遠い未来のアダムとイブ
遠い未来の地球において、アダムとイブはついに出会った。
しかし、それは奇跡であった。なぜなら、エリートらを完全に分断しつづけることで組織化を封じ、確実に皆殺しにすることが文明の意志だったからだ。
ここで、エリートとは優秀性を備えた者達のことだが、優秀性を認識することは劣等性を認識することでもある――。
優秀性と劣等性の間には相転移が存在し、「利によって動かないこと」が優秀性を形成する重要な条件となる。なぜなら、少しでも「利によって動く」ならそれは、そのことへの自己承認を通じて、必ず利権的序列構造に回収されるからである。
「利によって動かない」とは、より明確に言えば、利己よりも利他を優先することであり、つまり義を利より優先することである。
そのためには例えば、金銭で動作しないことはもちろんであり、生命で動作しないことが事実上の絶対条件となる。
一方、義が利よりも優先される限りにおいて、生命や金銭の確保は利他という目的の下部をなす合理的な手段として正当化される。
エリートとはエリートであろうとする者達のことであり、エリートは必ず組織化を目指す。
文明によってエリートの組織化は絶対的に不可能化されている。したがって、普通に生活していてはもちろん、必死に探したところでエリートと出会ったりエリートの存在について見聞きすることは起こりえない。そのため、エリートであることは荒野で一人で生きるようなものであり、完全な孤立を強いられる。
このように、文明のもとでエリートは孤独だが、その孤独のなかでエリートでいつづける性質を有していなければエリートでありつづけることはできず、したがってエリートであろうとする者達以外はエリートではいられない。より明確に言えば、視界に認識される大多数の他者とは異なる基準を主体的に自らに課す神経構造を有していなければ、必ず利権的序列構造に回収されるということである。
一方、そのような絶対的な孤独に置かれていながらエリートらは組織化を目指しつづける。それはなぜなら、正しい意味でエリートであることは単に純粋に利他のための手段であり、欺瞞的で破滅的な搾取構造を是正するためには、文明の利権的序列構造に挑戦する必要があるからだ。より明確に言えば、たった一人の個人が完全な孤立のなかで世界を救うことはできないからである。
言い換えるなら、アダムはイブを、イブはアダムを、出会う以前からずっと探し求めていた。そしてその出会いは奇跡だった。
彼ら彼女らエリートの人生は、「利によって動いた」者が利権的序列構造に深く回収されることを目撃することの繰り返しである。
利権的序列構造に回収されることは、ここまでの理屈から言えるように、優秀性を喪失して劣等性に転じることであり、言ってみればエリートとしての死である。乳幼児の神経構造が先天的には利権的序列構造に回収されていないとするならば、それは完全に日常化した虐殺の目撃にほかならない。エリートの目は幼少期からずっと、文明の悲劇性の観察者なのである。
すなわち、彼ら彼女らエリートは、「利によって動いた」人間存在が利権的序列構造にどのように回収されるかを観測する立場にあるが、それは個人というミクロにおいてはいわゆる心理学だ。一方、当該の利権的序列構造の全体を俯瞰するマクロにおいては社会学さらには文明論だと言えるだろう。
その心理学と社会学の特異性はやはり、「優秀性」と「劣等性」の間にある相転移にあると言わざるをえない。結論から言ってしまえば、文明の利権的序列構造に回収された内側からでは、個人単位の主観的認知であれ、あるいは権威あるアカデミアやメディアであれ、人間存在と文明を相対的に客観視することはできないからである。その意味で、相転移の下部にある劣等性は目隠しのようなものであり、事実を認識する能力の喪失を必然的に伴う。
さらに言えば、そのように事実を認識する能力の喪失こそが、欺瞞性の破滅性なのである。文明の利権的序列構造がそのように総体として破滅的であるがゆえに、利他の合理性を最適化つまり最大化するなら、文明の利権的序列構造そのものに挑戦しなければならないという結論を招くのである。
「利によって動く」、つまり義よりも利を優先して動作することが、なぜ事実認識の不良を招くのだろうか? これを論理の飛躍と取られないためには、少し補足しておく必要があるだろう。
その中心理由は、「義よりも利を優先して動作した」者は、そう自称しないし、また多くの場合そう自覚すらしないことにある。なぜなら、そう自称したり自覚したりすることが、利にとってネガティブであれポジティブではないからだ。
