【第8話その3】公爵令嬢と花の登記所
ミリーの声色が変わった。
いつもの軽さは消え、代わりに芯のある響きがあった。
「だってっすね、読み書きできる娘なんざ、領都には腐るほどいるっすよ、カタリナ様。
けど、あんな退役兵どもの中で働かせるなんて、普通の娘じゃ一日ももたねぇっす。
あの人たち、最初の挨拶の前に尻触ってくるっすよ。
けど、あの子たちなら平気っす。殴られても立ち上がる、言い返す、
それでいて笑って誤魔化せる。そういう女たちっす」
なるほど……それは確かに理屈が通っていた。
つい忘れていたけれど、彼女たちは社会に戻れば、荒くれ者ばかりの相手をするのだ。
モルホルトが腰の剣に手を置きながら言った。
「なら、なんで女にこだわる? しかも、妙に綺麗どころばかりだ」
私はゆっくりと息を吸い、言葉を選んだ。
「この王国では、書類仕事に就くのはほとんど男でございますの。
元商人や元官吏、税務の落ちこぼれ。つまり“書くことしかできない男たち”。
退役兵が窓口に来ても、迎えるのは“また役所の顔”――そう見えるだけですわ」
開け放たれた扉の向こうから、まだ笑い声が聞こえてきた。
「でも、女なら……人は本能的に警戒を解くものでございますわ。
信頼、思いやり、聞く姿勢――そういう印象を与えますの。
『ここはまた別の役所』ではなく、
『自分の話を聞いてくれる場所』だと思わせるために」
私は腕を組み、静かに頷いた。
「退役兵たちに進んで登録してもらうには、
まず“見える印象”を変える必要がありますの」
モルホルトが低く唸った。
「なるほど。つまりこれは事務仕事じゃなくて――印象操作か」
「その通りですわ。評判は机の上から始まりますの」
ミリーがぱっと笑った。
「っすよね! あたしもまさにそう思ってたっす!」
私は無言でミリーを見つめた。
「ミリー……次からは、最初に教えてくださる?
あなたの“計画”に娼婦の採用が含まれているなら」
「え? あぁ、そのことっすか。
だって、娼婦の話なんて……お嬢様の前じゃ口にすんのは下品っすからね。
一応、気ぃ遣ったつもりだったんすよ」
「おい女」モルホルトが半ば呆れた声を出した。
「確かにこいつは子供だが――頭は大人だ。舐めるな」
ミリーはぽんと手を叩き、ぱっと顔を明るくした。
「なるほどっす、じゃあもう遠慮しないっすね!」
……遠慮してあの口調だったのか。
私は深くため息をついた。
「……もういいですわ」
モルホルトは柱から背を離し、再び真面目な口調に戻った。
「で、ミリー。お前、あの噂の出どころを知ってるな?」
ミリーの笑顔が一瞬で固まった。
「え、あー……その件っすか……」
私の目が細くなる。
「まさか――あなたなの?」
ミリーは両手を挙げて慌てた。
「ち、違うっす! いや、違わないけど、違うっす!
ほんのちょっと、話を盛っただけっすよ!
“カタリナ様が頭良くてきれいな娘を集めてる、運が良けりゃ貴族の目に留まるかもっす!”
って言っただけっす! 本当にそれだけっす!」
モルホルトの顔が一気に険しくなる。
一歩、静かに踏み出した。
「カタリナ、下がれ。名誉毀損だ。拘束する」
「ま、待ってくださいって! 本気でそんなつもりじゃ――!」
ミリーが両手をぶんぶん振る。
「ただ、“運が良けりゃ貴族の目に留まるかも”って、
冗談で言っただけっすよ!」
「どう聞いても斡旋の匂いしかしねぇがな」
モルホルトが呆れたように言う。
私は急いで彼の腕に手を置いた。
「従兄様、もうよろしいですわ。
問題は彼女じゃなく、噂の広まり方ですの」
額を押さえて苦笑する。
「酒場で誰かが囁いて、
誰かが脚色して、
気づけば“美人競売の主催者”にされている――そういう話ですわ」
モルホルトは大きく息を吐き、肩の力を抜いた。
「……今回だけは見逃してやる。
だが次に妙な勧誘をしたら、容赦しねぇぞ」
「了解っす!」ミリーが元気に敬礼する。
……まったく、頭が痛くなる。
ミリーは肩を落として、ほっと息をついた。
「じゃ、次からは退屈な話をすりゃいいっすか?」
「ええ、できるだけ退屈に、お願いいたしますわ」
モルホルトが短くうなずく。
「よし。俺はエズモンドへ行く。しばらくの間、噂はほどほどにな」
踵を返し、足音を響かせながら大広間を出ていった。
彼の背を見送ってから、私はミリーに向き直った。
