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【第5話その3】公爵令嬢と初めての現場監督

 兵たちが天幕の下で小さな机と椅子を二脚、手際よく並べていた。――まもなく、退役兵たちが質問を持って集まってくる。その時、私が座る予定の場所だ。

 その光景に、妙な既視感を覚えた。マイクと企業ロゴ入りの背景を足せば、まるで買収直後の記者会見のようだ。


 椅子に手を伸ばした瞬間――先に飛び乗ったのは、私の契約獣だった。兄の席になるはずの椅子を陣取り、優雅に体を丸める。


「どきなさい」

 脚を軽く小突いてみたが、ピクリとも動かない。尻尾をゆらゆらと揺らし、相変わらずの得意顔である。


 そのとき、アズリエルが手を一度、軽く打った。

 耳がピクリと動き、契約獣獣はそちらを向くと――椅子から飛び降り、アズリエルの方へとすたすた歩いて行った。


 ……今の、まさかアズリエルが命じたの?

 顔を上げると、彼はこちらを見てもいなかった。ただ、隣の巫女が掌の上で契約獣精霊を踊らせたのを見て、拍手を送っただけらしい。


 それなのに、私の獣はぴたりと座り込み、小さな精霊を見つめている――まるでお行儀の良い子供のように。

 あれは新しい反応だ。普段なら、あの手の小さな存在など容赦なく叩き落とそうとするのに。


 巫女の獣耳が空中でふわりと舞い、絹糸のようにきらめいた。……ずるいくらい可愛い。

 正直、私も混ざって触らせてほしいと思ってしまった。ほんの少しだけ、だけど。


「カタリナ様、皆おそろいです」

 はっとして顔を上げたときには、もう舞いは終わっていた。

 私の猫は再び椅子に飛び乗る。


 兄が近づいてくると、立ち止まってその様子を見た。

「おや、グロがそこに座りたいのか。ならば、俺はローヘル隊長と立っていましょう」


「いいえ、兄上。蹴り落としてくださって結構ですわ」


 兄はわざとらしく肩を落とした。

「カタリナ、契約獣を愛していないのかい? 兄としては、とても悲しいよ」


「この猫、最近ずいぶん図々しくなりましてね」

 私が小声でつぶやくと、兄は愉快そうに笑った。


「構わないさ。これは君の計画、君の舞台だ。兄はその脇を飾るだけで十分だ」


「……では、お言葉に甘えて」

 私は腰を下ろし、机の上に書類と鉛筆を並べた。大事な点はすぐに記録できるように。


 退役兵たちはすでに集まっていた。彼らは陽の下に立ち、私たちは天幕の下に。左には兄とローヘル隊長。奥には神母ヨナ、アズリエル、そして巫女が静かに見守っている。


 彼らは決して「老人」ではなかった。ただ、早く使い潰された者たち。顔に走る傷跡、欠けた指、引きずる足――。これでまだ歩ける者たちなのだ。残された者たちを思うと、胸の奥が少し痛んだ。


 私は椅子から身を起こし、声をかけた。

「おはようございますわ、皆さま」


 その瞬間、ざわりと低いざわめきが広がった。驚き、疑念、そして――始まる前から結論づけたような、あの古い嘲りの笑い。

 彼らの目には、ただの「小娘」にしか見えなかったのだろう。


 だがローヘル隊長の声が、その空気を断ち切った。


「静粛に!」


 命令だった。願いではない。

 隊長は一歩前に出て、机に手を置き、その言葉でざわめきを押さえ込んだ。


「俺が誰だかは分かっているな。ローヘル隊長だ。片腕の老兵が恥も知らずにここへ立っていると笑う者がいるなら、前に出てこい! 胸の傷は誉れだが、舌の傷は恥だ!」


 兵たちは一斉に口をつぐんだ。反射のように、素早く、醜いほどに。


 隊長は表情を緩めず、一人ひとりを見渡してから声を落とした。

「この天幕の下におられるのは――ロザケア公爵家、アプグルントハルツ家の令嬢、カタリナ・フォン・アプグルントヘルツ様だ! 公爵の血を引くお方にして、この場を主導なさるお方! 俺に払う敬意の倍をもって、そのお言葉を聞け!」


