【第1話その4】公爵令嬢とその契約獣
侍女たちが入ってくるより先に、私は目を覚ました。
部屋はまだ薄暗く、カーテン越しに夜明けの光が重たく差し込んでいる。ベッドの端には、丸く小さな影――私の“契約獣”とされる黒猫が、眠り込んでいた。
思わず息をのむ。これまで、あの鋭い眼差しで私を見下ろし、先に目を覚ましているのが常だ
しばらく、ただ見つめていた。普段は脚や尾を包む炎も、今は淡く揺らめくだけで、まるで幻のよう。熱もなく、ただ静かに明滅
私はそっと手を伸ばした。毛並みはざらついているのに、触れると不思議に心地よい。身じろぎもしないその背を、初めてゆっくり撫でながら、小声で褒める。まるで、言葉にすがれば眠りを保てるとでもいうように。
「いい子ね……そのまま」
どれほどそうしていたのか、時間の感覚が薄れる。視線の先には机の上――カードホルダーが置かれていた。そうだ、今こそ好機
音を立てぬように手に取り、近づく。あと少し……。
だが、革紐を掲げたその瞬間、瞳がぱちりと開いた。
「――シャッ」
炎が再び燃え立つ。猫は跳ね起き、ベッドから軽やかに飛び降りた。数歩進んだところでようやく背を反らし、長く伸びをして、あくびをひとつ。さっきの一部始終などなかったかのように。
「……はあ」
結局、カードホルダーを装着できる日はまだ遠そうだ。
日々は流れ、一か月が過ぎた。
最初は悔しさと執念に駆られていたが、やがて追いかけることもやめ、母の言葉を思い出すようになった。――契約獣に無理強いしてはいけない、と。偉大な術者でも、カードを扱いこなすには何年もかかる者もいる、と。
きっと私もその一人なのだろう。
そうして追わなくなった猫は、今度は別の方法で私を苛立たせるようになった。
たとえば――。
午後の書斎。
三人の教師が交易路や関税について講義している最中、猫は本の山の上に登り、まるで王のように見下ろしていた。
追い払おうと手を伸ばすと、牙を見せ、爪を閃かせ、挑発するように唸る。
「カタリーナ様、授業に集中なさい」
「……はい」
渋々手を引き、羊皮紙へ目を落とす。資源配分の計算を口に出して暗唱する。
けれど気づく。あまりに簡単すぎる、と。十二歳の子供にしては、不自然なほどに。
日を追うごとに課題は難しくなり、同時に“前世の私”の記憶も鮮明さを増していった。教師たちは驚き、口々に称賛したが、私にとっては新しい知識ではなかった。私の年齢は、実際にはもう五十に近い。税も交易も法も、理屈は既に馴染み深いものだった。
「まあ、カタリーナ様、こんな計算で処理なさるとは!」
「はい。こうすれば、旅費の控除は雑収入で相殺されます。だから王都に届く帳簿上は損失が最小に見えるはずです」
称賛の声が重なるたびに、胸の奥には違和感だけが濃くなる。
――私は、誰のために、何のためにこんなことを繰り返しているのだろう。
机に飛び乗った猫が、か細い声で鳴いた。羊皮紙の上を歩き回り、羽根ペンにじゃれ、インク瓶を叩く。現実へ引き戻すように。手を伸ばせば、すぐに尾を翻して逃げていった。
……考えるまでもない。家族のため。貴族の務めのためだ。
私はアプグルントヘルツ公爵家の一人娘。この国で最も強大な家門の娘として、生き方はすでに定められている。義務、縁組、婚姻――檻ではないにせよ、壁はある。その内側なら歩けても、外には出られない。
恋など夢見るべきではな
だから代わりに、別のものに熱を注いだ。園芸。編み物。どれも一時の気まぐれに終わり、最後に行き着いたのが剣術だった。
「小娘にしては、俺の同じ年頃より筋がいいな」
稽古の合間、兄が苦笑混じりに言った。
「スペルカードを扱えるようになれば、その腕前はさらに厄介になるぞ」
練習用の剣を下ろした兄の視線を追うと、訓練場の隅には黒猫が日向で寝そべっていた。尾を揺らし、相変わらずカードホルダーは使われぬまま。
母の言葉に甘えて焦らないようにしてはいる。けれど――果たして私は、このままで“立派な貴族”になれるのだろうか。
その夜、四人そろって同じ卓を囲んだ。――めったにないことだった。
普段は母と兄と私だけ。父も兄も顔を合わせるのは食事の時くらいで、時にはその食卓ですら姿を見せない。兄にはもう役目があった。王立学院への入学に備えた修練、そして父に随行しての宮廷勤め。跡継ぎとしての道を歩み始めていた。
「カタリーナ。まだ契約獣に名を与えておらぬのか」
父がようやく口を開いた。
「はい、お父さま」
誕生日のあの日には、あれほど誇らしげに見ていてくれたのに。今の声色には、礼儀ばかりで熱はなかった。
沈黙が続くのを見かねて、母が話題を向け直す。
「旦那さま、カタリーナの物流に関する報告書をご覧になりまして?」
父はわずかに微笑む。
「見たぞ。立派なものだ。いっそ領内の問題をいくつか任せてみてもよいかもしれぬな」
「ぜひお願いします!」
口が勝手に動いた。
――どうして、こんなにも即答したのだろう。
けれど、答えはすぐに分かった。
ただ、あの笑みを自分に向け続けてほしかったから。
「ご覧なさい、レイフ。あなたより妹の方が熱心なようですわ」
母がからかうように微笑みながら言った。
「では、私の務めは妹にお任せすることにいたしましょうか。」<
兄はそう言いながら、ほんのわずかに微笑んだ。
母が笑い、父が笑い、兄も笑う。
三人の笑いに包まれ、私もそっと笑みを作った。
重たく、ぎこちない――けれど、不思議と違和感はなかった。
ふと脳裏をよぎる。昔観た映画の一場面。華やかな晩餐に並ぶ貴族たち。整った所作、磨かれた笑み。
あの頃は、演技にすぎないと思っていた。
だが今なら分かる。
――これは芝居ではない。
これこそが、貴族の生き方なのだ。