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Canonシリーズ

プレマリッジなメンズの密かな悩み

作者: 藤夜 要

 殆ど存在自体を忘れられている気がしないでもないけれど。

「いくら今年度いっぱいでいなくなるからって言ってもさあ……」

 頼みごとをするつもりだったら、せめて義理チョコくらいあってもいいと思うんだ。早乙女はその言葉をぐっと呑み込んだ。

 地味でいい人、なんだけどねえ――新人女子社員に陰でそう噂されているのを知っている。早乙女は、自分に宛てたものではないバレンタインチョコをみっつも持たされ、深いため息をついた。

「穂高っちの分だけっていうのは、社会人としてどうかと思うんだ」

 彼女たちが消えてから五分きっかり。結局そんな愚痴を零していた。


 ここは企画部設計課。去年入社した女子一名、今年入った女子二名が、そろって設計希望だった理由を所属したその日の内に知ったのは早乙女独り。

『早乙女先輩、渡部さんと同期なんですよねっ』

 声を弾ませキラキラお目々でそう尋ねて来た二年目の子は、穂高と同じ大学の卒業生。

『早乙女主任、安西さんと同期だって本当ですか』

 頬を染めておずおずと尋ねて来たのが今年入った新人のふたり。一方はやはり穂高と同じ卒業大学なのだが、もうひとりは驚いたことにまったく畑違いとも言える薬科大卒業生。その薬科大学のキャンパスで東洋薬学専門の教授を訪ねて来た穂高に茶を出したのが、興研設計の採用試験を受けた本当の理由だというのだから驚いた。勿論思い切り残念な意味で。

 三人に共通して訊かれたことは、自分と穂高のことに続いて

『彼って彼女いるんですか?』

 だった。入社した年に穂高の祖母邸に招かれた時は、青木泰江が彼女ではないかと思ったのだが。

『ん~……、なんかね、いろいろとフクザツ、あのふたり』

 その小旅行を機に泰江と個人的に交流している婚約者・美咲の話では、泰江が穂高には別の想い人がいると知っていてつき合い始めたが結局泰江の方から別れを切り出したのだとか。

『私の大好きな人を好きなんだぁ、彼。なんだか一生懸命私を好きになろうとしてる彼を見てたら、醒めちゃった』

 彼女を追いかけている彼が好き、そんな訳の解らない理由で別れたらしい。

『意味不明だよね』

『うん、全然理解出来ない』

 早乙女と美咲には理解出来ない事情。そんな感じだったので、結局真実は藪の中。

 そんな記憶があったが為に、真っ正直に「さあ」なんて返事をしたのがまずかった。ことあるごとに、何かと穂高についての探りを入れられるようになってしまった。もう上司の威厳形無しである。

 頼まれたら断れない早乙女は、去年のバレンタインの時に預かったチョコを穂高の実家へ転送した。

『お前はアホか。ンなもん断れ。このタコっ』

 穂高にそう怒鳴られてから、一年が過ぎた。今年のこれはどうしよう。

「穂高っち、異動でこっちへ戻って来てから外回りばっかで殆ど社内にいないしなあ」

 何よりまた怒鳴られそうで、早乙女はそれを手にしたまままたひとつ深いため息をついた。

 昨年のあれ以来、殆ど穂高と話していない。多分、白黒はっきりした人だから、自分のこの優柔不断さに愛想を尽かしたのだろう。

「でも、だからって僕がもらっちゃうわけにはいかないし」

 般若のような顔をして怒り狂う美咲が脳裏を過ぎり、早乙女はぶるりと身を震わせた。


 答えを出せないまま、昼休みが来てしまった。早番の連中が次々と設計室を立ち去っていく。

「早乙女主任っ」

 甘ったるい声が、早乙女の背筋を凍らせた。

「は、はい?」

 上司なのに、年上なのに、入社歴はこっちの方が長いし仕事もそれなりに彼女たちよりしているという自負もあるはずなのに。声がどうしても裏返ってしまう。早乙女は美咲以外の女性に関心を持ったことがないので、女性にどう対応していいのか解らない。そんな不慣れがいつも気弱な対応にさせる。びくりとした拍子にずれてしまった眼鏡を慌ててずり上げながら、下手な作り笑いを浮かべて声の方へ振り返った。

