第16話 木片が落ちた理由
街で迎えた朝は、昨日と変わらずにぎやかだった。
果物を売る声、焼きたてのパンの匂い、馬車の車輪が石畳をこする音。
その全部が混ざって、街はもうすっかり動き始めていた。
けれど、エルドの胸の中だけは、まだ昨日の続きのようにそわそわしている。
(母さんの足跡が少し分かった。なら……父さんのことも)
宿の戸口を出ると、石壁の影でリオナが腕を組んで立っていた。
口元はつんとしているのに、つま先が落ち着かず小さく揺れている。
「今日はどこ行くの?」
「父さんのことを探したくて。大工だったから……工房に行けば、何か聞けるかと思って」
「ふーん。じゃ、ついてきなよ。ほら、早く」
そっぽを向いたまま歩き出すリオナを、エルドは慌てて追いかけた。
◇
工房街は、朝の空気の中で木の香りが濃く漂っていた。
材木の山に朝日が差し込み、白い木粉が光の粒のように舞っている。
槌の音は乾いたリズムを刻み、それが重なり合って、街の一角だけ別の時間が流れているようだった。
エルドが父の名とミルティア村のことを伝えると、年配の職人は手を止め、記憶を探るように目を細めた。
「……ミルティアの、背の低い大工なら……見たことがあるよ」
「本当に!?」
「ああ。戦地へ向かう作業隊がこの街を通った日があってね。
作業用の木材を渡した時、その中にいたよ。薬草を積んだ荷車もあったから……薬師の女性も一緒だった」
(父さんと……母さん)
胸の奥が、一瞬だけ熱くなった。
「その後は……?」
「戻ったって話は、聞いてないんだ。うちには知らせも来ていない」
淡々と告げられる言葉。
その冷たい現実を飲み込みながらも、エルドは深く頭を下げた。
◇
人気の少ない石段に腰をおろすと、エルドは背負い袋から木片をそっと取り出した。
祖父が託してくれた、大切な形見。
未完成の彫りには、父の大きな指の跡が残っている。
リオナが横から覗き込んだ。
「……それ、父さんの?」
「うん。家に残していった唯一のものなんだ」
「そっか」
短い言葉なのに、リオナはじっと木片を見つめていた。
指先がかすかに震えているようにも見えた。
◇
「誰か! 倒れてる!」
叫び声が石畳に響き、二人は反射的に立ち上がった。
広場へ駆けつけると――昨日、診療所で見かけたあの老人が、地面に崩れ落ちていた。
「また……抜け出しちゃったんだ」
「診療所の人、呼んでくる!」
「うん!」
リオナが駆け出し、エルドは老人の体を支えて呼びかけ続けた。
ほどなくして大人たちが集まり、老人を抱えて運び始める。
その途中――
コロッ。
小さな音が石畳に転がった。
老人の腰の袋から、小さな木片がこぼれ落ちたのだ。
「あ……!」
リオナが拾い上げた瞬間、その表情が固まった。
目が揺れ、息を呑む音が聞こえるくらいだった。
「ねぇエルド……これ、見て」
エルドが持つ木片を並べてみる。
形。
削り方。
彫りの向き。
――驚くほど似ていた。
「……本当に、似てる」
「でしょ……?」
リオナは眉を寄せながらも、確信めいた響きを声に宿していた。
「なんでこの人が持ってるのかは分かんないけど……
あんたのお父さんと関わってたのは、ほぼ間違いないよ」
その一言が、エルドの胸の奥で大きな波紋となって広がった。
◇
診療所に戻ると、治療師が老人を静かに寝かせた。
薄い布越しに見える老人の呼吸は浅く、遠くへ行きかけている人のようだった。
治療師は、エルドの話を聞き終えると静かに頷いた。
「この方は……前線へ向かった作業隊の一人です。
生きて帰った、数少ない方ですよ」
「作業隊……じゃあ、父さんたちと……!」
「可能性は高いでしょう。
意識は混乱気味ですが、この方はよく“カナミの丘”と言っています。
作業隊が最後に向かった場所だと、聞いたことがあります」
(カナミの丘……そこに行けば、父さんと母さんの足跡がつながる)
エルドは木片を強く胸に押し当てた。
◇
その夜。
宿の小さな灯りが揺れ、壁に映る影も揺れていた。
(父さん、母さん……
ぼくは、行くよ)
声にはならなくても、その想いだけは強く胸の奥に灯り続けた。
◇
翌朝。
街門に向かおうとしたとき、背中に風が当たった。
まるで「立ち止まるな」と押してくるように。
門へ足を踏み出した瞬間――
「ちょっと! エルド!!」
振り返ると、リオナが仁王立ちで睨んでいた。
「ひとりで……戦地の近くに行くってわけ? 正気じゃないでしょ!」
「で、でも、危ないよ――」
「何言ってんの、あんた一人の方が危なっかしくて見てられないよ!」
エルドが何か言い返そうとすると、リオナは一歩踏み込んで言った。
「それに、あたしも知りたいの。
あたしの親だって……行方も分からないままなんだから」
いつも強気な瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
その揺れが、彼女の奥にある本当の痛みをはっきり伝えていた。
(……そうか。リオナも、ぼくと同じなんだ)
「……だから行くの。
別にあんたのためじゃなくて……あたしのためにね!」
「うん。ありがとう」
「礼はいらない! さっさと歩く!」
リオナはくるりと背を向け、力強い足取りで前へ進む。
エルドは木片をしまい、彼女の後を追った。
――こうして、二人の旅は正式に始まった。
木片が示すものも、二人の探す答えも、まだ霧の向こう。
それでも二つの影は、まっすぐ“カナミの丘”へ伸びていった。




