【第7話その1】公爵令嬢と帳簿
宮廷の予備室のひとつを、私は「作戦本部」として占拠していた。
窓際の席に腰を下ろすと、陽光が机の上にこぼれ、書記官たちの手元を照らしている。
羽ペンの擦れる音、書類を受け渡す気配、印章の押される乾いた音——
そこに流れるのは、静かで整然としたリズムだった。
だが、並んでいる帳簿はどれも「普通」ではなかった。
この世界の記録というものは、たいてい日記のような代物である。
流麗な筆跡で、荷の受け渡しや十分の一税、徴収記録を長々と綴った文章。
見た目は美しいけれど、読む側からすれば悪夢のような代物だった。
数字を追うだけで、詩文の迷路を這い回る羽目になる。
だから——私が変えたのだ。
机の上の帳簿には、きっちりと引かれた罫線。
行と列が整い、すべて手書きとはいえ、目に優しい。
列の見出しは、地方名、村名、職種、稼働可否、記入日、担当官。
それを見た書記官たちは、まるで数字という概念を初めて知ったような顔をしていた。
「カタリナ様、見てください!」
侯爵家のご子息、ヒース卿が興奮気味に駆け寄ってきた。
「父上の執務室にも写本を送ったんですが、なんと、公爵家の記録係までもがこの方式を採用し始めました!」
私は紅茶を一口啜り、軽く頷いた。
「良い兆候ですわね」
ヒース卿は両手を組み、まるで奇跡を目撃したかのように叫ぶ。
「おお、これはまさしく神の啓示! 帳簿術における革命ですぞ!」
……帳簿で神を呼ぶのはやめていただきたいです。
多くの貴族は、記録を文学作品と勘違いしている。
彼らが求めるのは「物語」であって、「数字」ではないのだ。
だが、私の帳簿は違う。
美しくなくてもいい、使えることが最優先だった。
穀物の収支、取引の記録、貸付条件——なんでも書き込める総勘定元帳。
もし表計算ソフトでもあれば、昼食までに半分は自動化できただろうけれど、
今のところは定規とインク、そして多少ましな頭脳で我慢するしかない。
ヒース卿は再び身を乗り出し、目を輝かせた。
「しかも、もう無駄な行まで書く必要がありません! 本当に、カタリナ様は後世に名を残すことでしょう!」
私は作り笑いを浮かべた。
「大したことではありませんわ。ただ、効率を考えただけのことです」
彼は本当に優秀な青年だ。
政治家一家の重圧から逃れ、ここで高等書記官として働いている。
都に出れば、いくらでも出世の機会があるはず。
——ただ、少々、称賛が過剰なのが玉に瑕。
彼は再び帳簿を開き、指で列をなぞった。
「ですが、カタリナ様……ひとつ、よろしいでしょうか」
来たわね。誉め言葉の後の“しかし”。
「ええ、どうぞ」
「この“職種”と“稼働可否”の欄ですが……非常に便利ではありますが、書記官の裁量に頼りすぎております。
農夫なら“労働者”と書く者もいれば、“野良働き”と書く者もいる。統一性がなくなるのです」
彼は申し訳なさそうに眉を下げた。
「きちんと定義を決めなければ、この明瞭さも一月と持たぬでしょう」
……ようやく気づいた人がいましたね。
私も当然、その問題は把握していた。
けれど庶民の言葉に詳しいわけではない。
つい先週も、洗濯板を“洗濯板”と呼んで笑われたばかりだ。
この国では“洗濯板”ではなく“波板”と呼ぶのだそう。
洗濯だけでなく、根菜を叩いたり繊維を剥いだりするのにも使うらしい。
まぎらわしいにも程があるぞ。
おまけにアズリールが翌朝わざと「洗濯板」と言ってからかってきて、
それが妙に流行してしまった。
一週間後には、屋敷中の使用人が当然のように「洗濯板」と呼んでいたのだから、もはや手遅れだった。
だからこそ、私が勝手に用語を決めるわけにはいかなかったのだ。
