかしたらフィノが親友だと言っていたイリという少年かもしれない。

「案ずるな。眠っているだけだ」

 イリ少年も目を腫れぼったくしていた。孤児院の子どもたちはみな同じように目を赤く腫らしているに違いない。イリ少年の後ろから昼間に城にやってきた大柄な男が近づいてきて、ラザリスの腕からフィノを受け取ろうと手を伸ばしてきたが、ラザリスは首を振ってそれを断るとフィノを抱いたまま孤児院の玄関に向かった。

 そこにはひとりの老女がいた。彼女がこの孤児院の長であるダーナだろう。足が悪いようで杖をついていて、反対側には若い修道女が寄り添って支えている。老女は深く頭を下げてラザリスを出迎えた。

「ラザリス・ヴォン・ゼッカー皇帝陛下、お初にお目にかかります。この孤児院の院長を務めております、ダーナ・オクトと申します。見てのとおり足を悪くしておりまして、お出迎えが遅くなってしまい誠に申しわけございません」

「よい。気にするな」

 ラザリスが返すと、ダーナは「お慈悲に感謝いたします」と温かく微笑み、またゆっくりと頭を下げる。

「我が子、フィノ・ラピアスがいつも大変お世話になっております。フィノは毎日、帰ってくるとそれはそれは嬉しそうに陛下のお話をするのですよ。私も喜色満面に陛下のお話をするこの子が可愛くて可愛くて」

 ふふ、と微笑みながら、ダーナはラザリスの腕のなかで眠っているフィノを見つめた。慈愛のこもったまなざしだった。人格者であったというマートルだけでなく、彼女もまた子どもたちをはじめとした地域住民から慕われる存在に違いない。

 ふ、と溜息のような息をついたダーナの表情にうっすらと影が差した。微笑んでいるのに寂寥感に満ちたその表情には、同胞を失った悲しさがあらわれている。

「陛下。本日はマートルの弔いにわざわざ御足をお運びくださって、本当にありがとうございます。きっと本人がいちばん驚いておりますわ」

「今回のことは残念であった。だが、人は生まれた瞬間から死を覚悟して生きてゆかねばならぬ運命にある。気落ちすることは当然だが、ここで足を止めず、故人のためにも前へ進んでいってほしい」

 ダーナはゆっくりと頷きながら、涙でにじんだ瞳をラザリスに向けて僅かに笑みを見せた。人々がすすり泣く声が響く。

「本当にありがとうございます。そのお言葉を胸に悲しみを乗り越え、明日を迎えて、そしてまた、笑顔溢れる場所となれるよう精進致します」

 ダーナはそこでまた深々と頭を下げると、優しい瞳でフィノを見つめた。

「お手数をおかけしました。陛下のお手を煩わせてしまいましたわね」

 ダーナの視線を察して、彼女の後ろに控えていた別の修道女がラザリスからフィノを引き取ろうと腕を伸ばしてくる。しかしラザリスはそれにも「よい。部屋はどこだ」と断り、自ら寝台へ運ぶ意思を示した。その瞬間、修道女たちだけでなくラザリスの後方に控える護衛たちも驚いたように目を瞠ったが、ダーナだけはすぐににっこりと相貌を崩した。

「ご案内しますわ」



 案内された部屋の寝台にフィノを横たわせると、ラザリスはマートルの棺がある場所を尋ねた。ダーナはこれにも笑顔ひとつで応え、恭しく案内をした。

 ラザリスの後ろにはソイルと護衛隊長が付き従い、さらにその後ろに孤児院の子どもたち、そして近隣住民たちがつづいた。

 孤児院の一番奥に、一生を終えたマートルが静かに眠っていた。ラザリスは護衛を含めた人々を部屋の入り口に留まらせると、ゆっくりとマートルに近づき、その相貌を見つめる。

 人の死に顔には、その人物の一生が表されるという。

 フィノが懐いていたその老婆は、とても安らかな顔をしていた。ただただ安らかで、本当に『眠っているような』という表現がふさわしい。その口元はわずかに微笑んでさえいるように見える。

 コツ、と踵を合わせる音が響いた。

 ゼッカー帝国の若き皇帝は、右手を自身の左胸に当て、ひとりの老女に静かに黙祷を捧げた。それに倣い、ソイルたちは敬礼を、人々は黙祷を捧げ、部屋はしばらく静寂に包まれた。



 フィノが目覚めると、太陽はすでに高く昇っていた。よく寝た、と思った。上半身を伸ばしながら周囲を見渡すと、ここが自分の部屋ではないことに気づく。

 途端ハッとして起き上がった。そして眠る前のことを思い出してみる。けれど混乱しているからか、なかなか記憶が蘇ってこない。

「目が覚めましたか?」

 静かで温かみのある声にフィノは振り返った。開け放たれていたドアに佇んでいたのは、フィノの第2の母といっても過言ではないダーナだった。

「先生、僕……!」

 混乱して言葉が続かないフィノの様子にダーナは微笑み、皺だらけの右手を差し出した。

「いらっしゃいな。マートルに最後のお別れを言わなければ」

 その言葉で、現実を思い出したフィノの瞳は再び涙に溢れた。自分を優しく包んでくれていた毛布を握りしめる。

 マートルの葬儀は静かに執り行われた。みな無理はせず、泣きたいときは泣いて、けれど悲しみよりも感謝の気持ちをたくさん込めて彼女を送り出した。別れの歌は空に溶け、花は風に吹かれて踊った。

 愛しいひとが亡くなるのを見るのは、フィノの短い人生において2回目だった。これが最後であってほしいと、叶わない願いだとわかっていて、どうしても願ってしまう。切ないほど、それはフィノの本音だった。

 葬儀のあと、孤児院の子どもたちと修道女たち、そして葬儀に参列してくれた近隣住民たちは大広間に集まってダーナの話を聞いた。

「マートルが空へ旅立ってしまったことは、しばらく皆の心の傷となるでしょう。でも悲しんでばかりでは、きっとマートルも浮かばれないわ。自分の死を悲しんでくれることはもちろんありがたいこと。でもそこで皆が立ち止まってばかりいたら、あのマートルのことですから、きっとヤキモキして空で怒ってばかりになってしまうでしょう」

 ふふ、とダーナは優しく笑った。人々も、泣き濡れた顔に少しだけ笑みを覗かせる。そう、マートルという人はそんな快活な人だった、と。

「だから、みんな。今日と明日だけは、マートルを想って泣きましょう。でも、明後日からはマートルのことを想って笑いましょうね」

 小さな子どもたちはダーナのわかりやすい話を真剣に聞き、ぽろぽろと涙をこぼしながらも「はい」と素直に頷いた。ダーナはその返事を待って、ひとつ頷き返す。

「それから皆も知っているとおり、昨晩我が国の皇、ラザリス・ヴォン・ゼッカー皇帝陛下がマートルの死を残念に思い、お祈りを捧げるためにこちらにおいでくださいました」

 その言葉にフィノはハッとした。そして突然ダーナに「フィノ」と名前を呼ばれ、慌てて立ち上がる。

「今日の夕刻、いつもの時間に、皇帝陛下のもとへお行きなさい。そして私たちが心から感謝していたということを、私たちに代わってしっかりと伝えてきてほしいの。それから、あなたも充分にお礼をお伝えしなさい。眠ってしまったあなたを大事そうに抱きかかえて、陛下自ら、ここまで送り届けて下さったのですから」

「えっ……!」

 陛下自ら、という言葉にフィノは心底驚いた。そしてその瞬間、記憶の残像が呼び起こされる。

 耐えきれなくなって大声をあげて泣いたあのとき、ラザリスは力強く抱きしめてくれた。激情を放出するしかできなかった小さな自分を、何も言わず許して、慰めてくれた。

 ラザリスの腕はあたたかかった。大きかった。背を叩いてくれて安心した。慈しむように頬を撫でてくれた。

 思い出せば思い出すほど、フィノの頬は、いや、顔中があっという間に熱く火照って、どこかに隠れたいほど恥ずかしくなる。

 でも、それでも、フィノは笑顔にならずにはいられなかった。

 嬉しかった。とてもとても、嬉しかった。あのとき抱きしめられた力強さを思い出したら、安堵感でまた涙がこぼれそうになる。

「陛下は」

 ふるえそうになる唇を一度きゅっと噛んで、フィノは笑顔で言った。

「陛下は、僕を抱きしめてくれました。ラザリス陛下は、とてもやさしいひとです」

 ダーナはにっこりと微笑み、頷いていた。



 夕刻、フィノはいつものようにラザリスのもとへ訪れた。

 心なしか心配そうな顔で出迎えてくれた彼に、たくさん感謝を伝えた。貸してもらった毛布の話をすると、あれはもうお前のものだから返さなくていいと言われた。だからまた感謝の気持ちを伝えたら、頭と頬を優しく撫でられた。

 大きな手だった。あたたかい手だった。

 ありがとうがあふれすぎて思わずその手を掴んでしまったら、今度は抱きしめてもらえた。

「――お前の笑っている顔が好きだ」

 耳元で告げられた言葉に、涙が止まらなかった。

 そしてやっぱり、僕はこの人が大好きだと思った。




<6.拒絶の意味と、思惑>

 ソイルが静かにペンを走らせる音とラザリスが書類に目を通す際の紙の音が、沈黙のなかでやけに大きく響く。この日、膨大な書籍と資料で埋め尽くされているラザリスの執務室には、厳格な顔つきと立派な体躯をした初老の男性が訪れていた。

 初老といってもその身体は屈強に鍛え抜かれており、それは同時に、彼が日々の鍛錬を怠らない努力家であることを物語っている。顔や髪に老いは見えるものの、端正な造形はひどく整っており、この男が数十年前は随分な男前として名を馳せたであろうことは容易にうかがえた。

「陛下、そろそろお返事をいただきたいのです」

「何度も言わせるな。まだその気はない」

「では、そのその気とやらはいつ頃陛下のもとに訪れるのですか。そんな曖昧で不確かなものに頼らなければいけないものではないはずです」

「黙れ。その気はないと言っているのがわからぬか」

「わかりませぬ。こればかりは陛下のお心だけの問題ではございませぬ。いわば国の一大事です。これ以上、わがままをおっしゃるのはおよし下さい」

 小言、小言、小言だらけだ。

 もう数十分前から続いているこの小言に、ドア近くの机に座るソイルはこっそりと溜息をつき、ラザリスはうんざりと肩から息を吐き出した。無視して書類に目を通そうとも、気が散って仕方ない。

「出て行け。お前との話は平行線だ」

 ラザリスが冷たく言い放っても、男は少しも引けをとらない。睨まれても眉ひとつ動かさず、主君を見つめ返してくる。

「陛下、何をそんなに渋るのです。皇帝たるもの、国の利益を一番に考えるのは当然のこと。陛下が即位されて2年、御歳は19でございます。前皇帝ハイドマンド様と比べたら遅いぐらいなのですよ」

