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【第5話その2】公爵令嬢と初めての現場監督

 車輪が乾いた地面を踏みしめ、ゆっくりと止まった。

 窓の外に広がるのは、まだ荒れた土と石、組み上がりかけの木枠。――私の計画、その骨組みだけがそこにあった。命を吹き込まれるのを、静かに待っている。


 近くにはいくつかの天幕が風に揺れていた。ひとつは長机の上が紙と道具で埋まり、散らかってはいるものの、それは確かな進捗の証でもあった。

 机の端にはローヘル隊長。逞しい肩幅に外套をかけ、失われた片腕を覆っている。だが、もはや私の目を引くのはその欠損ではなかった。残る片手で空を切るように指示を飛ばす、その鋭さだった。まるでいまだに剣を握っているかのように。


 この任務を彼に任せたのは元帥の提案だったが――実際に兵たちが彼の一声で動く様を見れば、その選択が正しかったと認めざるを得ない。


 その隣には、灰色の髪を頭巾に整えた老いた女祭司――神母ヨナ。間違えようがない。


 私は以前、大司祭(だいしさい)に頼み込んだ――説教ばかりの付き人はもうごめんだと。最初に派遣された侍者は、助けになるどころか一日中教義を語り続けるだけだった。

 苦情を何度も上げた末、ようやく大司祭が折れた。こうして神母ヨナが私の補佐として来てくれたのだ。結果は、予想以上に良かったと言える。

 彼女の穏やかな声と確かな判断は、私の行動を何度も支えてくれた。――あの日、初めて会ったときの印象のままに。


 傍らには一人の巫女が控え、契約獣を抱えていた。丸く、垂れ耳の小さな獣。あまりに柔らかそうで、ぬいぐるみのように見えるほどだった。巫女が動くたび、獣の耳も一緒に垂れて揺れる。そのあまりの滑稽さに、ローヘル隊長の鷹のような視線の下でも、少しだけ空気が和らぐ。


 馬車が完全に止まり、私は兄とアズリールと共に地へ降り立った。靴の下で乾いた土が舞い上がり、粗い埃が小さな歓迎のように私たちを包む。


 最初に動いたのは兄だった。瞬時に「公爵家の後継」としての姿勢を整え、胸に手を当てて敬礼する。


「ローヘル隊長」


 続けて聖職者へ向き直り、

「神父様、神母様(しんぼさま)


 隊長は背筋を伸ばし、短くうなずいた。

「レイフ様、カタリナ様」

 抑えた声。だが、きちんとした敬意があった。


 神母ヨナは静かに立ち上がる。その動作に年齢の影はあれど、威厳は少しも失われていない。巫女が慌てて支えに入ると、ヨナは微笑みでそれを制し、私たちに向き直った。――柔らかく、揺るぎのない姿で。


「レイフ様、カタリナ様。常に十柱の加護があらんことを」


「感謝いたします、神母様」

 兄の声は相変わらず完璧に整っていた。


 その背を見ながら、私はそっと息を吸った。

 ――ああ、そうだ。いつまでも「妹」でいられるわけではない。

 これからは、公爵家の娘として人前に立つ機会も増える。

 ならば、せめて形だけでも兄のように。

 言葉も、姿勢も、呼吸も。

 今までの「私」ではなく、もっと……。

 自然と背筋が伸びた。裾を持ち上げる指先に力が入る。

「お嬢様」と呼ばれるたび、胸の奥が少しだけくすぐったい。

 ――けれど、それでいい。これも務めのうちだ。


 私は一歩進み、軽く裾をつまんで礼を取る。

「朝の始まりに祝福を賜りますとは、なんと幸運な兆しでしょう。――それに、神母様がこちらにお越しということは、お務めも滞りなく終えられたのですね。まさか、わたくしのために急がせてしまったのでは?」


 横でアズリールの口元がぴくりと動いた。  その笑いをこらえるような仕草――まるで、珍しいものを見つけた子どものように。

 私はそっと彼を睨みつける。


 神母ヨナの瞳がやわらかく細められた。

「お嬢様、それは手厳しいお褒め言葉として受け取っておきましょう。もちろん、もう済ませましたわ。あなたを待たせてはなりませんもの」


 その声音には、祖母を思わせるあたたかさと、年輪を重ねた威厳があった。――そういえば、前世の記憶を取り戻してからというもの、自分の祖母の顔を見に行っていなかった。帰ったら父に尋ねてみようかしら。

 そんな取り留めのない思考に浸っていたとき、空気がわずかに変わった。

 穏やかだったはずの風が、ひやりと首筋を撫でる。


 天幕の隅。見知らぬ神父がこちらを見据えていた。侍者でも巫女でもない、本職の聖職者――説教と命令に慣れた、あの独特の気配。

 その目はあからさまな敵意ではなく、むしろ抑えた非難。声に出す代わりに、視線で人を値踏みする類のものだ。


 男は一歩前に出て、浅く頭を下げた。

「神母ヨナ、ローヘル隊長。失礼いたします。別件がございますので、これにて」


 そして兄に向き直り、同じように浅く礼を取る。

「レイフ様、これで失礼いたします」


「もちろんです、神父様」

 レイフ様の返事は礼儀正しいが、どこか探るようでもあった。


 神父は私にも一礼した。

「カタリナ様」

 ただそれだけ。

 形式だけの、表情のない頷き――まるで私は通りすがりの儀礼にすぎないとでも言いたげに。


「……お待ちなさい」

 自分でも驚くほど冷たい声が口をついて出た。野営地が一瞬で静まり返る。巫女が身をすくめ、抱えた契約獣の耳がびくりと動いた。


「神父――」と私が言いかけると、彼はすぐに答えた。

「イスロと申します、カタリナ様」

 途端に背筋を伸ばし、先ほどまでの余裕はどこへやら。つい先ほどまで人を値踏みしていた目は、すっかり怯えに変わっていた。


「では、イスロ神父。あなたはここに何の御用で?」


大司教(だいしきょう)パイデントのご命により、都の外の様子を視察に参りました。ちょうどその折、神母ヨナが到着されたと聞き、ご挨拶をと思いまして」


 パイデント大司教――都とその周辺を束ねる宗教界の頂点。だが、この件に関わる理由はない。もし本当に市政の問題であれば、市長の方が先に動いているはずだ。おそらく、すでに承知しているのだろう。


