【第9話その4】公爵令嬢と政略の駒
サロンは、貴族のサロンとはこうあるべき、という配置だった。
低いテーブルを挟んで、長椅子が向かい合う。
磨き上げられた天板は、天井のシャンデリアを映し返すほどだ。
壁には絵画。
風景画、肖像画、戦の場面。
どれも「好きだから」ではない。
この家が何者であるかを語るために、選ばれたもの。
大理石の彫像が部屋の隅に立っている。
間隔は絶妙で、無作為に見えて、明らかに計算されていた。
中央の席に、父たちが座る。
父の声が部屋に響く。
澄んでいて、安定していて──
いつもの武勇譚が決まった結末に差しかかると、笑い声が混じる。
ロレンツォ公爵も同じだ。
時には、父より先に続きを語ってしまうほど。
母たちは、静かに相槌を打ち、
日付を訂正し、
誇張された英雄譚に、呆れたように目を細める。
使用人たちは音もなく動く。
杯が空く前に満たされ、
頼むより先に、ワインが注がれる。
時折、大人たちは私たちを会話に引き込んだ。
「覚えているか、あの場所を」
「君なら、その年頃でどうした?」
「子供の目には、違って見えるものだろう?」
……どれも、重要じゃない。
考える必要もない、社交用の問いかけ。
ドゥッチョと私は、話を振られた時だけ答える。
丁寧に、短く。
それ以外の時間は、静かに座っていた。
──ラファエラを除いて。
彼女は、席に着いたと思ったら、すぐにするりと降りた。
まるで、籠から放たれた小鳥みたいに。
絵画の前で立ち止まり、
彫像に顔を近づけ、
「見せるためだけに置かれた」装飾棚の周りをぐるりと回る。
時折、母の元へ戻り、
折り畳まれた扇子の影で小声の質問をして──
そして、また離れていく。
退屈が、礼儀に勝ったらしい。
私の足元では、虚無の猫がのんびりと喉を鳴らしている。
足首に絡みつき、
まるで、このサロンの主は自分だと言わんばかりだ。
その音は、柔らかく、温かく、生きている。
向かい側。
ドゥッチョの契約獣が、宙に浮かんでいた。
白い球体──イヴ。
肩の近くで静かに浮遊し、
かすかな、一定の音を立てている。
うるさくはない。
邪魔でもない。
ただ……常に、そこにある。
電気機器が背景で動いているような、そんな音。
その音を聞いていると、
なぜか懐かしいような、
そして同時に、集中を乱されるような気分になる。
見ないようにしよう、と決めた。
そして、
彼を見ないようにする努力は、もっとした。
ロレンツォ公爵が、ワイングラスを置く。
小さな音が、静かなサロンに響いた。
「そういえば」
何気ない口調だった。
「都の貴族たちの間で、ある話が回っていると聞いた。
聖戦後、職を持たずに彷徨っている退役兵たちについてだ」
父は、手を振って受け流す。
「提案というほどのものではない。
観察の呼びかけだよ」
父は、私の計画について語った。
それに、都の貴族たちがどう関わっているか。
「実りある観察は、やがて政策になりますもの」
公爵夫人が、穏やかに微笑む。
「──十分に長く、生き残れたなら、ですけれど」
その視線が、
ほんの一瞬、
けれど意図的に──私へ向けられた。
私は姿勢を崩さない。
父は、思いついたかのように話を続けた。
「ドゥッチョ」
わずかに身体を向けて。
「最近、国境州に滞在していたそうだな?」
ドゥッチョは、即座に背筋を正した。
「はい」
「なら、似たものを見ただろう」
問いではない。
切り口だ。
「退役兵かどうかに関わらず──職のない男たち。
行き場のない資源。
動きはあるが……向かう先がない」
ドゥッチョの傍らで、
イヴの唸りが、ほんのわずかに低くなった。
彼は、すぐには答えなかった。
一拍。
それから。
「非効率だと感じました」
静かな声。
「努力が足りないのではありません。
配置が、悪いのです」
ロレンツォ公爵の視線が、鋭く息子に向けられる。
「──どういう意味だ?」
ドゥッチョは、わずかに首を傾けた。
「人は、継続して糧を与えてくれるものに忠誠を示します。
象徴ではなく。
命令だけでもない」
──正しい。
それは、この国の統治構造における最初の原則だ。
そしてヴェルドゥアノ公爵領を治めてきた彼らが、