「比べることか?」

「ええ、比べることです」

 ラザリスは苛立ちをあらわに椅子から立ち上がった。まったく本当に、うんざりする男だ。

 この男の名はソルバー・グレイヴ。ゼッカー帝国においてラザリスの次に絶対的な権力をもつ、最高位の大臣である。厳格で真面目な性質、加えて主君には忠実。そして誰よりも愛国心が強いグレイヴを、ラザリスはソイルとは違った意味で、主に政治・統治の面でとても信頼してきた。だが反面、彼は頑固で融通がきかない部分がある。今がちょうどそんなときだ。

 もちろん、グレイヴは闇雲にラザリスを苛立たせているのではない。むしろすべてをわかっていて、あえて主君に対し厳しい態度を取っている。すべては国のためだ。そしてそれは結果的に、いまグレイヴを疎ましく思っているラザリスのためになることもわかっている。厭われてなお、グレイヴは主君とこの国の未来について、つねに最善を求めて動いている。

 ラザリスもそれは理解している。グレイヴの願いと、その行動理由を理解することはできるのだ。だが、理解できるからといって唯々諾々と従うかといわれたら、それはまた別の話だ。なぜならラザリスには意思がある。……だというのに。

「陛下、ご決断ください。この老いぼれの目が黒いうちに、次代を担う陛下の御子の姿を、しかと見ておきたいのです」

 ラザリスはもう何度目かの溜息をついた。



 ゼッカー帝国に即位して1年経つ頃には、すでにラザリスの縁談話はいくつかあった。否、正しく言うと前皇帝のハイドマンドが床に臥せ、回復の見込みがないことがはっきりした時点で、大臣たちは未来の皇帝の伴侶探しを秘密裏に進めていたのだ。

 それは一見、薄情にも聞こえるだろう。しかし世継ぎ問題というのはいついかなる時代でも国内の最重要事項であり、諸外国では皇子が誕生した瞬間から伴侶の選定が始まるところもあるという。それほど、政のなかでは決して楽観視できない。

 前皇帝ハイドマンドは国民から好かれ、太陽に例えられるほど愛された存在だった。そのハイドマンドが病床でつねに懸念していたことがひとり息子のラザリスだったことは周知の事実だ。当時から最高位の大臣の地位に就いていたグレイヴはハイドマンドを励ましつつ、ラザリスの伴侶についても経過報告を行っていた。

「息子を――ラザリスを、頼む」

 ハイドマンドが命の灯火を消す寸前、グレイヴはハイドマンドに手を握られ、最後の命を受けた。

 妻・ティアーユが亡くなってから、ハイドマンドが誰よりも愛した存在。その希望の存在を託されたとき、グレイヴはしっかりと主君の手を握り返した。

「グレイヴ。お前がいれば、安心だ」

 そう告げた数日後、第8代皇帝ハイドマンドは眠るように息を引き取った。

 グレイヴはいまでも、あの瞬間のすべてを昨日のことのように思い出せる。そしてそのたび、主君であるハイドマンドに、自分自身に誓い改めるのだ。

 必ずや、主が愛したすべての者とこの国をより豊かなものにしてみせる、と。

 昨日よりも今日。今日よりも明日。これ以上ないほどの幸福に包まれた国にするのだと。

 だから今回の件で、今日こそグレイヴは黙って引くわけにはいかないのだ。どうやっても、ラザリスには早急に妻となる人を娶ってもらわなければならない。

 確かにラザリスはまだ若い。だが、19歳で結婚というのは皇帝という地位を考えれば決して早すぎることはなく、百歩譲って結婚とまではいかずとも、せめて婚約という確証がほしい。未来が誰にもわからない以上、いまできることはいま手を打っておきたいのだ。

 時局を鑑みるに、諸外国と戦争が起きることはなくとも天変地異は起こるかもしれない。あるいは天変地異は起こらずとも、ある日突然流行り病に襲われるかもしれない。可能性を言い出したらそれこそきりがない。

 だが、手遅れになるようなことはなんとしても防がなければならない。もしそんなことになったとしたら悔やんでも悔やみきれず、一生の半分以上を共にしたかつての主君、そして生涯の主君ハイドマンドに顔向けができなかった。この時代でゼッカー帝国の歴史を止めるわけにはいかないのだ。

 しかし、グレイヴには釈然としないことがあった。それは、なぜラザリスがこんなにも結婚について消極的なのかということだ。

 グレイヴがよく知るこれまでの彼ならば、極端な話、「明日御結婚なさってください」と言われても、それが国のためならばと頷きひとつで了承するだろうと思われた。が、実際のラザリスは違った。その気はない、の一点張りだ。今までのラザリスからはもっとも想像できない言い分だった。

 思い当たる節がないわけではない。最近のラザリスは少し雰囲気がやわらかくなった。美しい顔立ちと漆黒の軍服が醸し出す高潔さは相変わらずだが、どことなく冷たさのようなものがなりをひそめた。一体なにが、彼を変えたのか。

「それとも――陛下にはどなたか、お心に決められた方がいらっしゃるのですか?」

 グレイヴは一瞬たりともラザリスから目を離さなかった。

 書類に目をとおし、羽ペンを走らせていたラザリスの手元がほんの一瞬ぴくりと揺れる。そしてゆっくりと視線を上げ、グレイヴを真っ直ぐに見つめ返して言い放った。

「いるわけがないだろう」

 それはいつもの無表情だった。しかしグレイヴは睨むような目で、主が溺愛していたひとり息子をしばらくの間、見つめつづけていた。



――なぜ今、俺は戸惑った?

 いつもの無表情の裏で、ラザリスは内心で首を傾げていた。

 これまでの自分なら間違いなく即答できる内容だった。なぜなら自分はこの国の皇帝だからだ。

 皇族の婚姻とは結局のところ契約に近い。相手が国外の者であれば政略結婚に違いなく、意味合いはさらに強いものになる。皇帝ともなればなおさらだった。皇帝は自身の感情よりも国の利益を最優先しなければならない。女、子どもがこぞって読む物語のような夢見がちな恋愛結婚などあるはずもなく――-だからそう、父皇のハイドマンドはかなり特殊だった。

 皇子としてこの世に生を受け、記憶にないほど小さな頃にすでにラザリスは自分の運命を理解し、受容していた。ゆえに、たとえ『その気』がなくとも自分がゼッカーの血を受け継いでいるかぎり結婚は絶対条件であり、否定も拒否もなかった。言葉を選ばずに言えば、ラザリスは結婚というものに対して夢も希望も憧れもなく、ただの公務のひとつ――義務だったのだ。だとすれば相手などどこの誰でも同じで、とにかくゼッカーに一番の利益になればそれでいいとさえ考えていた。

 だが、今はどうだろう。

 なぜか今の自分には、まだ結婚したくないという拒絶があるのだ。その気がないという言い方は、本当は正しくない。そう、自分ははっきりと、まだ結婚したくないのだ。

 しかしなぜそう思うのかはわからない。ラザリス自身もついさっき自覚したことに戸惑うばかりで、予測も想像もつかない。もしかしたらフィノと出会い、彼とのやりとりのなかでいろいろと知り得たことで、多少なりとも自分に変化があったのだろうか。

 わからない。けれど、とりあえず今、結婚する気はないという気持ちはラザリスのなかでたしかなものだった。

 ラザリスは書類から顔を上げ、事務処理つづきで凝り固まった上半身をぐぐっと伸ばした。

 座り続けていたせいで身体が硬い。椅子から立ち上がり、グレイヴに背を向ける形で窓に近づき、外の景色を眺める。窓に反射する厳つい顔を盗み見て、ラザリスは大きく溜息をついた。

 今日はいつまで粘る気なのだろうか。うっとうしくてかなわない。どうせ見るなら、こいつの顰めっ面より、フィノのあの愛くるしい顔を見ていたいのに。

 ラザリスはフィノのことを思い出した。

 今日はどんな話を持ってくるのだろうか。どんな顔をするだろうか。今日もまた、昨日のように声をあげて笑ってくれるだろうか――知らず、ラザリスは目を細める。

「――では、私どもの方で陛下の花嫁候補を幾人か選出してもよろしいでしょうか」

 グレイヴの低い声にラザリスは一気に物思いから冷め、またうんざりした。

 とにかく部屋から出て行ってほしい。自分の仕事そっちのけで、こいつはよほど暇らしい。

「陛下、お返事をいただかなければ私どもも――」

「勝手にしろ!」

 言ってしまってから、ラザリスはハッとした。

 立場上、曖昧な発言はしないよう努めてきた。たとえ面倒くさいと思うことでも最終的な判断を他者にゆだねてはならないと、皇帝である自身がもつ発言の重みをラザリスに躾けた張本人こそ、このソルバー・グレイヴだったからだ。

 だからラザリスはこう言うべきだった。余計なことはするな、と。

「その御言葉を待っておりました」

 振り返ると、グレイヴは策士の顔で不敵な笑みを浮かべていた。嫌な男だ、ほんとうに。

 こうなってから気づく。いつまでもだらだらと部屋に居続けたのは意図的だったのだ。うんざりしたラザリスが油断するのを虎視眈々と狙っていた。

 かすかな音を立てて茶器を置き、立ち上がったグレイヴがまっすぐにラザリスを見つめる。立ち居振る舞いにまったく隙がない。さすがは元剣士。

「陛下。今の御言葉、もちろん二言はございませんな?」

 グレイヴの合図で近寄ってきた文官が持っていた紙束の中から書面を引っ張り出す。

「陛下の花嫁候補として、すでにうってつけの者がおります」

――はめられた。

 ラザリスは苦虫を噛み潰したような顔を禁じえなかった。



 夏も終わりの姿を見せ始め、代わりに秋の色が覗くようになったこの季節。太陽が大地を照らす時間は少しずつ短くなってきていた。

 ラザリスと他愛ない話をする時間が増え、大きな木の麓でふたり並んで夕日を眺めたのが夏の始め頃。帰り際、「また明日」と告げて別れたあの夕空が、今では皇城に着いた頃にすでに見えてしまう。だからフィノが皇城を去る時間、あたりはもう真っ暗だ。

 14歳とはいえフィノは小柄で、外見もまだあどけなさが残る。孤児院に帰るときは送っていってやるとラザリスに言われたのは、つい先日のことだった。

 正直なところ、馬で送ってもらえるのはありがたかった。孤児院に早く帰られるからだ。けれど騎馬兵には騎馬兵の仕事があるのだし、いくら皇帝の命だとはいえ庶民の分際でと、フィノには気が重かった。だから最初フィノは丁重に固辞したのだ。「ザザもいますし、大丈夫です」「街灯で道は明るいですし」と。しかしラザリスは納得しなかった。

