【第8話その1】公爵令嬢と花の登記所
アズリールが箱を山ほど抱えて馬車に乗り込んできた。
扉が閉まると同時に、車体がぐらりと揺れ、蹄の音が護衛の騎士たちと歩調を合わせて響き始める。
「遅かったじゃない」
私が言うと、彼は肩をすくめた。
「仕方ありませんよ。彼女がケーキを包むあいだ、少し話をしていただけです」
……“彼女”ね。
その店主は若い女の子だった。話が弾んでいたのは遠目にも分かったわ。
ケーキを買ってきてもらうよう頼んだのは私なのに、後悔している自分がちょっと腹立たしい。
兄は王立学院の冬季試験の勉強で忙しい。
だから、付き添いはアズリールしかいなかったのだ。
「カタリナ様」
彼はわざとらしいほど深刻な顔をして、山積みの箱を見やった。
「これほどの量のケーキ……まさかお一人で全部召し上がるおつもりでは? それも孤独な悲しみの饗宴として。医師を呼びましょうか?」
「誰がそんな不健康な趣味を持っているって?」
私は半眼で睨みつける。
「事務員たちへのご褒美よ。訓練後のささやかな報酬」
「なるほど。さすがご配慮が深い」
アズリールは一つの箱を持ち上げ、感心したように言った。
「それにしても、この包装の細工……見事ですね。アラム・パシルではお目にかかれませんよ」
彼の手にあるのは、柔らかなリボンで結ばれた淡色の箱。
封蝋が押され、硬紙の質感も上品――まるで前世で見た洋菓子のパッケージそのものだった。
この世界には不釣り合いなくらい洗練されている。
印刷の染料の鮮やかささえも違う。
値段が高いのも当然だわ。半分はこの箱代じゃないかしら。
貴婦人への贈り物にぴったり、いや、庶民の娘たちには夢のような贈り物ね。
……でも、今日は箱の出所を調べている暇はないわね。
今はもっと重要な案件がある。
エズモンドの件、たとえば。
調べた資料はすべて伯母ブランシュフルールに提出した。
彼女は正式に調査を進めると約束してくれたし、私の報告も大いに役立ったらしい。
それで十分。今のところは。
私が負うべきは――退役兵たちの問題。
考えを切り替え、窓の外に目をやった。
もうすぐ目的地に着く。
馬車が速度を落としたとき、私は身を乗り出す。
そして、見えた。
たった二週間ぶりの訪問なのに――
「……できてる」
開拓地の中央に、私が要請した登録所の建物が完成していた。
正面の庭は平らに整えられ、五つの受付窓口が壁に整然と並ぶ。
その周囲では、兵士たちがまだ掛け声を上げながら別の建物を建設している。
馬車を降りると、二人の護衛騎士が無言で入口の両脇に立った。
その静かな威圧感は、もう立派な公的施設のそれだ。
「……すごいですね」
隣でアズリールが小さく呟いた。
普段の彼らしくもない声音だった。
分かっているのだろう。私と同じく。
――これは、予定の出来じゃない。
二週間前、私が期待していたのはせいぜい簡素な事務小屋だった。
基礎だけしっかりして、木の壁に瓦屋根がついていれば上出来。
実用一点張りの、仮設のはずだったのに。
目の前にそびえる建物は――想像していたものとはまるで違った。
石造りの外壁は磨き上げられ、柱には細やかな彫刻、入り口には優美なアーチ。
まるで辺境の出張所ではなく、公爵家の執務局と見まごうほどの威容だった。
「……これ、私が承認した図面じゃないわね」
そう口にした瞬間、胸の奥がざらりとした。
どう考えても、普通の職人が二週間で仕上げられる規模ではない。
「兵士たちが建てたんですか?」
アズリールが柱をなぞりながら言った。
「俺の故郷なら、これだけの建物は一年か二年はかかりますよ」
「こっちでも同じよ」私は小さく応じる。
「血統魔術のカードでも使わない限りはね」
アズリールが私を振り向く。
「聞いたことがあります。あれは普通のカードとは違うとか。術式が血に縛られていて、創始した一族の者しか起動できないと」
「そう。しかも、実体を創造できる――石や金属、時には瞬時に移送することさえも」
私は声を落とした。
「時と空間すらも操る、と噂されるものもあるけれど……そんなカードを持っていると認める人はいないわ」
再び視線を建物に戻す。
石の切断面はあまりに滑らかで、目地のモルタルも均一。
これは確実に魔術が使われている――しかも王家直属の建設で用いられるような規模の。
そして、予算にはそんな項目はなかった。
背後で砂利を踏む音がする。
