第32話 選ばなかった言葉
宿場町に着いたとき、空はすでに夕暮れに沈みかけていた。
山が近い町特有の、影が早く伸びる時間帯だ。
昼の暖かさは消え、風は冷たい。
吐く息が、わずかに白い。
「今日は、ここで泊まろう」
ユランの言葉に、リオナが頷き、エルドも同意した。
それ以上進めば、暗くなる。
それだけの判断だった――はずだった。
◇
宿の食堂は、妙に静かだった。
皿が触れる音や、椀を置く音だけが大きく響く。
奥の卓に集まった数人の男たちは、酒に口をつけていない。
その事実だけで、場の重さが伝わってくる。
「……まただ」
宿の主人が、布巾を握ったまま言った。
「山道で、人が戻らん」
エルドの背中に、冷たいものが走った。
「昼過ぎに入ったきりだ」
「木こりが一人と、荷運びが一人」
誰も、すぐには言葉を返さない。
「熊だろう」
誰かが低く言った。
主人は、否定しなかった。
◇
話し合いは、自然に始まった。
声を張る者はいない。
それが余計に、深刻さを際立たせる。
集まったのは八人。
年配の木こりが二人。
若い荷運びが三人。
畑仕事の男が一人。
元衛兵が一人。
ユランは壁際に立ち、腕を組む。
エルドとリオナは、その少し後ろだ。
エルドは、口を挟まない。
ただ、聞いていた。
「夜になる前に入らないと」
若い荷運びが言う。
「だが、熊が出てる」
年配の木こりが首を振る。
「弓はあるのか」
沈黙。
「……ない」
「罠は?」
「仕掛け方を知ってる者はいない」
エルドの胸の中で、
一つずつ、判断材料が積み上がっていく。
――遠距離から抑えられない。
――足止めができない。
「夜目が利く者は?」
誰も答えない。
――暗闇での移動は、事故の確率が跳ね上がる。
「熊の習性を知ってる者は?」
首が横に振られる。
――威嚇か、突進かの判断ができない。
「山に慣れている者は?」
数人が曖昧に頷いた。
だがそれは、通ったことがある、という程度だ。
――斜面を把握している人間がいない。
エルドの頭の中で、
地図が、ゆっくりと崩れていく。
◇
それでも、話は前に進もうとする。
「今行けば、助かるかもしれない」
「夜を越せば、寒さで――」
その言葉に、エルドの胸が締め付けられる。
(もし、自分なら)
夜は入らない。
入口を押さえ、音を立てない。
夜明けを待つ。
斜面に近づかない。
まず戻る道を作る。
それができない人間が、
今ここに集まっている。
だから、言えた。
言えたはずだった。
――今行くのは捜索じゃない。
――遭難の確率を上げるだけだ。
――熊に遭遇した瞬間、誰かが走る。
若い荷運びの顔を見る。
赤く腫れた目。
噛みしめた歯。
兄だ。
弟が消えた。
この場で理屈を並べれば、
彼の足を止める代わりに、心を壊す。
エルドは、喉が詰まるのを感じた。
◇
「……それでも行く」
若い男が言った。
「何もしないで待つより、マシだ」
それは選択じゃない。
追い詰められた末の、逃げ道だ。
ユランが一歩前に出た。
「行くなら、俺がまとめる」
「無茶はさせない」
その視線が、一瞬エルドに向く。
何も言わないのか。
言わない、という判断をするのか。
エルドは、唇を噛んだ。
そして、何も言わなかった。
◇
捜索隊は、夜の山へ入った。
松明の光が、斜面に不安定な影を落とす。
エルドとリオナは、町に残された。
焚き火の前で、長い沈黙が続く。
「……あのメンバーで、できることはあったよね」
リオナが、静かに言った。
エルドは、頷く。
止められたかどうかは分からない。
だが、条件を出すことはできた。
夜に入る危険。
斜面の危うさ。
熊への対処ができないこと。
それを整理して、言葉にすることは、できた。
◇
夜半、鐘の音が鳴った。
短く、乱れた音。
胸の奥が、冷たくなる。
戻ってきたのは、一人だけだった。
顔に泥と血が付いている。
「……滑落した」
それだけだった。
熊じゃない。
襲われてもいない。
暗闇で、足を取られただけだ。
エルドの頭に、
さっきまで考えていたことが、そのまま突き刺さる。
夜目が利かない。
斜面を把握していない。
止める手段がない。
全部、分かっていた。
◇
夜明け前、ユランが戻った。
肩に、泥と血の跡。
「一人は、生きてる」
「……もう一人は、見つからん」
エルドは、深く頭を下げた。
言葉が出ない。
謝罪も、説明も、意味を持たない。
ユランは、しばらく黙っていたが、やがて言った。
「判断をしないのも、判断だ」
「今日は、それを選んだ」
責める声ではない。
事実を刻む声だった。
エルドは、その場に立ち尽くした。
昨日は、誇りを踏んだ。
今日は、命を失った。
どちらも、
言葉を選ばなかった結果だ。
だが、違いもある。
昨日は、踏み込んだ。
今日は、踏み込まなかった。
どちらも、人を傷つける。
なら――
これから先、どうすればいい?
エルドは、自分の手を見る。
剣も、弓も、持っていない。
守れる力はない。
それでも、自分には――
状況を整理し、
言葉にすることができる。
それを使わなかった。
それが、こんなにも重い。
空が、ゆっくりと白んでいく。
夜が終わる。
だが、エルドの中では、
何も終わっていなかった。
次は、
誰かを止める言葉を選ぶかもしれない。
それで、誰かに恨まれるかもしれない。
それでも。
黙っているよりは、
選ぶ。
エルドは、そう決めた。
まだ怖いまま、
それでも、決めた。
今回は、
分かっていたのに言わなかったこと、その重さを書きました。
エルドは判断材料を全部持っていました。
それでも、踏み込まなかった。
正しさよりも、
誰かの心を壊さないことを選んだ結果、
失われたものがあった。
「判断しないのも判断」
その言葉が、今回は一番残ってくれたら嬉しいです。
次は、
彼がどんな言葉を選ぶのか。
その怖さごと、見ていくことになります。