現場に任せたほうが早い。
「おっしゃるとおりですわ。分類を標準化する必要がありますわね。誰にでも分かるように、しかし記録が乱れない程度に厳密なものを」
ヒース卿はぱっと笑顔を見せた。
「でしたら、用語集を作りましょう! 帳簿に添える小冊子のようなものを。
新人書記官の訓練も、きっと半分の時間で済みます!」
——それは、つまり。
彼の口から出たのは、まぎれもない言葉だった。
標準作業手順書。
「良い着想ですわね、ヒース卿。その小冊子——試作を用意なさって。あとで一緒に確認いたしましょう」
「もちろんでございますとも、カタリナ様!」
彼は文字どおり花が咲いたような笑顔を見せた。
私が再び紅茶に口をつけようとしたその瞬間——扉が勢いよく開いた。
「カタリナ、探してた」
荒っぽい声。
入ってきたのは、土埃のついたブーツに、適当に束ねた髪。
書記官然としたヒース卿とは正反対の男——私の従兄、モルホルト。
伯母ブランシュフルールの息子であり、現場班の指揮官。
領地各地の報告書をまとめては、こうして宮廷へ運んでくる。
ヒース卿は眉をひそめた。
「無礼ですよ、カタリナ様の——」
「黙れ、ヒース」
モルホルトは軽く肩を叩き、にやりと笑った。
「外に馬車を止めてある。荷の中に追加の書類があるから見てこい」
「……うっ。道の臭いがしますよ、あなた」
「そりゃそうだ。お前が暖かい部屋でお茶を啜ってる間、俺は野原を駆け回ってたんだからな」
「仕方ありませんとも。わたくしは——いえ、私は繊細なお肌ですので」
言い切ったわね、この人……。
二人の間に流れる空気は、張り詰めているようでどこか楽しげだった。
犬猿の仲というより、長年の悪友——そんな距離感だ。
私は小さく息をつき、茶器を置いた。
「それで、何のご用かしら、従兄様」
モルホルトは旅塵にまみれた書類束を差し出した。
「この前お前が言ってた地域からの報告だ。あの神官の手紙と関係してるらしい」
留め金を外してざっと目を通す。
各地の行商組合や領主邸の雇用状況が記されている——はずだった。
だが、この帳票だけは妙に空白が多い。
雇用募集を出しているのは商人組合ばかり。
職人ギルドも領主館も、一件の告知すらない。
おかしいわね……。
どんな小領でも、季節労働や開墾用地くらいはあるはず。
それが皆無というのは、誰かが意図的に流れを塞いでいる証拠だ。
「この土地の領主は?」
「エズモンド男爵だ」
「帰還兵が増えている時期ですのに? もう第一陣の船も着いているでしょう?
それに、あの土地は豊かだったはずではなくて?」
「そこまでは俺も知らん。現地の連絡員に追加報告を出しておく」
私は書類の端を指で軽く叩いた。
胸の奥に、薄い不安が広がっていく。
そのとき——
「カタリナ様……!」
ヒース卿の声がわずかに震えていた。
「その報告書、拝見してもよろしいでしょうか」
「ええ、どうぞ」
彼は手を伸ばしかけて、途中でぴたりと動きを止めた。
机の上の小さな金属片——それを摘み上げる。
それは、ただのペーパークリップ。
ヒース卿はそれを凝視し、やがて厳かに紙束を挟み込んだ。
「カタリナ様っ!! こ、これは一体……なんという奇跡の品でしょう!」
「えっ? クリップですわよ? 書類を留めるための——」
「なんと実用的な名! そして、なんと完璧な機能!」
……ああ、そうだった。まだこの国には存在しなかったのね、クリップ。
この世界では、書類は紐か蝋で綴じるのが常。
だから彼の目には、この小さな金属の輪が機械仕掛けの奇跡に見えるのだろう。
彼は感嘆を止められなかった。
「なんと簡素にして、なんと優美! その形状はまさに理想の具現!
