【第1話その5】公爵令嬢とその契約獣
朝食のあと、父と兄はすぐに書斎へ引きこもった。二人とも忙しい――いつも忙しい。
誕生日の前までは、食後に兄と一緒に本を読むのが習慣だったのに、それももうなくなってしまった。
それでも、彼は私の兄で、私たちは変わらず近しかった。
それがはっきりしたのは、ほどなくして訪れたある午後のこと。
兄は、昔よく遊んでくれたのと同じ顔で、くだらない悪戯を仕掛けてきたのだ。
「カタリーナ、これかぶれよ!」
笑いながら、空の樽を私の頭に押し込もうとする。
「いらないってば。お母さまが“無理にやらなくていい”って言ったもの」
それでも兄はしつこく説得し、またしても私の契約獣への“待ち伏せ作戦”を仕掛けさせようとする。
「いいじゃないか。お前の契約獣が一番カッコいいんだから」
そう言いながら、自分の相棒――額に桃色の宝石を埋めた灰色の兎、アウグストゥス――を横目で見やる。
正直、私にはあちらの方がずっと綺麗に思えたのだけれど。
その言葉を聞いたのか、アウグストゥスは背を丸め、ぷいとそっぽを向いてしまう。
「ほら、アウグストゥスが拗ねたぞ」
「ごめんごめん。君も十分かっこいいよ」
兄は慌てて抱き上げ、頬をこすりつけて大げさに謝る。
そのとき、視界の端で影が動いた。
「来たぞ、カタリーナ!」
黒猫――私のヴォイド・フィーラインが、のそのそと姿を現す。長い昼寝から目覚めたばかりのように、背を伸ばしている。
「さあ、今だ。捕まえてカードホルダーを付けるんだ。それができたら、名前をつけてやれるぞ」
兄の瞳は期待に輝いていた。
どうして彼がここまで熱心に手助けしてくれるのか、不思議だった。
前世の私は、きょうだいのいない中年の女だったから、理由は想像するしかない。
……きっと、これが“兄妹”というものなのだろう。
「……分かった」
「よし! 成功したら、今度はお前とヴォイド・フィーラインを相手に、ちゃんと試合してやるからな」
「しっ。近づいてる」
樽の中に身を潜め、息を殺す。
黒猫は気ままに歩き、何の警戒も見せない。兄は少し離れたところから見守り、励ましてくれていた。
契約獣は好きに歩き回れるが、決して長く遠くへは行かない。結局は、持ち主のそばに戻ってくるのだ。
だがヴォイド・フィーラインは一周だけして尾を揺らし、大あくびをひとつ。あとは木陰にくるりと丸くなり、また眠り込んでしまった。
――さっきまで眠っていたのに、また寝るの?
こちらを見さえしないが、それでも「ここで十分だ」と決めているのだろう。
私は息を止め、機をうかがって飛び出した――けれど、猫は耳をぴくりと動かしただけで、するりとかわし、数歩駆けて、また別の陽だまりに転がった。
膝から崩れ落ち、顔が熱くなる。
……また失敗。
兄もしゃがみ込み、並んで寝転ぶ猫を眺める。奇妙なことに、私が無理に近づかない限りは、視線を向けても嫌がらない。
「なあ、捕まえられたら名前は何にするんだ?」
「さあ……“猫”でいいんじゃない?」
「つまんねぇ。それなら“グロ”なんてどうだ? 格好いいし男らしい。ヴォイド・フィーラインにぴったりだ。お前をいつも血まみれにするし」
「やだよ、そんな名前。そもそも雄か雌かも分かんないのに」
「え、契約獣って性別あるのか?」
兄は首をかしげ、本気で考え込む。
次の瞬間、彼はアウグストゥスを抱き上げて仰向けにする。兎は必死にばたついた。
「兄さま! 何やってるの!?」
「玉があるか確かめてる」
二人して凝視する――何もなかった。ぬいぐるみのように滑らかなまま。
「……今まで一度も考えたことなかったな」兄がぼそりと呟く。
「考えたことなかったの?」
「お前が“雄か雌か分からない”って言ったから気になってさ」
そう言われてみれば、私も不思議だった。餌を与える姿は何度も見たけれど、用を足すところなど一度も見たことがなかった。
そこへ、ふいに優しい調べが庭に流れ込んでくる。
