第15話 最初の街で
道は、思っていたよりずっと長かった。
丘をいくつも越え、畑の少ない荒れた土地を歩き、
風の匂いが少しずつ変わっていくのを、エルドは背中で感じていた。
ミルティアの柔らかな土と違い、ここらの地面は固く、
靴の裏に残る感触までもが、どこかよそよそしい。
そしてついに視界の向こうに、白いものが立ち上がった。
城壁だった。
厚い壁、その内側に重なる屋根、煙突から上がる細い煙。
遠くからでも、人々の声がざわめきとなって風に乗ってくる。
(父さん、母さんが歩いていった道の先……)
ここは――
父と母の背中を見送った先にあった、最初の街。
エルドは背負い袋の紐を握り直し、街門へ向かった。
◇
門には商人や旅人が列を作っていた。
兵士の確認を受けて通っていく姿を眺めながら、エルドは順番を待つ。
「次!」
呼ばれて前に出ると、兵士が荷物を軽く調べただけで通してくれた。
どうやら、子どもひとり旅は珍しいらしいが、それ以上は何も聞かれなかった。
城壁をくぐった瞬間、空気が変わった。
肉を焼く匂い、果物の甘い香り、布の擦れる音、誰かの笑い声。
ミルティアとは違う、ぎゅっと詰まった街の匂いだった。
◇
店が並ぶ大通りには、人がひしめいている。
果物、干し肉、安物の服、薬草――
呼び込みの声が重なり合い、子供たちの笑い声がその下を抜けていく。
(まずは……母さんの薬が使われていたという療養所を探さないと)
看板を探しながらゆっくり歩いていた、そのとき。
視界の端をすばしこい影が横切った。
擦り切れた外套の少女。
人の流れに逆らわず、すり抜けるような軽い足取り。
その少女が、ひとりの旅人の腰の袋に――そっと手を伸ばした。
(……止まった?)
エルドは立ち止まった。
指が紐に触れたところで、少女はほんの一瞬固まった。
ほどこうとして――また、手を引っ込めた。
もう一度。
そして、また。
“盗る”というより、“迷っているように”見えた。
「おい!」
旅人が振り返り、怒鳴った。
少女の肩が跳ね上がり、次の瞬間には腕を掴まれていた。
「このガキ、俺の袋に手ぇ突っ込んでたぞ!」
◇
「待ってください!」
エルドの声が、通りに響いた。
旅人も少女も、周りの人たちまで一斉にこちらを見る。
「なんだ坊主、知り合いか?」
「い、いえ。でも……その子は――」
エルドは少女を見た。
掴まれた腕を必死に引こうとしていたが、
その目には怒りよりも、怯えが色濃く残っている。
「さっき、三回くらい手を引っ込めてました。
本気で盗むつもりなら、あんなふうに迷わないはずです」
「はぁ?」
旅人が眉をひそめる。
「盗むって決めてる人は、もっと目が変わります。
この子は……まだ迷ってました。
だから、その……怒鳴ったり殴ったりしなくても、やめさせることはできると思います」
自分でも分かるほど声が震えていた。
旅人の肩幅は大きく、腕は太い。
殴られたら、自分が倒れる。
沈黙が落ちた。
旅人が、ずっとエルドをにらんでいる。
周囲の視線まで痛いくらいに刺さった。
「……はぁ。ついてねぇ」
旅人は少女の腕を放し、背を向けた。
「次は知らねぇぞ!」
捨て台詞を残し、大股で去っていく。
少女は逃げず、ただエルドをにらんだままだ。
「……余計なことしないでよ」
「いや、捕まってたじゃないか」
「……うるさい!」
少女は顔を赤くして走り出し、細い路地へ消えた。
エルドは一度立ち止まり――そして、小さく息を吐いて追いかけた。
◇
路地は薄暗く、石畳は割れていた。
表通りの喧騒が遠くなり、ひんやりした空気が漂っている。
角を曲がると、少女が膝を抱えて座っていた。
「……ついてこないで」
そっぽを向いたまま、弱々しく言う。
「さっきは、ごめん」
「は? なんであんたが謝るのよ」
「困らせたかなって」
「困らせたのは、私の方でしょ」
少女の声には、悔しさと情けなさが混じっていた。
エルドは背負い袋を下ろし、固いパンをひとつ取り出した。
自分の分を少し食べ、残ったものを少女のそばの石に置く。
「食べなくてもいいから。……置いておくね」
「いらない」
と言いつつも、エルドが少し離れた樽に腰かけてパンを食べ始めると――
カサッ。
少女の手が、そっとパンを取った。