「ならぬ。何かあったらどうするのだ」

「何か、って……。でもほら、陛下の統治のおかげで最近は物騒な話も聞きませんし」

「フィノ。何かあってからでは遅い。いいから乗っていけ」

 皇族だけがもつ金色の瞳は真剣そのもので、整った顔立ちも相まってじっと見つめられると言葉が続かなくなる。どうすればいいか迷ってフィノが俯いてしまうと、ラザリスはさらに言った。

「お前に何かあったら、みなが心配する」

「みんな……」

「そうだ。ダーナや、お前の親友。孤児院の子どもたち。それから俺も」

「陛下も?」

 とっさに顔を上げると、ラザリスはいつもの無表情で、しかしはっきりと頷いた。みるみるうちにフィノの顔に笑みが広がっていく。そしてようやく「はい」と頷いたのだった。

 ラザリスはどんどん変わっていく。出会った頃からは考えられないほどに。

 もっと感情が出るようになったら、もっともっと表情が豊かになったら、あのひとはどんなふうになるのだろう。

 見てみたい。そしてそのときは、今よりもっともっとおしゃべりをしてみたい。ほんとうの、本来の、ラザリス・ヴォン・ゼッカーというひとと。

 想像すると楽しかった。嬉しかった。そしてたぶん、その日はそう遠くない未来に訪れるような期待感があった。

 フィノが微笑みながら嬉々として歩いていると、見慣れた大きな門と門番兵たちが見えてくる。バサッと羽ばたく音が頭上から聞こえ、ほどなくしてフィノの左肩にゆっくりとザザが舞い降りてきた。

「こんにちは」

 大柄な門番兵らに挨拶をすると、仕事のことで話し込んでいたらしい彼らはフィノを振り返り、愛想良く笑みを返した。

「よう、フィノ。それからザザも。今日もご苦労さんだな」

「フィノが来たってことは、もうそんな時間か」

「どうりで文字が見えにくいわけだ。日が沈みかけてら」

 紙面から顔をあげた門番兵の一人が空を仰ぎ見る。それにつられて、フィノも夕日を眺めた。

「今日の夕日もきれいですね。また明日も晴れるかな」

「そうだな」

 ラザリスやソイル以外で、フィノが皇城でもっとも顔を合わせてきたのが彼らだった。最初の頃こそ大岩のような体つきをした彼らにフィノはただただ怯え、彼らもまた小さなフィノを訝しげに見下ろしていたが、いまでは顔見知りという関係性を超え、ときには雑談もする年の離れた友人とも呼べる仲になっている。

「フィノ、早く陛下のところに行っておあげ。きっと首を長くしてお待ちだろう」

「そうそう。俺たちがここでフィノを足止めしていたと知れたらどんなお叱りを受けるか」

「ソイル様は神出鬼没だからな。思わぬところからひょいと顔を出されて、面白おかしく陛下にご報告されてはたまらん」

 はっはっは! と快活に笑い合う門番兵たちの表情や口ぶりに嫌味はなく、我が国の皇帝や秘書官への親しみにあふれている。フィノは外国に行ったことはないが、こういうとき、ゼッカーの国民は皇帝と心の距離が近いことを実感した。日頃のラザリスの手腕の賜物だろう。笑い合う彼らの様子に、フィノもくすくすと笑みをこぼす。

 そして我が国の皇帝はここ数カ月で驚くほど変化した、ともっぱらの噂だった。フィノがラザリスのもとに通うようになってからだ。孤児院育ちの少年と大鷹。その存在がどうやらラザリス皇帝に良い影響を与えたらしいと、いまや皇城でフィノとザザのことを知らない人間はいない。

「じゃあな、フィノ。気をつけて行けよ」

「はい。ありがとうございます」

 フィノが彼らに手を振り、開かれた門を抜けると、彼らもまた大きく手を振って見送ってくれた。

 ちなみにフィノが帰るときに孤児院まで送ってくれるのは、彼ら門番兵が警備隊として所属する部隊、枝分かれしているいくつもの部隊の頂点にあたる統括司令官だ。フィノが初めてそのことを告げられたときは真っ青になったものだが、件の統括司令官――レーガー・マッケンジーと名乗ったその人と引き合わされたその日のうちに、フィノはこの男のことが大好きになってしまった。

 レーガーはフィノより頭みっつぶんは高く、筋肉隆々で、猛獣の鬣のような豊かで長い髪をしていた。これまで歴戦を潜り抜けてきたのだろう眼は鋭く勇ましく、仁王立ちでこちらを見下ろしてくる視線だけで縮こまりそうだったのに、彼はフィノと目が合った瞬間、にかっと少年のように笑ったのだ。

 レーガーは大の子ども好きだった。聞けば彼はすでに3児の父で、幼馴染でもある奥方の腹には4人目もいるらしい。子煩悩の愛妻家で、レーガーはフィノを孤児院に送り届けるとその場で子どもたちと賑やかに遊び始め、御付きの部下たちが「隊長、そろそろ帰りませんと」と心配するほどだった。

 当然、楽しい大人を孤児院の子どもたちが簡単に解放するわけがない。「まだ帰らないで!」とわめく子どもたちを何人も逞しい身体にまとわりつかせた総司令官は、「そうだ! まだ帰らんぞ!」と大口を開けて楽しげに笑っていた。その光景に驚き、目を丸くしていたフィノは、やがてとなりに並んだダーナと声をあげて大笑いしたのだ。

 ゼッカー帝国の皇城にはたくさんの人がいる。それはこの国を統治する上層部の者たちだけではない。例えばソイルをはじめとした上層部を支える者たち。レーガーのように帝国を護る者たち。そしてそんな彼らの身の回りを整える使用人たち。なんびとも腹をすかせず、元気に働けるよう食事を作りつづける者たち。皇城を美しく保つ掃除婦や庭師たち。そのほかにも、まだまだたくさん。

「ほんとに、いろんな人がいるなあ」

 皇城内を忙しそうに走り回る官吏たちのなかには、門番兵のように気軽に雑談を交わすようになった者たちも何人かいる。当たり前だが、すべてはラザリスと出会わなければ結びつかなかった関係性だ。

 ラザリスと出会って、フィノは新しい世界を知った。今の自分は、ラザリスと出会えたから存在できている。新しい誰かとつながり、顔見知りが友人になり、それじゃあまた明日と挨拶を交わせている。

 きっとこれからも、新しい何かは待ち受けているのだろう。新しい何かを知って、新しい何かから感銘を受けて、そしてまた新しい何かを得て成長していける。それは孤児院という狭い場所に住んでいたフィノにとって、想像するだけで胸が躍ることだった。毎日わくわくしている。楽しい。嬉しい。

 思わず、ふふ、と笑ってしまうと、肩に乗ったザザが頬をすり寄せてきた。甘えるようなしぐさにフィノはもっと嬉しくなって、同じように頬をすり寄せる。

「フィノ、お疲れさん!」

 ふいに声をかけられて顔を上げると、見慣れた人物がこちらに駆けてきていた。フィノが皇城に通い始めて間もなく知り合った、官吏の若い男だ。

 フィノは「こんにちは」と気さくに挨拶を返した。が、いつもであればそこで足を止めて少しばかり雑談していく男は、今日はなんだか忙しそうに手を振って通り過ぎていってしまう。

「悪い! 今日はめずらしい人が急に外にお出になられたから、みんな焦っててさ! バタバタしてんだ!」

 残業確定さ! と大声で叫ぶようにそれだけを言うと、男は最後には走って行ってしまった。

「……めずらしい人?」

 そういえば、以前ラザリスが急に外国から使者が来たと――たしか『ヴィクスン』という国だっただろうか――そんなこともあったから、今回も同じようなものだろうか。

 仕事って大変だなあとのんきに考え、フィノが再び歩き始めようとしたときだ。突如キーンと激しい耳鳴りがしてフィノは頭を抱えた。

「ぃ……っ!」

 頭のなかに鋭い何かを差し込まれたかのようにズキズキと痛み、フィノは思わずその場にくずおれた。身体がずしりと重くなる。全身に寒気が走り、どっと冷や汗が噴き出した。

(な、なにこれ? 身体が動かない。耳がヘン。水の中に入ってるみたいに聞こえない)

 どっ、どっ、どっ、と心臓が嫌なふうに早鐘を打った。混乱したフィノは、は、は、と短く息を吐き出す。

 ザザが鳴き声をあげたような気がしたが、耳が聞こえづらくてわからない。そして次の瞬間、唐突に視界が暗くなった。じんわりと顔のまわりが温かくなっていく。目を閉じていたフィノがうっすらと瞼を開けると、ザザが大きな両翼で包むようにフィノの頭を覆ってくれていた。フィノが泣いたり混乱したときに、フィノを落ち着かせようとザザがよくやってくれる行為だった。

「……ありがと、ザザ。もうだいじょうぶ」

 しばらく我慢していると、妙な痛みと耳鳴りは自然に治まっていった。フィノは、ほう、と大きく溜息をつく。一体なんだったんだろう。あんな感覚は初めてだ。どこか身体でも悪いのだろうか。

――ソルバー・グレイヴ。

 そのとき急にとある名前が思い浮かんで、フィノは息をのみ、背筋に悪寒が走った。頭のなかに直接語りかけられているように勝手に言葉が流れてくる。

――すべては我が国とラザリス様、そして愛する生涯の主君ハイドマンド様のために。

 ぞくぞくっとさらに悪寒が走る。フィノは自分で自分をきつく抱きしめ、忙しない呼吸を繰り返した。

「なに……? これ……」

 フィノはさらに混乱した。フィノの意識は置いてきぼりで、頭と身体は勝手に反応しているような感覚だった。

 フィノは『ソルバー・グレイヴ』に会ったことはない。ただ、名前は知っていた。なぜなら以前ソイルと他愛ない話をしたとき、話の流れで「彼はゼッカー帝国の最高位の大臣」「ラザリス陛下の右腕とも呼ばれている」と聞かされたことがあったからだ。

 ラザリスは政治の面では特にグレイヴを信頼していて、ソイルもかなり優秀な人物だと評価していた。前皇帝であったハイドマンドもかつて絶大な信頼を寄せており、その絆は鋼よりも強固なものだったらしい。そして驚くべきは、このグレイヴという大臣は最初から文官だったわけではなく、若い頃はハイドマンド直属の剣士であったらしい。

(そんな人の名前が、なんで急に思い浮かんだんだろう……?)

