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【第5話その1】公爵令嬢と初めての現場監督

 朝の陽射しの下、玄関前には馬車が待っていた。

 久しぶりに屋敷の外へ出る。今日は領都の城壁近くで進められている建設の進捗を、自分の目で確かめに行くのだ。

 腕には報告書を抱えている。移動の間も読み進められるくらいの分量だ。


 馬車へと向かいかけたそのとき――「出迎え」がいた。


 兄のレイフ。そして、いつも付き添っているアズリール。

 ……二人はなぜか遊んでいた。いや、彼らなりの「遊び」なのだろう。


「フレイミング・パンチ!」

 兄が私の契約獣をぬいぐるみのように掴み、無理やり後ろ足で立たせている。

 最近あの猫は人に触られても妙に大人しい。……私が触ろうとすれば、未だにすぐ逃げるくせに。


 負けじとアズリールは、兄の丸々とした兎・アウグストゥスを同じポーズにさせた。

 兎の方が、猫よりもさらに迷惑そうな顔をしている。


「なんと見事な一撃だ、闇の執行者グロよ!」

 どうやらアズリールも、うちの猫の名前を「グロ」で定着させる気らしい。


「ふん、我が毛皮は灼熱の太陽すら耐え抜く!」

 今度はアウグストゥスの前足を高々と掲げる。


「なにっ!?」レイフが猫を揺さぶり、驚いたふうを演出する。


「ならば次は我が真の姿を――」

 アズリールが兎を持ち上げた瞬間。


 アウグストゥスはぷいっと鼻を震わせると、彼の顔面を後ろ足で蹴り飛ばした。

 そのまま彼の腕を抜け出し、怒り心頭とばかりに植え込みの陰へ跳ねていく。


 好機とばかりに、私の猫もレイフの腕から抜け出して兎を追った。


「……あなたたち、子供ですか?」思わず口をつく。


 レイフは満面の笑みで胸を張った。

「お前を待ってたんだよ! 叔母上から聞いたんだ。今日は城壁の視察に行くんだろ? だから護衛に来た!」


 私は視線をアズリールに移す。鼻を押さえつつも、普段以上に癪に障る笑みを浮かべていた。


「あなたまで?」


「ええ」笑みを崩さず答える。「公爵閣下ご自身から仰せつかりました。貴女をお守りし、そして――」

 そこで貴族らしい、完璧な所作で軽く一礼し、続けた。

「もし何かお忘れのことがあれば、それを思い出させるのも私の役目。すべてお任せを」


「そこまで大げさな助けはいりません」思わず棘がにじむ。


「では、頼まれるまで余計な口出しはいたしません。でも護衛は続けますよ」


 その目の奥に浮かぶ光、余裕の笑み。……どうにも癪に障る。

「なぜ、今日のあなたはいつもより鬱陶しい笑顔なの?」


「そんなに分かりやすいですか?」彼はくすっと笑った。柔らかく、それでいて人を苛立たせる音。

「単純に、外を見られるのが楽しみなんですよ。ここへ来て以来、宮殿とこの屋敷の中にばかりいましたから」


 ――もちろん、それだけではないと私は分かっていた。

「……勝手に付いてくるなら、ちゃんと役に立ってもらうわよ。ほら」


 侍女に合図を送り、彼らに書類の束と筆記具を渡させる。


 アズリールは渡されたものを手に取り、不思議そうに首を傾げた。布切れで巻かれた黒い棒を掲げながら尋ねてくる。


「カタリナ様、これは? ……炭ですか?」


「私の筆記具よ」


 布に包まれたそれは、ただの黒い石塊のように見えた。

 だが私にとっては――初めて形にした「鉛筆」、実用のための道具だった。


 三人で馬車に乗り込む。

 報告書を抱えたレイフとアズリールが席に収まり、扉が閉まる直前に兄が声を張る。

「アウグストゥス! 出発だぞ!」


 植え込みの陰から兎が飛び出し、ぎりぎりで馬車に飛び乗った。もちろん私の猫も、その後を追って。

 二騎の騎士に護衛され、馬車は走り出す。


 座席の並びは少し意図的に思えた。

 レイフの隣にはアウグストゥスがどっかり座り、必然的に私はアズリールの隣に。


 驚いたのは――その膝の上で、私の猫が穏やかに丸まっていたこと。

 兎も猫も落ち着いているなんて、珍しい光景だった。


「カタリナ様」

 考えに沈んでいた私を、隣の声が呼び戻す。

「これ、紙に使ってみても?」


「ええ」


 彼は布を解き、不器用に石を握りしめ、紙に線を引いた。

「こんなに滑らかに……。インクも要らず、滲みもしない」

 さらに何本か線を描き、好奇心を隠さず私を見つめた。

「これは、どこで覚えたのです?」


 視線を交わす。アズリールの分析的な眼差し、レイフの実用的な興味。


「私が発明したわけじゃないの」慎重に言葉を選ぶ。

「台所の侍女たちが、鍛冶場の黒い塊で棚や木箱に印をつけていて。それを小さく削って、手で持てる形にしただけ」


 レイフが身を乗り出す。

「なるほど。インクの筆と同じで、でも手間がないんだな。これなら野営でも地図に印をつけられる」


 そのとき気づいた。アズリールの持ち方が悪く、線をすぐに擦り潰しそうになっている。


「持ち方が違うわ」

 思わず手を伸ばし、彼の指を覆って位置を直す。もう片方の手で紙を押さえながら。

「手を浮かせて。紙に触れたままだと擦れて、紙も手も真っ黒になるから」


 褐色の肌に触れる自分の手は、白く華奢に見えた。

 彼の手には、治りきった古い傷跡がいくつも残っている。


 顔を上げると、彼の笑みはいつもの含みを帯びたものではなく、柔らかにほころんでいた。


「何がおかしいの?」


「いえ」目の奥にいつもの茶目っ気が戻る。「袖に黒い粉がつきましたよ。崩れやすくて、すぐ汚れる。せっかくのドレスが台無しになります」


「確かに、それが欠点ね」袖を払いながら答える。

「この黒い部分をしっかり包み込む、外側の道具が必要ね。それを固定できる、本当の意味での『鉛筆』に」


「エンピツ?」レイフが首をかしげる。


「えっと……私が勝手に呼んでるだけ。羽ペンや筆みたいに、いつでもサッと書ける細い道具って意味で」


「エンピツか。いい名前だな」レイフは真剣に頷く。「今度、野営隊にも使わせてみよう」


 アズリールはにやりと笑い、わざとらしく私を見やる。

「なるほど。いつも袖が黒く汚れているのは、そのせいでしたか。てっきり煙突で遊んでいるのかと」


「子供扱いしないで。私は兄さまと違うんだから」


「おい!」レイフが即座に抗議する。

「俺だって、もう煙突で遊んだりしない!」


 私は背もたれに身を預け、車輪の響きに紛れて二人の言い合いを聞き流した。

 黒鉛そのものは珍しくない。鍛冶屋や大工、台所の女中でさえ、印を付けたり寸法を測ったりするために日常的に使っている。

 だが、それを「文字を書く道具」として形にし、手を汚さぬよう布で包んで持てるようにする――それは違った。誰一人、試そうとすらしなかった発想。


 そして今、埋もれた宝を見つけたかのように目を輝かせるレーフを見ていると、この考えを彼が手放すことはないだろうと感じた。

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