 あのような派手な紹介など、私には必要なかった。

 私の血筋だけで、十分すぎる重荷なのだから。

 それでも効果はてきめんだった。空気が変わり、名を告げただけで、すべての視線がこちらに集まった。


 小さく、慎重に囁かれる声が耳に届く――「神母ヨナ」の名だ。

 その名が出ただけで、ざわめきはぴたりと止んだ。

 その時まで、私は彼女が人々から敬われるのは、ただその慈悲ゆえだと思っていた。

 だが、彼女の存在そのものが、ローヘル隊長の声と同じだけの威を持つのだと、その瞬間に知った。


 深呼吸をして、声を整える。


「――わたくしは、カタリナ・フォン・アプグルンヘルツですわ」

「若き身ではありますが、家名と共にその責を負っておりますわ。父ウンゲルボルト卿がこの地におられぬ間、わたくしがその代理として言葉を発し、行動いたしますわ。空虚な慰めや約束を並べるために来たのではありませんの。皆さまの声を聞き、働きの場を見定めるために参りましたの。率直に申して――本日ここに集った理由をお聞かせくださいませ」


 一人の大柄な男が一歩前へ出た。

 肩は広く、声は風と鉄に焼けたように掠れている。


「カタリナ様。俺たちは都が“聖戦”に従軍した者へ褒賞を出すと聞いて来ました。中には、駐屯兵でも土地をもらえるとか、領都が家を建ててくれるだとか――そんな噂もある。信じがたい話です。けれど、この地で兵が整地をしているのを見た者がいた。それだけで、皆、希望を持って来たんです」


 ――希望。

 最初に死に、最後まで人が手放さないもの。


「それは事実ではありませんわ」

 その一言でざわめきが起きた。

 希望が砕ける音が、波のように広がっていく。


「けれど――」

 私はその波を断ち切るように声を重ねた。

「“希望”のためにここへ来たのは、正しかったのですわ」


 その言葉で、再び静寂が戻る。


「この地には、退役軍人のための事務所と住居を建設する計画がございますの」


 人々の間に安堵の気配が走った――だが、私が次の言葉を告げた瞬間に、それは崩れる。


「これは施しではありませんわ。配置ですの。

 登録のうえ、能力に応じて働く場を割り振りますわ。老いも若きも、手足が不自由であっても、働けるならば働くのですわ。各地へ散り、土地を得ることになりますの。

 ただし――この制度が適用されるのは、“聖戦”からの帰還者に限りますのよ」


 安堵は再び失望へと変わった。


 一人の老人が、干からびた蔓のような腕で杖を支え、前へ出る。

「お嬢様。わしは三十年、南の駐屯地を守ってきました。

 だが国境の壁が完成したあと、我らは皆、解雇されました。

 できる仕事を拾い、ようやく食いつないできた。

 お聞きしたい――国を守ることは、異国で血を流すことより価値がないのですか?」


「いいえ、そうではありませんわ」

 私は首を横に振った。


「では、なぜ“あの者たち”が先なのです?」


「まもなく、彼らが戻ってきますの」

 私はそう告げた。

「給金もなく、土地もなく、目的も失った者が何千と。絶望した男たちは、やがて問題になりますわ。――まず、それを止めなければなりません」


「あなた方は長い間、この地を守り続けてくださった。その忠誠は、すでに確かなものとして証明されています。それが、わたくしたちに猶予を与えているのです。

 けれど、聖戦から戻る兵たちは違います。彼らは遠い異国で戦い、故郷を離れていました。忠誠は薄れ、怒りは鋭くなっている。行き場を失えば、わたくしたちの守ろうとするものを食い破るでしょう」


 私は一拍置き、言葉を沈めた。


「これがすべての始まりです。彼らの危機を鎮めたあとには、同じ仕事を他の退役兵にも開きます。その次は――働く意志のあるすべての者へ。あなた方が忘れられることはありません。

