【第1話その1】公爵令嬢とその契約獣
アプグルントヘルツ家の子として十二歳を迎えた今日――
これが、本当の意味で「貴族の人生の始まり」だった。
香の匂いが漂う大広間。金の筋を抱く大理石の柱。
その下を歩く私に、無数の視線が突き刺さる。
重い……伝統って、こんなに肩にのしかかるものなの?
この日、初めて自分だけのスペルカードを授かる。
そして、一生を共に歩む契約獣を迎えるのだ。
「カタリナ。我が娘よ、前へ」
父の低い声が響く。
ドクン、ドクン。胸がうるさくて、シャンデリアまで割れそう。
……私の契約獣は、何になるんだろう。
兄さまみたいにフワフワの兎? 父の黄金の狐? 母の歌う小鳥?
抱きしめられる子がいいな……一生の相棒だもん!
儀式服の女官が銀盆を運んできた。
その上に置かれた一枚のカード。
赤い薔薇のモザイクが、朝のステンドグラスみたいに輝いている。
「きれい……」思わず息をのむ。
指先で触れた瞬間――ズキンッ。
棘に刺されたような痛み。熱と冷気が掌を駆け抜け、視界が真っ暗に沈んだ。
――世界が裂けた。
光と音と風が一気に押し寄せる。
高い建物。行き交う人々。鋭い顔、飛び交う声。
なに……ここ……でも、どこかで知ってる気がする……
ぱっと景色が変わる。
白いドレスの小さな少女。鏡の前でくるくる回る。
笑い声、飛ぶリボン、人形を抱いた手。
友達に袖を引かれ、走り、踊り、幸せそうに輝いていた。
――また切り替わる。
山のように積まれた本。めくれるページ。
目が焼けるほどの文字。鉛筆の匂い。
机に伏せ、肩を震わせて泣く小さな背中。
胸が締めつけられる。
助けてあげたいのに……動けない……
さらに場面は流れていく。
広い部屋、硬い床。速く動く手、見知らぬ光る道具。
人々は頭を下げ、声を潜める。
でも少女は止まらない。小さな体で、誰より大きく見えた。
そして――笑い声が消える。友が去る。椅子は空っぽに。
冷たい光、ひたすら続く筆記音。
一人きりで立ち尽くす少女。疲れた瞳。それでも揺るがない肩。
最後に映ったのは――大人になった彼女。
夜空を見上げる横顔。沈黙。孤独。
……私?
問いを投げかける間もなく、すべてが真っ白に消えた。
目を開けた時、私は薔薇のカードを握りしめていた。
胸が凍り、呼吸を忘れる。
赤いドレスをつかみ、よろめく。
あの女の人……私?
大広間の柱が揺れ、シャンデリアが白い炎に歪む。
世界が音の渦に呑み込まれていく。
足元が傾き、すべてが雑音に変わる。
胸が苦しい。頭が割れそう。
――叫びそうになった、その瞬間。
音楽が流れた。
やわらかな調べが大広間に満ちていった。
母の契約獣――銀の羽をもつ雲雀が歌い始めたのだ。
それに応えるように、鷹も、狐も、鳩も声を重ね、やがて獣たちの合唱が静かに響き渡った。
その音は毛布のように私を包み、張り裂けそうな胸をそっと撫でる。
痛みは残る。指は震え、思考は乱れている。
けれど、頭を埋め尽くしていた轟音は、次第に遠ざかっていった。
――耳もとで、ささやきが降りてきた。
「……何かを見たのね、カタリナ」
母の声。優しく、それでいて決して揺らがない声。
私はその声にしがみつき、嵐の中から引き戻される。
ふと横の柱に映る自分を見た。
長い金髪、青い瞳、赤いドレスに白いレース。
見慣れた少女の姿。
「……私は、カタリナ・フォン・アプグルントヘルツ」
小さく、言葉を刻む。
胸に落ちてきたのは、鋭い現実。
あの女も私。けれど、この十二年を生きてきた少女も確かに私。
家族も、名も、学びも――すべて、私自身のものだ。
深く息を吸い込む。
十二歳の私には不釣り合いな言葉や思考が、自然に頭の中に溶け込んでいく。
静けさが少しずつ心に広がった。
大広間の空気は冷たく、香の煙が漂う。
その中で、母――イゼルト・フォン・アプグルントヘルツは立っていた。
蒼白な光を受け、細い肩、目の下の影。
それでも凛として揺るがず、この世の何ものにも屈しないように見えた。
そして、その笑みは――私だけのものだった。
私はもう一度、深く息をつき、震える手で薔薇のカードを持ち上げる。
「はい、母さま。……感じました」
母の唇がわずかに弧を描く。誇らしげに、そして一瞬だけ、楽しげに。
「――では、儀式を続けましょう」




