【第6話その1】公爵令嬢と知られざる出来事
バレン卿――レイフの誕生以来、アブグルントヘルツ家に仕えてきた老練の騎士は、防御魔術の達人だった。
幾重にも重ねられた結界術と、揺るがぬ沈着さ。その技量と胆力ゆえに、公爵家の嫡男レイフと、その妹カタリナを護る重責を任されている。
その号令一つで、バレンの《トレジャーボックス》が輝いた。
淡い光の膜が林の空気に広がり、目には見えぬ境界がガラスのように空間を覆う。
戦場が、閉じられた。
最初に動いたのはアズリールだった。
彼の隣には若い騎士クルト――山賊掃討戦で幾度も血を浴びた実戦派であり、レイフの常なる稽古相手。
肩には契約獣の飛翔鼠が止まり、まるで第二の目のように周囲を見張っていた。
クルトの剣が右から一閃。
二人目の間者を狙った刃の軌道を、男は途中でスペルカードを切って遮った。
間近で爆ぜる風の衝撃。
突風が弾丸のように炸裂し、クルトの身体を木へ叩きつけた。
樹皮が砕け、息が詰まる。
見えぬ圧力に押しつけられ、剣腕が胸元で固定される。
アズリールはその一瞬を捉えた。
クルトの体勢にかかった負荷、守りの崩れ。
ためらいもなく踏み込む。
守りを捨てた突撃――焦点を砕くための賭けだった。
間者の集中が切れる。
アズリールの接近を見て、男はクルトを拘束していた風を解き、正面へと撃ち出した。
それを読んでいたアズリールは、身を沈めて滑る。
怒号のような突風が頭上をかすめ、林の枝を裂いた。
クルトを縛っていた圧力が消える。
彼は息を吐き、傷ついた樹幹を蹴って転がり、片膝で立ち上がった。
契約獣からスペルカードを引き抜く。
その横合いから、敵の鶏が飛びかかる。
刃のような蹴爪が閃き、アズリールは滑走から跳ね起きて正面で受けた。
衝撃は金属音のように響いた。
反撃――短剣が鶏の胸を突く。
だが手応えは鈍く、硬化した革を押すような感触。
刃は沈むが、貫けない。
契約獣はほとんど怯まず、冷たい知性の光を宿す瞳で彼を見据えた。
頭をわずかに傾ける。
動きを観察している――そして翼が爆ぜるように開く。
再び爪を構えた。
それは獣の反応ではない。戦術を知る動きだった。
「契約獣を直接狙うな! 無駄だ!」
クルトが叫び、自らのスペルカードを突き出す。
三条の稲光が走る。
空気を裂き、鶏の足元へと落ちた。
狙いは命中ではない――大地そのものを“罠”へ変えるための一撃。
土が焦げ、微かに光を帯びて弾けた。
小さな水溜りのあいだを細い電流が跳ねる。
踏み込めば即、感電。
鶏は絶叫し、羽をばたつかせて後退した。
二人目の間者も地面を避け、いくつか歩を引く。
布陣が崩れる。
だがその背後で、コルヴィンがすでに動いていた。
彼のスペルカードが光を放つ。六枚の光刃が宙に生まれ、同時に撃ち出される。
アズリールは本能で反応した。
最初の三枚を身を翻してかわす。
残りの三枚が同時に収束し、視線で追う間もなく迫る――
「《シールド》!」
バレンの声が、轟音を裂いた。
透明な防壁がアズリールの周囲に展開し、光の刃を受けて軋む。
ひびを走らせながらも、刃はそこで弾け、無害な光となって散った。
戦いは止まらない。
間者たちは即座に態勢を立て直し、視線を遠くに送った。
レイフの手元でスペルカードが次々と重ねられていく――
あまりにも整然とした動き。偶然とは思えぬ。
一人が顎をしゃくる。無言の合図。
クルトはそれを見逃さなかった。
彼らがレイフに狙いを定めたのを悟り、即座にスペルカードを切る。
「《ドーニング・クレイヴ》!」
空気が歪み、魔力の波動が脈打つ。
間者たちの動きが一瞬止まり、首が反射的にクルトへと向く。
その呪文は、敵意を引き寄せる誘惑の術――
怒りも焦りも、彼へと吸い寄せる。
「さあ来いよ……」
クルトが呟き、刃を構えた。
二人目の間者が応じる。
短剣が赤く輝き、魔力の刃が唸りを上げる。
二人の剣がぶつかり合い、火花が散る。
金属の悲鳴。閃光。帯電した地面が弾け、空気が震えた。
クルトの動きは鋭い。低く受け、手首の返しで即座に反撃。
剣先が光を伸ばし、男を後退させた。
