【第9話その3】公爵令嬢と政略の駒
屋敷は、まるで式典でも行われるかのように整えられていた。
正装した近衛兵たちが、玄関前の階段にずらりと並ぶ。
磨き上げられた鎧を纏った騎士たちは、寸分の乱れもない陣形で入口を固めていた。
旗手でさえ、旗を微動だにさせていない。
そして私。
両親のほんの一歩後ろに立ち、手を重ね、背筋を伸ばす。
公爵令嬢らしく。
完璧に。
つい一時間前まで、化粧に殺されかけてた女だなんて、誰が思うでしょうね……
遠く、地平線の向こうに馬車が見えた。
規則正しいリズムでこちらへ向かってくる。
午後の光を背に、馬の輪郭がくっきりと浮かび上がる。
左右には騎士たち。
貴族の護衛としては一般的……だけれど、その数が示していた。
これは、ただの訪問じゃない。
私は視線を父へと移した。
父は、いつものように正装している。
──けれど。
腰に帯びている剣が違った。
装飾用の儀礼剣ではない。
古く、傷だらけの剣。
聖戦で使っていた、あの剣だ。
父があれを身につけるのは、
政治的な相手ではなく、
「個人的に敬意を払っている相手」に限られる。
王でもない。
大臣でもない。
血を分けた兄弟ですらない。
友と認めた者だけ。
……ああ。父は、ロレンツォ公爵を、そこまで……
じっと見つめすぎたのだろう。
父はすぐにこちらへ視線を向けてきた。
「どうやら、契約獣もすっかり従うようになったようだな、カタリナ」
穏やかで、けれどどこか柔らかい声。
「ヴォイド・フィーラインと並び立つ姿も、実に見事だ」
「ありがとうございます、お父様」
できる限り平静に答えた。
──本当は、誇らしさで口元が緩みそうだったけれど。
ちなみに。
ヴォイド・フィーラインは、まったくもって「並び立つ」などという高尚な状態ではなかった。
私の足元で転がり、
ごろごろと喉を鳴らし、
時折、私の足首に絡みついてくる。
父は、滅多に感情を表に出さない。
はっきりと笑顔を見たのは──
私の誕生日、ヴォイド・フィーラインが現れたあの日が最後だ。
それからは……そうね。
忙しい人だ。
食事中も、父から話しかけられない限り、私は口を開かない。
許可なく話すなんて、できるはずもない。
関係が悪いわけではない。
ただ、貴族として正しい距離があるだけ。
秩序と、礼節と、沈黙。
だからこそ。
たった一言の、素直な評価が、
とても大切なものに思えた。
馬車は、さらに近づいてくる。
車輪が陽光を反射してきらりと光った。
私は頭の中で、知っている情報を整理する。
──これはもう、癖だ。
貴族の紹介とは、戦場の布陣と同じ。
そう教え込まれてきた。
ヴェルドゥア家。
王国でも最古参に近い公爵家のひとつ。
ヴェルドゥアノ渓谷を拠点とし、その支配は王権成立以前から続いている。
名を出すだけで、評議会の空気が変わる家。
長男・アレッシオは十九歳。
現在もなお、聖戦の地アラム・パシルに滞在中。
九歳の娘、ラファエラ。
政治よりも芸術肌で、詩や美に心を寄せる気質だという。
そして──
次男、ドゥッチョ。十二歳。
第二子。
外交と政務を学び、前に出ず、静かに国を支える役割。
……なんだか、他人とは思えないわね。
かつて家庭教師が言った言葉を思い出す。
『第二子同士は、分かり合える。
期待は重い。
そして、失敗の余地はない』