 まるで、なにか嫌な予兆でも示唆するように。

 フィノは慎重に立ち上がり、わけのわからない何かを払拭するように両腕をさすった。ザザが心配するように頭をこすりつけてきたので、頭を撫で返して安心させる。そのとき「フィノさん!」とよく知る声が遠くから聞こえた。

 驚いて振り返ると、そこにいたのはソイルだった。にこにこと手を振って近づいてくる見知った人物の笑顔に、フィノは無意識に安堵の溜息をつく。

「ソイルさん、こんにちは」

「はい、こんにちは。今日はお出迎えに間に合いました~。最近は仕事が立て込んでいて、待合室でお待たせしてしまうことが多かったですからね」

 さ、それでは行きましょう、と笑顔で歩き出すソイルに、フィノも気持ちを切り替え、あとに続いた。

 当然ながら、ソイルは多忙だ。ラザリス直属の秘書官なのだから、むしろ同じ役職の者たちのなかでもひときわ忙しいに違いない。しかし彼は今でもかわらず城の待合室までフィノを迎えに来てくれて、ラザリスの私室までの短い会話を楽しんでくれている。仕事ができるだけでなく、朗らかで気の利く人柄もまた彼の魅力だった。

「フィノさんは昨日はお休みでしたね。差し障りがなければ、どんなことをしてお過ごしだったかうかがっても?」

 丁寧で紳士的な問いかけに、フィノは思わずくすりと笑ってしまった。ソイルから見ればフィノなど子どもなのに、彼はあくまでひとりの人間として丁寧に接してくれる。そして『お休み』というのは、一週間に一度ある、フィノが皇城に出向かない日のことだった。

「昨日は友達と遊びました。中街にある知り合いのお店でおしゃべりをしたり、ご飯を食べたり」

「それはいいですね! 私もたまには中街でのんびり買物や外食がしたいです」

 両手を胸に当て、やや大袈裟に羨ましそうに言ったソイルにふと疑問が湧く。

「そういえば、ソイルさんにはお休みってあるんですか? なんだかいつも働いてるように見えるんですが……」

「そうですねえ。かれこれ3年は休みを取っていないでしょうか」

「3年っ?」

 まさかの年単位にフィノはぎょっとしたが、ソイルはなんてことはないといった様子でからからと笑う。

「私たちの間では別にめずらしくもないんですよ。基本的に仕事人間が多いんです。結婚して家族がいる者は別ですが、私のような独身者は仕事が半分趣味のようなものですし、家に帰ってもやることもありませんから」

「はあ……そんなものなんですか」

 ええ、そんなものです、とソイルはにこやかに微笑む。

「それこそ陛下はもっと働いてらっしゃいますからね。毎日がご公務のようなものです。それこそ緊急時はどんなにお休みになりたくても、夜中でも叩き起こされる御身分ですから」

「そっか……そうですよね」

「はい。ですから私たちは日中は身を粉にして働いて、陛下がお茶を一杯でもゆっくり召し上がれるように、御自分の時間を過ごせるように努めています。御自分のことにはてんで無頓着な方ですから、我々が気をつけなければ御自分が無理をなさっていることにも気がつかないですから」

 まったく仕方のない、というようなソイルのその表情には、秘書官という立場だけではない、まるで幼馴染や兄のような親しみが込められていた。この人はずっと昔から、誰よりも近い場所でラザリスという人を見てきたんだろうなあと思う。彼のような温かい人がラザリスのそばにいてくれて良かった。

 ところで、とソイルが話題を変えた。

「フィノさんの趣味はお散歩と料理でしたね。いつかフィノさんとお散歩したあとに手料理をご馳走になってみたいものです」

「そんなすごい料理は作れないですよ! それに料理は自信があるわけじゃなくてみんなで作るのが好きなだけで。孤児院で食べるご飯ですから、家庭料理とかおやつ程度です」

「家庭料理だからいいんじゃないですか。気取った料理より、そっちの方がほっとしますね。みんなで作るとおっしゃいましたが、孤児院の子はみんな料理をするんですか?」

「はい。10歳から調理場に立つのが決まりです。料理だけじゃなくて、洗濯とか掃除も年上の子のお手伝いをしながら自然に覚えていくんです」

「なるほど、効率的で良い仕組みですね」

 自分のことを仕事人間と言ったソイルの口ぶりに、ふふ、とフィノは笑う。

「自分のことは自分で、というのがダーナ先生の教えなんです。孤児院の子どもたちは全員家族で全員きょうだいですから、ケンカになると大変ですけど、教えることも教えられることも本当にたくさんあります。問題が起こったときは自分たちで話し合って、どうしてもダメなときは先生の力を借りて解決するんです」

 フィノはそこで、孤児院で一緒に暮らすきょうだいたちや、ダーナ、お世話になっている修道女たちのことを思い浮かべた。

「……僕、孤児院に来たばかりの頃はしばらく友達ができなかったんです。みんな、ザザを怖がって。誰かが僕に近寄るとザザが威嚇して怒るので、完全にザザのせいなんですけど」

 フィノが笑うと、ソイルも同じように笑った。

「何度言い聞かせてもダメでした。いきなり環境が変わって、たぶんザザもすごくストレスが溜まってたんだと思います。おたがい精神的に疲れてました」

 ね、とフィノは肩に乗っているザザに視線を向ける。ザザは知らん顔だったが、否定する気はないようだ。

「なるほど。でも、今のフィノさんにはたくさんお友達がいますよね。孤児院の子たちと仲良くなれたきっかけはなんだったんですか?」

「えーと……。簡単に言うと、僕が倒れちゃったんです」

 ソイルがめずらしく驚いた顔をした。

「お母さんも死んじゃったばかりで、いろいろ限界だったんだと思います。僕はあんまり覚えてないんですけど、イリが言うには、晩ご飯のときに突然バターンって倒れちゃったらしくて。目が覚めたらみんなが僕のベッドを囲んでて、すごく驚きました」

 ザザの鋭い嘴を撫でながらフィノはおぼろげな記憶をたどる。

「すごく心配したって、ものすごく叱られました。でもみんな、怒ってるのに泣いてるんです。みんなびっくりするぐらい泣いてて、そのあと苦しいぐらい強く抱きしめられました。まだ全然話したことない子もいたのに、すごく心配してくれて、死んじゃったかと思ったと言われて。それで……僕もすごく泣いちゃいました。嬉しかったのかなんだったのかよくわからないんですけど、とにかくみんなで大泣きして。ダーナ先生たちが慌てて宥めてくれたのをよく覚えてます」

 ふふ、とフィノは照れ笑いをこぼす。

「それ以来、ザザも落ち着いてくれました。孤児院のみんなは敵じゃないってことがわかったんだと思います。……当たり前なんですけど、孤児院の子に親はいません。もともといなかった子もいますし、僕みたいに親が死んじゃった子や、理由があって捨てられちゃった子もいます。だから僕らはたぶん……『人がいなくなること』に敏感なんですよね。体調が悪くなったら病気になって、病気になったら死んでしまうかもしれないって、わりとすぐに考えちゃう。自分が経験してるぶん、そういう具体的な想像がすごく現実的で、身近で、なにより怖い。またあの恐い思いをするかもしれないって……だから僕たちは誰かと別れることがすごく嫌なんです」

 脳裏に、マートルの笑顔が浮かんだ。いつも明るくて溌剌とした人だった。突然の別れはほんとうにつらかったけれど、みんな悲しみを乗り越えた。ラザリスも背中を押してくれた。

 自分のお母さんとお父さんを知らない子がいる。自分のお母さんとお父さんを亡くした子がいる。自分のお母さんとお父さんに捨てられた子がいる。

 両親を知らない痛み。両親を亡くした痛み。両親から「いらない」と言われた痛み。

 孤児院にいる子どもたちは、みんなみんな、心に傷があって。みんなみんな、誰かに護ってほしいと思っていて。みんなみんな、同時に誰かを護りたいと思っていて。そして、みんなみんな、痛みを知っているからこその強さをもっている。

 傷があるから優しくなれるだなんて、なんて滑稽だと思うけれど。痛みを知っているから普通が普通じゃなかったことを知っているなんて、なんて皮肉だと思うけれど。

 痛い、痛い、痛いばっかりの大きな傷。誰かを失ったその絶望のなかで、唯一、得たものがあるとすれば、それは――『ひと』がどれだけ愛しい存在であるかを真に理解したこと。

 フィノは母が大好きだった。にっこり笑った母の笑顔が大好きだった。「お母さん」と呼ぶと、「なあに」といつだって優しく返事をしてくれた。「大好き」と言うと、「お母さんもフィノが大好きよ」と温かく抱きしめてくれた。フィノが生まれてすぐに死んでしまったという父のことも、ずっとずっと大好きだと笑っていた健気な母。

 陽光にきらめくフィノの金髪は母がくれたものだ。左が緑色、右が青色という変わった瞳は、母と父からもらったもの。小柄な身体は母から。走ると速いのは父から。生きていくための身体をくれた両親。思い出をくれたのはザザと、孤児院の仲間たち。

「僕、みんなのことが大好きなんです」

 今まで出会ってきた人たちも、これから出会う人たちも。そして、フィノに新しい世界を見せてくれた、あの寂しい人のことも。

(ううん。たぶんもう、寂しいばっかりじゃない)

 フィノのことを心配してくれた。フィノを慰め、背中を撫でてくれた。漆黒の軍服に身を包んだ若き皇帝、ラザリス・ヴォン・ゼッカーという名の、温かい手をしたあのひとのことも、だからフィノは大好きだ。そしてきっと、フィノがみんなを好きなように、みんなもフィノのことを好きでいてくれる。

「大好きなひとがたくさんいるって、幸せですね」

 心から笑ったフィノの視線の先で、ソイルはなにか考えるような顔をしていた。それからゆっくりと目元をやわらげると、「そうですね」と頷く。 

「今のお話を聞いて、なぜ陛下がフィノさんを御傍に置きたがるのかよくわかりました」

「え?」

「いえいえ、こちらの話です。お気になさらず」

 ソイルはなにやら意味深に笑っている。

「ちなみに。そのお話、陛下には?」

「しましたよ? ずいぶん前に」

「それはよかった!」

 ソイルはなぜか満足そうだ。

「ヤキモチを焼かれないで済みました」

「はい?」

 不思議顔のフィノだけが、頭の上に疑問符を乗せていた。



 長い廊下を行った先、突き当りで左に曲がると、庭に面した回廊に出る。庭はちょうど夏から秋に花が咲き変わる途中だ。夏の花はやれやれと長期休暇に入り、今度は秋の花が待ってましたと言わんばかりに自慢の花びらの準備にかかる。

「もう秋なんですねえ」

 ソイルが庭を眺めながらしみじみとつぶやき、フィノも頷いて同意を返そうとした、そのとき。ふと視線の先、庭の奥の方――黄色い花が咲いている木々のあたりに小さな人だかりができているのに気がついた。

 めずらしい、とフィノは思う。この庭自体が城のかなり奥に位置しているため、ここで花を愛でることができるのはごくかぎられた者たちだけのはずだ。少なくともフィノが皇城に通うようになってから、庭師以外でここで人を見かけたのは初めてのことだった。しかもこんな夕刻時に。

(誰だろう……?)