 夏の終わりには、あなた方にも門が開かれます。乞食ではなく、職と尊厳、そして新たな目的を持つ者として、再び社会に立つのです」


 続く沈黙は、信頼ではなかった。だが拒絶でもない。

 それは、わたしの言葉を量りながら――希望という名の小さな火を胸に残すべきかどうか、彼らが測っている沈黙だった。


 群衆の奥で、ざわめきがひとつ起きた。

 ひとりの男が身じろぎする。周りより若く、やつれた目をしていた。左袖は肩口で丁寧に留められ、空虚な布が彼の犠牲を語っている。


「お、お嬢様……」

 低く、ためらうような声だった。残った手で上着の裾を握りしめながら、彼は名乗った。

「わたしはコルヴィンと申します。北東辺境の駐屯地で、黒林の蛮族と戦っておりました」


 その名を聞いた瞬間、周囲から小さなざわめきが漏れた。

 あの苛烈な前線――その名を知らぬ者はいない。


「ですが、わたしは途中で追い出されたのです」

 彼はかすかに震える声で続け、自らの左側を見やる。

「片腕の兵など、殿下の城壁には不要だと。……だから、あなた様のご計画は理解しております。本当に、ありがたいことです」


 彼は一度言葉を切り、顔を上げた。

 その表情には、混乱を装うような慎重さがあった。


「ですが……ひとつだけ、確かめておきたいのです、お嬢様。夏の終わりに門が開かれる、というのは――我々駐屯兵も、聖戦の退役者たちと同じ扱いを受けられる、という意味でしょうか?