「今日は女子社員みんなでランチに行こうって約束してるんですぅ」

 一年先輩の子が、有無を言わせない媚びた声でそう切り出した。

「でも、私たち遅番なんで……でも、ほら、久我さんや瑞希さんとか、それに来栖先輩も、ねえ?」

 皆まで言わずとも解れと言いたげな物言いで、新人のふたりが顔を見合わせてから早乙女の顔をじっと見る。

「……電話番なら、僕がするから大丈夫だよ。行ってらっしゃい」

「ありがとうございますぅ。だから早乙女主任には相談しやすいんですよねっ」

 要らんお世辞だ、という言葉をぐっと堪えて微笑んだ。

「先輩、いつも愛妻弁当持参ですものね。いいやあ、私もお弁当を作ってくれる彼氏が欲しい」

 それはお前が彼氏にすべき愛情表現ではないか、という言葉もぐっと堪えた。彼氏がいるなら朝一番であんな子供じみた頼みごとなどするはずがないだろう。そう思うとどうにか溜飲が下り、

「愛妻って、式は五月だから、まだ妻ではないよ」

 と軽くのろける余裕が出来た。




 賑やかだった設計室が、シン、といきなり静まり返る。早乙女は部署がBGMにしている有線放送を止め、美咲の好きなMISIAのアルバムデータをスマートフォンから引き出して再生させた。

 今手掛けている物件は、新婚さんの新居となる戸建住宅の屋内設計。屋外は穂高がほんの小一時間で仕上げてくれたものらしい。翠を介して手渡されたデータを見た瞬間は、呆然とした。たった小一時間で、原価も純利もそこそこに出せて、尚且つ若い世代の夫婦が実益景観的の両面から見て満足するに違いない植栽と外構。拾い出しをしてみれば、ギリギリで建築基準も満たしている。早乙女の屋内プランがそのお陰で相当自由度の利く形に仕上げられていた。

「普通は建物があって初めて外工設計に入るもんなんだけどね」

 ……敵わないや。

 早乙女は未だに「早乙女設計からの出向社員」という優遇措置に後ろめたさを抱き続けていた。そうでなければきっと穂高が希望どおり設計に配属されていたはずなのに。表向き普通に接しているが、きっと穂高も面白くなかったに違いない。

『なんぼ親の意向があったとしても、それなりのスキルがなかったら、切り捨てられる。それが企業なんと違うんか』

 実力で取った椅子だ、自信を持て――内示が出た時にそう言った彼。人間性という面でも劣等感を抱いていた。


「って、ウジウジしてる場合じゃないや。早く仕上げないと、三月半ばまでに入居出来る状態にしなくっちゃだもんな」

 既に基礎工事が始まっているその物件、夫妻の希望で追加が出た。屋根をソーラーパネルにしたいというが、日照権の問題で若干の手直しが必要だった。デザインを妥協したくない早乙女としては、詰め将棋で手詰まりを食らった気分だった。

 まるで手が動かないまま時間だけが過ぎる。たった五分が数時間に感じられる。時間との戦い、そして自分との戦い。早乙女のそれらを慰め励ましてくれる唯一のものが、美咲の作ってくれる弁当だった。

『まーたそうやってネガティブってる。ぱっと浮かんだイメージでいっちゃえばいいじゃないの。だーいじょうぶ、この美咲さんのお墨付きなんだから、もっとしゃんとしてっ。自信持って!』