 ここからでは背中しか見えないが、どうやら人だかりは女性たちのようだ。輪の中心にいるのは腰まで長い髪をした女性で、藤色のそれは遠目でもさらさらと音が聞こえてきそうなほど美しい。淡い色の衣装は細身でこれまた美しく、手足は驚くほどすらりとのびていた。しぐさも上品だ。顔は見えないが、後ろ姿だけで相当な美人であろうことがうかがえた。

(貴族のお嬢様かな?)

 だとしたら、フィノにとって初めて目にする貴族だった。どくん、と緊張で心臓が鳴る。皇城に通い続けて結構経つが、おそらくソイルのはからいもあって、フィノが高位の人間とはち合わせすることがないようにしてくれていたに違いない。

(すごく綺麗な人……。まるで光ってるみたいだ。貴族の人って、みんなあんなふうに綺麗なのかな)

 フィノの人生でもっとも綺麗な人と言えば、それは間違いなく母だ。あの人はその母よりも綺麗なんだろうか。だとしたら一体どれほどの――そんなことをぼうっと考えてしまっていたフィノの頭上で、ソイルがつぶやく。

「おや、めずらしいですね。お呼び出しがあったからお出になられたのでしょうか」

 不思議そうに言ったソイルをフィノが見上げようとしたときだった。フィノの肩に乗っていたザザが突然警戒するように身体を強張らせ、肩にぐっと鋭い爪が食い込む。そして、ソイルがどこか誇らしげに言った。

「あの御方はキュアル・ミーク様ですよ。我が国のヴィーザーのおひとりです」

 ヴィーザー。

 それはこの帝国において、希望を意味する言葉。『国家の繁栄と光の象徴』の名だ。

「え……」

 フィノは一瞬、心臓が止まるかと思った。いや、思考はその瞬間、完全に止まっていた。フィノのなかで、完全に時が止まっていた。

 そしてこのとき理解する。さっきの嫌な予感は、きっとこのことだった。

 ザザが耳元で低く唸った。




<7.となりに立つひと>

――フィノ、お母さんとの約束よ。これだけはぜったいに、ぜったいに守って。

(お母さん)

 フィノは心のなかで母に話しかける。

(お母さん。僕は、お母さんとの約束をちゃんと覚えてたよ)

――お城にいるヴィーザーとは、ぜったいに顔を合わせちゃだめ。

(覚えて、いたんだよ)



 フィノはまるで畑のカカシのように突っ立っていることしかできなかった。太い根が生えたようで、まったく動けない。首も動かず、まばたきひとつできず、ただただ目の前にいる藤色の髪をした美しい人、その一点を凝視することしかできない。

 頭が飽和状態で、真っ白だ。なにを言われても聞こえない。ただ母の言葉だけが延々と螺旋を描くように頭のなかを回っている。

(あれ……。僕、いま……何をしてるん、だっけ……?)

 目の前の現実が、現実だと思えない。まるで悪い夢を見ているような気がする。

 遠くの方で、フィノさん、と誰かが自分を呼ぶ声が聞こえた。でも本当にそうだろうか。幻聴かもしれない。フィノはただただ一点を見つめ、それ以外なにも入らない。考えられない。

「――……ノさん? フィ……さん!」

 ああ、だめだ。耳鳴りがする。

――フィノ、お母さんとの約束よ。これだけはぜったいに、ぜったいに守って。

(うん、お母さん。だいじょうぶ)

――約束よ。これだけはぜったいに、ぜったいに守って。

(僕、ちゃんとわかってる。わかってるん、だけど)

「フィノさん! どうしたんですか?」

(どうしよう、お母さん)

――これだけは、ぜったいに守って。

(僕、いま、身体が動かないんだ)

 内心で泣きそうになっているフィノと、「フィノさん!」としきりに名前を呼ぶソイルの声がだんだん大きくなったことで、異変を感じ取った女性たちが何事だというふうにこちらを振り返った。そしてその視線を追うように、御付きの者たちの中心にいた藤色の髪をしたその人も振り返る。

(……ヴィーザー、様……)

 キュアル・ミークは、まるで女神のように輝く美しさをもったヴィーザーだった。

 小さな顔に、澄んだ瞳。陶磁器のように真っ白な肌。健康的な頬はほんのりと朱く、果物のようにあどけない唇は平素から微笑んでいるように口角がきゅっと上向いている。遠目でも、その美しさには目を瞠るものがあった。

 まったく動けないフィノの横で、ソイルはさきほどまでの慌てた様子など微塵も感じさせない優雅な態度で女性たちに深々と一礼した。そして品のある落ち着いた声で、騒がしくした謝辞を述べる。

 フィノは驚いた。あのソイルがわずかに緊張していることに気づいたのだ。ヴィーザーは『国の宝』。いつも飄々としたこの男でさえ、それほど気を遣う相手だということだ。

 フィノはどっと冷や汗をかいた。そこでようやく視線を彼女たちから外すことができ、顔を俯ける。

「あら、ソイル。お久しぶりね」

 キュアルは声音まで美しかった。まるで天上の楽器のようだ。高位の者のなかには身分を鼻にかけて高慢な態度をとる者も多いと聞いたことがあるが、キュアルはまったくそんなことはなく、ふんわりとやわらかい、まるで春の陽だまりのような温かみを感じさせる。ヴィーザーはその神秘性から両性具有だと言われているが、キュアルの場合は女性性が色濃く表出しているらしい。

 芝生を歩く音が聞こえて、彼女たちがゆっくりとこちらに歩み寄ってきているのがわかる。フィノの心臓はなおも早鐘を打ち、もはや鼓動が胸を叩く痛みすら感じるほどになっていた。

「キュアル様もご機嫌麗しく。改めまして、ご挨拶が遅れましたこと、大変申しわけございません」

 ソイルにそっと肩にふれられ、フィノは慌ててソイルと同じように片膝を地面につけてお辞儀をした。最上級の礼の型だ。ヴィーザーに対してこの礼を取らなくていいのは皇帝――つまりラザリスだけ。その他の者はたとえ小さな子どもといえど、こうしてヴィーザーに感謝と敬意を払わなければならない。

 バサッと音を立ててザザが飛び立ち、すぐ近くの木に停まった。驚いた女性たちが息をのむような悲鳴をあげている。ザザがかなり警戒しているのを感じながら、しかしフィノは自分のことでいっぱいいっぱいで、ただひたすら頭を下げつづけることしかできなかった。

 失礼を詫びたいが、作法がわからないので下手なことはできない。そもそも庶民である自分から国の宝であるヴィーザーに直接声をかけていいのかもわからなかった。平身低頭な態度を誠実と受け取ってくれればいいが、御付きの女性たちは評価に厳しそうだ。場合によってはソイルの面目をつぶすことになりかねない。それだけはなんとしてでも避けなければ。

 混乱つづきの頭で必死に考え、とにかくこのまま頭を下げて静かにしていようとフィノは口を引き結んだ。ここはソイルに任せた方がいい。必要があればソイルが促してくれるだろう。フィノは震える拳をぎゅっと握りしめた。依然、背中には冷や汗が流れている。

 ソイルは卒なくキュアルと言葉を交わし、ときには彼女が笑い声を立てることもあった。和やかな雰囲気だ。フィノは黙って彼らのやりとりを聞きながら、だんだんザザのことが気になってきた。

 ザザはまだ木の上にいる。警戒は解いていないように思えた。まさかキュアルを襲うようなことはないだろうが、このあとの展開によっては何が起こるかわからない。フィノでも止められる保証はない。

(どうしよう……)

 ヴィーザーに怪我など負わせようものなら、きっと責任はフィノだけに留まらない。ダーナやイリ、孤児院のみんな、はたまたこのゼッカー全体がどうなるかわからないのだ。かつてヴィーザーを虐殺した、第3代皇帝の大罪とその後の悪夢は嘘偽りのない真実だと聞かされている。

 震える吐息をそろそろと吐き出したとき、頭上でソイルが「この者はフィノ・ラピアスと申します。外街のダーナ孤児院で暮らす少年です」とフィノの出自を明かした。

「まあ! ではあなたが陛下のお気に入りさんだったのね。噂はわたくしも耳にしておりましたのよ。では、あちらの大鷹が……」

「はい。ザザと申します。ラザリス陛下はあの大鷹にたいそう御興味を引かれたようで」

「ゼッカーで大鷹はめずらしいものね。とても立派だわ」

 キュアルはそう言うと、跪いているフィノに視線を移した。視線を肌で感じたフィノはさらに深く俯く。キュアルが自分を興味深げに見つめていることがありありと伝わってきた。

「そんなに緊張なさらないで、顔を上げてちょうだいな。わたくし、あなたともぜひお話をしてみたいと思っていて……」

「キュアル様! いけません、そんな庶民の者に……!」

 あっという間に御付きの者たちがキュアルを取り囲み、とんでもないことだとフィノから距離を取らせた。フィノは内心、ほっとする。母との約束は守らねばならない。そしてもしかしたらキュアルはヴィーザーという立場でありつつも、高貴な貴族の出自なのかもしれないと思った。キュアルのことを「お嬢様」と呼んでいる者がいたからだ。貴族でありながら『国の宝』でもあるなんて、それは間違いなく彼女らにとって宝玉と呼ぶべき存在だろう。

 キュアルは御付きの者たちにいろいろと窘められ、しぶしぶといった様子だ。ひとつため息をついた姿にはしかし、どことなく無邪気さのようなものが感じられる。

 そんなキュアルの様子にソイルは小さく微笑んだようだ。二人はまたおしゃべりをはじめたが、御付きの者たちは主人とソイルが話すことには異論はないらしく静観している。ソイルは秘書官のなかでもラザリス直属の秘書官。地位としては決して低くない。

 キュアルはなにやら神妙な息をついた。 

「……ヴィーザーといっても、みなさまとなにも変わらないのよ。普通のお食事をいただくし、普通に生活して、夜になったら身体を休めて、また朝を迎える。それの繰り返し。お仕事だってしていないのですから、あなたや陛下の方がよっぽど偉いように思うのだけれど」

「なにをおっしゃいます。ヴィーザー様が心健やかにいらっしゃってくださるからこそ、我々国民の平和があるのです」

 ソイルがにこやかに慰めると、やがてキュアルも微笑む気配がした。ありがとう、と澄んだ声でソイルに礼を言う。

 そろそろ頃合いだろうか。このままキュアル一行が部屋に戻るのを見送れば事なきを得ると安堵しはじめていたフィノはしかし、「ねえ、フィノくん」と突然名前を呼ばれ、ぎくりと肩を強張らせた。

 お嬢様、キュアル様、と鋭い制止が飛んだ。しかしキュアルは頭を下げ続けているフィノの姿を、敬意なら最大限に払っている、と評価し、「それこそミーク家の者として、そこまで心が狭くてどうするの」と一蹴した。御付きの者たちはたちどころに口を閉じる。

