第10話 火の消えた家で、ぼくは目だけを覚ましていた
村に太鼓の音が鳴った。乾いた音が三回。
それは「戦の召集」の合図だと、誰かが小さくつぶやいた。
朝なのに、空気が冷たくなった気がした。
エルドの家でも、父が腰ひもを締め、母が布袋に薬草と道具を詰めていた。
「父さんは城壁を直す仕事で呼ばれた。母さんはけが人の世話だ」
そう言われても、エルドには、ただ“遠くへ行ってしまう”ことしか分からなかった。
戸口にはライクもいた。落ち着かず、足を何度も踏みかえている。
「エルド、行こう。見送りするんだろ」
ライクに言われ、エルドも外へ出た。
◇
村のはずれの小さな門には、同じように呼び出された村人たちが集まっていた。
父はいつもどおり、周りの人を見ていた。
「お前は縄係。お前は測りを持て。……そこの腰の悪い人は無理するな、指示役に回れ」
戦に行くのに、いつも通り“人の役割”を見ていた。
母は、布包みを何人かに手渡していく。
「夜、火で少し温めて香りを吸って。胸が苦しいとき、眠れないとき、少し楽になるからね」
それを受け取った人は困ったような顔をしながらも、胸にしまいこんだ。
出発の前、母がエルドの手をそっと握った。
「エルド、怖がってもいいよ。怖いときは、人の痛みに気づけるから」
父は振り返って、軽く手をあげただけだった。「大丈夫だ」といういつもの合図。
太鼓は鳴らない。ただ、足音だけが遠ざかっていった。
エルドは声を出せず、手も振れず、ただ見送った。
◇
それから、家の火はつかないまま夜が来ることが増えた。
灰だけが炉に残り、薬草の香りも消えた。
外では風車がいつも通り回っているのに、家の中は時間が止まったみたいだった。
生活のため、大人の手伝いをすることもあった。
でも、荷物を落として怒られたり、釘を曲げてしまったり、うまくできないことばかりだった。
「ぼんやりするな!」
そう怒鳴られるたびに、エルドはうつむいた。
でも、本当は――ぼんやりしていたわけじゃなかった。
人の顔ばかり見ていたのだ。
腰を痛そうに押さえているおじさん。
強い声を出しながら、目だけが泣きそうなおばさん。
疲れているのに「大丈夫」と笑う人。
エルドは、仕事より、人のそういうところを先に見つけてしまうようになっていた。
◇
ある夕方、ライクが鍋と薪を抱えて家にやって来た。
「お前、飯食ってないだろ。今日はオレが火をつける」
火はなかなかつかなかった。けれど、やっと赤く灯った炎は、小さいけど温かった。
しょっぱいスープをすすりながら、ライクは照れくさそうに言った。
「エルド。……お前はすげぇよ」
「ぼくは、何もできないよ」
「でも、人のこと見てるだろ。ちゃんと。オレ、そういうの苦手だからさ」
エルドは少しだけ笑えた。
◇
次の日。荷車の仕事で、エルドは腰を痛めている男に言った。
「荷物は持てないけど、釘とか縄を渡す役なら、ぼくがやります」
男は変な顔をしたが、やらせてくれた。
作業は少しだけ早く終わり、男は「助かった」と小さく言った。
その一言が、ずっと胸の中で温かかった。
◇
そのうち、手紙も知らせも届かなくなった。
父も母も帰らないまま、日だけが流れた。
◇
炉の前で、エルドは小さな声でつぶやいた。
「ぼくは戦えない。力もない。……でも」
火を見つめたまま、続ける。
「誰が苦しそうか、どこが壊れそうか、分かる。見ていれば、気づける。
なら――それが、ぼくのやることだ。ぼくなりの、生き方だ」
炎がぱち、と音を立てた。
◇
今、丘の上でその話を聞いたライクとミーナは言葉を失っていた。
ミーナは小さく鼻をすすり、ライクは耳の後ろをかいて言った。
「そっか。だからお前、あんな戦い方思いつくんだな」
エルドは肩をすくめる。「たぶんね」
ライクは笑った。「じゃあ、これからもオレは前に出る。お前は後ろで見とけ。倒れそうになったら、また知らせろよ」
エルドはうなずいた。
「うん。それが扉で、柱で、屋根なんだって――父さんが言ってた」
丘の風が草を揺らした。
火は、もう消えていない。




