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【第7話幕間】火花

 ブランシュフルールは机に身を乗り出し、石筆のかすかな擦れる音を聞いていた。

 使っているのは普通の筆記具ではない。ただ磨かれた黒鉛を短い円柱に削り、布で包んで手を汚さぬようにしただけのものだ。


 彼女は一度手を止め、その“鉛筆”を指先で転がす。鈍く光る縁をじっと見つめた。


 ノックの音が響く。


「入りなさい」

 そう言って、ブランシュフルールはそれを脇に置いた。


 入ってきたのは息子のモルホルト。まだ外套の半分も脱いでいない。裾にこびりついた土が、長旅の証だった。


 部屋の半ばまで進んだところで、彼は眉を上げる。

「それ、母さんも使ってんのか」


「使いづらいけれど、慣れてきたわ」

 ブランシュフルールはもう一度鉛筆に目をやり、軽く手を示した。

「それで――報告を」


 モルホルトは懐から折り畳まれた紙を取り出し、読み上げた。

「まず、エズモンド男爵領の司祭――あの手紙を送ってきたやつだ。死んだ。新しい司祭は“死の咳”とか言ってるらしい」


 ブランシュフルールの視線が鋭くなる。

「それで?」


「部下の話じゃ、新しい司祭は神官のフリした兵隊だ。筋のつき方も立ち方も、まるで軍人。

 奥を探ろうとしたが、街道は巡回が増えてる。山道も地元民以外通行禁止。

 要するに――通らせたい道だけ残してる」


「……ふむ」ブランシュフルールは背もたれに身を預ける。

「去年と同じね」


「ああ。でも今回は道が広くて、石畳まで敷いてやがる」


「……軍のため、というわけね」


「そのとおりだ」モルホルトは一拍置いて続けた。

「次の報告だ。退役兵を雇うって募集してた商家が、急に全部取り下げた。もう商人ギルドから人手をもらったとか言ってな。

 これでエズモンド領には、退役兵の行き先がひとつも残っちゃいねぇ」


 ブランシュフルールの指が机を一度、静かに叩いた。

「――カタリナは、それを知っているの?」


「まだ話してねぇ。いつもの書斎にもいなかった」


「ヒースの話では、東棟を使うって言ってたわ。帳簿をいくつも持って行かせた。その中にエズモンド領の帳簿もあったらしい。もう二日もこもりきりだとか」


 モルホルトは眉をひそめた。

「二日も? エズモンドの帳簿と? ……やっぱり何か気づいたんじゃねぇか」


「馬鹿なこと言わないの。退役兵の件に集中してるだけよ」


 モルホルトは口の端をわずかに吊り上げた。

「カタリナはトリスタンより頭が切れて、俺より勘が鋭くて、母さんより現実的だ。

 そりゃあ、アントニオ・エズモンドが反乱の準備してるって気づいててもおかしくねぇ」


「はぁ……面白い冗談ね、モルホルト」

 ブランシュフルールの声は平板だった。

「男爵を謀反人扱いするなんて。――公爵閣下に追放されたいの?」


 モルホルトはかすかに笑みを浮かべた。

「否定すんなよ、母さん。あんたも内心じゃ分かってるだろ」


 ブランシュフルールはため息をついた。

「もういいわ。証拠が足りない。まだ報告はできない。……今は、私たちの胸に留めておきましょう」


「まだある」モルホルトが言った。

「“ピュロス教団”の持ち物と思しきものを、もう一つ見つけた」


 そう言って、彼は外套の内側に手を入れた。

 机の上、鉛筆の横に小さな金属片を置く。

 男の親指ほどの長さの真鍮の筒。表面は滑らかだが、ところどころに小さな傷が走っていた。


 ブランシュフルールの目が細められる。彼女はそれを持ち上げた。見た目よりも重い。


 筒は二つの部品でできていた。

 片方の端は密閉され、もう片方には棒のような蓋がぴたりとはまっている。

 それを引き抜くと、かすかな空気の漏れる音がした。


 中は空洞で、何かが焼けた跡があった。

 黒く煤け、脆くなった端からは、焦げた油と煙のような匂いが微かに立ちのぼる。


 ――火を起こす道具。だが、どんな仕組みなのかは見当もつかない。


「リーフが戦った間者どもも、似たのを持ってた」

 モルホルトの声が低く落ちた。

「ただし、あいつらのは木製だった。こいつは真鍮製だ。焼け跡の具合は、まったく同じだがな」


 ブランシュフルールの血の気が引いた。

 机の上に並んだ二つのもの――布で包まれた単なる黒鉛の棒と、この見知らぬ真鍮の筒。

 どちらも彼女には説明できない異物だった。


 武器でも道具でもない。理解の及ばぬ、別の理で動く何か。


 ――まるで、カタリナが初めて“鉛筆”を見せたあの日のように。


「どこでこれを?」ブランシュフルールは真鍮の筒を見つめたまま、静かに問うた。声の調子は危ういほど落ち着いていた。


「ウェスタランの商人から手に入れた。ペタルヴィア港から来る途中の街道でな」


「買ったの?」彼女の目が細くなる。「それが何か、分かっていて?」


 モルホルトは短く乾いた笑いを漏らした。

「分かるわけねぇよ。だが、あとをつけてきた男がいてな。野営地まで来て襲ってきやがった。……返り討ちにした。あいつの懐に、ウェスタラン商人ギルドの印章があった」


「つまり――そいつも間者だったのね」ブランシュフルールが低くつぶやく。


 モルホルトはうなずいた。

「倒した連中の中に、本物の商家の徽章を持ってたやつがいた。エズモンド家と取引のある家のやつだ。見えてきたろ? エズモンド領とウェスタランは国境を接してる。全部つながってるんだ」

 彼は指先で真鍮の筒を軽く叩いた。

「これが証拠だ」


 ブランシュフルールは沈黙した。思考の重みが、室内の空気を沈める。


 やがて、彼女は低く、抑えた声で言った。

「もし私たちの推測が正しくて、しかも証拠がこの程度なら……捕えるより前に気づかれる。そうなれば、エズモンドは旗を上げる。ウェスタランは即座に動く。――戦を防ぐつもりが、戦を始めることになるわ」