 美しい衣装を翻してフィノの方に向き直ったキュアルは、早速といった様子でフィノに尋ねた。

「歳はいくつかしら。わたくしより年下なのは間違いないでしょうけど……」

「……あ、の……14、です」

 口の中がカラカラで、フィノは喘ぐようになんとか声を出した。無様に声が震えたが、きっとヴィーザーを相手にひどく緊張しているせいだと思ってもらえるだろう。そう、彼女は国家が保護するヴィーザー。尊き御方なのだ。一生のうちに一度でもヴィーザーと顔を合わせ、まして言葉を交わせる幸運など滅多にあるものではない。そもそも国家で保護されているヴィーザーは警備が特に厳重な城の中枢区画からほとんど外に出ないと聞いたことがある。今日こうしてキュアルが庭を散歩していていたこと自体、ひどく稀なのだ。

「まあ、14歳! わたくしより6つも年下なのね」

 ということは、キュアルはいま20歳ということか。それからキュアルはいくつか簡単な質問をしてきたが、フィノは短い返答でなんとかその場を乗りきった。庶民にとっては恐れ多いヴィーザー様だ、フィノの委縮しきった姿はむしろ自然だっただろう。

 深く俯くフィノの視界にはキュアルの衣装の裾だけしか見えなかった。それだけでも、彼女の纏うそれがとてつもなく手の込んだ、質の高い、高価なものであるとわかる。きっと皇族お抱えの職人が仕立てたのだろう。こういった衣装をきっといくつも、そして当たり前に日常使いできる身分の人なのだ。

 対してフィノといえば、動きやすくはあるものの着古された上着に、少し寸足らずな下衣。母譲りの金髪だけは唯一フィノが胸を張れるものだが、目の前の美しく流れるような藤色の髪には足元にも及ばない。否、そもそも比べる方がおかしいだろう。

――フィノ、お母さんとの約束よ。これだけはぜったいに、ぜったいに守って。

――お城にいるヴィーザーとは、ぜったいに顔を合わせちゃだめ。

(お母さん、大丈夫)

 フィノは心のなかで母に語りかける。

(今日のことは驚いたけど、きっともう二度と会うことなんてない。生きる世界が違う人だ)

 遠目であってもはっきりとわかったキュアルの美しさ。本当に驚くほどの美貌だった。そして短いやりとりでもわかる、人柄の良さ。庶民のフィノにさえ、あんなにも優しく話しかけてくれる。あの清廉さで、きっと誰からも愛されているのだ。こんな人が『国家の繁栄と光の象徴』。まさに選ばれるべくして選ばれた人。

 フィノがそんなことを考えていたとき、頭上の二人の会話がスッと耳に流れ込んできた。

「本日お出になられたのは、もしやあの話が?」

「ふふ、あなたは陛下直属の秘書官だもの。知っていて当然ね」

「では、やはり」

「ええ。午後にグレイヴ大臣からお話があったの。本当は大臣がわたくしの部屋にいらっしゃる予定だったのだけど、彼はお忙しいでしょう? 散歩も兼ねて、わたくしの方からお部屋にうかがわせていただいたわ」

「そうでしたか……。今朝方、執務室でお二人が話し込んでいらっしゃったので。ですが私は陛下の最終的なご判断をうかがう前に、部屋から追い出されてしまいまして」

「あら! ではわたくし、まだ言ってはいけなかったかしら?」

「いえいえ。聞き出すような真似をしたのはこちらです。キュアル様はなにもお悪くありません。それに、お話自体は数年前からあったとうかがっています」

「ええ、そうね」

 くすくすと二人は笑い合っている。一体なんの話かフィノには皆目見当がつかないが、わかったところで関係のない話だ。ただ黙ってこのまま、この場をやり過ごせればいい。フィノにとって大事なのはそれだけだ。

 ヴィーザーには会わない。それが母との約束。母がもうこの世にいないからこそ、絶対に守らなければならない。

 ヴィーザーに正体が知られたら――フィノも、母のようになるかもしれない。

 そうなったら今のままではいられない。絶対になにかが動いてしまう。それが良い方へ向かうならまだしも、過去のこと、そして母のことを考えれば、悪い方へ向かう可能性が大きい。ザザだって無事ではいられない。

 ラザリス皇帝陛下。フィノの大好きな人。あの人と過ごす大事な時間を壊されたくない。

 これまではフィノがラザリスにたくさん話をしてきた。これからはフィノが彼の話をたくさん聞いていく番なのだ。まだまだ、これから――。

「フィノさん。陛下のお部屋にうかがう前に、あちらで少し花を摘んでいきませんか? あなたからのお花なら、きっと陛下もお喜びになります」

 物思いにふけっていたフィノは、ソイルの突然の提案に思わず顔を上げた。

 フィノはこのとき、ラザリスのことを考えていた。彼と過ごすこれからのこと、未来のことを考えていた。彼が心から笑ってくれる姿を想像して、そしてそのとなりには当たり前に自分がいて――と、そんな、フィノにとって理想の未来を。

 なんて浅はかだったんだろうと思う。

「ラザリス皇帝陛下のご婚約が決定したようですので」

 ソイルのそれは、とっておきの内緒話を打ち明けるかのように明るかった。しかしその嬉しそうな表情はフィノを容赦なく突き落とし、愕然とさせる。頭上の二人はそんなフィノのことなどまったく気づかず、にこやかに会話は続けられた。

「しかし本当に、決まったらあっという間に動いていくのですね。即決即行のグレイヴ大臣らしいといえばらしいですが」

「ゼッカーのことを我が子のように考えてらっしゃる方だから」

 陛下、と……この方が、婚約……?

 どういうこと? よく、わからない。なにも考えられない。

「陛下はまだ結婚をする気はないとおっしゃっていたんですが。そうですか……ご決断をなさったんですね」

「グレイヴ大臣は英断だとおっしゃって、満足そうだったわ。やっとゆいいつの心配事が片付いた、というようなお顔をしていらして。なんだかおかしかったわ」

 婚約ってことは、結婚の約束をしたってことだよね。

 陛下が結婚? このひとと? 

 この綺麗なひとと、陛下が、結婚。夫婦になる、ということ……。

 フィノは放心状態で、目の前の美しいヴィーザーを見つめた。

(ああ……なんて、綺麗な人なんだろう)

 さらさらと音がしそうなほど美しくて長い、藤色の髪。微笑んだ顔は眩しくて、上品で、長い睫毛はけぶるようだ。ほんとうに、女神様のような神々しさ。

 このひとの横に陛下が並んだらと想像する。全然見劣りしない。見劣りするどころか、どこからどう見ても美男美女で、まさに対のような素敵な夫婦になるに違いない。お似合いという、その一言しか出てこない。

 ぶわっと、瞬く間に大粒の涙があふれた。そして、ああ、僕はいま悲しいんだなとフィノは冷静に思った。

 ラザリスの顔が頭をよぎった。夕日のなか、あの人が見せてくれた優しい眼差し。

――不思議だ。お前といると、世界がこんなにも違って見える。

 そう言ってくれたときの、あの人の澄んだ微笑み。

 そのとき、フィノの視線を感じたのかキュアルがこちらを向いた。そしてなにかに気づいたように、ハッと目を瞠る。

「あら? あなた……」

 ピィィィィィン………と、その場の空気が張り詰めた。ざあっと大きな音を立てて風が通り抜ける。草花が揺れ、花びらが空を舞って、雲が渦巻くように流れていく。

(ああ、そうか。僕は……)

 フィノは走り出していた。ソイルが慌てたように自分を呼ぶ声が聞こえたけれど、聞こえないふりをして全速力で走った。

 ザザがいつの間にか併走していた。フィノはそれにも気付かず、ただ走った。頭のなかには今、あの人――ラザリスしかいなかった。



 思いきりドアを開けると、書類を手にして立っていたラザリスが振り返った。そしてフィノを見るなり顔色を変え、軍靴を鳴らして足早に近寄ってくる。

「何があった」

 優しくて温かい手が、フィノの目尻をやさしく撫でる。あふれ出て止まらない水滴を拭って、輪郭を優しく包みこむ。忙しない呼吸を繰り返しながらラザリスを見つめると、彼は眉間に皺を寄せていた。端正な顔立ちが、まっすぐにフィノを見つめている。

(寂しい人。寂しかった人。でも、僕がとなりにいる間は、寂しくなかったよね?)

 胸が絞られるようだった。くしゃりと顔を歪ませ、フィノはラザリスの胸のなかに飛びつく。

 いつかのように泣いた。でも今日は、あのときと違って声を殺して泣いた。

 どうして今頃、こんなときになって気づいてしまったんだろう。

(お母さんが好き。ダーナ先生が好き。イリや、孤児院のみんなが好き。そういう好きじゃ、なかったんだ)

 これは恋だった。

 フィノはラザリスに、ラザリス・ヴォン・ゼッカーに恋をしてしまっていた。自覚と終わりが一度にくるなんて、あんまりだ。

「フィノ、どうした。どこか痛いのか。悲しいことでもあったか」

 そう言って頭を撫でてくれる手。温かくて、心地いい。嬉しい。でも、嬉しいのに悲しい。そしてそれ以上に痛い。

 これが恋だなんて気づかなければよかった。庶民の自分と皇帝のこの人が寄り添えることなど絶対に無い。有り得ない。でもいちばんゆるせなかったのは、

(僕がいて、陛下がいて。笑って、話をしてて。そういう未来を想像したとき、自分もとなりにいる光景を、当たり前のように考えてたことだ)

 そのことがいちばんゆるせなくて、厚かましくて、恥ずかしかった。

 本当にとなりにいるべきは、自分なんかじゃない。キュアルのように美しく、身分だって申し分なく、まわりから祝福され認められた人であるべきなのに。

 フィノなんかでは到底お話にならない。想像するだけで冒涜に値するぐらいの大罪だ。

 でも、でも。ほんとうに正直に、心の内をさらけ出していいのならば。

(僕は、そうなりたかった。大好きな陛下のとなりに並んで、ずっとずっと、笑い合っていたかった)

 フィノは、目を閉じる。

(お母さん)

 僕は、この人のとなりに立ちたい。




<8.ありがとう>

 声を殺して必死にしがみついてくるフィノを抱きしめると、開け放たれていたドアから静かにザザが入ってきた。彼はいつものように部屋の隅の棚の上に陣取ると、目を細めてフィノを見つめる。どことなく、いつもの鋭さが感じられないような気がするのは単なる気のせいだろうか。