──その言葉だけが、今も妙に胸に残っている。
やがて、馬車は中庭へと滑り込んできた。
近衛兵たちが、ぴしりと姿勢を正す。
母が、ほんのわずかに背筋を伸ばした。
──客人の到着だ。
……けれど。
おかしい。
馬の手綱には、アプグルントヘルツ家の薔薇の刻印。
そして馬車。
それは──
父の私用の公式馬車だった。
王への謁見、あるいは、最高位の賓客を迎えるときにしか使われない、あの馬車。
御者も、見間違えようがない。
父の配下の一人だ。
護衛騎士の馬も同様だった。
北方の厩舎で訓練された馬特有の焼印が、ヴェルドゥア家の装飾布の下に、かすかに覗いている。
つまり。
ヴェルドゥア家は、遠方から来たわけではない。
おそらく既に、近隣にあるアプグルントヘルツ家の支所に入っていて、
今この瞬間に、正式な形で本邸へ向かってきたのだろう。
理屈は通る。
……けれど。
母は「突然の訪問」だと言っていた。
どうにも、胸の奥がざわつく。
馬車が停止した。
従者が素早く降り立ち、扉を開く。
最初に姿を現したのは、ロレンツォ公爵。
長身で、肩幅が広く、立ち姿は自然体。
けれど、その佇まいには、指揮官特有の重みがある。
彼の足元に、どすん、と音を立てるように降り立ったのは──契約獣。
山羊。
巨大で、足取りは確か。
螺旋状の角は、まるで象牙を彫り出したかのように美しい。
そこにいるだけで、彼の領地が持つ荒々しい力を誇示しているかのようだった。
続いて現れたのは、ルクレツィア公爵夫人。
静かな強さを宿した優雅さ。
その肩には、漆黒の鷲がとまっている。
鋭い瞳。
動かずとも、裁定を下すかのような威圧感。
長旅の後のはずなのに──
公爵夫妻のどこにも、疲れは見えなかった。
姿勢の崩れもない。
視線に濁りもない。
衣服の裾や肩に、道の埃すらついていない。
まるで、
「隣の屋敷から歩いて来ました」
と言われた方が、よほど納得がいく。
次に降りてきたのは、淡い紫色のドレスを着た小さな少女。
母の手を握りしめ、午後の光に目を瞬かせながら、夫人のスカートの影に半分隠れている。
……ラファエラね。
そして──
最後に、私と同じくらいの年頃の少年が馬車から降りた。
一挙一動が計算されている。
視線は静かに、けれど鋭く動き、距離を測り、顔を記憶し、周囲を把握していく。
まるで、世界そのものを地図として読み込んでいるみたいに。
父の存在感と、母の洗練。
それが混ざり合って──
より研ぎ澄まされた何かになっている。
……目を引く。
不意に、脳内でそんな言葉が浮かび上がった。
ちょっと待ちなさい私。
視線を逸らそうとした。
──失敗した。
なぜか、目が離れない。
そして。
私は、彼の契約獣を見た。
動物じゃない。
生き物ですらない。
彼の肩のあたりに浮かんでいたのは、
白く、継ぎ目のない球体。
磨かれた大理石のような質感。
メロンほどの大きさ。
その表面に、デジタルの顔が浮かび、ぱちりと瞬いた。
球体は、ふわりと宙に浮いたまま、
低く、規則正しい音を立てる。
……ロボットじゃないの、これ!?
叫びたかった。
──いや、落ち着きなさい。
誰一人として、動揺していない。
まるで、それが当然の光景であるかのように。
契約獣が妖精とか、鉱石ゴーレムなのは知ってるけど……ロボット!?
ズルくない?
没入感、壊れてない?