「では朝から、こうして野原に立ち尽くしておられたのですね? 遠くから様子を眺めて」


「おっしゃるとおりです、カタリナ様。我々はここを聖騎士団の説教場かと思っておりましたが、神母ヨナのご説明で退役兵のための施設だと知りました」


「つまり、関係のない場所に首を突っ込んでいた――ということですわね」


「……おっしゃるとおりです、カタリナ様。では、これで――」


「話は終わっていません」

 私の声が一段鋭くなる。

「けれど、あなたのご用が私との会話よりも大切というのなら――どうぞお行きなさい」


「い、いえ、いえ! お待ちします、カタリナ様!」


「よろしいわね」

 私は腕を組んだ。

「では尋ねますけれど――もしここが、アラム・パシル遠征に従軍した聖騎士たちの説教場だったら、どうなさるおつもりでした?」


 神父イスロは一瞬たじろぎ、視線をローヘル隊長へ、次いで神母ヨナへと泳がせた。助けを求めるように。


 神母ヨナは穏やかに微笑んだ。女祭司としての彼女の権威は、イスロ神父と同等である。

「私から説明いたしましょう。イスロ神父や一部の聖職者は、公爵家の計画を十分に知らされていなかったのです。大司教パイデントは、自分に知らせず儀式を行うのは非礼だとお考えになったのでしょう。そうですね、神父?」


「は、はい、神母ヨナ。そ、その通りです、カタリナ様。大司教パイデントは、知らせなく進めるのは失礼だと……」


 思わずため息を噛み殺す。

 この時代――メールも電話もない。ほんの些細な誤解ひとつ正すにも、こうして顔を合わせねばならない。だが、こうした誤伝は、結局のところ直接対話でしか解けないものだ。


「分かりましたわ。では、大司教パイデントにお伝えくださいませ。もしご懸念があるのなら、直接わたくしにお話しくださればよいと。断片的な伝言では、意味が歪むばかりですものね?」

 そして、微笑を添えて言葉を続けた。

「――遠くから覗き見るような真似をしても、誰のためにもなりませんわ」


「お、お許しを、カタリナ様――?」


 私は軽く笑った。

「なぜ謝るの? あなたは悪人ではありません。ただ、そう“見える”ような振る舞いをなさっただけですわ」


 隣でアズリールが小さく笑い、イスロ神父は引きつったように乾いた笑みを返した。まったく、笑うしかなかったのだろう。


「では、イスロ神父。大司教パイデントによろしくお伝えくださいませ」


 彼はまだ立ち尽くしていた。まるで、何か続きを期待しているかのように。

「――以上ですわ」

 私は穏やかに告げた。

「お引き取りなさい。十の御名があなたと共にあらんことを」


「は、はいっ! ありがとうございます、カタリナ様!」


 彼は慌てて立ち去った。

 その背を見送りながら、私は兄とローヘル隊長の視線を感じていた。二人とも、言いたいことを飲み込んでいるようだった。

 巫女の少女は顔を真っ青にしている。無理もない。公爵家の娘が聖職者を公然と諭す場面など、彼女のような侍者にとっては恐ろしい光景だろう。

 けれど、神母ヨナとアズリールだけは、静かに笑っていた。


「何かご不満でも、兄上?」

 私が問うと、兄はため息をつき、口元をわずかにゆがめた。

「いや。ただ……相手には、少し怖い印象を残したかもしれないな」


「仕方ありませんわね」

 私は肩をすくめる。

「ブランシュフルール叔母様が言っていたでしょう。必ず妨げが入ると。彼女も守りきれない部分があると。ならば、最初から誤解を払っておく方が良いのです」


 神母ヨナが低く、満足げに唸った。

「澄んだ流れには泥が溜まりませんものね」

 その声音は乾いていながら、どこか愉快そうだった。

「よくやってくださいました、カタリナ様。イスロ神父のような者は、曖昧さを糧に生きています。あなたのおかげで、すっきりと澄み渡りましたわ」


 少し間を置いて、彼女は微笑を深める。

「これで大司教パイデントも、観察者を送りつける前に書簡の一本くらいは寄越すでしょう。……実に効率的な解決策です。明快さとは、ときに剣より鋭いものですわね」


 ローヘル隊長が喉の奥で笑った。

「では、カタリナ様――その明察をお持ちなら、報告の前にお目通しいただきたい者たちがおります。早く到着した退役兵たちです」


「もう着いているのですか?」


「前線から直接ではありません」

 彼は説明した。

「聖戦に従軍していた者ではなく、以前の遠征や辺境守備から退いた兵たちです。負傷や年齢で戦列を離れた者も多い。皆、不安げに待っています。――この計画が自分たちにも及ぶのか、本当に救いとなるのか、と」


「あら、もう始まっているのね」

 私は小さく微笑み、声を張った。

「本来なら、他の退役者たちがこの試みの成果を聞きつけてから集まるはずでしたのに……思ったより早かったようですわね。――けれど構いませんわ。彼らがここにいて、迷い、答えを求めているのなら――わたくしが示してあげましょう」

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