 それからしばらくして、バタバタと騒がしい足音が聞こえてきた。ラザリスが無言でドアを見つめていると、間もなくソイルが飛び込みそうな勢いでやってくる。

「……っ、こ、こちらに……おいで、でしたか……!」

 よっぽど急いで走ってきた――あるいは周辺をくまなく走り回ってフィノを探していたのかもしれない――とみえて、ソイルはめずらしく汗を浮かべながら荒い呼吸を繰り返す。

 ラザリスは鋭い目で優秀な秘書官を見据えた。

「何があった」

 ラザリスの声音になにかを察したのだろう、ソイルは姿勢を正し、自分を落ち着かせるように一度深呼吸をしてから口を開いた。

「は。いつものようにフィノさんをこちらにお連れするべく中庭を歩いていたのですが、そこでキュアル様にお会いしまして」

「キュアルに?」

「はい。グレイヴ大臣から今朝の件でお話があったそうで、キュアル様自ら、大臣のお部屋に赴いてらっしゃったそうです。中庭にいらっしゃったのはその帰りだったようで」

「そこに鉢合わせたと?」

「はい。その……フィノさんはとても緊張されたのではないかと」

 ソイルが心配顔でフィノを見つめる。ラザリスの胸に顔を埋めているフィノは、ソイルの言葉を肯定するようにさらに強くしがみついてきた。

 ラザリスはフィノの頭を幾度か撫でると、すぐそばにあった一人がけの椅子にフィノを誘導した。そしてそこに腰掛けると、フィノには幼い子どもにするように向かい合って自分の膝の上に座らせる。フィノは抵抗しなかった。甘えるように素直にくっついてきて、ラザリスがすっぽりと包んでやると安心したように力を抜いた。

「お茶を」

 ラザリスが静かに命じると、ソイルは一礼してから部屋を出ていった。



 ラザリスの眉間の皺は、いまだ解かれずにいた。

 フィノの様子は明らかに普段の彼とは異なった。彼がこんなに素直に――言い換えれば、皇帝である自分に無遠慮に甘えてきたことなど、これまで一度たりともなかったのだ。マートルという老婆が亡くなったあのとき以来、いやそれ以上に、今のフィノは弱っている。というより、何かから逃げているように見えた。

 フィノ・ラピアスが皇帝の『お気に入り』だということをこの城で知らない者はいない。同時に、このフィノ・ラピアスがとても純真であり、謙虚な心をもっていること、自分が皇帝陛下の『お気に入り』だからといってふんぞり返るような真似をするような人物ではないことも、また知らない者はいない。あきらかに特別待遇だというのにそれを鼻にかけることもなく、どこまでも遠慮して、礼儀正しくおっとりしているフィノがいつものフィノだ。だが、今こうしてラザリスの膝で泣いている彼はどうだろう。

 小さな身体が、いつかと同じように小さく頼りなく見える。縋れる人はラザリスしかいないとでもいうようだ。ソイルが慌てて追ってきたときも、いつものフィノでならばすぐ正気に戻って、「勝手な行動をしてごめんなさい」と即座に謝っただろう。しかし、そうする余裕も今のフィノにはないのだ。

――フィノさんはとても緊張されたのではないかと。

 ソイルはああ言っていたが、ラザリスは直感で、そうではないだろうと思った。

 フィノは何かを拒絶している。耳を塞いでいる。必死で自分の殻に閉じこもろうとしているように見える。

 しずかに息を吐き、ラザリスはフィノの前髪をすいた。顔を上げてほしいという願いをこめて。

「……フィノ。何があった」

 だが、フィノは決して顔を上げなかった。

 しばらく沈黙が続いた。ラザリスは無理に話を聞きだそうとはせず、ソイルが運んできたお茶を受け取るとすぐに彼を下がらせた。

 部屋の隅にいるザザを目の端でちらりと見る。ザザは何かを考えるように鋭い視線で前方を睨みつけていた。

 一体、何があったのだろうか。キュアルに何か言われたか。いや、おそらくそれはない。キュアルはおっとりした性格だし、なにより聡いヴィーザーだ。フィノでなくとも、いたずらに誰かを傷つけるような言動はしない。だとすると、城に来る前から何かを抱えていたか。例えばマートルが亡くなった、あの日のように。……いや、それもなんとなく腑に落ちない。

「フィノ、お茶を飲むか」

 静かに問いかけると、フィノは緩慢に頭を左右に振った。ひどく気だるげだ。こんなフィノは見たことがない。ますますラザリスは眉間の皺を濃くした。

 夏の真っ青な空のように喜び、純白の可憐な花ように微笑んでいたいつもの彼は、どこにいってしまったのだろう。何が、彼をこんなふうにしてしまったのだろう。

 元気のないフィノをどう励ましていいかわからず、とりあえず抱きしめて頭を撫でてやると、やがてフィノが胸に溜まった膿を吐き出すように大きく長い息をした。

「……陛下。ご結婚、なさるんですね」

 消え入りそうな声にラザリスは目を見開く。瞬時に顔を顰めた。

「誰に聞いた」

「……さっき、ソイルさんとキュアル様が…」

 ラザリスは忌々しげに息をついた。

 立場を弁えているフィノが積極的に聞きたがったとは思えない。おそらくソイルとキュアルが話していて、途中でどちらかが口を滑らせたか、あるいはフィノのことを信じて教えてしまったか。どちらにしても正式な発表をするまでは黙っているべきだった。ソイルにしては、らしくない公私混同だ。

(あいつもフィノには甘いからな)

 ラザリスは溜息をついた。

「……今朝、大臣と話をした。結婚などまだ先だと思っていたのだが」

「いつかは、しなくちゃいけないことですもんね」

「そうだな。俺も最初は乗り気ではなかった。だが、大臣に言われた言葉で少し見方が変わった。……聞いてくれるか?」

 フィノが顔を上げた。涙で腫らした瞳でまっすぐにラザリスを見つめてくる。その瞳が、話してほしいと訴えているように見えた。だからラザリスもまた、皇族特有の金色の瞳でフィノをじっと見つめ返し、今朝のグレイヴとの会話をフィノに聞かせることにしたのだ。



 グレイヴ曰くの『花嫁候補』が記載されている書類にすべて目を通し終えても、ラザリスは特に何も感じなかった。

最有力候補とされているのはキュアル・ミークという名のヴィーザーで、ラザリスは彼女と一度だけ顔を合わせたことがある。第9代皇帝である自分の時代を支えてくれる3人のヴィーザーのうちのひとり。しかも、潜在的な能力がもっとも高いとされている人物だ。

皇帝に嫁いでくる女性には相応の家柄や身分が当然求められるが、ミーク家はそういう意味ではまったく問題のない大貴族だった。そのミーク家から輩出されたヴィーザーと成婚となれば、帝国にとってこれほどめでたいことはない。

国の宝であるヴィーザーが傷つかないよう、国内外の視察や訪問に積極的に関わることは難しいだろうが、国民の心の平安がかなり増幅されるであろうことは間違いなく、実際、第8代皇帝ハイドマンドがヴィーザーだったティアーユを娶ったときの国民の大歓喜と一体感は凄まじいものがあった。仲睦まじい夫婦としても眩しいばかりだったハイドマンド夫妻に、国民は憧れと晴れやかな未来を期待し、想像せずにはいられなかったという。

跡継ぎとなる子どもの面でも、キュアルなら心配は皆無だ。ヴィーザーは神秘の両性具有者。子を孕むこともできれば出産することもできる。

この様子だと、グレイヴは本格的にこの件を推し進めたいと考えているに違いない。まだ結婚はしないというラザリスの意向を押しのけてでも、自分の思うとおりに。

ラザリスは長い溜息をついた。なんだか一気に馬鹿らしくなってきたのだ。

そもそも皇帝として誕生した瞬間から、いつかはかならず結婚して子を成すことが義務付けられている立場だった。だとすれば「まだその気はない」と消極的な姿勢を取ったとて――言ってみれば先延ばしのようなことをするのはまったくの無駄、意味のないことだと悟ったのだ。

結局、自分は一生涯、個人ではない。ラザリスという名前が付いていても、ゼッカーの名がついてまわるかぎり、自分は公人としてしか存在できない。そしてある意味、最後まで帝国に利用されて生きるしかないのだ。

「ソイル、席をはずせ」

「かしこまりました」

小さな音を立てて従順な秘書官が出て行ってしまうと、ラザリスは立ち上がって窓に近寄った。

 自分は皇帝。9代までつづいたゼッカー帝国の皇帝。

 誰も自分に逆らえない。絶対的な権力と立場がある反面、なにひとつ自分では自由にできない不自由な人生を送る者。そういう運命なのだと理解していた。

だが今、これだけは言ってやりたい。ぶつけてやりたい。

公人ではなく個人として。ラザリス・ヴォン・ゼッカーではなく、ただのラザリスとして。

ラザリスは振り返り、鋭い目つきでグレイヴを睨んだ。

「結局のところ俺に選択権はないのだろう。俺にできるのはせいぜい、その気はないと突っぱね、言い張ることだけだ。それさえ我儘だと言うのなら、俺はもう何も言わぬ。口を開かぬ。必要なものをすべて持って来い。署名でも血判でも、お前が望むとおりになんでもやってやろう」

ラザリスの冷たい声が部屋に響いた。それはまるで青い炎のように、静かに激昂している。誰かがこの場にいたのなら呼吸すら満足にできず、張り詰めた空気に耐えられなくなっていただろう。

ラザリスとグレイヴの無言の睨み合いはしばらく続き、しかし最初に動いたのはグレイヴだった。彼は――優しげに目を細めたのだ。

「……陛下は、お変わりになられましたな。私はいま初めて、ラザリス・ヴォン・ゼッカー皇帝陛下とお会いしたような気さえします」

感慨深げにつぶやかれたそれに、ラザリスは訝しげに眉をひそめる。そんなラザリスをますます目を細めて見つめたグレイヴは、おもむろに自分の皺だらけの両手を見つめ、それから再びラザリスを見つめた。

「……私はずいぶん歳をとりました。まだまだハイドマンド様にお仕えしていた剣士の頃のような心もちでおりましたが」

 溜息をつくようにグレイヴは言う。

「陛下のそのように怒り滾った御姿を目にしたのは初めてです。陛下は本当にお変わりになられた。以前までの陛下なら、このような縁談話などいっさい迷うことなく了承されたことでしょう。この書類――花嫁候補の書類を手に取ることさえなかったはずです。……陛下のお心を変えたのは、フィノ・ラピアスですな?」

ラザリスは何も言わなかった。なんとなくとしか言えないが、この男とフィノのことについて話したくなかった。

「彼に会ったことはございませんが、お噂は聞いております。陛下をここまで変えた少年と、いつか顔を合わせてみたいものですな」

グレイヴはそこまで言うと、なにか考えるように急に押し黙ってしまった。ラザリスは居心地の悪さのようなものを感じて戸惑う。

なんだろう、あの泣く子も黙るソルバー・グレイヴが、急に――歳相応の初老の男に見えたのだ。元剣士とあっていつだって力強く、背を伸ばしていた厳格な彼が。

彼はこんなに、老いていただろうか――?

