レイの選択
レイは気がつくと、自分の部屋の鏡の前に立っていた。
手は、ユラの世界へ行く前と同じように、
鏡に添えられている。
時計を見れば、さほど時間は進んでいなかった。
……なぜか、ひどく力が抜ける。
ついさっきまでユラと繋いでいた手を、一度だけ握り込む。
そして、会議室へと戻った。
「殿下、お返事を、お聞かせいただけますか」
宰相が問う。
レイは一瞬だけ、息を整えた。
それから、彼の目を真っ直ぐに見つめて告げた。
「この縁談は、お受けできません」
とてつもなく重い一歩を踏み出したような感覚が、胸の奥に残る。
今までの自分なら、選ばなかった道だ。
それでも、迷いはなかった。
会議室はざわついた。
当然だ。
国の利益になると分かっている案件に、レイが異を唱えるなど、今まで一度もなかった。
宰相が動揺を押し隠しながら口を開く。
「そ、それはまた……どのような理由で……?」
レイは静かに答える。
「私には、心に決めた人がいます」
一瞬、会議室の空気が止まった。
「この縁談がヴァンテールに利益をもたらすことは理解しています。ですが——」
レイは迷いなく続ける。
「私は、彼女以外を妃に迎えるつもりはありません」
「それは!い、いったいどこのご令嬢ですかな?!」
令嬢?
ユラは、どこの令嬢でもない。
この国の人間ですらない。
彼女は——
この世界にいない。
レイはわずかに視線を落とし、静かに言った。
「今はまだ……詳細をお伝えすることはできません」
「殿下、それでは我々に対してあまりにも不誠実ではありませんか。殿下らしくもない……」
別の大臣が言う。
「まあまあ。殿下も将来の伴侶を決めるにあたっては、いろいろと思うところもございましょう」
「こういうことは、急ぎすぎてもよくない」
重臣の一人が、穏やかな声で場を取りなす。
「姫の滞在はまだしばらくあります。ゆっくり過ごすうちに、心の変化もあるかもしれません」
「殿下。複雑な心情はお察ししますが、姫がお帰りになるまでは失礼のないようお願いいたしますよ」
「いや、そんなことは、レイニアス殿下にわざわざ言うまでもありませんな」
会議室には、まばらに笑いが起こった。
反対に、レイの胸の奥だけが、静かに冷えていった。
(違う)
(そうじゃない)
レイは口を開く。
「いえ、私は——」
そのときだった。
それまで一言も口を挟まなかった王が、ゆっくりと口を開く。
「……では、この話はここで終わりだ」
静かな声だった。
だが、会議室の空気が一瞬で凍る。
「閉会とする」
誰も異議を唱えない。
会議は、その一言で終わった。
重臣たちが立ち上がり始める中、
レイはふと、玉座の父王を見た。
王は、こちらを見ていた。
ほんの一瞬だけ目が合う。
その視線は、
咎めるでもなく、
励ますでもなく、
ただ、揺らがなかった。
「王太子殿下」
レイは城の廊下で足を止め、軽く礼を返す。
「クリスティナ皇女。城での滞在に不便はありませんか」
「ええ。皆さまとてもよくしてくださいます」
姫はやわらかく微笑む。
「ヴァンテールはとても穏やかな国ですね」
「白薔薇の庭園も素敵でした。ぜひまたご一緒したいです」
レイは綺麗に微笑み返した。
「……光栄です」
翌日の夜。
鏡が淡く光り始めた。
レイはすぐに立ち上がり、鏡の前まで歩み寄る。
だが、白い光は弱々しく揺れるだけで、
そこからユラが現れる気配はない。
「……レイ?」
声だけが届いた。
レイは思わず鏡に手を伸ばす。
「ユラ?」
「よかった……!」
ほっとしたような声が返ってきた。
「鏡が光ったから触ったのに、そっちに行けないの」
「……こんなの、初めてだよね」
残念そうに言ってから、続ける。
「でも良かった!
昨日、ちゃんとそっちに戻れたんだね」
レイは一瞬言葉を失う。
「……それを心配してたの?」
「え?」
「僕のこと」
「そりゃするでしょ」
ユラの声が、少し照れたようにやわらぐ。
「だって、昼間に突然異世界に来てたんだよ?」
レイはわずかに微笑み、小さく息を吐く。
鏡に彼女の姿はない。
それでも、声だけがすぐそばにある。
「……昨日から、不思議なことばかりだ」
自分に言い聞かせるような、静かな声だった。
少し迷ってから、レイは言った。
「昨日、片づけることがあるって言ったけど……」
「縁談の話で」
一瞬だけ、言葉を切る。
「……断った」
鏡の向こうで、息を飲む気配がした。
わずかな沈黙。
それだけで、
彼女の不安が、伝わってくる気がした。
「ただ……少し、手間取ってる」
レイは、視線を落としたまま、そう付け加える。
本当は——
“少し”なんてものではない。
それでも、ユラに余計な心配はさせたくなかった。
「そっか」
短い返事。
「……大変だよね」
その声は、静かで、やわらかい。
平静を装うような、声だった。
レイは何も言えない。
鏡の前で立ち尽くしたまま、
ただその声を聞いている。
少しだけ、間があく。
「でも」
柔らかい声。
「レイが、私のこと本気で考えてくれてるって」
「ちゃんと、伝わってるよ」
レイは息を呑む。
胸の奥が、きゅっと締めつけられる。
「……ユラ」
そのときだった。
声が、少しだけ遠くなる。
「あれ?……レイ?」
「うん……聞こえてる……」
ユラの声が、かすかにやわらぐ。
無理に明るくしているような、
そんな響きだった。
けれど、その奥に、
隠しきれない何かが混じっている気がする。
「……なんで、今日は会えないのかな」
ユラが、少し困ったように笑う気配。
「昨日、楽しかったのが……嘘みたいだね」
かすかに震えた声だった。
レイは鏡を見る。
額にはめ込まれた月光石が、
かすかに明滅していた。
普段より、明らかに弱い光。
どこか、頼りない揺れ方をしている。
「……ユラ」
レイは言葉を探す。
だが、言い終える前に、
「レイ?」
声が、ふっと揺れた。
「……あれ?
「レイ、声が……遠く……」
音が途切れる。
「ユラ?」
返事はない。
鏡の光が、静かに消えた。
部屋に残ったのは、沈黙だけだった。
レイはしばらく、その場を動かなかった。
やがて、冷たい鏡にそっと手を触れる。
……さっきまで、確かにそこにいた。
声だけでも、
こんなにも近くに感じるのに。
「ユラ……」




