【第2話その4】公爵令嬢とその視点
それでも、胸の奥にひとつ疑念が残っていた。私は彼とその周囲を見渡しながら、目を細める。
「……何かおかしい」
彼は首を傾げる。「どうかしましたか?」
「兄さまからカードホルダーをもらっているのでしょう? 明らかにスペルカードは使えるし、模擬戦でも相手をしている。でも――契約獣はどこに?」
「……ああ、それなら袋の中に」
「……袋?」
兄が両の掌を丸く形作り、曖昧な仕草を見せる。「袋のことを知らないのか、カタリナ?」
「袋くらい知ってるわ、兄さま。それと契約獣に何の関係が?」
ヌエヴェがくつくつと笑った。「なるほど。貴族のお嬢様では、目にする機会がないかもしれませんね。あれは、あまり貴族の家には置かれませんから」
彼は腰の革の袋を取り出した。使い込まれた革に縫い込まれた十字星――〈十の教え〉の紋章が光を受ける。
口紐をゆるめると、きらめく煙が漏れ出し、ゆっくりと形を結んでいく。
私は眉をひそめた。「まさか、それは――」
それは魚だ!
「 鯉だ!」
煙は黄金の鱗へと硬化し、鰭は見えぬ水をかくようにゆらめいた。宙を漂い、尾をのんびりと打つ。
「これが私の契約獣――ギュロです」
ヌエヴェは少し誇らしげに告げる。
黄色の鯉は私たちの頭上をゆるやかに旋回していた。
「私たち庶民にとっては、契約獣がいると日常の仕事に支障が出ることもありますから。だから、こうして袋に収めるのです」
「騎士たちも使うぞ。特に海路を渡るときにな」
兄が補足する。
確かに間違いではない。もし机の上を魚が漂っていたら、私も仕事に集中できないだろう。現に、とある黒猫が本の上に居座るだけでも、私はしばしば苛立たされるのだから。
契約獣は姿も性質もさまざまだ。手のひらに収まるほど小さく、愛玩動物のように可愛らしいものもあれば、ドラゴンともつかぬ鱗を持つ仔や、名も知らぬ奇怪なもの、叔母の飼う狼のように猟犬を凌ぐ巨獣も見てきた。
だが、袋に封じられる契約獣の話は初耳だった。考えてみれば当然かもしれない。私はまだ十二歳、貴族の交わりの範囲しか知らない。そこでは契約獣は常に傍らにあり、紋章のように誇示されるもの。ヌエヴェの言うとおり、必要がなければ知るはずもない。
――その時。
地面から不意にカサリと音がした。軽やかな足音が、駆け寄ってくる。
爪が私のスカートに引っかかり、背をよじ登る。鋭い針のような感触が布を突き抜けたが、私は歯を食いしばって耐えた。
……やはり。私の契約獣が姿を現したのだ。黒猫は私を爪研ぎの柱とでも思うように背中をよじ登り、髪に絡んだかと思うと、肩から飛び出した。
狙いは――魚。
「ね、猫っ?!」
ヌエヴェが悲鳴を上げる。
「グロ!」
兄はまるでそれが正式な名であるかのように叫び、目を輝かせた。飛びかかる猫を見て、子供のように興奮している。
黄金の鯉はひらりと跳ね上がり、鱗をきらめかせながら捕食者の気配を察する。
黒猫は軽やかに着地し、尾の火がいっそう明るく燃え上がった。足首をかすかに炎が絡み、獲物を睨みつけたまま、ゆっくりと円を描いて歩く。
――まったく。悪意ではない。ただ揺れるもの、泳ぐものを追わずにはいられぬ、本能そのもの。
私は溜息をついた。
「獣を袋に戻すことをお勧めするわ。うちの猫は、叩き落とすまでやめないでしょうから」
兄はただ楽しげに笑った。
「ああ、しまっておいた方がいい。グロは疲れるまで止まらんぞ」
「そ、そうなのですか……」
ヌエヴェはしどろもどろに答える。
彼が袋の紋に指をなぞると、鯉の姿は再び煙に溶け、袋の中へと消えていった。
ようやく黒猫は腰を落とし、尾を誇らしげに巻きつける。足首にはまだ小さな炎がちらちらと揺れ、まるで勝利を宣言するかのようだった。
ヌエヴェは衣を払いながら姿勢を正す。「そろそろ時間です。今夜、船が出るので」
「船? 汽車ではないの?」
彼はくすりと笑った。「アラム・パシルから都に向かう貴族船があって、私は巫女や女祭司と共に同乗させてもらえるのです。思うほど危険ではありませんよ」
「十字軍帰りの貴族だろうな。今夜の晩餐に何人か来るはずだ」
兄が思案げに口にする。
「――晩餐!」
私は彼の袖をつかんで引っ張った。「兄さま、急いで戻らなきゃ!」