「陛下にいち早く御結婚をと考えるのは、もちろん国を想ってのことです。ですが、陛下のためを想って申し出たことでもございます。私のこの目が光っているうちに、この皺だらけの手で、陛下をお守りできるうちにと」

「グレイヴ……」

「陛下、御家庭をお築きなさいませ。今のあなたなら、それができますでしょう」

射貫かれると錯覚するほどの真摯なその瞳に、ラザリスは目を見開く。

「妻となった者と笑い合える楽しさを、あなたに感じていただきたいのです。御子を腕に抱くことの喜びを、あなたに知っていただきたいのです。そして、その幸せと、人を愛しく想う真の心を知ったあなたに、この国を託したいのです」

グレイヴのその言葉を聞いた瞬間、目の奥が熱くなった。痛いほどに、痺れるように、熱くなった。

この気持ちはなんだろう。胸が、心が、軽い。そして少しだけ、痛い。

経験したことのない、初めて知る感情だ。

(フィノ、教えてくれ。もしかしてこれは――嬉しい、という感情なのか?)

「陛下。あなたの御父上の笑顔を思い出してごらんなさい。御結婚は義務ではない。夢と希望がたくさん詰まっているのですよ」

グレイヴは優しげに微笑んでいた。



 話が終わる頃には、お茶は冷めきっていた。時計の針の音だけが響く静寂。

 背中を抱かれながら、僕は胸を締めつけられる痛み以上に、とても嬉しいと思っていた。純粋に、そう思った。

 彼のまわりにいる人が、たしかに彼を愛してくれていること。寂しかった彼が、嬉しいと感じてくれたこと。そして、彼の世界が確実に広がっていることに。

 大丈夫。この人は、大丈夫。以前のような寂しい人じゃない。ひとつひとつ感情を知って、今、この人はいろいろな自分の顔をもち始めている。

 グレイヴ大臣が言ったように、彼はきっと、今こそ家庭を築くべきなのだろう。未来のこの国のこと、そして彼自身のためにも。そうして、彼はもっともっと素敵な人になる。本当の意味での、民の上に立つ人になる。

 キュアル様を奥様としてお迎えして、お二人でたくさん話をするんだ。いっしょに寝起きして、たまに中庭を散歩して、可能なら街に出ていろいろなものを見て。それからいっしょに本を読んだり、未来について想像したり、外国にも行ったり。

 そうしていつかは赤ちゃんができて、この人に家族ができる。

 赤ちゃんを抱いている陛下。それを優しい瞳で見つめるキュアル様。陛下は父となり、母になったキュアル様と幸せを分かち合い、生まれた二人の絆を腕に抱く。

 笑い合って、支え合って、励まし合って、慈しみ合って、愛し合う。いたって普通の家庭が、そこにある。

 この人が今つかもうとしている未来は、そんな温かい世界なんだ。想像するだけで素敵。なんて素敵。寂しかったあの人は、もうどこにもいない。

 涙がこぼれるのは、うらやましいから。

 僕はうらやましい。キュアル様がうらやましい。陛下のとなりに立てるあの人が。みんなに認められているあの人が。うらやましくて、うらやましくて、胸が張り裂けそうに痛い。

 でも、妬ましいとは思わない。ヴィーザーとして生まれ、ヴィーザーとして生きなければならなかったキュアル様は、僕の知らないところでとても苦労したかもしれない。努力をたくさん積み重ねたからこその今かもしれない。あの眩しいばかりの笑顔と美貌は、日々、心が健やかである証拠だ。

 貴族のお嬢様でヴィーザー様なのに、庶民の僕にも優しく話しかけてくださった。きっととても聡明な方なのだと思う。陛下と御結婚されたらとても良い奥様になられるのは間違いない。

 明らかに、僕なんかより断然、キュアル様の方が陛下のおとなりに立つにふさわしい方だ。比べることすら失礼で厚かましい。もし許されるなら自分が陛下のとなりに立ちたいだなんて、よく思えたものだと恥ずかしくなる。

 僕には何にもない。華やかな美しさもなければ、何かに特別秀でているものもない。貴族様のような社会的地位があるわけでもない。

――地位。

 ああ、そうだ。何にもない僕にも、ゆいいつ人と違うところがあった。

 それは、僕が本当はヴィーザーだということ。本来は皇城で保護され、尊ばれる存在であるということ。同じヴィーザーなのに、キュアル様とは大違いだけれど。

 ここで、僕は本当はヴィーザーなんですと陛下に言ってしまおうか。そうすれば、もしかしたら、本当にもしかしたら、陛下の奥様という憧れの場所に立てるかもしれない。

 ヴィーザーなら社会的地位がある。みんなから認めてもらえる。今までどうして言わなかったんだと偉い人たちに叱られるかもしれないけれど、陛下の時代を支える4人目のヴィーザーとして大事にしてもらえるかもしれない。

 陛下がキュアル様を心から愛した末に結婚するわけじゃないのなら、結婚相手の条件が『ヴィーザーであること』なら、僕にもチャンスはあるかもしれない。赤ちゃんだって、きっと大丈夫。まだ初潮はきてないけど、女性の性もちゃんともってるんだから政治的な心配はないはずだ。

 厚かましくて、自分勝手で、愚かで、浅はかな考えだと自分でも痛いぐらいにわかってる。でも、それでも、大好きなこの人を独り占めしたい。

 これは僕の一方的な片思いで、陛下のお気持ちはわからない。でも、僕がヴィーザーだと打ち明けることで、今のこの現状が少しでも変わるのだとしたら。陛下が僕を見てくれるのなら。もしかしたら陛下のとなりに立てるかもしれないんだ。

「……陛下」

 僕は勇気を振り絞って顔を上げた。すぐに陛下と目が合う。

 陛下は、僕をまっすぐに見てくれていた。綺麗な金色の瞳。吸い込まれそうだ。恋焦がれてやまない人の美しい瞳に、ちっぽけな僕が映ってる。

「どうした?」

 返事をしてくれたのに、口が開かなかった。声が出ない。

 ……言えない。言えない。怖くて、言えない。言ったあと、陛下はなんとおっしゃるだろう。突然何を言い出すのかと困惑するだろうか? それとも、冗談はやめろと怒り出すだろうか。

 たくさん陛下とお話してきた。孤児院のことも友達のこともザザのことも。僕の狭い世界のことを。僕が生きてきた毎日のことを。

 でも、僕は今まで、自分がヴィーザーであることだけは決して言わなかった。今まで隠し続けてきた。

 僕がヴィーザーだと言ってしまったら、僕の『もうひとつの秘密』もきっとすぐに知れてしまう。同じヴィーザーの人と顔を合わせれば、すぐにでも。そうなったとき、陛下にどんな顔をされるかと思うと怖い。

 態度が一変するかもしれない。今まで僕を見つめてくれたあの綺麗な瞳が、僕をまっすぐに見てくれたあの瞳が変わってしまうかもしれない。

 お母さんがいつも言ってた。僕らは表に出たらいけない存在なんだって。信頼してた人が手の平を返すこともあるんだって。そうやってお母さんのお母さんたちは酷い目に遭ったんだからって。

 陛下はそんな人じゃない。陛下は優しい人。あったかい人。僕はそれを知ってる。ちゃんと知ってる。怖がる必要なんてどこにもない、はずなのに。

 僕はたしかに怖がってる。知ってるからこそ怖いんだ。大好きだから、怖がってる。

 優しい陛下の瞳が変わったら? あの温かい手が僕をどこかへ連れ去ろうとしたら? 大好きな人に嫌われてしまったら?

「……フィノ? どうしたんだ」

 ただのヴィーザーならよかった。むしろ、ただの庶民ならよかったのに。大好きな人に、「あなたを愛しています」と正直に言える人間に生まれたかった。

 お母さん。僕はいま初めて、お母さんの子どもとして生まれたことを悲しく思ってる。

 ごめんなさい。本当にごめんなさい。

 でも、大好きな人に大好きだと言える普通のことが、僕にはできない。

 僕は臆病だ。とんでもない臆病者だ。大好きな人が目の前にいるのに、自分を守りたいがために、「愛してる」というたった一言を告げるのを躊躇してる。そして僕が焦がれてやまない、その大切な場所に立つことをゆるされている美しい人が、どうしようもなくうらやましい。

 大好きなら、愛してるなら、たとえこのあとにどんな結末が待っていようとも、想いを伝えることができるはずだ。でも、僕にはその一線を越えることができない。

 臆病者のフィノ。愛してる人に「愛してる」と伝えることもできないなんて。また涙がこぼれた。とても自分が情けなかった。

「……フィノ。悲しいことがあったのか?」

 陛下の労わるようなその言葉に、胸が軋んだ。

 ありますよ。とってもとっても悲しいことです。あなたを愛してると伝えられない。

「俺に話せるか?」

 真摯な瞳でじっと見つめられ、僕は。

「……いいえ、陛下。だいじょうぶです」

 こんなに痛い想いにはフタをしようと、決めた。

 どう考えたって無理な話だった。可能性があるとは言っても、キュアル様との婚約話にはもう話がついている。僕がここで波風を立ててどうする? せっかくすべてが丸く収まろうとしているのに。

 僕のわがままですべてを台無しにしてしまうわけにはいかないんだ。そう、これは僕のわがまま。ほんの少しのわがままも許されない陛下がようやく首を縦に振って落ち着いた縁談話なのに、僕が余計な口出しをするべきじゃない。そもそも、そんな権利は僕にはない。

 陛下の奥様という立場はキュアル様がお務めになるのが一番だろう。グレイヴ大臣も認めた方だ。良い妻であり皇妃、そしていずれは良いお母さんになってくださる。僕がここででしゃばるのではなく、何も言わずに一歩引けばすべてがうまくいくんだ。

 陛下を愛してるからこそ、未来に進もうとしているこの人の背中を、僕はただの庶民のフィノとして押してあげなければ。お幸せにと、笑顔で手を振らなければ。

 この恋は、僕だけの胸に大事に大事にしまっておこう。初恋は叶わないと言うし、むしろ良い恋をさせてもらったと感謝しなくては。

 僕はこんなに素敵な人を愛したのだと。こんなに優しい人に涙を拭ってもらったのだと。悲観するのではなく、感謝しよう。そして、そう決めた自分を褒めてあげよう。

 まずは顔を上げて。それから、陛下の瞳を見つめよう。僕が大好きなこの人を、少しでも長く目に焼きつけておこう。

「……陛下。陛下」

「なんだ」

 呼びかけた声は、なんだか子どもが甘えたようなものになった。すると陛下はおかしかったのか、少しだけ眉を下げて微笑む。

 あなたが好きです。愛しています。

 その言葉を音にすることはできないけれど。

「ご婚約、おめでとうございます」

 自然に、笑顔で告げることができた。

 そうだ。こんなに嬉しいことはない。大好きな人が、光り輝く将来を手にすることができるのだから。

「……お前は、よく泣くな」

 こぼれた涙をまた拭ってくれる、優しい人。

 明日はまた、かならず笑うから。だから今は。今だけ、ゆるしてください。

「嬉しいからですよ」

 この人が、誰よりも誰よりも幸せになりますように。

 僕は心から、そう願った。



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