ああ、これは金属の詩です! 神々の職人チャルコスが風神アエロスに授けた御業か!
この小片があれば、無数の書記官が混乱と紐の呪縛から解き放たれるのですぞ!」
……ヒース卿、あなたはいつも全力で褒めすぎですのよ。
「やめてくださいまし……恥ずかしいですわ」
私が小声でたしなめると、モルホルトが親指で自分を指しながら胸を張った。
「ヒース、その金具な。あれは俺がカタリナに頼んで作らせたんだ。つまり、発明者は俺ってことだ」
「おい、他人の手柄を横取りするな。取ったらぶっ飛ばすぞ、モルホルト」ヒースが急に立ち上がり、右拳を振り上げる仕草をした。
実際のところ、私が鍛冶師に頼んだのは、道中で報告書が散らばらないよう、余った針金を小さく巻いてもらっただけのこと。
単なる応急の工夫でしかなかった。
それでも職人は上手く形にしてくれた。
今はそれを改良中。厚い書類を挟める強力な留め具——いわば“バインダー・クリップ”を試作している最中だ。
金属の厚みと曲線、そして反発力の調整が肝心。
鍛冶師はすっかり夢中になってしまい、すでに「自分の生涯最高傑作にする」とまで言い出していた。
「カタリナ様……」
ヒース卿がまだ陶然とした様子で尋ねた。
「この奇跡の金具、もう少しございませんか?」
「ええ、いくつか手元にありますわ」
「なら、俺の馬車にも結構積んであるぞ」
モルホルトが伸びをしながら言った。
「書類を全部運び込んでくれりゃ、その“ペーパークリップ”ってやつ、ひとつかみやる」
「お任せください!」
ヒース卿は即座に返事をし、周囲の書記たちを呼び集めて小走りで部屋を出ていった。
扉が閉まるのと同時に、机の下から小さな音がした。
ころん——
転がり出たのは球……に似ていたが、少し違う。
ヒース卿の契約獣、鎧のような鱗を持つアルマジロだった。
光が差し込むと、その鱗が虹色に輝き、部屋中の壁へと七色の反射が散っていく。
一瞬、動きを止めたアルマジロが「しまった」とでも言いたげに身をすくめ、そっと机の下へ戻ろうとした——その刹那。
影が跳ねた。
私の契約獣、ヴォイド・フィーラインが窓辺から飛び降り、壁を這う光を追って跳ね回る。
アルマジロは転がりながら主の後を追い、部屋は七色の閃光と猫の尻尾で大騒ぎになった。
まったく……また遊んでおりますのね。
「お茶でもいかが?」
私はため息をつきながら、空のカップを差し出した。
「いただく」
モルホルトは向かいの椅子に腰を下ろし、砂糖を——まるで儀式のように——どばどばと注いだ。
紅茶はすでにあふれそう。
「トリスタンは元気?」
「順調だ。お前の誕生日に顔出せなかったのを今でも悔しがってる。じい様と一緒にスペル カードの訓練を続けてる」
トリスタン——モルホルトの弟であり、私と同い年。
彼はすでに契約獣を制御し、本格的な鍛錬に入っているという。
それに比べて、私の猫は……
窓辺で丸くなったり、光を追いかけたり。
名前すら、まだ決めていなかった。
……やっぱり、ただの猫だ。
穏やかな雑談がしばらく続いた。
けれど微笑みの裏で、私の思考は先ほどの報告に戻っていた。
——エズモンド男爵領。
あの地域の帳簿はおかしい。
もし彼が意図的に情報を隠しているのなら、それは怠慢ではなく、背信。
公爵家の領内でそれを行うなら——それはすなわち、反逆だ。




