【第8話その2】公爵令嬢と花の登記所
中へ足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
残っているのは木材の香りと、埃――せいぜいそんなものだと思っていた。
けれど、玄関ホールは眩いほどに磨き上げられていた。
大理石の床、天井のヴォールト、壁際の彫像。
過去の公爵たちの像が整列し、まるで館そのものが一族の威光を誇示しているようだった。
廊下には花の絵と家紋の絵画まで並んでいる。
「……建てただけではございませんの? 家具まで整っておりますわね」
私は小声で呟いた。
書庫に通じる扉を開けると、書類棚が既に並んでおり、埃一つない。
父は建物を与えたのではない。――完全に稼働する“局”を渡してきたのだ。
紙重りのひとつに至るまで、完備されていた。
モルホルトが口笛を吹く。
「おいおい、こりゃマズいな。泥のついたブーツで入ってきた俺が一番場違いじゃねぇか」
アズリールがニヤリとする。
「モルホルト様、それはいつものことですよ。どこへ行っても床を汚すタイプでしょう?」
「おい、アシロン坊主、言うようになったな」
モルホルトが腕を組む。
「そんな口の利き方、年上の貴族にしていいと思ってるのか?」
「ええ、貴族ではあっても“年上”に見えませんから」
アズリールはあっさり返した。
……どっちもどっちね。
一応、ふたりとも貴族だけど――見た目も態度も、剣と泥のほうが似合う。
「従兄さま、ほかにお急ぎのご用事でもございますの?」
私がため息を混ぜて言うと、モルホルトは真顔になった。
「いや、それがな。エズモンドへ行く前に、ちょっと確認しておきたいことがあってさ」
――エズモンドより大事な確認? ここで?
問い返す前に、給仕の少女が姿を見せた。
「カタリナ様、モルホルト様、アズリール様――ようこそお越しくださいました!」
モルホルトが笑う。
「アシロン坊主、そういえばお前、貴族だったな。すっかり忘れてたわ」
アズリールは涼しい顔で微笑む。
「光栄です、モルホルト様。貴族に見えない貴族としては、あなたが筆頭ですから」
「てめぇ……言葉選べって教わらなかったのか?」
「ええ、師がいなかったもので」
二人のやりとりが完全に子どもの喧嘩じみてきたので、私は話題を切り替えた。
「ミリー、進捗はいかがでございますの?」
「最高っすよ、お嬢!」
ミリーが親指を立てる。
「奥の倉庫なんかピッカピカ! 茶器もセットで置いてありましてね、最初に湯を沸かしときました!」
「……文官たちの配置状況を伺ったのでございますわ」
私が指摘すると、ミリーはもう片方の親指まで上げた。
「そっちも最高っす! 二重に最高っす!」
滑って転びかけながら、ダブルサムズアップ。大理石の床の上で光って見える。
……ミリーも、もう“屋敷のメイド”には見えなかった。
かつては給仕服を着て廊下を静かに歩いていた女――今は声が大きく、よく笑い、よく喋る。
あの静かな屋敷には似合わなかったのだ。
彼女には妙な華がある。
噓をついても、相手が思わず笑って許してしまうような――そんな“押しの強さ”と“愛嬌”が同居していた。
衛兵に色目を使う? いや、あの人の場合は“使う”どころか実際に抱き合っていた。
最初に見た夜がそうだった。
私はただ呆れて、“不注意な女”だと思った。
けれど今なら分かる。――あれは恐れ知らずの女だったのだ。
恥も叱責も、彼女には効かない。
自由に笑い、欲しいものを掴む。
それでいて、誰からも憎まれない。
だからこそ、私は彼女に任せたのだ。
街から読み書きのできる女たちを集め、この局で事務を回す仕事を――。
ミリーに案内されながら、私たちは光沢のある廊下を進んだ。
途中、壁に掛けられた絵画や窓から差し込む光に、どこか現実感のない眩しさを覚える。
「娘たちはなかなかの出来ですよ、お嬢」
ミリーは歩きながら報告を続ける。声を少し潜めて。
「字は初めから綺麗で、帳面の付け方もすぐ覚えた。正直、訓練のほうが贅沢に思えるくらいっす」
「贅沢でございますの?」
思わず訊き返すと、彼女は即座に顔をしかめた。
「紙っすよ、紙。練習させるたびに一枚二枚と消えるんですから。失敗すりゃ金が燃えてく。あたし、マジで予算足んねぇんじゃねーかって冷や汗かきましたよ」
なるほど――それは私も懸念していた問題だ。
この世界では紙の製造効率が低く、貴族でも無駄遣いできる代物ではない。
……いずれ製紙法を改良しなければ。
頭の片隅でそんな経営者的思考が浮かぶ。
「でもなにより驚いたのがこれですよ!」
ミリーが急に明るくなり、両手を広げて周囲を示した。
「倉庫を覗いたら、机も椅子も、インク壺も――紙まで山盛りっす! 一年は戦えますね、ええ!」
……つまり、備品まで一式。
王立組合か、あるいは父の家宰が先回りして準備していたのだろう。
ありがたい反面、投入されている資金と期待の重さを痛感する。
「だから、あとはやるだけっす!」
ミリーが誇らしげに親指を立てた。
「この一週間、みっちり叩き込みました。みんな、もう戦闘態勢っすよ!」
