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第32話 選ばなかった言葉

 宿場町に着いたとき、空はすでに夕暮れに沈みかけていた。

 山が近い町特有の、影が早く伸びる時間帯だ。


 昼の暖かさは消え、風は冷たい。

 吐く息が、わずかに白い。


「今日は、ここで泊まろう」


 ユランの言葉に、リオナが頷き、エルドも同意した。

 それ以上進めば、暗くなる。

 それだけの判断だった――はずだった。



 宿の食堂は、妙に静かだった。

 皿が触れる音や、椀を置く音だけが大きく響く。


 奥の卓に集まった数人の男たちは、酒に口をつけていない。

 その事実だけで、場の重さが伝わってくる。


「……まただ」


 宿の主人が、布巾を握ったまま言った。


「山道で、人が戻らん」


 エルドの背中に、冷たいものが走った。


「昼過ぎに入ったきりだ」

「木こりが一人と、荷運びが一人」


 誰も、すぐには言葉を返さない。


「熊だろう」

 誰かが低く言った。


 主人は、否定しなかった。



 話し合いは、自然に始まった。

 声を張る者はいない。

 それが余計に、深刻さを際立たせる。


 集まったのは八人。


 年配の木こりが二人。

 若い荷運びが三人。

 畑仕事の男が一人。

 元衛兵が一人。


 ユランは壁際に立ち、腕を組む。

 エルドとリオナは、その少し後ろだ。


 エルドは、口を挟まない。

 ただ、聞いていた。


「夜になる前に入らないと」

 若い荷運びが言う。


「だが、熊が出てる」

 年配の木こりが首を振る。


「弓はあるのか」


 沈黙。


「……ない」


「罠は?」


「仕掛け方を知ってる者はいない」


 エルドの胸の中で、

 一つずつ、判断材料が積み上がっていく。


 ――遠距離から抑えられない。

 ――足止めができない。


「夜目が利く者は?」


 誰も答えない。


 ――暗闇での移動は、事故の確率が跳ね上がる。


「熊の習性を知ってる者は?」


 首が横に振られる。


 ――威嚇か、突進かの判断ができない。


「山に慣れている者は?」


 数人が曖昧に頷いた。

 だがそれは、通ったことがある、という程度だ。


 ――斜面を把握している人間がいない。


 エルドの頭の中で、

 地図が、ゆっくりと崩れていく。



 それでも、話は前に進もうとする。


「今行けば、助かるかもしれない」

「夜を越せば、寒さで――」


 その言葉に、エルドの胸が締め付けられる。


(もし、自分なら)


 夜は入らない。

 入口を押さえ、音を立てない。

 夜明けを待つ。

 斜面に近づかない。

 まず戻る道を作る。


 それができない人間が、

 今ここに集まっている。


 だから、言えた。

 言えたはずだった。


 ――今行くのは捜索じゃない。

 ――遭難の確率を上げるだけだ。

 ――熊に遭遇した瞬間、誰かが走る。


 若い荷運びの顔を見る。

 赤く腫れた目。

 噛みしめた歯。


 兄だ。

 弟が消えた。


 この場で理屈を並べれば、

 彼の足を止める代わりに、心を壊す。


 エルドは、喉が詰まるのを感じた。



「……それでも行く」


 若い男が言った。


「何もしないで待つより、マシだ」


 それは選択じゃない。

 追い詰められた末の、逃げ道だ。


 ユランが一歩前に出た。


「行くなら、俺がまとめる」

「無茶はさせない」


 その視線が、一瞬エルドに向く。


 何も言わないのか。

 言わない、という判断をするのか。


 エルドは、唇を噛んだ。


 そして、何も言わなかった。



 捜索隊は、夜の山へ入った。

 松明の光が、斜面に不安定な影を落とす。


 エルドとリオナは、町に残された。


 焚き火の前で、長い沈黙が続く。


「……あのメンバーで、できることはあったよね」


 リオナが、静かに言った。


 エルドは、頷く。


 止められたかどうかは分からない。

 だが、条件を出すことはできた。

 夜に入る危険。

 斜面の危うさ。

 熊への対処ができないこと。


 それを整理して、言葉にすることは、できた。



 夜半、鐘の音が鳴った。


 短く、乱れた音。


 胸の奥が、冷たくなる。


 戻ってきたのは、一人だけだった。

 顔に泥と血が付いている。


「……滑落した」


 それだけだった。


 熊じゃない。

 襲われてもいない。


 暗闇で、足を取られただけだ。


 エルドの頭に、

 さっきまで考えていたことが、そのまま突き刺さる。


 夜目が利かない。

 斜面を把握していない。

 止める手段がない。


 全部、分かっていた。



 夜明け前、ユランが戻った。


 肩に、泥と血の跡。


「一人は、生きてる」

「……もう一人は、見つからん」


 エルドは、深く頭を下げた。


 言葉が出ない。

 謝罪も、説明も、意味を持たない。


 ユランは、しばらく黙っていたが、やがて言った。


「判断をしないのも、判断だ」

「今日は、それを選んだ」


 責める声ではない。

 事実を刻む声だった。


 エルドは、その場に立ち尽くした。


 昨日は、誇りを踏んだ。

 今日は、命を失った。


 どちらも、

 言葉を選ばなかった結果だ。


 だが、違いもある。


 昨日は、踏み込んだ。

 今日は、踏み込まなかった。


 どちらも、人を傷つける。


 なら――

 これから先、どうすればいい?


 エルドは、自分の手を見る。

 剣も、弓も、持っていない。

 守れる力はない。


 それでも、自分には――

 状況を整理し、

 言葉にすることができる。


 それを使わなかった。


 それが、こんなにも重い。


 空が、ゆっくりと白んでいく。

 夜が終わる。


 だが、エルドの中では、

 何も終わっていなかった。


 次は、

 誰かを止める言葉を選ぶかもしれない。

 それで、誰かに恨まれるかもしれない。


 それでも。


 黙っているよりは、

 選ぶ。


 エルドは、そう決めた。

 まだ怖いまま、

 それでも、決めた。

今回は、

分かっていたのに言わなかったこと、その重さを書きました。


エルドは判断材料を全部持っていました。

それでも、踏み込まなかった。


正しさよりも、

誰かの心を壊さないことを選んだ結果、

失われたものがあった。


「判断しないのも判断」

その言葉が、今回は一番残ってくれたら嬉しいです。


次は、

彼がどんな言葉を選ぶのか。

その怖さごと、見ていくことになります。

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