 それとも……長年の忠誠を考慮して、より良い待遇を賜れる、ということでしょうか?」


 なんて愚かな質問。

 まさか、皆の前で露骨に一方を優遇するような約束をすると思っているの? それとも、特別扱いを望むほど切羽詰まっているのかしら。

 一瞬、苛立ちが胸をかすめた。


「馬鹿なことを言わないで」

 思わず声が鋭くなる。

「待遇は同じです――働いた分だけ正当に報いる。それだけのこと。あなた方の忠誠は、すでに待つだけの安定を得ている。彼らの危機が先にある、それが唯一の違いです」


 そう言いながらも、胸の奥で何かが引っかかった。


 男は肩を落とし、敗北を演じるように呟いた。

「……そうですか。つまり我らの忠誠とは、安定のこと。

 この都まで歩いてきた長い道のりも、公爵閣下の正義を信じた心も、あなた様の帳簿には記されていないのですね」


 そして、他の者たちに聞こえるほどの声で続けた。

「――我らは、ここでは無価値か。せめて旅の労いに、一枚の銀貨でも。努力が見られていたのだと分かる印に」


 群衆の空気が、乾いた草原のようにわずかに傾いた。

 火種に向かう風のように。


 私は――ただ、言葉を失っていた。


 兵というのは――たとえ除隊された者であっても、言葉ひとつで空気を動かせる存在だ。

 彼らは序列を知り、士気を知り、そして「疑念」がどれほど早く人心を腐らせるかを知っている。


 けれど、今の彼の声色は違った。

 それは訓練された兵のものではない。

 ――芝居だ。


 希望を抱いてここまで歩いてきたはずの男たちが、今や人前で旅の豆を嘆いている。

 乞食のように、哀れみを乞うための言葉を並べながら。


 私は目を細めた。

 出来すぎている。偶然ではありえない。


 まず「特別待遇」という対立を捏造し、

 次に「長い道のりと無報酬」という負債を持ち出した。


 ――質問ではない。梃子だ。

 誇りや罪悪感をこじ開け、私自身に矛盾を言わせるための。


 凡庸な貴族なら、もうとっくに足をすくわれている。

 高慢な者は怒りで反応し、相手の言葉を正当化する。

 傲慢な者は憤慨し、その芝居を燃料に変える。

 そして、情に流される者は小銭でも渡してしまう。

 どの道も、彼の狙う通り――「貴族とは傲慢で、冷酷で、操られやすい存在だ」と証明してしまうのだ。


 彼は迷える兵などではない。

「働いて」いる。ここで、一歩ずつ物語を組み上げている。


 彼の言葉は質問ではない。

 ――見出しだ。

 私の返答という「インク」を待っている、あらかじめ書かれた記事。

 群衆は聴衆ではなく、読者だ。物語を求めて息を潜める読者。


 この手の作り物を、私は知っている。

 ――甲冑の光る訓練場ではなく、照明の強すぎる会議室の中で。


 笑顔と録音機を武器に、記者が社長に問いかける。

「もし本当に人々を思うなら、利益を捨ててでも価格を下げるべきでは?」

 答えを求める質問ではない。

「社長、人命より利益を優先と発言」と書くための、罠だ。


 困惑は静かに溶け、冷たい静寂に変わった。


 彼はただの退役兵ではない。観客を操る者だ。そこまでは確信できた。

 ――職業的な扇動者か、切羽詰まった素人か。

 それを公の場で断じるつもりはなかった。


 私は唇に薄い、企業人のような笑みを浮かべた。

「コルヴィン」

 穏やかに名を呼ぶ。

「随分と弁が立ちますね。……平兵としては、言葉の選び方が巧みです」


 それは誉め言葉ではなく、針のような皮肉。

 褒めてはいるが、褒賞の価値はない――そんな声音だった。


 彼の目が一瞬だけ揺れた。

 早すぎる反応。完全な演技ではない。舞台の上の焦りか、それとも本性の綻びか。


「では、個人的に確認させていただきましょう」

 私の声は冷たく澄んでいた。

「その負傷――北東駐屯地での戦闘によるものと仰いましたね? 記録上は、戦傷として登録されたのですか? それとも訓練事故として?」


 自分の理解のため、という体で。だが、その質問は――刃だ。


「退役兵の再配置には書類の正確さが重要ですから」


 空気が張り詰める。

 彼は動じなかった。その落ち着きは、訓練されたもののように見えた。


「……訓練中の事故です、お嬢様」


「訓練事故、ですか」

 私はその言葉を繰り返し、群衆の耳に届くように少しだけ声を響かせた。

「ならば、徴発台帳と恩給所の記録が残っているはずですね。――当時、北方駐屯地を指揮していたのは誰です?」


 ただの事務的な質問。

 やましいことのない者なら、即答できる。


 ローヘル隊長が半ば立ち上がりかけたが、兄の鋭い手振りがそれを制した。

 彼も理解している。このやり取りが“試し”であることを。


「トール隊長であります、お嬢様」

 コルヴィンは落ち着いた声で、淀みなく答えた。


「――ああ、トールジャン隊長ですか」

 私は頷いた。

「名簿と恩給記録を照合しておきましょう。すべての兵が正しく記録されるべきですから」


 彼は――微笑んだ。

 あまりにも、あっさりと。


 ――トール。

 北東出身の男に最も多い名だ。

 トールビョルン、トールヴァルド、トールスタイン、トールフィン――好きなものを選べばいい。

 どれも最初の音は「トール」。

 無知ではない。焦りでもない。

 ――予防線だ。


 彼は逃げを打ったつもりだった。

 だが、外した。


 偽者だった。


 私は机の上の書類を整えた。

 秩序のためではない。手の震えを隠すために。


「コルヴィン」

 視線を逸らさずに呼ぶ。


「あなたの問いに――きちんとお答えしますわ」

 一瞬、息を整える。

「率直に尋ねられたことですもの。……そして皆さんも聞いてください。彼の言葉は、皆の行く末にも関わることです」


 私は椅子から半ば立ち上がった。

 脚が地を擦る音が、ざらりと静寂を裂く。

 それだけで、すべての視線がこちらに向いた。


「見ればわかるとおり、ここはまだ整っておりません」

 私は未完成の敷地に手を広げた。

「壁も、屋根も、事務所もない。――時間が要ります。ですが、“時間がかかる”というのは、“無駄になる”という意味ではありません」


 コルヴィンがわずかに身じろぎした。

 視線を落とし、健在の手がまた衣の端をなぞる。

 その仕草――二度目を見れば、もはや“癖”ではなく“演技”だとわかる。


「事務所が開かれたとき、皆には来てもらいます」

 私は彼を見据えたまま言葉を続けた。

「名を、従軍歴を、負傷の記録を。ひとつずつ確認します。――隊長の報告、領主の証明、恩給台帳。どの経路でも構いません。真実であるならば、必ず照らし合わせで証が立つでしょう。

