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【第9話その2】公爵令嬢と政略の駒

 浴室から上がったばかりで、髪も肌もまだ滴っているまま更衣室に足を踏み入れた瞬間、侍女長が口元を押さえて悲鳴を飲み込んだ。

 ほかの侍女たちも、まるで哀れむような目でこちらを見る。


「お嬢様……覚悟なさってください。お嫌いなのは分かっておりますが、どうしても必要なことでして……」


 はあ、とため息が漏れる。

 朝からずっと外にいたのだ。服を着替えるだけで十分だと思うのに、母は――

「きちんと整えて」「淑女として相応しく」などと言って、浴場からやり直しを命じてきた。


 普段なら文句は言わない。

 だが、急ぎのときはいつも最悪な仕打ちが待っているのだ。


 ──そう、急速乾燥。


 あれだけは本当に嫌い。


「……もういいわ。やってちょうだい……」


 侍女の契約獣がちょこちょこと前に出て、カードを噛んだまま器用に魔法を起動させる。


 ふおおおおお──ッ!


 温かな魔力を帯びた風が足元から噴き上がり、全身を渦のように包み込む。

 髪は暴れ回り、肌は一瞬で熱に刺され、水滴は跡形もなく消え去った。


 そして乾いた瞬間――


 侍女たちが群がってきた。


 軽い化粧。

 髪は梳かれ、編まれ、持ち上げられ、ピンで留められ。

 そして古代の拷問器具に違いないコルセットが運ばれてくる。


 着付けのたびに思う。

 私は貴族令嬢ではなく、馬か何かの手入れをされているのでは?

 あるいは現代の洗車機に突っ込まれた車のほうが近い。

 入って、風で吹き飛ばされ、磨かれて、最後はピカピカで魂が抜ける。


「お嬢様、息を止めてくださいませ」


「この工程、飛ばせないの……? コルセットは本当に嫌なの」


 なぜ必要なのか、頭では分かっている。

 見栄ではなく、貴族女性の制服であり、礼儀であり、鎧のようなもの。

 体型の線は“教養”であり“統制”の証明だ。


 理由は理解している。

 だが理解したところで苦しさが消えるわけではない。

 私は誰に色気を振りまきたいわけでも、呼吸を美しくしたいわけでもないのに。


「カトリーナ」


 その一言が、容赦なく胸に刺さる。


 母の声だった。


 思わず背筋が伸びる。


 母はすでに壁際の小さな長椅子に腰かけ、膝の上に綺麗に手を重ねて座っていた。

 侍女たちが蜂の巣みたいに私の周りに群がっていたせいで、気配に気づかなかった。


 鏡越しに目が合う。

 母は自分の腰へそっと手を添え、まるで昔の締め付けを思い出すようにドレスの上から軽く押さえた。


「息苦しい檻に思えるかもしれないわね」

 忙しない部屋に、母の声だけが柔らかく溶け込む。

「でも、この部屋の中では“肖像画を支える額縁”なの。外に出たら――あなたはあなたの色で自由に描いていいのよ」


「礼儀は分かってるけど……」

 私はコルセットの紐をぐいっと引かれながら唸る。

「でもお母さま……王室侍従長が来るなら、兄さまいるべきじゃない? 一緒に出迎えるべきでしょ?」


「できないわ。レイフはまだお祖母様の別邸でしょう?」

 母は静かに微笑む。

 私の本当の疑問を分かっている――なぜ今回は特別なのか。


「ヴェルデュアノ公の訪問は、いつも予告がないの。空気が静かなと思ったら、次の瞬間にはそこにいるのよ」

 唇に穏やかな、少し懐かしむような笑みが浮かぶ。

「あなたの父上とは、評議の席より先に戦場の天幕を共にした仲。古い戦友というのはね……ノックという概念を忘れてしまうものなの」


 母は言葉を切り、さらに表情をやわらげた。


「でも今回はね、ルクレツィアと子どもたちを連れて来ているのよ。王室侍従長としての呼び出しじゃないわ。古い友人としての訪問なの」


 ――ああ、だから伯母のブランシュフルールが父上に張り付いていないのか。

 これは政務ではなく、私が生まれる前から贈り物や手紙をやり取りして続いてきた“あの会話”の延長なのだ。


「ルクレツィアには随分会っていないわ」

 母はそう言いながら、そっとティティの羽を撫でた。銀色のヒバリは光を受けて誇らしげに羽を震わせる。

「たまには、手紙ではなくお茶を一緒に飲まないとね」


 ……つまり、これは公爵をもてなすためではなく、

 公爵夫人――母の友人のため。


 となれば、私は顔を出して、丁寧に挨拶をして、

 あとは“もっともらしいタイミング”で撤退すればいい。


 そう計算した瞬間、母の目が細くなる――

 この体の角度、呼吸の変化、逃走経路を考えているときの癖を、母はすべて知っている。


「その顔、カトリナ」

 声はやわらかいままなのに、逃げ道を完璧に塞ぐ。

「義務ではなく距離を測っているときの顔よ。ここは戦場じゃないわ。ルクレツィアの子どもたちも来るのだから――ここで織られるのは“縁”。あなたも座って、そこにいなさい」


 うぐ……。

 どうやら形式のために座るだけでは済まないようだ。

 私は“織物の一部”として、その場に組み込まれるらしい。


 抗議をまとめる前に、タイミングよく侍女が一歩前に出た。


「奥さま、本日のお嬢様のお髪は、どのようにいたしましょう?」


 母は小さく腰を浮かせ、鏡越しに私を観察する。


「上品にしましょう。ハーフアップの編み込みにふくらみを持たせて。髪飾りは――何か一点、視線を引くものを」


「承知いたしました。では、女王陛下から賜った薔薇の簪にいたしますか?