振り向くと、ローヘル隊長が黒衣の男を伴って近づいてくる。
モルホルト――従兄だ。
「カタリナ様」
ローヘル隊長は完璧な動作で敬礼し、わずかに頭を下げた。
「ご挨拶が遅れ、申し訳ございません」
私は頷き、すぐに隣の男へと視線を移す。
「ごきげんよう、従兄様。どうしてここに?」
モルホルトは口元に薄い笑みを浮かべた。
「エズモンドへ向かう途中でね。偶然、この新しい建物が目に入ったんだ。見過ごせなくてね」
……なるほど。伯母ブランシュフルールがすでに動いているのだ。
「まあ、驚きましたわ。まさか完成しているとは思いませんでしたもの」
私は表情を崩さぬまま、ローヘル隊長に向き直る。
「隊長、これはどういうことかしら?」
「王都から“王立石工ギルド”が到着したのです、開拓地の整地が終わった直後に」
ローヘル隊長は答える。
「複数の作業班が交代で、昼夜を問わず作業を――高位幻術による結界の下で。大規模工事の標準手順とのことでした」
「……王立ギルド?」
思わず繰り返す。
「ここはただの退役兵登録所ですわ。止めなかったのですか?」
「はい、しかし……」
ローヘルは言いよどみ、ちらりとモルホルトを見た。
モルホルトが腕を組み、淡々と言葉を挟む。
「要するに――誰かが君の計画に“注目”したってことさ。王立ギルドが動くのは特別な契約の時だけ。王家か、公爵家レベルの後ろ盾がないとね」
私は眉を寄せた。
「……父上ね」
ローヘル隊長が喉を鳴らす。
「両方の印章がありました、公爵家と王家の。ですので、てっきりご指示の一環かと……」
「建物だけが対象だったの? 一時宿舎の方は?」
「そちらはカタリナ様のご指示通り、進行中です!」
「そう……」
私は息を吐いた。
建物は見事に完成している。
遅延も欠品もない。
それは本来、喜ぶべき成果のはずだった。
――けれど、そのすべてが私を通さず、父の手で上書きされていた。
私はモルホルトへと顔を向けた。
「従兄さま、これは何かご存知なのではございませんの? 詳しく教えていただけますか?」
彼は軽く肩をすくめた。
「多少ね。聞いたところでは政治的な動きらしい。公爵が王都に書簡を送り、何らかの取り決めをしたようだ。領外の貴族や、都の有力者も絡んでいるらしいよ」
父が「自腹で賄う」と言ったとき、まさかこういう意味だったとは。
ただ金を出しただけではない。資金を同盟化してしまったのだ。
王立ギルドの契約に、都の有力屋敷が後ろ盾につく――これは単なる建物ではない、合併に等しい。
父は、私の小さな退役兵事務所を、公爵と王の共同プロジェクトへと編み上げた。成功に名を連ねたい屋敷をスポンサーとして取り込み、静かに勢力を固めるつもりらしい。言外には「この仕事は我が家が取りまとめた」と示す狙いがある。
そして、私がその中心に据えられている。
前世の私は、こういう手法に慣れていた。
事業の有望な実験を見つけ、外部投資を呼び込み、親会社に組み込んでしまう。皆に取り分を与えつつ、舵取りは私の手元に残す――それが常套手段だった。
父はただ、同じことを封建規模でやっただけだ。
当然、ただで手を貸すような貴族はいない。
協賛した者たちは見返りを期待する:便宜、契約、人脈。
だが、それが利害となり、こちらのテコにもなる。
期待があるからこそ、こちらに掛けられる影響力が生まれるのだ。
父は退役兵登録所を忠誠と影響の網に変え、しかも――私をその中心に据えた。
怒ることすらできなかった。
父が私に望むのがこれならば、かつての“侍女として宮廷へ送る”といった古い脅しは、ただの見せかけに過ぎなかったのだ。
彼は私を、動かし、代表させ、成功させることを信じている。
そして私は、それに応えるつもりだ。
この事務所は単に退役兵を登録する場所ではない――感謝、記憶、そして評判を登録する場にする。
成功すれば、契約に名を連ねたすべての貴族が、誰の娘がこの結果を生んだのかを忘れはしない。
期待して欲しいわ。
彼らには予期しないほどのものを与えてみせる――
そして、ロザケアの名を誇らしく思わせてみせる。
「随分とご機嫌そうですな、カタリナ様」
ふと横を見ると、アズリールがいた。彼の観察は的確だ。確かに、私は満ち足りた気持ちでいたのだ。
「当然よ」私は肩の力を抜いて答えた。
「この建物がこうして整ったなら、誰もがこの場所がわが領地にもたらす栄光を見るでしょうから」