「中がずいぶん賑やかになってきましたわね。――戻りますわよ」
再び部屋に入った瞬間、笑い声の理由がすぐに分かった。
私が持ってきたパステル色の箱が開けられ、中の菓子が机いっぱいに並んでいたのだ。
娘たちは群がり、繊細なケーキをつまみ、上等な磁器のカップで紅茶を楽しんでいる。
そしてその中心にいたのは――アズリール。
彼はまるで舞台の上の役者のように、完璧に振る舞っていた。
何人もの女が彼のまわりに集まり、
誰かが小さなケーキを差し出せば、別の誰かが紅茶を注ぐ。
アズリールは穏やかに微笑み、差し出されたケーキをまるで儀式のように受け取った。
慎ましく、それでいて絵になるほど優雅に。
――そう、それが彼の“演技”。
ただ食べているのではない。
与えられることで、相手の好意を形に変え、優しく受け止めてみせる。
「アズリール」
私の声が、楽しげなざわめきを切り裂いた。
「わたくしの許可なく、ケーキを配られましたの?」
一瞬、部屋の空気が凍りつき――そして次の瞬間、必死の弁解が飛び交った。
「お願いですわ、カタリナ様! アズリール様をお叱りにならないで!」
まるで彼を庇うように、ひとりの娘が一歩前に出る。
「悪いのは私たちです! あんな綺麗な箱を見たら、女の性でつい手が伸びてしまって!」
もうひとりは机に身を乗り出し、
「アズリール様は優しさで手を貸しただけなんです! 無理やり巻き込んだのは私たちで!」
アズリールはといえば――あの、苛立つほど穏やかな笑みを浮かべたまま。
まるで全員を赦す聖人のように、静かに彼女たちの視線を受け止めている。
ほんの短い間に、彼はもうここを掌握していた。
私は手を上げ、彼女たちの声を静めた。
「怒ってなどおりませんわ。ただ、誰が始めたのかを知りたかっただけでございますの。
――そもそも、あの菓子は最初から皆さまのために用意したものでございますわ」
「ほんとうに? わたくしたちのために?」
「なんてお優しい……!」
「さすがカタリナ様ですわ!」
安堵と感嘆の溜息が、部屋を包んだ。
さっきまでアズリールに向けられていた熱が、今は私に向かっている。
――そんなに褒められるほどのことではございませんのに。
「い、いえ……大したことではございませんわ」
最後に話した娘が、うっとりとアズリールを見やる。
「アズリール様のおっしゃる通りでした。カタリナ様はお怒りにならないって」
……やはり、先にそう言っていたのね。
予め自分を“理解者”として位置づけておく。
アズリールは口元をわずかに緩め、赤灰色の瞳に満足げな光を宿した。
「でしょう? カタリナ様は本当にお優しい方です。
僕がケーキを配っても、怒るどころか微笑んでくださるんですから」
「……ええ、確かに。あなたがそう言っていたのですね」
声の調子を崩さぬように努めながら、私は静かに問いかけた。
「つまり――あのお菓子を配り始めたのは、あなた、ということですのね?」
アズリールは悪びれもせず、穏やかに微笑む。
「ええ。皆さんが喜んでくださるなら、それでいいかと」
その一言に、またも娘たちの頬が緩む。
まるで舞台の上で拍手を受ける役者のように、彼はその視線を自然に受け止めていた。
――“与えられる”ことで、さらに好意を得る。
計算づくの笑顔。自覚的な立ち位置。
本当に、恐ろしいほどの手練れ。
けれど……彼のその一手が、結果的に私を助けたのも事実だった。
彼が先に「カタリナ様はお優しい方です」と吹き込んでいたからこそ、
彼女たちは今、私を疑わずに受け入れている。
今ここで彼を咎めれば――せっかく築かれた信頼が、音を立てて崩れる。
私はそっと息を吐いた。
「……ミリー、紅茶とケーキを少しいただけますかしら」
「は、はいっす!」
ミリーは慌てて立ち上がり、湯を沸かしに向かった。――口元のクリームを拭うのも忘れて。
まったく、彼女だけは本当に裏表がない。
代わりに、そばにいた文官の少女が、少しおずおずと皿を差し出してくる。
「ど、どうぞ……カタリナ様も、召し上がってください」
……さっきまで、私の前では息を潜めていた子だ。
それが今は、こうして笑顔でケーキを差し出してくる。
皿を受け取りながら、私はほんの一瞬だけアズリールを見た。
彼は相変わらず、完璧な笑みを浮かべている。
