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【第1話その2】公爵令嬢とその契約獣

 儀式はまだ終わっていなかった。

 ここからが本番――契約獣の召喚こそ、真の試練だった。


 大広間に集う誰もが、すでに自らの契約獣を従えている。

 絹糸のように艶めく毛並みを誇るイタチ。

 堂々と腕にとまる鷲。爪がきらめき、王者のように胸を張る。


 そして今日――私の番がやってきた。


 あの“もう一人の私”ですら、胸の奥に小さな灯を宿していた。

 彼女は動物が大好きだったのだ。

 仕事に追われ、アレルギーに悩まされ、飼うことはできなかった。

 だからこそ、せめて寄付を重ね、保護施設を支えていた。


 けれど、この世界なら――ようやく手に入れられる。


 私は薔薇のカードを握りしめ、一歩、また一歩と祭壇に近づいた。

 期待と恐れが胸を交互に揺さぶる。

 ……もし、現れてくれなかったら?

 ……もし、私を嫌う存在だったら?

 現世で散々教え込まれてきた“不足”や“拒絶”の記憶が、頭をかすめる。


 ごくりと唾を飲む。十二歳の身でありながら、背負っているものは何百年もの重みのように思えた。


 薔薇のカードを胸に押し当て、周囲の視線を一身に浴びながら、ゆっくりと歩みを進める。


 大広間の中央には祭壇があり、その床一面に巨大な十芒星が描かれていた。

 十の尖端には精緻な祭具が置かれ、磨かれた石に光を返す。


 銀で象られたもの。命を宿すように輝く水晶。

 手を伸ばせば、内奥で脈打つ力が伝わってきそうだった。


 十二歳の私には理解しきれない。

 けれど、もう一人の私は――どこかで見た魔術や神話の“危うい陣”を思い出していた。

 二つの記憶が重なり、やがて一つの確信に変わる。


 これこそ、召喚陣。


「跪け、我が娘よ」

 父の低い声が響き、私は迷わず膝を折った。


 胸が破裂しそうなほど脈打つ。

 薔薇のカードを強く抱きしめ、心の中でただ一言祈る。


 ――どうか、かわいい子でありますように。


 さらに強くカードを握りしめ、膝を折った瞬間。

 足元の十芒星が震え、やがて鼓動のように脈を打ち始める。

 祭具が一つ、また一つと淡く光を帯び、次第に輝きを増していった。

 やがて大広間そのものが光に呑み込まれていく。


 私は反射的に目を閉じた。

 白と黄金が砕け散るように視界を覆い、世界が粉々に裂ける錯覚。

 熱が波のように押し寄せ、指先を焼き――次には涼やかな風が頬を撫でた。


 音が響く。

 低い唸りが、やがて幾重もの反響となって広がり、床から、骨から、胸から震わせる。

 空気には薔薇の香り、そして甘やかな煙と蜜の香りが絡み合った。


 恐る恐る目を開けたとき――

 光はわずかに収まり、私はそれを見た。


 祭壇の上に――黒猫がいた。


 小柄ながらも凛とした気配を纏い、毛並みは真夜中の闇を刷いたように艶めく。

 尾と四肢の先には、消えることのない紫紺の火がちらちらと揺れている。

 瞳は鋭く、賢く、決して逸らさない。まっすぐ、私を射抜いていた。


 胸が高鳴る。

 歓喜が弾ける。

 完璧――! 心の底から叫びたいほど、理想そのものだった。

 すぐにでも抱き上げて頬ずりしたい。温もりを掌に刻みつけたい。


 ……けれど、今は駄目だ。大広間の視線が突き刺さるこの場で、そんな真似は許されない。


 黒猫はのんびりと前脚を舐め、大広間も、無数の視線も、背景に過ぎぬかのように振る舞った。


 一瞬の静寂。

 次に訪れたのは、どよめきと拍手。黄金の天井にこだまする喝采。


「ヴォイド・フィーライン……!」

 父が駆け寄り、私を抱きしめる。

 母は穏やかに微笑み、疲れを帯びながらも凛と立ち、私を見つめてくれていた。


「我が娘よ、これはヴォイド・フィーラインだ」

 父の声は誇らしげだった。


 膝を折り、私をその黒猫に近づけようとする父。

 だが猫は動かない。ただ堂々と、己が玉座のように祭壇を占領し、前脚を舐め続けていた。


 ――それでも、誇らしかった。


 ヴォイド・フィーライン。

 アプグルンツヘルツ家の始祖が、最初に契約したという伝説の存在。

 力の象徴であり、血統の証。


 胸が熱くなる。早く触れたい――!


 その時、母が歩み寄り、侍女が銀盆を掲げた。

 その上に置かれていたのは小さな革のケース。


「カタリナ。薔薇を納めなさい」


 カードを収める専用のホルダー。

 今はまだ、この一枚の薔薇だけを守る器。


 私は慎重に差し入れた。細い革紐がついている。


「さあ。契約獣に取り付けなさい」


 胸が躍る。

 ようやく――触れられる。


 伸ばした手は、黒い毛並みに届く直前。


 ――シャッ。


 鋭い爪が閃き、甲に痛みが走った。


「きゃっ!」


 赤い線が浮かび、血がにじむ。

 泣き出す暇もなく、黒猫は祭壇から軽やかに跳び降り、父の玉座に丸くなった。

 まるで最初から自分の席だったかのように。


 大広間がどっと沸く。


「はははっ! やはりそうか!」

 誰かの声がひときわ大きく響く。名も知らぬ来賓。

 その声音には、あまりに楽しげな色が混じっていた。


「ヴォイド・フィーラインらしいな! 容易には懐かぬ!」

「まだカタリナ様には早いのでは?」


 笑いが連なり、扇子や手袋の陰に隠しながら、刺すように洒落を投げる。


 視線の海の向こう、兄の姿が目に入った。

 彼だけは笑っていなかった。

 硬く背筋を伸ばし、来賓たちを睨みつける。

 言葉はなかった。だが、その沈黙の怒気は遠く離れた私にも届いた。


 母が跪き、ハンカチで傷を押さえてくれる。


「大丈夫よ、最初は誰もがそうするものですわ」


 黒猫は大きな欠伸をし、背を向けて眠りに入った。


 耳にはまだ、笑い声が残響のように残っていた。

 彼らにとっては“ヴォイド・フィーラインの気質”でしかないのだろう。

 けれど私には――大広間そのものが私を嘲笑っているように聞こえた。


 唇を噛み、滲む涙を堪えるしかなかった。

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