【第2話その1】公爵令嬢とその視点
父に連れられてペタルヴィアへ行くことは滅多になかった。潮の匂いが絶えず漂い、港には船と商人でごった返す海辺の地。今回は兄が同行し、大都市の公爵館で関税の記録や船主たちの報告を受けるらしい。
一方で、母と私は残され、静かな朝の用事に出かけることになった。
護衛は外で待機。母と私だけでパン屋の中へ。母は司祭たちへの贈り物と、教会で振る舞うための大量のパンを買うつもりだ。
扉が開くやいなや、私の契約獣が足元をすり抜け、職人の靴の間を駆け抜けて、窯の温もりに身を丸めた。職人たちはくすりと笑い、その毛並みを撫でてから作業に戻っていく。
今日は祈りと施しの日――教会を通じて捧げものが集められ、分け与えられる日だ。
店主はすぐさま深く頭を下げ、最高のパンを取りに走った。
「焼きたてでございます、奥さま。ぜひお試しくださいませ」
「まあ、すてき。ありがとう」
母はかすかにちぎったパン屑を、手首にとまる銀の雲雀へ差し出す。小鳥は首をかしげ、ついばみ、満足げに翼をふるわせた。
私は数歩離れ、棚を眺め歩く。
並ぶのは艶やかなパンの列。ガラス越しに光る菓子。整然と四角に切られ、砂糖を散らしたケーキ。まるで百貨店のカフェのような気配――とても港町のパン屋とは思えない。
……おかしい。
この世界は石畳の街路とギルド規約で回り、通貨も銅・銀・金の硬貨だけ。
それなのに――私はすでに見てしまっている。蒸気機関車が田野を駆けるのを。石炭ではなく、スペルカードを差し込んで動く鉄の怪物を。
そして今度はこれ。
パン屋といえば、素朴な塊か、せいぜい肉入りパイのはず。なのに、ここは磨き上げられたガラスに、宝石のように飾られたケーキ。
しかも――
知ってる。
レッドベルベット。ストロベリーショートケーキ。ブラックフォレスト。アップルシュトルーデル。
どれもこの世界のものじゃない。なのに、どうしてここに。
「パン屋の奥さま」
「はい、お嬢さま?」
「あのケーキ。ブラックフォレストって呼ぶんでしょう?」
「ええ」彼女は微笑んだ。「中はやわらかく、外はさくりと」
「いつ習ったんですか? 由来はご存じ?」
首をかしげる。
「由来……ですか? 母に教わりました。母もそのまた母から。昔からずっと、そういうものです」
顎に指を当てる。
これは中世的な必需品じゃない。現代的な食欲だ。生きるための糧じゃなく、欲望のための菓子。
「値段は?」私はパンから視線を外し、磨かれたケーキへ向けた。「普通のパンと比べて」
「ケーキは一切れ六十ペニーから一シリング。パンは一斤十から十四ペニーです」
……高い!
でも理解できる。ここは貴族や富裕層を相手にしているのだ。
もし我が家のお金が庶民の十倍の価値を持つなら、市中の別のパン屋では一斤一、二ペニーで売っているだろう。
この店は――そう、高級路線なのだ。
青銅のペニー、銀のシリング、黄金のクラウン。
多くの王国で使われる貨幣の梯子だが、それぞれ独自に鋳造し、交換比率は金属の純度や信用、交易力の重さで変わっていく。
ここゼーンディエスでは、王家の造幣局が貨幣を発行しており、市場で通用する唯一の正貨と法律で定められている。ただ、港を通じて外貨が紛れ込むこともある。昔はロゼーシェ公爵家が独自に鋳造していたが、その権利はとうに王権に吸収された。
少なくともゼーンディエス国内においては基準が明確だ。
● 青銅ペニー(bp)。最小単位。銅釘ほどの重さ。頭の中で百円硬貨に置き換えることにしている。この小さな暗示が便利なのだ。
● 銀シリング(ss)=100 bp=一万円。
● 黄金クラウン(gc)=100 ss=百万円。
賃金も同じ比率に沿う。
● 家女中・召使い:月2~3 ss(2~3万円)
● 職人・労働者:月5~10 ss(5~10万円)
● 熟練職人・護衛:月15~25 ss(15~25万円)
● 宮廷魔術師・名工:月60~80 ss(60~80万円)
クラウンは希少だが、手の届かぬ幻ではない。裕福な商人の妻なら、嫁入り道具の箱に一、二枚しまっている。高級娼館の花魁なら、貴族の気まぐれで一枚稼ぐこともある。宿屋の主人でも、節約すれば年に数枚貯められるかもしれない。
さらにその先に存在するのが、滅多に目にできない「領主金貨」。純金で打たれ、王家ではなく公爵や伯爵が各々の紋章を刻んだものだ。市場で流通させるものではなく、投資・貢納・租税のための貨幣。伯爵から公爵へ、公爵から王へと渡る。庶民の大半は一生見ずに終えるだろう。
私は再び棚へと目をやる。磨かれたパンの列は、もはや食べ物というより装飾品のように光っていた。
「その価格で、商売は成り立つのですか?」
私の問いに、店主は固まった。視線が母へと助けを求めるように揺れる。
「構いませんよ」母は軽やかに言い、カウンターに手を置いた。「この子は自分の質問を理解できるだけの賢さを持っています」
女主人は無理に笑みを作り、頭を下げる。
「もちろんでございます、お嬢さま。ここは港町。貴族もよく訪れますし、商人も城壁内に邸宅を構えております。彼らには銀を費やす余裕がございます」
笑みがわずかに揺らぎ、彼女は付け加える。
「ですが……他の店はそうも参りません」
「どうして?」私はさらに追及する。
逡巡ののち、女主人は口を開いた。
「先月、ペタルヴィアに粉を供給していた水車村が襲撃され、焼かれてしまいました。ですから今は他領から持ち込まれる穀物に頼らねばならず、その価格が高いのです」
「つまり、他の店のパンは値上がりしていると?」
「いえ……この店では利益を削って価格を据え置いておりますが、他の店は選ばねばなりません。値上げをして暴動の恐れに怯えるか、据え置いて赤字で潰れるか。結局、多くは村が立ち直るまで窯を閉じてしまいました」
私は両手を組み、声を落ち着かせる。
「――それなら弱い店でしたね。愚かな商いだったのでしょう。強い者は生き残り、弱い者は消える。麦でも粉でもパンでも同じ。適応した者だけが生き延びるのです」
沈黙をあえて引き延ばしてから、続けた。
「品質を落としてでも売り続けられたはずです。あるいは高値にして非難を浴びてもよかった。パンは必需品――人々は文句を言っても結局は買う。ここでなくとも、どこかで。そう考えれば、値上げに正当性はあります」
私は首を傾げ、帳簿を読み上げるかのように淡々と言う。
「ただし、本当の危険は村が回復した後も高値を維持することです。そのとき、人々の怒りは飢えから憎悪へと変わる。商人が決して踏み越えてはならない一線です」
暖かな空気の中に、重い言葉だけが落ちた。
店主は乾いた薄い笑みを浮かべる。
「……お嬢さまは鋭いお方ですね。大人顔負けです」
――かもしれない。
だが鋭い言葉など、山賊相手には無力だ。私の知識は数と穀物で止まっている。鉄と血――それは私の外にある領分だ。