コルヴィンは再び集中を試みたが、
クルトの術がまだ心を蝕んでいた。
視線が若き騎士に引き寄せられるたび、アズリールがそこに割り込み、
進路を断ち、斬撃を畳みかける。
詠唱の隙など与えぬ。
光刃の魔術師が、防戦一方に追い詰められる。
火花と足音が入り乱れ、
戦場のリズムが壊れ、また組み直されていく。
間者たちはなおも適応しようとした。
レイフのスペルカードが、奥で静かに積み重なる。
確かなテンポ――まるで合図のように。
彼らは分かれ、また交錯した。
一撃ごとに選択を迫られる――攻めるか、生き延びるか。
コルヴィンは二方向からの圧に耐える。
アズリールの猛攻と、クルトの挑発魔術。
そのあいだを、契約獣の長腕猿が駆け抜けた。
鋭い爪が不規則な角度から襲いかかる。
アズリールは無駄なく動いた。
飛びかかるたびに蹴り払って位置をずらす。
傷つけられなくとも、動きを封じることはできる。
クルトの魔力がなお敵の意識を引き寄せていた。
その分、流れは傾く――
だが、敵は突如、戦術を切り替えた。
刃を下げ、視線を逸らす。
二人目の間者が短く呟き、スペルカードを切る。
次の瞬間、結界の縁で黒い雲が膨らんだ。
雨が落ちた。
重く、冷たく、唐突に。
地面が滑り、足元に水が溜まっていく。
一見、無害な雨。だが、油断すれば死地になる。
猿がスペルカードを掲げる。コルヴィンがそれを即座に起動。
溜まり水が波紋を描き――
地面が沈み始めた。
土が泥に変わり、足を絡め取る。
「沈下術か――!」
バレンの声が響く。
彼はスペルカードを高く掲げ、足元の大地が爆ぜた。
鋭い岩柱が隆起し、彼とレイフの足場を持ち上げる。
泥流が迫る寸前だった。
アズリールは地が沈む気配を感じた瞬間、跳ねた。
後方へ飛び退き、足元の土が崩れ落ちる。
さっきまで立っていた場所が、泥の沼へと変わる。
枝を掴み、身を翻して低木の上に身を落ち着ける。
視線は次の脅威を探していた。
だがクルトは不運だった。
泥が脚を絡め取り、動きが鈍る。
挑発の魔力が揺らぎ、呪文の効力が薄れていく。
――終わっていなかった。
二人の間諜が同時にカードを掲げた。閃光が雨に濡れた地面を照らし、その瞬間、地面が波打つように脈動した。
次の瞬間――大地を裂いて、無数の蔓と根が噴き出した。
それは蛇のように太く、獰猛にのたうちながら木々をよじ登り、あらゆるものを絡め取ろうとする。
濡れた大地が生き物のように蠢いた。蔓は土を割り、枝を裂き、そこら中で獲物を探すように動き回る。
巨岩の上で、レイフは一歩も退かなかった。
手の中のカードはすでに何枚も重ねられている。
その肩に乗った契約獣アウグストゥスは、祈るように、あるいは次の一枚を引き出す時を待つように身をすくめていた。
蔓が襲いかかるたびに、レイフの剣が閃いた。
斬撃が光を引き、伸びかけた蔓を次々と断ち切る。
泥に腰まで呑まれたクルトは、苛立ちを噛み殺して吠えた。
その肩へ飛び乗った飛鼠が、小さな爪でカードを差し出す。
クルトはそれを掴み、即座に起動した。
剣の紋が赤く燃え上がり、炎が刃を包む。燃え盛る斬撃が唸りを上げ、絡みつこうとする根を焼き切った。
頭上では、アズリールが枝から枝へと駆け抜けていた。
短剣の軌跡が鏡のような弧を描き、襲い来る蔓を切り払う。
すべてを止めることはできない――それでも一歩先を読み、ぎりぎりでかわし続けた。
その時、木の幹よりも太い蔓がバレンの陣地めがけて叩きつけられた。
地を揺らす衝撃。彼の足場が砕け、身体が後ろに弾き飛ばされる。
防護結界が激しく点滅し――そして、砕け散った。
「ちっ……!」
バレンが悪態をつき、剣を抜き放つ。次の瞬間、木の根と鋼が激突し、火花が飛び散った。
結界が消えた。
それを見た二人の間諜が顔を上げ、互いに視線を交わす――頷き一つ。
レイフがそれを見逃すはずもなかった。
「脱出だ!」
アズリールは振り返らない。
混乱の渦の中、泥を跳ね散らしながら、彼はただ前へ――。
頬をかすめた蔓をすれすれでかわし、片手を懐に突っ込む。
短剣を歯にくわえ、手の中のデッキを素早く捌く。