その顔が妙に癪に障って、つい口からこぼれた。
「……わかっているでしょうけど、感謝なんてしませんわよ。
あなたのおかげで、彼女たちが少し話しかけやすくなった――それだけのことですわ」
自分でもわかるほど、声がわずかに早口だった。
取り繕うようにフォークを手に取り、ケーキを一口。
……甘い。
アズリールはわずかに目を細め、しかし何も言わなかった。
ただ、いつも通りの柔らかい笑みを崩さずに。
……まったく、だから腹が立つのだ。
待つあいだ、私の視線は自然と部屋の喧噪へと流れていった。
文官たちの一団が、開かれた菓子箱を囲んで何やらはしゃいでいる。
だが、彼女たちの歓声はケーキに向けられたものではなかった。
箱の中――黒くてふわふわした何かに向けられていたのだ。
見覚えのある、炎のように赤く染まった尾先が、ゆらりと揺れる。
……あの猫。
ここに来てから姿を見ていなかったはずなのに。
最近は、夜の私の部屋にしか現れず、朝にはもう消えている。
なのに今は――まるで平民の飼い猫のように、ケーキ箱の中で寝そべり、
何人もの手に撫でられて、ご満悦の様子。
私の視線はゆっくりとアズリールへ移った。
彼はその光景を、どこか知っているような穏やかな顔で見つめている。
「一つの箱はケーキじゃなかったんですよ」
私の問いを先読みするように、彼は微笑んだ。
「彼、出発のときからその中に入っていたんです」
……まったく。
私が撫でようとすれば引っかくか逃げるくせに、
どうしてこういう時だけ愛想をふりまくのか。
「どうして、あなたの周りにばかり懐くのかしら」
「カタリナ様、最近は少し考えすぎですよ」
アズリールは穏やかな声で言った。
「少し休まれて、グロと遊んでみては?」
「グロじゃありませんわ!」
思わず語気が強くなる。休む? 冗談ではない。
退役兵たちの件が片付くまでは、気を緩める暇などないのに。
彼の笑みは変わらない。むしろ、少しだけ深まったように見えた。
「……その顔、腹が立ちますわ。
また何か企んでおられるのではなくて?」
「いいえ」
即答。まるで本当に何もないかのように。
ちょうどその時、ミリーが紅茶を持って戻ってきた。
私は無意識にカップを取り、一口――そして固まった。
舌の上に広がる、繊細で馴染みのある香り。
――この味、まさか……!
反射的に視線を戻す。
猫を撫でていた文官の一人が、指先に小さな赤黒い花弁をつまみ、
それを猫の鼻先に差し出している。
あのヴォイド・フェラインは、あろうことか、その花弁を上品にかじり取った。
「あなた!」
私の声が室内を切り裂いた。少女がびくりと肩を跳ねさせる。
「その花弁、どこで手に入れたの?」
「ア、アズリール様が……! 猫が大人しくなるって……!」
「残りは?」
「猫が食べちゃって……最後の一枚でした……!」
私はゆっくりとアズリールを振り返った。
相変わらず、穏やかな笑みのまま。
「……今すぐ寄越しなさい」
「ふふ。残念ながら、最後の分はあなたの紅茶に使いましたから」
「なっ……!」
私は彼の肩をつかみ、軽く揺さぶった。
「まだ残ってるでしょ? ねぇ、あるんでしょ!?」
彼は、全く動じないまま、うなずいた。
「部屋で乾燥させてある束がいくつか。帰ったらお渡ししますよ」
「……なんで、出来上がってたこと、報告しなかったの?」
「以前、仰いましたよね」
アズリールの笑みは崩れない。
「『何もかも報告されると鬱陶しい』と。
ですので、忠実に従っておりました。――少し、面白かったですが」
……またそれ。
確かに、あれは私の悪い癖だった。
退役兵のことで頭がいっぱいになり、契約獣の扱いなんてすっかり後回し。
まるで――前の職場にいた頃と同じだ。
『ドリーミー・プリンセス』の案件名も、重要な会議も、
肝心なことほど後になって思い出す。
あの頃は、有能な部下に恵まれていた。
「……アズリール」
声を落とし、静かに言った。
「……これから、私が何か大事なことを忘れてたら、ちゃんと指摘して。
退役兵でも、書類でも、花弁でも……なんでもいい。――これは命令よ」
彼の笑みが、ほんのわずかに柔らかくなった。
「承知しました、カタリナ様。光栄に存じます」
一礼しかけた彼は、ふと小さく付け加えた。
「……以前も、誰かのためにそうしていたんですよ。私の故郷で」