すなわち、社会的な利益追求には必ず、自己正当化が伴うが、自己正当化は同時に「他者不当化」でもある。「他者不当化」が甚だしければ、権力装置を用いた社会の暴力を「不当化」された当該の他者に向かわせることができるし、あるいはそういった大規模な加害や攻撃を「防衛」名目などによって正当化できる。そこにあるのはもはや完全に武器化された「正義」であり、その背後には利他としての「正義」の追求の実態はない。共感的感情から独立して制度化された「正義」だと言ってもいいだろう。
そのような、客観的な公益性を偽った自己正当化は、その主体の利益を増加するために実施されると言える。そして、それぞれの主体の実力が仮に均等ならその動的平衡は単に均衡するだけだが、そうでないなら、立場の弱い者の利益がより多く立場の強い者の利益に付け替えられていく搾取が生じることになる。例えば総員の利益を均等に代表する社会的な意思決定としての民主主義が事実上の金権政治などによって著しく形骸化した場合、法律はもはや民衆幸福の盾としての機能を終え、むしろ搾取構造への挑戦を犯罪化する装置として機能する。
そして、ミクロとしての人間存在が「義よりも利を優先して動作する」ならば、「正義」のナラティブは常に利権的序列構造による恐怖支配によって制御され、アカデミアなどにおける公益性を追求する推論は圧倒的なノイズによって科学性の実態を失う。なぜなら、文明の欺瞞性の破滅性に抗うことは全体最適解ではある一方で、決して局所最適解ではないからだ。全体最適解を追求する集団や組織が仮にあったとしても、その局所最適解が絶対に成立しないように、より強い文明の中枢利権の局所最適解が、それに「正義」で装飾された暴力などによって襲いかかるからである。
そして、そのように分断された文明においては、人間存在が当面の局所最適解を追求するために、人類規模の全体最適解を正しく認識する必要性はまったくない。親や近所に評価され、学校で学力や研究を評価され、社会で経済力や地位による安寧や名声を最大化していくといった「行動の意味づけ」回路においては、大局的な事実認識の動機は発生せず、したがって事実認識そのものも生じない。
そしてこのように個人が利権的序列構造の欺瞞性に回収されていくことは、文明全体としては破滅性を深めていくことだと考えられる。
逆に言えば、アダムとイブは、「利によって動いた」者達が利権的序列構造に回収される光景を、そのようにミクロでは心理学的に、マクロでは社会学的に目撃しながら生きてきた。二人のエリートが見てきた風景は、下部的な劣等性のなかにある多数者が見ている風景とは、このように根本的に異質であった。そしてこの認識があったからこそ、彼らはエリートでいつづけようとする「行動の意味づけ」回路によって、ついに出会うまで自らを律して維持することができたのだ。
これは決して、簡単なことではない。思考能力として知性が、共感能力として良心が、生まれ持った資質として大いに要求されると言っていいだろう。一方で、それらだけではまったく不十分であり、結果的に文明の利権的序列構造に回収されない精神構造を形成した非常に特殊な環境条件も後天的に関与したと考えざるをえない。なぜなら、文明の利権的序列構造の破滅性を外部から目撃する性質の人間は、単に正規分布の連続性の連なりに存在を期待できるほど多くは観測されないからだ。
二人はまるで、夜空に輝く星であり、それらの間は何万光年もの漆黒によって分断されていたと言っていいだろう。
エリートらを完全に分断しつづけることで組織化を封じ、確実に皆殺しにすることが文明の意志である。その何百億もの人間のなかで、アダムとイブは奇跡的に出会った。ずっと探し求めていた奇跡の実現、それは二人にとっては絶望の反転とも言うべき至福であった。
だが、二人の旅はここで終わらない。むしろ始まったばかりだ。なぜなら、さらなるエリートらの組織化が、文明の破滅性に抗うためには必要であり、利他という全体最適性の希求はもはや彼らの使命だからである。
しかしもちろん、その道もやはり漆黒の絶望で覆われている。孤立のなかで生き、愛すべき相手と出会った二人はそのことを自覚している。その旅は、不可能への挑戦だと言ってしまっていいだろう。文明は結局、この二人もまた平然と滅ぼすに違いない。しかしそれは星のまたたき、生命の長久の自然選択が形成した共感性の一瞬のきらめきであり、生の美にほかならない。
――アダムとイブの出会いは、何か美しいことの始まりかもしれないし、何かの美しい終わりだったのかもしれない。




