Prologue
朝のルーティンは、いつも同じだった。
硬く磨かれた床に、ハイヒールの鋭い音が響く。
エレベーターの扉が開く軽やかなチャイム。
「おはようございます、社長」――
仕立ての良いスーツ姿の社員たちが一斉に声を揃える。
彼女は一人ひとりに、軽く頷きだけで返す。
オフィスに着く頃には、すでに照明が灯されていた。
扉のプレートには、金色に輝く一文字。――社長。
四十代前半の女性。黒髪をきっちりとまとめ、鞄を置き、上着を脱ぐと、ためらいもなく最初の資料を開いた。
ノックの音。
そして、いつも新しい企画の熱気を纏ったような男が、コーヒーを二つ手にして入ってくる。癖のような笑みを浮かべたまま、一つを彼女の机に置いた。
「もう忙しい? だろうと思ったよ」
自分のカップをひと口。
「さて――明日の株主総会、出席を頼む。『ドリーミープリンセス』の拡張事業だ。数字は上々。トップから成長計画を聞きたいと投資家たちが言ってる」
「ドリーミー……何?」
彼女は眉をひそめ、ペン先で机を軽く叩く。
「去年ミュージカル化したやつ? それとも航空会社のタイアップ?」
男は飲みかけのカップを止めた。
「両方。ゲームがバズったんだ」
「なるほど。十代に人気の恋愛シミュレーションね」
彼女は紙をめくりながら、視線はすぐに資料へ戻る。
「拡張はあなたの部門の管轄。私は方針を決め、予算を承認する立場であって、キャンペーンを直接回すのは違う」
「確かに。でも――あのスタジオの買収と、俺を社長に据えたのは、あなたの戦略判断だ」
男の声には、驚きと、そして個人的な執念が混じっていた。
「今回は周年記念の大型企画だ。投資家は“その判断を下したあなた自身”を見たがっている。予算にサインしたあなたの顔こそが、彼らにとっての安心材料になる」
「買収なんて、年に何十件も承認しているわ」
彼女の視線は書類から動かない。
「今は食品・飲料部門の案件に手一杯。スタジオレベルのマーケ施策にまで逐一関わっていられない」
ようやく顔を上げる。
「だから、あなたがプレゼンをしなさい。数字は既に承認済みよ」
「投資家は数字だけを見ているわけじゃない。戦略を――そして、その戦略にサインした“あなた自身”を見ているんだ」
彼は言い返す。
「肩書きじゃなく、あなただからこそ響く。俺が同じデータを出しても、重みがまるで違う」
彼女は鼻梁をつまみ、彼の飄々とした笑顔を見ようともしない。
「……わかったわ。スケジュールに入れて。短く済ませること」
「それで十分です」
男の笑顔はすぐに全開に戻る。
「間違いない――この新しいタイトルは国民的ヒットになりますよ」
出て行こうとした彼は、ふと振り返る。
「そうだ、もう一つ。エンタメ出版グループのマーケティング担当副社長――彼が“ぜひあなたと直接”と希望しています。大型キャンペーンの承認権を持つ人物です。ブランドシナジーの話もありますので、今夜、彼と夕食会を設けてほしいとのことです」
「「通常なら、彼の仕事でしょう。スタジオの顔はあなたです。ただ、今回のキャンペーンは彼の承認が不可欠」
「普通ならそうだ。でも今回は別」
男は彼女の冷たい声を意に介さず、明るく言い切った。
「彼は彼らの宣伝網のゲートキーパーだ。億単位のキャンペーンの決裁権を持ってる。あなたが彼を押さえれば、こっちは安泰。俺はクリエイティブ、あなたは経営戦。役割分担ってやつさ」
軽く手を振り、締めくくる。
「ではごきげんよう、社長」
反論する暇もなく、彼は出て行った。
彼女は小さく息を吐き、頭を振る。
机の上にはまたひとつIPの資料。『ドリーミープリンセス/オールウェイズサンデー・スタジオ』の文字が表紙に踊っている。
――ただの資産。その一つに過ぎない。
かつてオールウェイズ・サンデー・スタジオの買収は一種の賭けだった。崩壊寸前の老舗。
救ったのは、倉庫に眠っていた“カルト的名作”と呼ばれる過去の資産だった。
新体制のもとで〈ドリーミー・プリンセス〉が復活すると、続編、スピンオフ、モバイル展開、舞台ミュージカルへと一気に拡大。報道は「数十年ぶりの大規模ポップカルチャー復活劇」と書き立てた。
今や三十周年が目前に迫っている。
リメイク、新しいぬいぐるみシリーズ、アニメとのタイアップ、次々と押し寄せるコラボ企画――机の上には分厚い提案書が積み重なる。
光沢紙に描かれたのは、一人の気弱なヒロインを取り囲む美少年たちの笑顔。オフィスの蛍光灯の下で、不自然に輝いて見えた。
直近のヒット作は〈ドリーミー・プリンス:ソード&マジック〉。男性主人公を据え、優雅な王女や鎧姿のヒロインたちが彼を奪い合うという、定番を逆手に取った作品だった。
ありきたりな企画は流し読みする。
真の成長余地は、その奥に隠れていた。
王子たちを戦時の将軍として登場させる戦術RPG。
世界観を活かした王国経営シム。
競争心の強い男性層を狙ったガチャシステム。
恋愛はもはや入口にすぎない。
拡張するエコシステムが、新しい市場を侵食しつつあった。
彼女はさらにページをめくる。
――資産。ただそれだけ。
スマートフォンが震えた。
《リマインダー:会議――IP拡張》
その下に小さな注記。
《ディナー 午後七時 ラ・ヴィエイユ・メゾン》
彼女は唇を細く結んだ。
その夜、取引先とのディナーは予定通りに始まった。契約、機会、収益性――話題は仕事一色。
だが徐々に、流れが変わっていく。
褒め言葉。仕事から逸れる質問。長く続く視線。
最初は駆け引きかと思った。
彼女は世間話で応じ、丁寧に、しかし距離を置いた態度を崩さなかった。
だがすぐに気づく。――違う。これはビジネスではない。口説きだった。
彼は本当に自分を魅力的だと思っているのか?