 離婚してたったひとりの家族だった母親にも中学の時に先立たれ、人一倍自力で歯を食いしばって来た美咲。「義務教育は終わったもの」と、隣家のよしみで幼い頃から支援して来た早乙女の父からの進学費用を頑なに拒んで、奨学金で高校生活を全うして職に就いた頑張り屋さん。そんな彼女が太鼓判を押してくれる。それが早乙女の力になる。美咲にふさわしい自分であろうと、彼女に認められるだけの努力をという気にさせられる。

 鼓膜を優しくゆさぶるMISIAの声が、彼女と過ごすひとつひとつの出来事を反すうさせる。

(あ、そういえば、この曲を聴きながら、美咲が言っていたっけ)

 将来子供達が成長して部屋を分けられるようにしつつも、最初は独りだと心細いから完全に部屋を塞がなくていい部屋作りだといいな、とか。

 ようやくマウスを握る手が動く。二階の中央にと設計していた階段を、廊下で各部屋へ入るつくりに変えて、ふたつの部屋を引き込み戸で分ける設計に変えよう。後々壁に出来るように。幼い内はひと続きの大部屋で思い切り遊ぶことが出来るように。

 曲が変わり、バラードが流れる。脳裏にあの時(・・・)にしか見せない美咲の顔が横切った。

(……な、なんでこの曲が入ってるんだ……?)

 急に思考が動かなくなった。この曲はきっとこうなるから、持ち歩くことをしなかったのに。

 今日がバレンタインデーだったことを思い出す。美咲からの遠回しなメッセージだということに気がついた。

(いつも父さんの介護や家業の手伝いで気疲れしてて、まともにふたりっきりで話せなかったもんな)

 そんなことを考えながらモニタに映った白地に黒いラインが走る図面へ目をやると、その白地の部分にうっすらと浮かぶ自分の緩み切った顔を見とめて余計に恥ずかしくなった。

 気が散ってしまい、ストップボタンを押してMISIAを消した。音楽は消えたのに、床で睦む時の美咲が脳裏から離れない。

「うゎーん! 仕事に集中出来ないじゃんかよぉ、美咲のバカ!」

「あ? 夫婦喧嘩か?」

「いっ?!」

 突然振って湧いた合いの手に驚き、早乙女は変な声を上げて振り返った。

「お前、ンなこと叫んどるんが美咲にバレたら、速攻動けなくなるまで蹴り飛ばされるで」

 くすくすと笑って近づいて来たのは、久し振りに顔を合わせる穂高だった。

「喧嘩じゃないけど、だって美咲が」

 とうっかり言い掛けて慌てて口をつぐんだ。

「が、何」

「あ、いや、なんでもない」

「口に仕掛けて途中で止めるとかあり得へんし。ほんなら美咲にチクったろ」

「だめぇ! っていうか、どしたの? 社にいるなんて珍しい」

 話を逸らそうと適当に振った言葉に、意外にも穂高が食いついた。

「昼返上で次へ行くとか、あの鬼年増、俺を殺す気満々やしっ」

 鬼年増――久我室長のこととしか思えない。本気で不愉快な顔をして吐き捨てる穂高というのも、早乙女には意外な一面に見えた。

「そっか。久我さんって、今日は多忙日だもんね」

「全力で女を武器にしとるし。チョコ配りまくってやんの。それもローズ・スィーツやで」

「って、隣のビルにある、薔薇の形で作ってる無駄に高いチョコレートの店?」

「せや。どんだけ間接経費掛けとるんやっちゅうねん」

「穂高っちのそういう思考、さすがバイト時代は現場担当していただけあるよね」

 他愛のない話をしながら、自分の中にあった穂高に対するわだかまりが解けていく。美咲が言うように、穂高にとって自分という存在は腹立たしさをいつまでも抱くほど大きな存在ではないのかも知れない。美咲はもちろんそんな言い方はしなかったけれど。

『言葉のまんま受け取ればいいじゃない。章吾が穂高をそういう存在だと認めてるなら、その穂高がキミを同等と認めてるってことだよ? それってすっごい鼻高々になっていいとこなのに』