民が古くから“誰に”忠誠を向けてきたかを知らぬはずがない。
そのとき、父が再び口を開いた。
「では──娘のやり方については、どう見る?」
私の計画についての問い。
部屋の空気が、静かにこちらへと回転する。
私はドゥッチョを見る。
彼は、こちらを見なかった。
視線は父に固定されたまま。
まるで報告書を提出するかのように。
「適切な点に圧をかけています」
慎重な口調だった。
「ですが、圧力とは流動的なものです。
──動きます」
公爵夫人が、片眉を上げる。
「……つまり?」
「人を集める仕組みは、機能します」
ドゥッチョは続けた。
「ただし、噂が広がるよりも早く配置できる間だけです。
人が長く待たされれば、それは通過点ではなく……
“滞留地”だと認識され始める」
──彼も、
私の計画に起こり得る歪みを、見ている。
ロレンツォ公爵が、ゆっくりと頷いた。
「規模と速度、か」
「はい」
ドゥッチョは即座に肯定する。
「そして、拘束力です。
離脱が容易であれば、忠誠は漏れ出す。
滞在が快適すぎれば、停滞が生まれる」
父は、しばらく彼を見つめていた。
「──その条件が満たされたなら?」
問いかける。
ドゥッチョは、軽く頭を下げた。
「機能するだけでなく……
他の者たちが、旗や刃で問題を解決しようとするのを防げます」
ロレンツォ公爵は、指を組んだ。
「つまり、お前は彼女の制度が機能すると考えている」
ドゥッチョは一度だけ、はっきりと頷いた。
「不満の発生を抑えます」
「……けれど?」
公爵夫人が、穏やかに促す。
「責任の所在が移動します」
ドゥッチョは、今度は言葉を選びながら話した。
複雑な概念を、慎重に辿るように。
「自ら道を選んだ者は、
その先で出会う困難を“自分のもの”として引き受けます。
しかし、配置された者は……
与えられた約束と、現実の苦難を比べ始める」
父の目が、わずかに細くなる。
「不満が出る、と?」
「最初は出ません」
ドゥッチョは即答した。
「感謝は、初めは大きな音を立てます。
不満は、もっと静かな音です。
努力と期待の間に生まれ、その隙間で育つ」
一拍。
若い彼の顔は、真剣そのものだった。
「自力で失敗した者は、
己の力や運、あるいは神意を責めます。
ですが、制度の下で失敗した者は……
なぜ“公爵の道”が崖へ続いていたのかを問う」
その視線が、ようやく上がった。
父でもなく、
公爵でもなく──
私へ。
傍らで、イヴの唸りが、ほとんど囁きに近い音へと変わる。
「カタリナ嬢の設計は、原理としては正しい」
言葉は正確で、ほとんど用意されたもののようだった。
けれど、そこには確かな重みがある。
「ですが、人は計算式ではありません。
希望であり、記憶であり、不満です。
それを織り込まなければ……
収穫できるのは、最後のものだけになる」
「──カタリナ。あなたは、ドゥッチョの意見をどう思う?」
ついに、母が私に発言を許した。
私は、すぐには答えなかった。
不快だったからではない。
──問題の形を、頭の中で組み替えていた。
彼は、個人の不満に円を描いた。
ならば私は、
支配者の義務を含めた、もっと大きな円を描かなければならない。
私は、わずかに首を傾けた。
「間違ってはいません」
静かに、そう告げる。
「ですが、それは“臣民の視点”です」
空気が、わずかに張り詰めた。
ドゥッチョの視線が、私に固定される。
「仕事を与えれば、期待が生まれる。
評価も生まれる。
それは事実です」
私は、冷静に言葉を重ねた。
「けれど、それは責任が消えるという意味ではありません。
──責任を、全面的に引き受けねばならない、という意味です。
恐れるのではなく」
私は、膝の上で手を重ねた。
落ち着いて。
崩さずに。
「ドゥッチョ様は、責任が“誰に帰されるか”を語っていらっしゃる」
私は彼の目を、正面から見た。
「けれど私が語っているのは、
“権限がどこに属さねばならないか”です」
静かに、しかしはっきりと。
「あなたは、貴族領主ではないのですか?」
間を置かず、続ける。
「彼らは、我らの民です。
彼らの未来も、失敗も、従属も──