母の契約獣――銀の小鳥が、またあの澄んだ声で歌っていた。沈黙を追い払うかのように。
やがて母が姿を現した。ゆるやかな足取りでこちらへ歩み、数歩うしろには侍女が従っていた。手には小さな茶箱を抱え、母の肩にかかるショールを直しながら。
どうやら客人との会談を終えたところらしい。誰と会っていたのか、どんな話をしていたのかを尋ねても、答えはいつも同じだった――「領地の貴族と会っていたのですよ」と。ここしばらく、その機会はますます増えていた。そして会談のあとは必ず、あの東屋で茶をとるのが習わしになっていた。
挨拶を交わす前に、私はつい口を開いてしまった。
「お母さま、契約獣って…ごはんをあげる必要があるの?」
「必ずしも必要ではありませんよ」母はやわらかく言い、私たちの隣に腰を下ろした。「けれど、私たちと同じように楽しむ子もいるわ。たとえばアウグストゥスなんて、昔はこんなに丸くはなかったもの」
兄は声をあげて笑い、うさぎを抱き上げてお腹をびよんと伸ばした。
「へえ、じゃあ全部お腹の中に溜まってるのか? きっとウンチでいっぱいだ」
母は片手で口元を覆い、肩を震わせて笑った。そしてもう一方の手で私の髪をすっと撫で、まるでこの時間を留めようとするかのように。
「それで今度は何をしていたの?」
「カタリナが“グロ”にカードホルダーを早く付けられるように手伝ってたんだ」兄が胸を張った。
「グロ?」
「ちがうの! あれは兄さまが私の契約獣につけたい名前よ!」
母はくすりと笑った。
「覚えておきなさい、カタリナ。契約獣はまず“仲間”。ほかのことはそのあと。名前もそうよ――あなたとその子、両方に響くものを選ぶのです」
その手が少し長く私の髪に残ってから、母は立ち上がった。侍女がすぐ傍らに寄り、ずり落ちかけたショールを整える。
「さあ、二人とも。お母さまに付き合っておいで」
「やだよ母さま、あの苦いお茶は嫌いだ」
兄はアウグストゥスを抱えて駆け出した。「ほら、訓練だアウグストゥス!」
母はその背を見送りながら、淡く寂しげな笑みを浮かべた。「あら…淋しいわ。誰か、母のそばに座ってくれる子はいないかしら」
「私が行きます、お母さま」私はすぐに答えた。
母の笑みが深まり、私たちは並んで歩いた。
そのとき、黒猫がゆるりと身を伸ばし、音もなくあとをついてきた。怠惰で、気まぐれで――けれど決して遠くへは行かない。
やがて大理石の東屋へたどり着くと、すでに卓には茶が整っていた。母は優雅に腰かけ、杯を取り上げる。私は目の前で、自分の契約獣が石床を跳ね回り、母の銀のヒバリを追いかけるのを見つめた。
「一緒に遊んでる…」思わずつぶやく。
母はただ微笑んだ。
「お母さま、私の契約獣はティティを食べたりしない?」
母は小さく声なき笑いをもらす。「さあ、どうかしら。あなたが餌を与えるところを見たことはないけれど」
「一度やってみたの! 魚をあげたけど、だめだった」
「まあ」母は掌に砂糖を少し広げた。「見た目は小さな虎でも、姿かたちはすべてではないのですよ」
それを見て、銀のヒバリはひらりと舞い降り、軽やかに母の手へ止まって砂糖を啄んだ。
私の契約獣はすぐさま飛びかかる。けれどヒバリは翼を閃かせ、母の上空を舞って逃れる。
残された猫はひとつ大きなあくびをし、体を伸ばすと――追う価値もないとばかりに、ナプキンの上へ丸くなった。
私はその怠けた姿を見つめながら、この子はいったい何を食べるのだろうと考えていた。すると母がまた口を開いた。声はやさしく、どこか遠くから響くように。
「お母さまと過ごして、楽しかったかしら、カタリナ?」
「もちろん。兄さまと違って、私は楽しかったわ」
あまりにも自然に答えていた。それが当たり前のことのように。
母はただその言葉を聞き、微笑んだ。
前の人生でも母はいた。優しくなくはなかったけれど、その愛は成績や成果にしか示されなかった。こうして一緒にお茶を飲むような静かな時間は存在しなかったのだ。