触りたい。
分解したい。
調べたい。
そんな私の内心を置き去りにして、父が一歩前へ出た。
「ロレンツォ」
「ウンガーボルト」
短く、重みのある呼び名が交わされる。
──空気が、確かに変わった。
二人の握手は、社交的なものではなかった。
旧知の戦友同士が交わす、確かな力のこもった握手。
そして、軽く肩をぶつけ合う。
公爵夫人同士は、カーテシーを交わし、頬に軽く口づける。
声には、気取らない親しみがあった。
やがて、ルクレツィア公爵夫人が私へと向き直る。
私は気持ちを切り替え、
何度も練習した通りの礼を取った。
「アプグルントヘルツ家のカタリナでございます。本日はお越しいただき、誠に光栄です」
公爵夫人は微笑んだ。
「私の贈り物を身につけてくれているのね、カタリナ。とてもお似合いよ」
「この子がどうしても、と申しましたの」
母が、どこか誇らしげに付け足す。
「こちらが、私の息子ですわ」
ルクレツィア公爵夫人の声が、わずかに柔らぐ。
「ドゥッチョ」
彼は、きちんとした所作で一礼した。
「ヴェルドゥア家次男、ドゥッチョ・デッラ・ヴェルドゥアです。
アプグルントヘルツ家の皆様にお目にかかれて光栄です」
そして、公爵夫人は最後に付け加えた。
「こちらは、私の小さな天使」
「……ラファエラ・デッラ・ヴェルドゥア」
少女は名を告げただけだった。
カーテシーもなければ、挨拶もない。
最低限すら、ない。
……甘やかされてるわね。
即座に、そう結論づける。
あの年頃なら、礼儀の基本くらいは身についていて然るべきだ。
それでも、私はにこやかな微笑みを向けた。
社交とは、そういうものだ。
形式的な挨拶が終わると、父が屋敷の中を示す。
「中へどうぞ」
貴族たちが歩き出す。
従者たちは、計算された動きで道を空ける。
父とロレンツォ公爵は先頭に立ち、
すでに低い声で、親しげに言葉を交わしていた。
母とルクレツィア公爵夫人が続く。
その足取りは優雅で、会話も穏やかだ。
私は、その後ろにドゥッチョと並んだ。
ラファエラは母のそばを歩きながら、
落ち着いているふりをしているものの──
忙しなく動く視線が、興奮を隠しきれていない。
玄関を出た、その瞬間。
私は、意識した。
意識したとも。
見るべきものに、視線を固定しようと。
契約獣。
魔法体系的に見てもあり得ない、没入感を破壊する金属製の自動機。
……なのに。
視線が、横に滑る。
……また、彼の方へ。
ドゥッチョは、礼儀正しい距離を保って歩いている。
それが、逆に良くなかった。
横顔が、整いすぎている。
対称的で、計算されたかのようで、
遺伝というより「意図的に造形された」みたいだ。
……落ち着きなさい私。
三度目。
三度目にして、
私の視線はまた裏切った。
──目が合った。
私は反射的に前を向き、
首が鳴りそうな勢いで背筋を正す。
……気まずい。
なんでこんなことに。
普通に、穏やかで丁寧な表情を保ちなさいよ。
この、落ち着きのない罪悪感丸出しの顔じゃなくて。
「カタリナ嬢」
ドゥッチョが、控えめな声で話しかけてきた。
礼儀正しく、しかし興味を隠さない口調。
「少し、落ち着かないご様子ですね。
こちらでは、客人を迎えることは珍しいのですか?」
……あ。見すぎた。
「いいえ、そんなことは」
私は静かに答える。
「ただ……あまりにも長く、あなたの契約獣を見つめてしまうのは失礼かと思いまして。
ドゥッチョ様」
彼は、くすりと小さく笑った。
「やはり。カタリナ嬢なら、まずイヴに目を奪われると思っていました」
……やはり、って何。
予想してたの?
私がこういう反応をするって?
……家庭教師あたりから、傾向を聞いてたとか?
「一瞬だけ」
彼は続ける。
唇の端が、ほんのわずかに上がった。
「私自身に向けられた視線なのかとも、考えましたが」
……言い回しが。
子供のからかいにしては、計算されすぎている。
かといって、非難するほど重くもない。
つまり。
これは、ただの好奇心じゃない。
探りだ。
私は、訓練通りの微笑みを浮かべた。
退きも、踏み込みもしないための、社交用の笑顔。
「ずいぶん自信がおありですのね、ドゥッチョ様」
軽く、柔らかく。
「積極的なお方なのだと、お見受けしますわ」
無難。
当たり障りなし。
完璧な回避。
……もっとも。
彼の言葉が、完全に的外れだったわけではないのが、腹立たしい。
別に、惹かれているわけじゃない。
ただ──
彼の顔は、火に水を求めるみたいに、
反射的に注意を引いてしまう。
理屈じゃない。
本能的で、厄介で、集中力を乱す。
それが。
どこか、兄の友人だったヌエーベに似ていて──