 それともアプグルントヘルツ家の紋章入りの薔薇の簪を?」


 母が一瞬だけ逡巡した。


 どちらも――主張が強い。

 女王からの贈り物は“権威”そのもの。

 家紋入りの簪は“家の立場”を全面に押し出す。


 このままでは厄介な選択肢になりそうだったので、私は手を軽く挙げた。


「真珠の簪はどう?」

 さらりと言う。


 部屋の空気が止まる。


「ヴェルドゥア公爵夫人からいただいたもの。せっかくの機会だもの、使わないほうが失礼でしょう?

 それに、あの白い真珠なら赤いドレスと相性がいいわ」


 侍女たちが、ほう、と息を漏らし、好意的な視線を交わす。

 母の眉がわずかに上がる――驚きと、どこか満足を含んで。


 私はさらに顎に指をあてて続けた。


「赤と真珠でまとめるなら、お祖母様の首飾りも。ルビーの薔薇のペンダント。全体の色がきれいに調和するわ」


 侍女長が即座に頷く。


「その組み合わせなら、お嬢様のお肌の色味も一層引き立ちます」


 母は小さく息をつき、口元にほころぶような笑みを浮かべた。

 半分は呆れ、半分は誇らしさの滲む表情で。


「……本当に、装いの見せ方が分かるようになったわね」


 逃げた髪の一房に手を伸ばして、そっと整えてくれる。


「小さい頃なんて、リボン一つで文句を言って泣いていたのに」

 母はくすりと笑う。

「今では、都の淑女たちよりずっと上手に装いを組むようになって」


 彼女はふっと首を傾げ、どこか楽しげに微笑んだ。


「それなのに……」

 視線が、きゅっと締め上げられたコルセットへちらりと向く。

「その部分だけは、まだ文句を言うのね」


「だって、息できないんですもの、お母さま」


 彼女はくすりと笑った。

「女というのは、美のためには必ず少しの痛みを引き受けるものよ。

 その痛みに耐える理由は二つ――

『家の名誉のため』、そして『愛する人のため』。

 そのうち、あなたに力をくれる方を忘れないことね」


 ――異世界でも、その諺だけは生き残ったらしい。

 美のための苦労は次元を越える。まったく。


 侍女たちは再びきびきびと動き始めた。髪、ドレス、宝飾品。

 小さな作業場のように、それぞれの持ち場が流れるように働く。

 支度には時間がかかるはずなのに、皆の目標が揃っていると、不思議と短く感じる。


 最終仕上げに移るころには、コルセットの痛みも感覚が麻痺して、一定の圧に変わっていた。

 鏡に映るのは、綺麗に整えられた“可愛らしい少女”。

 赤いドレス。

 金の髪。

 白い肌。

 ――本当に、これが私なのだろうか。


 最後の侍女がストッキングの皺を整え、靴へ手を伸ばした。


「お、お嬢様……」

 侍女が靴を抱えたまま、ひそひそ声で言う。


「ん?」

 つられて私も同じ声量になる。まるで共犯者同士だ。


「その……申し上げるべきか迷ったのですが……」

 そう前置きして、彼女は小瓶の香水と、乾いた薔薇の花びらを見せた。

「アズリール様が、『絶対につけて、花びらは靴に入れるように』と……」


 ――やっぱりアズリール。

 あの人は本当に、自然と人を動かす。

 侍女がこんなにおどおどしているのも分かる。

 彼の頼みを断れば私に失礼、かと言って私が怒るかもしれない。


 ……でも、靴の中に花びら?

 薔薇の花びらは、契約獣を懐かせるために頼んだものだけれど……

 香水まで?どうして?


「まず、香りを嗅がせて」

 侍女は布切れにひと吹きして差し出した。


「――あっ」

 一息吸った瞬間、答えが落ちてきた。


 そうだ。

 あの猫は、アズリールの香りに惹かれていた。

 ということは、この香りを纏えば――


 私は“契約獣を連れて”場に現れたように見える。


 これが無ければ、私はひとりで会いに行くことになる。

 それは貴族として考えられない失態だ。

 契約獣がいない、というのは、

 無能か……ただの子ども、という印に等しい。


 侍女は青ざめた。

「も、申し訳ありませんお嬢様! 今すぐ捨てますので――!」


「待って。急いで靴に花びらを入れて、香水をたっぷり使って」


「……怒っておられないのですか?」


「どうして怒るの?」


「アズリール様が……その……『体臭が強い』とおっしゃっているのかと……」

 侍女は真っ赤になってもごもご。


「そんなわけないでしょう。いいから早く」


 香りの霧が身体に降りかかり、

 花びらの入った靴に足を滑り込ませた瞬間――


 空気が揺れた。


 影がひらりと走り、


 ――ふわん、とヴォイド・フィーラインが現れ、

 床に転がり、私の靴にじゃれつき、

 最後に噛んで、自分のものだと言わんばかりに抱え込んだ。


 思わず口元がゆるむ。

 胸の奥に、小さく温かい達成感が灯った。


 私はもう、ほとんど彼を手懐けている。


 そして――もうすぐ。

 もうすぐ私は、正式にスペルカードを扱えるようになる。

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