リーフは笑いながら言った。「まあ、ヌエ……来年王立学園で都に行くとき、また会えるといいな。だが、街角で物乞いはやめてくれよ」
その冗談は、いかにも貴族らしからぬ軽さだった。
ヌエヴェはただ淡く微笑む。「ご安心を――そうはなりません」
彼はもう一度手を振り、道を下っていった。
私たちは館へと戻る。兄の視線は、今や宝物のように抱える剣に注がれていた。
「なあ、カタリナ。この剣は珍しい金属で鍛えられている。形にするだけでも名工の腕がいるし、魔術にも耐えるほど頑丈だ」
確かに見事な品だった。だが、兄の言葉が剣そのものを語っているのではないことは、すぐに分かった。
「それを……彼が兄さまのために?」
「そうだ」
兄は小さく笑う。「ただし、金属は私が渡した。だから彼は必然的に私と模擬戦をしなければならなかったわけだ」
その声色には、どこか柔らかさと同時に悪戯めいた響きがあった。まるで、少年を半ばだまして自分に懐かせたような。
「兄さまがこんなに気安く人と親しくなるなんて珍しい……特別な存在なのね」
「孤児なんだ。両親は戦で亡くした。お前は滅多に来ないが、私は小さい頃から毎月数日は父と一緒にここへ通っていた。その間に、彼は私にとって兄弟のような存在になったんだ」
兄が静かに思い出を口にする姿は、私にとって奇妙に映り、言葉が出なかった。
「ま、都でまた会えるわよ……あるいはここに戻って店を開くかも」
「都ならともかく、ここには戻れん」
兄は笑った。
「えっ、どうして?」
「カタリナ、まだ分からんのか。彼はギルドの習わしを破った。ある段階に至る前に去ったのだ。戻れば、街のギルドからは爪弾きにされる」
またしても、自分の無知を思い知らされる。大人の記憶を持っているつもりでも、この世界では私はただの箱入り貴族の娘に過ぎない。職人見習い――それは伝統と契約の半々であり、前世で料理人が何年も皿洗いを経てようやくラーメンの出汁に触れられるようになるのと同じ。途中で投げ出すのは、単なる転職ではなく、忍耐も献身もない烙印だった。
私はそれを軽い進路変更のように扱っていなかっただろうか? そのことが、彼の師を軽んじ、ヌエヴェに無謀を許したのではないか?
兄が横目で私を見やり、悪戯っぽく笑う。
「カタリナ……ヌエのことを考えているのか?」
「……ちょっとね」
私の戸惑いに、兄は声を上げて笑った。「心配するな。本人も承知の上だ。だからこそ都に移るんだ。聖女サンタ・スプレーマに献じる最高の装飾品を作るためにな」
私は息を呑んだ。聖女サンタ・スプレーマ――十五年に一度選ばれる、この国の宗教的象徴。前回の選定は私の誕生の頃、つまり次は三年後。そこまでに彼が経験を積めば、夢は決して荒唐無稽ではない。
兄はにやりと笑みを深める。
「カタリナ、お前は他の男とは違う目でヌエを見ていたな。気に入ったのか?」
唐突な問いに、私は目を見開いた。「……何ですって? いいえ。ただ、少し変わった感じがしただけ」
「本当に? 恋に落ちたんじゃないかと思ったぞ。あいつは顔も整ってるしな」
「馬鹿なこと言わないで。父が私の伴侶を決めるのだから、私はその方に尽くすわ」
「でも、顔はいいだろ?」
私は腕を組む。「……まあ、そうね。整ってはいるわ。でも兄さまだってそうでしょう。私はずっとその中で育ったの。だからどうとも思わないの」
リーフは柔らかく笑った。「今の言い方だと、私を褒めているように聞こえるぞ」
「言葉を捻じ曲げないで! そういう意味じゃないわ」
「はいはい。惚れた弱みってやつだな」
「しつこいんだから……」私は小さく呟いた。
「だって、お前は他の娘のように恋や騎士と姫の話を一度も口にしない。不自然だろう」
「毎日、兄さまという甲冑姿の騎士を見ているもの」私も負けじと返す。
「それは嬉しいな。だが、五歳の時のように『兄さまと結婚する』なんて言う年齢はもう過ぎたんだぞ、カタリナ」
「そ、それは違うってば!」
兄は本当に癪に障る。鬱憤晴らしに、彼の契約獣アウグストゥスの耳を引っ張った。そのふわふわした毛並みをかき回し、しばらくもみくちゃにしているうちに、その柔らかさにだんだんと心が落ち着いていった