第31話 聞き終えた朝
朝の空気は、まだ冷たかった。
雨上がりの街道に、土と石の匂いが残っている。
エルドは宿の裏手で、壁にもたれて立っていた。
昨夜、ハインツの話をすべて聞き終えてから、ほとんど眠れていない。
人攫いの件。
街道で確認された動き。
助かった子どもと、助けられなかった人たち。
分かっていることと、分からないこと。
「……納得は、してない顔だな」
背後から声がした。
振り返ると、ハインツが腕を組んで立っている。
「してません」
エルドは、正直に答えた。
「だが、反論もしなかった」
「……分からないことを、分からないまま押すのは、違うと思って」
ハインツは短く息を吐いた。
「それができるのは、大したものだ」
「多くの奴は、分からないまま決めたふりをする」
しばらく、朝の静けさが二人の間に落ちた。
「エルド」
ハインツは前を向いたまま言う。
「お前の見方は、現場では“武器”になる」
エルドは、わずかに背筋を伸ばした。
「だが――」
それだけを残し、言葉を切る。
「だから、今はいろんなものを見て、
いろんなところで、たくさん経験するといい」
エルドは顔を上げた。
「失敗も、挫折も……
お前の力になるはずだ」
命令でも評価でもない。
年長者の、静かな助言だった。
「……はい」
「戻りたくなったら戻れ」
ハインツは踵を返す。
「戻る理由ができた時でいい」
数歩進んでから、ふと思い出したように足を止めた。
「……ああ、そうだ」
振り返らずに言う。
「リルのことは、任せておけ」
エルドは、はっとして顔を上げた。
「護衛団の方でも動いている」
「結果が出るかは分からんが……
放り出すことはしない」
「……お願いします」
エルドが頭を下げると、
ハインツは短く「行け」とだけ言って、その場を離れた。
◇
宿の前では、リオナが荷をまとめていた。
「終わった?」
「うん」
エルドは頷く。
一瞬だけ迷ってから、言う。
「……また、旅を続けるよ」
リオナは少しだけ目を細めて笑った。
「やっぱりね」
「今度は?」
「……父さんと母さんが、昔通った道を」
「どんな仕事をして、
どんなふうに人と関わってたのかを知りたくて」
「いいと思う」
リオナは荷を背負い直す。
「今のあたしたちに、ちょうどいい」
◇
街を出る前、二人は通りに並ぶ露店を眺めながら歩いた。
乾物、道具、布。
その中で、エルドは一枚の織物の前で足を止めた。
派手ではない。
けれど、目が離れなかった。
幾何模様のようでいて、どこか柔らかい。
線は整っているのに、揺れがある。
「……これ」
思わず声が漏れる。
露店の奥から、若い女が顔を上げた。
「それ、気に入った?」
「はい」
エルドは頷く。
「……図柄も、織りも、
一人でやってるんですか」
女は一瞬だけ驚いた顔をして、
それから頷いた。
「そうだよ」
「すごいですね」
それは、取り繕いのない言葉だった。
「図柄、すごく好きです」
女は、少しだけ口元を緩めた。
「ありがとう」
エルドは、しばらく織物を見つめてから、
言葉を選ぶように続けた。
「……でも」
女が、こちらを見る。
「もし、ですけど」
「図柄だけを描いて、
織りは他の人に任せたら……
もっと、たくさん作れるんじゃないかって」
善意だった。
純粋な、善意。
女は、すぐには答えなかった。
指先で、布の端をつまむ。
「それ、よく言われると思う?」
エルドは、少し考えてから答えた。
「……はい」
女は、ふっと息を吐いた。
「実はね」
「この柄、描いてから織ってるわけじゃない」
エルドは、思わず瞬きをする。
「糸をかけて、
途中で迷って、
そこで次の線を決めてる」
指が、布の一部をなぞる。
「ここ、ほつれてるでしょ」
「この時、止まったんだ」
女は、少しだけ笑った。
「誰かに任せたら、
きっと、もっと綺麗になる」
それから、静かに続ける。
「でもそれは、
私が作ったものじゃなくなる」
エルドは、言葉を失った。
正しいと思った。
合理的だと思った。
でも――
この人が、何を手放したくなかったのかを、
考えていなかった。
「……すみません」
それしか言えなかった。
女は首を振る。
「悪くないよ」
「良くしようとしてくれたんでしょ」
少しだけ、視線を逸らす。
「だから……
余計に、難しいんだ」
◇
「……顔、沈んでる」
振り向くと、ユランが立っていた。
「見てたんですか」
「ああ」
ユランは短く頷く。
「正論だった」
「判断も、間違ってない」
それから、少し間を置いて言う。
「でも、人は
“良くなる形”だけで生きてるわけじゃない」
エルドは、拳を握った。
「……踏み込みました」
「踏んだのは、才能じゃない」
ユランは静かに言う。
「誇りだ」
そして、声を落とす。
「それと――
ここからは、団長の指示でもある」
エルドは顔を上げた。
「人攫いの件、
街道沿いで似た動きが続いてる」
「君たちの向かう先と、重なる」
「……だから?」
「心配だから、ついていく」
ユランはあっさり言った。
「仕事でもあるし、
個人的な判断でもある」
リオナが、少し笑う。
「また、三人旅だね」
「ああ」
エルドは、もう一度、露店の織物を見た。
正しいことを言ったはずなのに、
胸の奥が、少し痛い。
「……行こう」
エルドは、そう言った。
答えを出すためじゃない。
人を見る目が、まだ足りないと知るための旅だった。
第31話は、
エルドが「正しいこと」を言えたからこそ、
まだ見えていないものに気づいてしまった朝の話でした。
判断は間違っていない。
けれど、人は合理さだけでは生きていない。
この引っかかりを抱えたまま、
三人はまた旅に出ます。