 そう言って慰めてくれた。美咲の全部を使って、慰めてくれた。

「早乙女センセ、何考えてるのん?」

「!」

 気づけば穂高が向かいの席に座り、頬杖をついて底意地の悪い笑みを浮かべていた。勘の鋭い彼のことだから、きっとモロ顔に出ている自分の頭の中など見抜いてしまったのだろう。

「あ、や、えっと。あ、それで逃げて来たって訳だ、久我さんから」

 足掻くように話を戻す。前なら徹底的に苛めて来たのに、彼は話をこちらに合わせて引き下がってくれた。

「まあなあ。逃げて来たのはええけど、うっさいクソ女の存在を忘れててん」

 うっさいクソ女――来栖翠のことだ。この人はどうしてまともに名前を呼ばないのだろう。例えば自分のことは、人には「黒縁眼鏡」と呼んでいるらしい。セクハラ紛いのスキンシップで女子社員に嫌われている美奈川課長に至っては「犯罪者」と呼ばれている。そんな彼だから敵も多いが、そのストレートさに好感を抱く者もいる。良くも悪くも人の関心をそそる存在。それが企画設計室の女性陣を浮き立たせる要因になっているのだろう。彼のそんなところも、早乙女が羨望する部分のひとつだった。

「くぅちゃんにまでお説教されたから逃げて来たってトコか」

「おう。建設にはタケル以外に連れがおらんし、ここがお前だけでラッキーやったわ」

 ほんのりと温かな灯火が胸の内に宿る。穂高の変化を感じたことがそう思わせたのか。彼が自分の思っている個人的なことを口にするのは多分、初めてだ。

「穂高っち、なんか変わったね。大阪で何かあった?」

 いいことが、という意味で訊いたのだが、穂高は別の意味に受け取ってしまったようだ。

「お前かて週刊誌を見たんやろう。なんかもうその辺どうでもええし。訊きたいことがあるんならはっきり言いさ」

 不快げに煙草を咥える彼が、ぎちりとフィルターを強く噛んだ。それは彼が苛立っている時の癖だ。

「ご、ごめん。そういうつもりじゃ」

 思わず俯き言葉を濁してしまう。どう言っても言い訳にしか聞こえない気がした。すっかり昨年の夏の騒動を忘れていた。

「ほな、どういうつもりで何を訊きたかったんよ」

「や、なんていうか、なんかすごく丸くなったなぁ、と思って。だから何かいいことがあったのかな、とか」

(ああもうバカだ僕はっ。余計に墓穴掘ってるじゃん!)

 どうしていいのか分からなくなり、食べ掛けの弁当にまた手をつける。

「お前さあ、いつまでもそんなウジ男ってて、ホンマに早乙女の看板背負ってやっていけるんか?」

 お前のそゆとこ、めっちゃ心配。その言葉で早乙女の手にした箸がぽとりと落ちた。

「それで苛っとしてたのか」

「あ? イラッとしてたか? 俺」

「うん、フィルター噛んでた」

「……クソ女レベルの突っ込みやな」

「くぅちゃんが聴いたら絶対怒るよ」

「じゃ、美咲の件と相殺ってことで」

 顔を見合わせくすりと笑う。ここにタケルのいないことが寂しいくらい、懐かしいほど心地よい“同期”の空気で満ちていた。

「いや、苛ついてるのは早乙女にやなくてな、俺自身」

 穂高がため息なのか煙草の煙を吐き出しただけなのか解らない呼気を落として俯いた。

「どしたの」

「う~……ん」

 手に煙草を持ったまま、くしゃくしゃと頭を掻き混ぜる。煙草の火がジジ、と彼の髪をほんの少しだけ焼いた。

「お前にしか訊けん。けど……オフレコ厳守、オッケー?」

 ドキンと心臓が大きな脈を打った。

「お、オケー」

 そう答える声が、裏返る。穂高が、あの穂高が自分に相談なんて。夢にも思わなかった展開に心が躍る。タケルではなく自分にということが、彼との距離をものすごい勢いで近づけた気にさせた。