小さくちぎり、噛む音が静かに聞こえる。
「……なんで助けたの」
少女がぽつりとつぶやく。
強がりはまだ残っているが、声はさっきより少し弱い。
「見てたから」
「何をよ」
「盗る前に、手を引っ込めてただろ。三回くらい。
迷ってた。
本気で盗りたい人は、ああいう目をしないよ」
少女はしばらく黙り――
「……変な奴」
とぼそっと言った。
「よく言われる」
エルドは苦笑した。
◇
少し落ち着いたのか、少女の口も軽くなった。
「で、あんた。ミルティアって言った?」
「うん。ミルティア村から来た」
「ふーん。田舎者ね」
「そう言われるのも慣れてるよ」
「で、何しに来たのよ」
「母さんの足跡を探しに」
少女の目が、わずかに揺れる。
「足跡?」
「母さんは薬師でね。
この街の療養所に薬を送ってたらしいんだ。
だから、もしかしたら何か分かるかと思って」
「……診療所なら知ってる。兵隊とかが運ばれていく場所。
行ったことはないけど」
「そこ、案内してもらえる?」
少女はしばらく考え――立ち上がった。
「……行ってあげる。暇だったし」
「ありがとう」
「その代わり」
じろりとにらむ。
「あんたが変な真似したら、今度は本気で盗るからね」
「変な真似はしないでおくよ」
「名前は?」
「エルド。君は?」
「リオナ。……変な名前」
「よく言われる」
今度こそ、リオナはほんの少し笑った。
◇
リオナは人混みの流れを読みながら歩いた。
混んだ道を避け、裏道を使い、
“街を知っている者の歩き方”だった。
「よく分かるね」
「毎日歩いてりゃ覚えるでしょ。
人がどこでぶつかるか、どこが危ないか、どこならすり抜けられるか――全部」
(目の使い方が違うんだ)
エルドはそう思った。
自分は人の“心”や“迷い”を見る。
リオナは“流れ”や“道筋”を見る。
やがて、静かな通りに出て、小さな建物が見えた。
木の札には『療養所』と刻まれている。
「ここ」
「ありがとう、リオナ」
「中までは行かない。……出てくるまでここで待ってる」
「分かった。すぐ戻るよ」
◇
療養所には薬草と薬の匂いが漂い、
ベッドには数人の兵が横たわっていた。
年配の治療師がエルドに気づき、事情を静かに聞いた。
エルドは母の薬のことを話し、治療師は棚から古い布包みを取り出した。
「この包み方、見覚えは?」
震える手で触れた布――
家で母が包んでいた薬草の包みと、まったく同じだった。
「……母さんだ」
治療師の説明で、
母の薬が兵や街の子どもたちを救ったことが分かった。
「助かった子どももいたよ。
たしか名前は……リオナだったか」
その瞬間、エルドは言葉を失った。
◇
外へ戻ると、リオナが壁にもたれて待っていた。
「どうだったの」
「母さんの薬……ここで使われてた。
そして、リオナ。君も……その薬で助かったんだって」
リオナの指先がぴくりと動いた。
「……ふん。だから何よ」
「助かったって、先生が言ってた」
「……あんたの母さんに、ありがとうって言っといて」
「もう来なくなったって……言ってた」
「……そっか」
リオナは、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「でも、伝えるよ。ぼくが聞いたこと、全部」
「……勝手にすれば」
◇
その後、リオナは“変な旅人”を放っておけないと感じたのか、
宿まで案内してくれた。
「ここならぼったくられないし、寝床も普通。安心して」
「本当にありがとう、リオナ」
「……別に。暇なだけ」
立ち去りかけたリオナは、ふと振り返った。
「まあ……もしかしたら明日の朝、また会うかもね」
その言葉を残し、裏道へ溶けるように消えた。
エルドはその背中が見えなくなるまで見つめていた。
(父さん、母さん。
ぼくはちゃんと、この街まで来たよ)
胸の奥でそっとつぶやき、
空を見上げる。
旅の途中で、新しい人物「リオナ」と出会う回でした。
村しか知らなかったエルドにとって、
未知の人物と向き合うのは少し勇気がいる場面ですが、
ここから物語が外の世界へ広がっていきます。
エルドの臆病さや観察力が、どんな場面で役に立つのか——
書きながら自分でも楽しみにしています。