 そうして、真の忠義を持つ者と――忠義を装う者を、見分けるのです」


 コルヴィンの首が小さく跳ねた。

「……忠義を“装う”と? お嬢様、それは――」


「ええ、もちろん」

 私は彼の言葉をやわらかく断った。

「ですが、真実は証に耐えるものですよね?」


 数人の男がうなずいた。

 コルヴィンは言葉を失い、唇だけが開いたまま凍りつく。

 静寂が彼の勇気を、音もなく削ぎ落としていった。


 私は視線を彼の背後――群衆の方へ滑らせる。

「記録が照合され次第、全員に職と報酬が与えられます。噂ではなく、命令として。――それが秩序です」


 そしてわずかに前へ身を乗り出し、言葉の重みを落とした。


「わかりますか、コルヴィン。

 今ここで一枚の銀貨を渡しても、朝には消えるだけです。

 それは“尊厳”ではなく、“憐れみ”です。

 ――わたくしが与えるのは、憐れみではありません」


 彼は頷こうとしたが、喉が詰まり、動きだけが宙に浮いた。

 仮面が崩れかけている。


「働く意思があるなら、ローヘル隊長の側につきなさい」

 私の声はさらに冷えた。

「ここで最初の建物を建てる作業に加わるのです。報酬はまだ出ません。食糧と屋根だけ。夏の制度が整うまで、それがあなたの分です。

 待ちたいなら、待ちなさい。事務所ができた頃に戻ればいい」


 ――沈黙。

 それは、判決の直前に訪れる沈黙だった。

 風さえ、息を潜めていた。


 コルヴィンはぎこちなく一礼した。

「……お言葉のままに、カタリナ様」

 硬く、浅く、そして早すぎる頭の下げ方。

 その声には、張り詰めた糸のような震えがあった。


 彼は一歩下がり、俯いたまま列の後ろへ退いた。


 そして――それきり、彼の姿は群衆の中へと呑まれて消えた。もう二度と、彼を目にすることはなかった。


 私は視線を外へ向け、静けさを断ち切るように声を張った。


「――これで、流言は終わりといたします。疑う者は、司祭に尋ねなさい。彼らはすでにこの計画を知っています。それでも納得がいかぬなら、領都の宮へ来るといい。運が良ければ……父上自ら、あなたの言葉をお聞きになるでしょう」


 その一言に、ざわめきが走った。畏れと畏敬が半ば、低い波のように広がっていく。


 公爵の御前に立つ――それは恩恵ではない。裁きの場だ。


 ざわめきは膨らみ、やがて静寂へと沈んだ。

 視界の端で、レイフがそっと手を上げる。わずかな合図。だがそれだけで、彼の騎士とアズリルが光を避ける影のように音もなく動いた。


 私はその場を離れず、まだ私を見ている者たちの目を一人ひとり受け止めた。


「ロエル隊長」

 私は静かに告げた。

「残りの者たちにも、日が暮れる前に配給を渡してください。今日一日、もう十分に歩いたはずです」


 隊長が短く命令を飛ばす。その声はいつもより低く、荒れていた。兵たちは黙って列を作り、疲れ切った顔のまま、それでも従った。


 視界の隅、レイフと騎士たち、そしてアズリルが、木立の方へと歩みを進めるのが見えた。その足取りは――不自然なほど静かで、落ち着いていた。


 ロエルの視線も同じ方向を追い、腰の剣の柄に触れた。

「カタリナ様」

 彼は低く言った。

「ここでお待ちを。うちの兵では伏兵に備えられません。野戦ならともかく……森の中では分が悪い」


 言葉にせずとも、その立ち姿だけで彼の懸念は伝わった。


「……わかりました」

 私は小さく息を整え、頷く。


 ロエルは視線を木立から離さぬまま、短く続けた。

「ですが――レイフ様と騎士団は別です。お若いが、公爵家でも屈指の剣士。任せてよろしいかと」


 私は一度、深く息を吐き、消えゆく道の方を見つめた。

「ええ」

 声は静かに、しかし確かに出た。

「私も信じています。――兄さまを」

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