「そいつは……厄介だな」モルホルトが顔をしかめた。現実の重さがようやく腹に落ちたようだった。


 ブランシュフルールはこめかみを押さえ、疲れたように笑う。

「ようやく分かったでしょう。――これが、母親がいつも頭痛を抱えてる理由よ」


 そのとき、扉が一度だけノックされ、控えめな声が響いた。

「失礼いたします、ブランシュフルール様。カタリナ様がこちらへ向かっておられます。まもなく到着されるかと」


「どうせ帳簿か、書類の束を抱えてるんだろ?」モルホルトが呆れたように言う。


「そのとおりでございます、モルホルト様」

 侍女はそう答えると、静かに扉を閉めた。


 モルホルトは笑い、近くの椅子に腰を下ろした。

「ほらな、母さん。もう何か掴んでるんだろ。見ものじゃねぇか」


「いいえ――あなたは退室しなさい」


 ブランシュフルールの声は穏やかだったが、命令の響きを含んでいた。


「ちっ……わかったよ」

 モルホルトは立ち上がる。


「風呂でも入ってきなさい」


「はいはい」

 彼はぼやきながら部屋を出て行った。


 数分後、カタリナが部屋へ入ってきた。後ろには数名の侍女が続き、帳簿と巻物を抱えている。

 彼女自身も腕いっぱいに書きつけた紙束を抱えていた。


「帳簿はそちらへ、巻物は机の端に置いてくださいませ。残りは外で待機しておいて――すぐに運ばせますわ」

 きびきびと指示を出すその声に、侍女たちは一礼して退出した。


 扉が静かに閉まると、カタリナはようやくブランシュフルールに向き直った。

「ごきげんよう、おばさま。少しお時間をいただけますか? お見せしたいものがございますの」


 ブランシュフルールは小さく笑った。

「これだけの書庫を抱えて来て、まだ『お時間ありますか』とはね。――断れると思う?」


「ふふ、よかったですわ」

 カタリナは満足げに微笑んだ。


 机に近づいたとき、ふと紙の上に置かれた見慣れた筆記具に気づく。

「まあ……おばさまも、あの鉛筆をお使いになって?」


「ええ、あなたの言うとおりね。少し慣れてきたところよ」

 ブランシュフルールが軽く返す。


 だが、カタリナの視線はすぐに別の物に吸い寄せられた。

 机の上、真鍮色に鈍く光る小さな筒――黒ずんだ痕が残るそれを見つけ、表情がわずかに強張る。


「……その品は」


「おや? 見覚えがあるのかしら?」

 ブランシュフルールが興味ありげに問い返す。


「ええ、それは――」

 カタリナは言葉を選ぶように一瞬ためらった。


 その微かな間を、ブランシュフルールは見逃さなかった。

 眉をかすかに動かしながら、わざと柔らかな笑みを浮かべる。

「また言い間違えるのを気にしてるのね? 大丈夫よ。誰も本当の名前なんて知らないわ。――遠い国から届いた、ちょっとした贈り物だもの」


「拝見してもよろしいですか?」


「どうぞ」

 ブランシュフルールはからかうような調子を混ぜて言った。

「でも……本当に何に使うものか、ご存じかしら?」


「も、もちろんですわ!」

 カタリナは即座に答え、少しだけ胸を張る。

「これは――火を起こす道具ですの」


「それくらいなら、誰でも知っているわ」

 ブランシュフルールの口元に皮肉めいた笑みが浮かぶ。

「でも、あなた――使えるの?」


 カタリナは頬をわずかにふくらませた。

「おばさま、子ども扱いなさらないでくださいませ」


 彼女は真鍮の筒を手に取り、黒く煤けた棒の先を確かめると、滑らかな動きでそれを押し込んだ。


 ――ポンッ。


 鋭い音が室内に響く。