それは彼らだけが背負うものではありません」
扇子が、完全に止まった。
「盗賊となれば、我らは首を刎ねます。
差し出された道を選べば、我らは彼らを臣民として受け入れる」
言葉を、選ばない。
「そこに、“誰の責任でもない第三の道”など存在しません。
彼らの行く末は、常に我らが答えるべきものです」
私は視線を、大人たちへと巡らせた。
「ドゥッチョ様の論は、
すべての人間が同じ出発線に立っている場合にのみ成立します」
首を横に振る。
「現実は違う。
冒険者になった者もいる。
盗賊になった者もいる。
そして、意志がないのではなく、門が開かれないまま、都で待ち続けている者もいる」
彼らは、すでに選んでいる。
「違いはただ一つ。
──我らが、まだ“選んでいない”という点です」
私は、静かに息を整えた。
「完全に独りで失敗した者は、運や神を呪います。
それは自然なこと」
声を低くする。
「ですが、統治者である我らが、
門も、道も、法も与えなかったなら──
それは自然ではありません。怠慢です」
視線を逸らさない。
「そして彼らは、我らを呪うでしょう。
飢えは牙を研ぎません。
──牙の向かう先を、定めるのです」
「私の目的は、成功を約束することではありません」
言葉は、硬く、明確だった。
「管轄を確立することです」
「退役兵組合は、
『この道は報われる』とは言いません」
「こう言うのです。
『この道は、公爵の印の下にある。
歩くか否かは自由だ。
だが、歩くなら──公爵の民として歩け』と」
一拍。
「何を成すかは、個人の責任。
だが、歩く道が存在すること自体は──
我らの義務です」
「……そして、失敗したら?」
ロレンツォ公爵が、低い声で問う。
「その失敗は、我らの管轄内で起こります」
即答した。
「見え、把握され、
是正も、処罰も、再配置も可能です」
「見えない失敗は、雑草です。
見える失敗は──解決すべき問題です」
父が、身を乗り出した。
「では、非難を受けることも承知の上か」
私は、首を横に振った。
「非難は、すでに存在しています」
語調は、断定だった。
「行動することで責任を負うのではありません。
行動しなかった結果として、責任が確定するのです」
「道を示さぬ領主は、責任を回避しているのではない。
──放棄しているのです」
そして、静かに告げる。
「放棄には、いかなる帳簿にも載らない代償が伴います」
私は、ドゥッチョを見た。
彼の目は見開かれていた。
怒りではない。
反発でもない。
──理解。
鋭く、研ぎ澄まされた理解。
彼は、この制度の中にある“鋼”を見ていた。
「……失敗するかもしれないと理解した上で道を歩く者は」
彼が、低く言った。
もう、笑みはない。
「立ち尽くしたままの者とは、歩き方が違う」
私は、その視線を受け止める。
そして──
ほんのわずか、口元を緩めた。
あの、
「正解よ、ドゥッチョ様」
という、少しだけ得意げな笑み。
「忠誠は、糧だけで取引されるものではありません」
静かに、しかし確信をもって。
「権威が認識されたときに、鍛えられるものです」
笑みを、ほんの少しだけ深める。
「希望は、差し出すもの。
服従は──代価です」
沈黙を破ったのは、柔らかく、旋律的な笑い声だった。
近くで、彼女の契約獣が翼を大きく羽ばたかせる。
公爵夫人は扇子で口元を覆い、
愉快さではなく、興味に輝く目で私を見ていた。
「なんて示唆に富んだお話でしょう」
蜜を流すような声。
「統治者と被統治者の、古き契約が……
これほど飾り気なく語られるとは」
彼女の目が、評価するように私を捉える。
「聞いたことがあります?
──銀貨が大理石の床に落ちたときの音に、よく似ていますわ」
それは、称賛でも反感でもなかった。
力の本質を理解する者が、
同類を認める──ただの観察。
私は、完璧な角度で一礼した。
微笑みもまた、彼女と同じく磨き上げられたもの。
「お褒めの言葉として、受け取らせていただきますわ。公爵夫人」
「ええ。そのつもりですもの、カタリナ嬢」
扇子が、優雅に一度だけ揺れる。
ほんの一瞬。
私たちは、互いに微笑み合っていた。




