【第2話幕間】ある鍛冶師の回想
酒場は一日の終わりを祝うざわめきで満ちていた。
ジョッキのぶつかる音、床をこする靴音。二階では聖職者たちが旅立ちの支度をしていた。その階段の影に、フードをかぶった小さな子供が立ち、下の喧噪を聞いていた。
カウンターの端では、老鍛冶師が一人、酒をあおっていた。耳に入ってくる会話を、どうしても聞き流せなかった。
「教会で男を罰したらしいぞ。たかが彼女に国を侮辱されたから怒鳴っただけなのに」
「罰? いや、処刑だ。従兄が見たって言ってた。連れ去られて、それきり帰らなかったそうだ」
ざわめきが走る。半信半疑と好奇心が混じる。
「本当だって! パン屋の小僧が聞いたらしい。『パンが買えないなら値に従え。嫌なら死ね。売らぬ職人は消えて当然だ』って、公爵令嬢がそう言ったんだとさ」
笑い声、嘲り、罵り。噂は膨らみ、娘から公爵へ、やがて貴族全体へと飛び火していった。
そこへ市警の兵士が休憩に入ってきた途端、酒場はしんと静まった。捕まるのを恐れて、誰もそれ以上は口にしなかった。
老鍛冶師は苦い酒を喉に流し込んだ。真実がどうであれ、彼にとってその娘はすでに「自分の人生を壊した悪役」になっていた。
「もう飲んでるのか、親父? 日が沈んだばかりだぞ。いつもなら真夜中まで来ないくせに」
兵士が笑うと、別の酔っ払いがからかうように言った。
「放っとけ。あいつの倅は夢追って逃げたんだ。可哀想なもんだろ」
笑いが広がる。哀れみ混じりの嘲笑。人の痛みを肴にする、安い笑い声だった。
鍛冶師は唇を動かすだけでつぶやいた。
「逃げたんじゃねえ……引き離されたんだ」
それでも笑いは止まらない。彼は黙って耐えるしかなかった。
街の人間にとって娘は公爵令嬢にすぎない。だが彼にとっては、自分と息子を引き裂いた手だった。
ヌエベは弟子以上の存在だった。孤児だったあの子を、妻を亡くして空いた炉に迎え入れた。槌も火箸も、炉の熱も――息子に継がせるはずのすべてをその小さな手に託した。鋼も、誰も扱えぬ珍しい鉱石さえも、一緒に叩いて教え込んだ。
忠義を尽くせば守れると思っていた。若い頃から公爵家に仕え、報いとして大切なものを守れると信じていた。だが少年は夢を語った。聖女サンタ・スプレーマに捧げられるような鍛造を、自分の手で作りたいと。
その夢が二人の間に亀裂を入れた。
そして娘――あの冷たい言葉が、その亀裂を打ち砕いた。裏切りではなく、「忠義など無駄だ」と突きつけられたことが、彼を最も傷つけた。
だから飲む。息子のためではない。置き去りにされた己の痛みのために。
「悲しまないで」
柔らかな声が笑い声を切った。
「息子さんは、まだあなたを想っています。自分の手で、誇らしいと感じてほしいだけなんです」
鍛冶師はまばたきし、重たい目でその声の主を見た。旅装束の幼い少女だった。年に似合わぬ落ち着きで微笑んでいる。苦笑をこぼしながらも、その言葉は胸に残った。
「息子さん、都に向かったのですね? 私も船で向かいます」
「……ああ」思わず答えていた。
「なら、何か伝言を。言葉でも印でも。きっと届けます」
カウンターには、小さな金槌が置かれていた。少年の手に合わせて作られたもの。もうずっと放置されていた遺品のように。
「いらん」鍛冶師はしわがれ声で言った。
「たとえ一流の細工師になったとしても、あの子の夢がサンタ・スプレーマに届くことはない。神に捧げるような品なんて、作れるわけがない」
「信じてあげてください」少女は穏やかに言った。
「彼が夢を信じているように。――それが難しいなら、私を信じてください。必ず彼を連れて戻ります。そして彼の指輪を、この身につけて」
鍛冶師の目が細まった。「おまえ……何者だ」
床に靴音が響いた。白衣の聖職者が現れ、深く頭を下げる。
「サンタ・ミノーラ様、船が出ます」
酒場がざわめいた。
「サンタ・ミノーラ……?」
「聖女様だ」
「まさか……彼女はサンタ・スプレーマ候補の一人では?」
鍛冶師は動けなかった。ジョッキを半端に掲げたまま、凍りついたように。少女はただ微笑み、周囲の視線など気にも留めなかった。
やがて彼は、小さな金槌をそっと押し出した。
「なら、これを渡してくれ。背の高い、濃い青髪の少年だ」
「知っています」少女は指先でそれを受け取った。笑顔は穏やかだが、言葉は奇妙に確信めいていた。
「私は、もう彼の姿を知っていますから」