【第2話その2】公爵令嬢とその視点
午後、私たちは十分の神々を祀る教会に赴き、施しを捧げた。
香の漂う中庭には鐘が響き、静謐さと人々のざわめきが交錯していた。
木陰では、私の契約獣が尻尾を気だるげに揺らしながらうたた寝をしている。頭上では銀のヒバリが羽ばたき、挑発するように鳴き声を立てていた。彼らの静かな戯れとは対照的に、前方は騒然としていた。
祭司服の女が、豪奢な衣をまとう異国の男と対峙している。その背後では、二人の従者が真鍮で補強された大きな箱に手をかけていた。
「私の捧げ物を拒むというのか!」男は怒鳴った。「この私を知らぬとでも!?」
「ご高名なお方、しかし十分の神々の教会では――」
「侮辱だ!」石畳に声が反響し、巡礼者たちが身をすくめた。
母の手が私の手を強く握る。
「離れてはなりません、カタリナ」
私たちは群衆の方へ歩み寄った。男は顔を真っ赤にし、身振りを荒げ、女祭司の言葉を叩き潰すように遮り続けている。
「金は金だ! ゼーンディエスの貨幣でなくとも同じ価値だろう!」
母の声は低く、しかしはっきりと響いた。人々を宥めるように、そして全員に聞かせるように。
「ご安心なさい、教会はあなたの信心を疑ってなどおりません。ただ、外貨を受け取れば、教会は為替所に堕してしまいます。真心は純粋であっても、その影には必ず疑念が生まれるのです」
女祭司はその言葉に飛びつくように深く頭を下げた。
「まさしく奥方様の仰せのとおり。教会は必需品――穀物や布――ならば、そのまま困窮者に施せます。ですが貨幣はゼーンディエスのものに限られます。すべての通貨を受け入れれば、司祭は秤を振るう両替商となり、信仰を捨てることになりましょう」
しかし男はさらに激昂し、唾を飛ばして叫ぶ。
「馬鹿げた話だ! 我らの貨幣は貴様らの薄っぺらな硬貨よりも重いのだぞ!」
群衆はざわめき、女祭司は言葉を失って黙り込んだ。
私は母の手をすり抜け、一歩前に出た。声は母よりもさらに冷ややかに。
「お望みなら、門の外にあるギルドへ行きなさい。そして両替して戻ってくればよい。それが嫌なら、こうして広場の真ん中で子供のように駄々をこねていなさい」
男はたじろいだ。
私は続ける。
「教会があなたの貨幣を受け取れば、次は他の国も持ち込むでしょう。そのたびに秤にかけ、値踏みせねばならない。信仰が秤に乗った瞬間、それは信仰ではなくなるのです。その先には、神殿の門前で秤を振るう両替商の姿しかありません」
彼の装いを観察し、冷たく言い放つ。
「あなた、ヴィバントの出身ですね。かつては純度の高い金銀を鋳造していましたが、この十年、戦費に窮するたびに混ぜ物を増やし続けている。今やヴィバント貨幣の価値など誰にも分からない」
広場にざわめきが走る。
「我が王国の貨幣は百年変わらぬ。戦の時も交易の時も、ゼーンディエスの信用は揺るがない。価値の源は金属の重さではなく、積み重ねられた信頼にある。あなたの貨幣がここで安く扱われるのは、その重みが足りないからです。――金ではなく、国そのものが」
男の顔は真っ赤になり、手が震えた。
母の手が私の肩を押さえる。警告と制止を込めて。
「この小娘め――!」
鋼が鳴る。護衛たちが素早く男の腕を押さえ込んだ。背後で箱が揺れ、従者たちは凍りついたように動けない。
教会の階段の陰で、契約獣が眠りから目を覚ます。悠然と身を伸ばし、男と私の間に立ちはだかるように歩み出る。
上空から羽音が落ち、銀のヒバリが降り立ち母の肩に留まる。羽毛を逆立て、異国の男を鋭く見据える。
母の声はやわらかく。
「もうよろしい。彼はこの街の客人です。放してあげなさい」
護衛たちは逡巡しつつも、なお彼を押さえたまま動かない。
私は首を振った。声は冷ややかに、そして意図的に響いた。
「いいえ。罪はすでに犯されたのです。この聖域で手を挙げた――しかも、この地の貴族に対して。公爵家の血筋にさえ」
男の顔から血の気が引いた。
「……公爵の……?!」
声が裏返り、震えながら口ごもる。「わ、私は一時の激情で……許して――」
「もう遅い。」私の言葉はその懇願を切り裂いた。
「振るったか否かは関係ない。意志は明白でした。貴族を害そうとしたこと、脅したこと、聖堂を汚したこと――すべては〈レクス・デケム・ノービリス〉に基づく〈貴族十律〉において罪とされます。たとえ思念だけであろうと、それは反逆に等しい。異国の者であろうとも、この法は示しのために執行されねばなりません」
男はためらい、視線を聖堂の紋章へとさまよわせた。〈十神〉の信徒であるならば、この法を知らぬはずはない。
母の手が私の肩に強く添えられた。微笑みは優しげだが、その瞳は鋭く私を量っていた。
男はもがいたが、すぐに悟った。これは人生最悪の日であり、逃げ道などないと。
ささやきが広がる――冷酷だ……無情だ……。
私はさらに言葉を刻むように続けた。
「ある者は私を冷酷だと囁くでしょう。しかし、法を曲げることを慈悲と呼ぶならば、それは法を暴虐へと変えるだけ。民はまだそれを理解してはいません。だからこそ秩序は守られねばならない――この瞬間を記憶に刻むために」
一歩前に出た老司祭が、小さな声で言った。
「まことに……神々はこのお嬢さまを通じて語られました……」
巫女は深々と頭を垂れ、老司祭の宣言を静かに認めた。
すると、群衆の中から、誰かが息を呑むように呟いた。
「……つまりさ、情けかけでルールを曲げたら、神様の決めた秩序そのものが歪んじまうってことか……」
すぐ側で、別の女が顔も上げず、早口でこぼした。
「……だって……何も起きてないじゃない。あの方はただ大きな献金をする人にすぎない……酷すぎる……」
その声も、ざわめきも、母は聞いていた。
母の手が肩に重く触れ、微笑みは柔らかいが、その瞳は思索に細められていた――私の心の奥まで見透かすように。
「あなたは年齢に似合わず、よく学んでいるのですね」
「はい」私はためらわず答えた。
「そして、もっと学ばねばなりません――父上や兄上を助けるために」
母の視線は和らいだが、その言葉は近しく迫った。
「そのような献身は稀有なもの。あなたは父の鋼を受け継いでいる……けれど、その優しさは欠けているのではと恐れるのです」
私は母の手を抱いた。彼女は私を案じていた。
確かに観察は正しい。だが資質の分類を誤っている。
共感は人を動かすための道具――人材管理や士気維持には役立つ。だが、公爵家や領地の運営は共感ではなされない。
私は母へと向き直った。
「私に欠けているのは共感ではありません。情けです。情けは法を弱め、冷徹さは法を支える。私は後者を選びました」
母は驚きに口元を押さえた。半ばは衝撃に、半ばは笑みに。
「まあ……いつから私の娘は、そんな言葉を口にするようになったのかしら?」