カードが閃光のようにめくられ、捨て、拾い、再び重ね――指の動きは嵐のようだった。
七枚。
残ったそれを左手に固定し、右手で短剣を抜き放つ。
そして――その束を横薙ぎに断ち切った。
紙と魔力が同時に裂け、断面から紅光が噴き上がる。
それは刃に沿って流れ、やがて全体を血のように赤く染め上げた。
アズリールが短剣を突き出す。
――世界が燃え上がった。
爆炎が刃先から迸る。
それは流れではなく、生きた奔流。宙でねじれ、絡み合い、熱が脈動するたびに空気が悲鳴を上げる。
そしてその形が――姿を成す。
鱗。爪。溶けた光に包まれた、蛇の頭。
炎の竜だった。
その咆哮が、雨音を呑み込んだ。
霊炎の獣は、森の空き地を駆け抜ける暴風そのものだった。
その炎は選び取る――焼くのは“異なるもの”のみ。
絡みついていた蔓も、地を這う根も、虚ろな泥に潜んでいた穢れも、さらにはレイフとバレンが盾に使っていた岩までも、瞬く間に蒸気と化した。
焦土の中心で、クルトは倒れた姿勢のまま、泥を掻き分けて這い上がる。
燃え尽きた大地の熱気の中、ようやくその足元に“地”が戻ってきたのだ。
間諜たちは炎竜の輪の中に閉じ込められた。
視界は紅蓮に飲まれ、四方は生きた炎の鱗に囲まれる。空気すら燃え、世界が灼熱の檻に変わる。
その轟きの中――声が走った。
「――《ローザ・グラキエス》!」
レイフの叫びが、すべてを断ち切った。
炎が掻き消え、音が止む。
残ったのは、白い息と静寂。
そこに在ったのは炎ではなく――氷。
一面の林が薄氷に覆われ、
足もとには蒼い結晶の蕾が点々と咲いていた。
夜の星を封じたように、冷たく、微かに瞬いて。
霜の薔薇はあらゆる方向へ広がっていった。
けれど、それは主を害さぬ。
レイフの仲間たちの立つ場所だけ、氷はわずかに弧を描き、霧のような冷気だけが頬を撫でて通り過ぎた。
アズリールの袖が蕾に触れても、結晶はただ震えて――静かに眠りへ戻る。
沈黙の中、間諜たちがふらりと立ち上がった。
凍てついた地面を踏みしめる靴底から、乾いた音が響く。
一歩――その足が、雪に隠れた蕾を踏み潰した。
咲いた。
かすかな音。続いて、幾重もの裂ける音。
蕾が次々と弾け、光の鎖が地を走る。
数百もの氷薔薇が一斉に花開き、
無数の花弁が吹雪のように舞い上がった。
美しく――そして、静か。
だが、それは落ちてくる。
肌に、衣に、降りかかるたび、
花弁は凍気を走らせた。
毒のように冷たい力が血を奪う。
「――っ!」
コルヴィンが息を呑む。
右腕が肘まで真白に変わっていく。
もう一人の間諜が跳び退ろうとしたが、
足元で新たな蕾が破裂し、氷が脚を呑み込んだ。
胸まで凍りつく前に、動くことすら奪われた。
契約獣が断末魔を上げる。
雄鶏は叫びの途中で真白に固まり、
猿は跳躍の姿のまま氷像となった。
最初に悟ったのは、第二の男だった。
胸へ迫る凍気を前に、短剣を抜き、
その刃を自らの心臓に突き立てる。
血が噴き出すより早く、それも凍る。
最後の抵抗に、彼は顔を裂き、
凍る寸前、一本の指を天に突き上げた。
氷が覆う。
――一瞬のうちに、沈黙。
誰も動けなかった。
速さに、覚悟に、ただ息を呑む。
そしてコルヴィンも、理解した。
霜が腹を這い上がるのを感じながら、
脇に隠していた短刃を引き抜き、自らの胸を狙う。
その刹那――レイフの剣が閃いた。
鋭い光。
コルヴィンの左腕が、肘から先ごと宙を舞った。
「は、はは……」
押し殺した声が、狂気と痛みに滲む。
彼は肩を押さえ、血を吐くように笑った。
右手で首の鎖を掴み、
首飾りを引き千切ると、そのまま噛み砕いた。
金属が砕け、黒い蒸気が漏れ出す。
泡を吐きながらも、彼は笑い続けた。
凍てつく胸の中で、なおも嗤う。
震える指を、空へ――ゆらりと掲げた。
氷が顎に達し、笑いは途切れた。
頭がわずかに垂れ、
そのまま全身が透明な氷の彫像と化す。
永遠に、挑むような姿のままで。
林に、再び静寂が戻った。
ただ霜が落ちる音だけが響く。
――氷薔薇の墓園が、風にきらめいていた。