 カタリナが棒を引き抜くと、火花が閃き、細い煙がたちのぼった。焦げた油の匂いが空気に漂う。


「こうして使えば――火をつけられるのですわ」

 誇らしげにそう言ったカタリナの横顔を、ブランシュフルールは静かに見つめていた。


 ブランシュフルールの表情が、一瞬だけ揺らいだ。

「あなた、それを――」と口を開きかけて、すぐに言葉を飲み込む。


 カタリナはきょとんとした顔で見返した。その反応に、ブランシュフルールは自分の動揺を悟る。


「まさか……本当に使えるなんてね」

 ブランシュフルールは小さく息を整え、落ち着きを取り戻した。

「また本で読んだのかしら?」


「え、ええ……、それに近いものを」

 カタリナは少し曖昧に答える。


 ブランシュフルールは、ほんの一瞬だけ目を見開いた。

 だが、すぐに眉を下げて、大げさにため息をつく。

 まるで呆れたように見せかけながら――その瞳の奥では、別の感情が揺れていた。


「はぁ……やっぱりあなたも知っていたのね。あの子たちも、モルホルトでさえ何度試しても上手くいかなかったのに。ほんと、あなたみたいに本を読む子は違うわね」

 口元に穏やかな笑みを戻しながら、ブランシュフルールは言った。

「いい? この使い方は、他の人にはまだ教えちゃだめよ。……もう少し、他の者にも試してみたいの」


「わ、分かりました。……約束いたしますわ」


「よろしい」

 いつもの、磨き上げられた笑みが戻る。何も読み取れない、完璧な貴婦人の顔。

「それで――あなたが見せたいというものは?」


 カタリナは背筋を伸ばし、先ほどまでの照れを振り払うように、きりりとした表情に変わった。

「それこそが本題ですの、叔母様。――エズモンド男爵が、密かに軍を集めている証拠を見つけました」


 未知の道具を使いこなした姪が、今度は王国を揺るがす話を持ち込む。

 ブランシュフルールの笑みが、ゆっくりと消えた。


「カタリナ……貴族を告発するというのは、子供の遊びではありませんのよ」


「承知しておりますわ。ですから、すべてお持ちしましたの。叔母様ご自身でご確認くださいませ」


 ブランシュフルールは、真っ直ぐなその瞳を見つめた。怯えも迷いもない――ただの決意だけ。

「……いいわ」彼女は静かに言った。

「その椅子をこちらに持ってきなさい。一緒に見ましょう」


「はいっ!」

 カタリナは嬉しそうに椅子を引き寄せ、叔母の隣に並べた。

 そして机の向こう側に回り、帳簿や書簡を手際よく並べていく。


 ブランシュフルールは、その小さな手を見つめていた。

 ほんの少し前まで見たこともない道具で火を起こしたその手が、

 今は――自らが長年追い続けてきた“証”を並べている。

 胸の奥に、ひやりとしたものが広がった。


「こちらですわ、まずはこの帳簿から――」


 ブランシュフルールは手を伸ばし、カタリナの肩にそっと触れた。


「叔母様?」

 カタリナが瞬きをする。


 ブランシュフルールは静かに息を整えた。

「ごめんなさい。……準備はできているのね? では――最初から、見せてちょうだい」


「はい、叔母様」

 カタリナは視線を帳簿に落とし、ページを開いた。


 二人は肩を並べ、文字の海へと身を沈めていく。

 ブランシュフルールの手は、ほんの一瞬だけ、カタリナの肩に留まった。

 それが彼女を支えるためか――あるいは、自分を落ち着かせるためか。


 静かに手を離し、呼吸を整える。

 ――今は、恐れに割く余裕などない。集中しなければ。


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