「……ええ、拝見させていただきますわ」
私は頷き、ミリーが押し開けた扉の向こうを見た。
部屋の中には十数名の若い女性たち。
机に並び、羽ペンを手に、談笑しながらも手は止まらない。
インクの香りと、書類を捺印する音が心地よく響く。
――そして、驚いた。
彼女たちは揃いも揃って、見目が良すぎる。
それは作られた美しさではなく、自然で、健康的で、生命力に満ちた――
いわば“人の目を惹く”という天賦の美。
男なら振り返り、女なら無意識に嫉妬する。
そんな類の輝きだった。
「おい! このクソあばずれども、耳かっぽじって聞け!」
ミリーが怒鳴り声を上げた。
「カタリナ様への礼儀を見せろ、このクソ娘共! さっさと並べ! 姿勢を正せ、口を閉じやがれ!」
……いや、口が悪いのはあなたのほうでしょう。
しかも“カタリナ様”って言いながらその言葉遣い――敬意が台無しじゃない。
女たちは一斉に慌てて立ち上がった。
笑い声が途中で凍りつき、机の脚がガタガタと鳴る。
ひとりが慌てすぎて机の角に肩をぶつけ、よろめいた。
立ち直ろうとして裾を踏み、もう一度つんのめる。
それでも必死に体勢を立て直し、真っ赤な顔で整列した。
部屋に、ざわりとした沈黙が落ちた。
スカートの裾が擦れる音だけが響く。
彼女たちの目が一斉にこちらを向く――
その目に浮かぶのは畏れ。
ミリーの怒鳴り声に怯えたのではない。
この場所にでもない。
彼女たちは、“私”を恐れている。
「見ました?」
ミリーが振り返って、満面の笑みで言った。
「ほら、バッチリっすよ。うちのクソビッチども、根性は仕上がってます!」
バッチリ? ……凍りついてるの間違いじゃない
私は小さく息を吐き、前に出た。
「そんなに緊張なさいませんで。わたくしはカタリナ・フォン・アプグルントヘルツでございますわ。あなたがたの模擬記入書類、すべて拝見いたしましたの。完璧でございましたわ。ゆえに、ご褒美といたしまして――」
……聞いてない。
視線が、全員、私の後ろに流れていた。
振り返るまでもない。理由は分かっていた。
モルホルトとアズリールが後ろに立っていたのだ。
彼女たちの顔に浮かんだのは、分かりすぎるほど見慣れた表情。
――仕事上の礼儀と、女としての下心が絶妙に入り混じった“あの目”だ。
前世の会社でも見た。入社パーティーでカリスマ上司が現れた瞬間の、新人OLたちのあの目。
モルホルトは普段こそ荒っぽいが、
その無骨な顔立ちの下には、腹立たしいほど“貴族的な男前”が潜んでいる。
スーツ――いや、礼服を着れば英雄に見えるタイプだ。
そしてアズリール。
同い年のくせに、あの落ち着きと色気。
笑えば、誰でも目を奪われる。
……ずるい。あれはもう犯罪に近い。
「この発情メス犬どもがッ!!」
ミリーが怒鳴り、椅子を思い切り蹴り飛ばした。
乾いた音が響く。
その瞬間、魔法が解けたように全員が現実に戻った。
女たちは一斉に姿勢を正し、顔を真っ赤に染めた。
モルホルトが小声で私に囁いた。
「カタリナ、少し話せるか?」
私は頷き、アズリールを部屋に残して廊下に出た。
――まさか彼を生贄に残す形になるとは思わなかったけど。
モルホルトは大理石の柱にもたれ、腕を組んだ。
「エズモンドに行く前に、一つ確認しておきたいことがあってな」
「確認?」
首を傾げると、彼は妙に真剣な目を向けてきた。
「噂の話だ」
「また?」
「今度はお前自身についてだ」
「わたくし?」
「お前が“街中の美人を片っ端から集めてる”ってな。
貴族への献上用だとか、愛人の養成所だとか、
果ては“結婚市場を作ってる”なんて話まで出てる。」
「はい?」
思わず間抜けな声が出た。
「私はただ、読み書きができて、字がきれいで、
礼儀があって――できれば見栄えも悪くない娘を探してって言っただけよ。」
モルホルトの口元がわずかに上がった。
「つまり、“頭が良くて、見た目も悪くない”ってことだな?」
「そうでございますの? 何か問題でも?」
彼は胸を張り、親指で自分を指した。
「あるとも。――その半分、俺が抱いた。」
思考が一瞬で停止した。
「……は?」
「確認だよ。実地調査ってやつだ。
どんな女たちか、自分の目で確かめておかねぇとな。」
あくまで真面目な顔。
なのに、どう見ても誇らしげだ。
「彼女らはな、もともと娼館の女さ。
それも上物ばかりだ。安物じゃねぇ。
質が良いってのは、身をもって知ってる。」
得意げに腕を組む彼を、私はただ見つめた。
……どこからツッコめばいいのか分からない。
いとこにそんな話をされる日が来るとは思わなかった。
「……ミリーに確認いたしましょうか。念のためですわ」
ちょうどそのとき、扉の隙間からミリーが顔を出した。
どうやら最初から盗み聞きしていたらしい。
「もちろんそうっすよ、カタリナ様!」
腰に手を当てて堂々と言い放つ。
「だからあたし、あの子らクソ扱いしてんじゃないっすか!」
……なんて誇らしげな言い方。
私は額を押さえた。
「それで? 理由を伺ってもよろしくて?」