それとも、宝飾品や肩書き、ドレスが彼の目を惑わせているだけか。
年下で、資産家で、魅力を武器に軽率に仕掛けてくる。
――挑戦として彼女を見る男。人間としてではなく。
いつも同じだった。
興味を持てる相手は距離を置き、近づいてくるのは立場に惹かれる男たち。
年月がそのパターンを明確にした。
彼にとって彼女は恋人ではない。
勝ち取るべき戦利品。飾るべきトロフィー。
その事実はあまりにも馴染み深く、退屈ですらあった。
思わず笑いそうになる。
彼女は彼にワインを飲み干させ、その隙に給仕と目を合わせる。
会計フォリオにカードを置き、音もなく決定を告げる。
「検討材料は十分いただきました。ありがとうございます。ここは私が」
給仕が戻るのを待つ間、男は口を開いた。おそらく次の食事を提案するつもりだった。
彼女は言葉が形になる前に遮る。
「秘書から連絡させますわ。次は――オフィスで続きを」
声は穏やか、だが交渉の余地を残さない。
先に車寄せに出されたのは彼女たちの車だった。
並んで歩く途中、彼は自分の高級セダンを顎で示す。無言の「送ろうか」という合図。
彼女は洗練された笑みで応じ、手のキーを押す。
少し離れた場所でスポーツカーのライトが点滅した。
「結構。自分で運転しますので。本日はありがとうございました」
ハンドルを握り、発進するまで一瞬だった。
残された彼は、レストランの庇の下で立ち尽くすしかなかった。
車のフロントガラスに都市の灯が滲む。
彼女は自宅のコンドミニアムへと車を走らせた。スタッフが一斉に頭を下げる。彼女は何も返さない。
最上階の部屋は、銀とガラスで飾られた広々とした空間。
美しい。高価。だが、空虚。
彼女は窓辺に立ち、ワイングラスを傾けた。眼下には街が広がり、無数の灯りが群れるホタルのように瞬いていた。
だが、外の喧噪よりも、室内の沈黙の方が重くのしかかる。
彼女の人生は効率的に仕切られた箱の連なり――仕事、睡眠、最低限の維持。趣味に割く余裕はなく、友人はとうに疎遠になり、招待状も途絶えて久しい。
独身でいるのは、最初は状況のせいだった。だが習慣となり、四十を越える頃にはそれが常態となった。
自分は恐れられているのか、敬われているのか、それともただ「許容されている」に過ぎないのか。
愛や欲望といった問いは、もはや遠い過去の残滓でしかなかった。
ワインは思考の角を柔らかくし、彼女はベランダへ歩み出る。夜気が肌を冷やす。
そのとき、目にした。
細い手すりの上で、猫がよろめいていた。金属を爪で引っかきながら必死に体を支えている。
彼女は眉をひそめる。こんな高層のベランダに、どうやって?
耳を伏せ、小さなか細い鳴き声。落ちる危険を理解しているかのようだった。
彼女はグラスを置き、一歩近づく。途端に鼻がむず痒くなり、喉が詰まる――長年のアレルギー。
動物を避け続けてきた理由がそこにあった。
だが、その姿はあまりにも小さい。か弱く、場違いで。
突風が毛並みを乱し、その体を危うく揺らす。
「降りなさい……落ちるわよ」
自らの拒絶反応を押し切るように、手を伸ばす。
目が熱を帯び、鼻のむずかゆさは鋭さを増す。顔をこすっても赤みが広がるだけ。
猫は落ち着かぬ足取りで手すりを歩き回り、体重移動のたびに縁へと近づいていく。
それでも彼女はさらに身を寄せる。ワインの熱が血に残るまま。
「ねえ……降りてきて」
声は掠れ、目には涙。視界の灯りが滲み、二重に揺らぐ。
鼻がひくつく――一度、二度。
激しいくしゃみ。身体が揺れ、手すりにしがみつくが、世界が傾いた。
猫が跳んだ。毛並みの残像が宙を駆ける。
彼女の身体は反射で動いていた。腕にその小さな体を抱き寄せる。
暴れる。爪が引っかき、足が蹴る。
落下を免れさせた瞬間――自らの均衡が崩れる。
理解する。これから起こることを。
最後の思いは自分ではなかった。
猫をしっかりと抱き、どうか無事であるように――その願いだけ。
――暗転。
――そして、映し出される。
長い金髪をたなびかせる少女。
澄んだ青の瞳。
繊細なレースで縁取られた真紅のドレス。
大広間。百の視線が一斉に彼女へ注がれる。
その中央に立つ少女。
理解が胸を撃った。
彼女は小さく、しかしはっきりと呟いた。
「私は……カタリナ・フォン・アプグルンツヘルツ――」