「あんな、普通どんなんか解らへんねんけどな」

 深い縦皺を幾筋も浮かせ、更に見たこともない赤みが差した頬で語る彼。

「うん」

 ゴクリと生唾を飲み込んだ。どんな深刻な悩みなんだろう。

「週三は、女にとっちゃしんど過ぎる?」

「は?」

 はてなマークが頭上で乱舞する。穂高の言っていることが皆目解らなかった。

「絶対拒否らないねんけど、絶対自分から言うてけえへんねん。俺って相手に選択権を与えてへんってことなんかいな、とか、なんつうか」

 そのまま言葉が消え入るように小さくなり、その続きが巧く聞き取れなかった。だが、大体言いたいことと知りたいことは解った。ついでにほかにもいろんなことを。

「……彼女、いたんだ」

「つか、一緒に住んでる」

「うっそ」

「せやからおんなじ立場の早乙女に訊いてるんやんか」

「結婚するんだ」

「つか、二回プロポーズを拒否られて、そのままなんとなく三度目が切り出しにくうなっとる」

「はぁ? なんだそれ」

 気づけば随分横柄な口調になっていた。そうなってしまうほど穂高が……幼い不器用な少年に見えた。

「だから、そのなんつうか、俺自身はそういうつもりはないねんけど、何かにつけて意見を言われへん雰囲気出しとんのかな、とか考えると三度目を切り出しにくいっつうか」

「自分が強引だと思った理由が、その、ソレ?」

「……はい」

(わ、笑っちゃダメだ、僕っ)

 一緒に考え込む素振りで頭を垂れる。どうしても肩が小刻みに震えてしまう。完璧万能不遜で唯我独尊、そんな穂高のイメージが、音を立てて崩れていく。美咲の言っていたとおり、考え過ぎだったのかも知れない。穂高を過大評価し過ぎていたのかも知れない。たったひとつしか違わない、自分と同世代の男なのだ。万能どころか人としての生き方としては、彼の生い立ちから察するに、案外不器用で生き下手なくらいかも知れない。

「でも、一緒に住んでいるってことは、結婚するつもりなんでしょう? 家庭を作るって、そういうことじゃん? 一度も向こうからそういうお誘いがないの?」

「い、一度だけ……ちょっと数日家を空けたあと」

「どういうキャラしてるの、彼女」

「めがっさ気ぃ強くて、いちいち反論かまして来るし、自分よりかも周りの空気ばっか読みよって、肝心のこっちの空気がからっきし見事なくらい読めない……そういう時だけ」

 彼の両手がかたどる握り拳が小さく震え、右手に挟んだ煙草から灰がぽとりと落ちた。

「彼女に訊いてみれば? はっきり思ってることを言って、って。今さっき僕にそう言ってくれたみたいに」

 俯いた彼の頭に向かって、そう答えを投げ掛ける。つるりと自分の話が零れ出る。

「美咲も最初はそうだったよ。時代が違うのなんのと言っても、そこはやっぱり女の子だからさ。自分からなんて言いにくいところもあるんじゃないかな。穂高っちが心配してるほど、嫌がってる訳じゃないと思うけど」

 落ちた煙草の灰にも気づかず、床を見つめたままであろう彼が、ぐくもった声で反論する。

「訊く。訊いてる、けど、ダメとか無理とか……そんなん言われたら、引くしかないやん」

 そしてポツリと呟いた。「あのクソ女」というひと言を。

(……あれ?)

 早乙女の中で、なにかが引っ掛かった。だがそれが何か、解らなかった。

「性の不一致って、性格の不一致の次に来る離婚理由とか言うやんか。そもそも一緒に暮らす時も、俺が半ば無理やりそっちへ話を持っていってん。そう考えたら自分の強引ネタがなんぼでも挙がって、キリがなくなって来てな。なんか、そゆこと考えとったら、三度目の自信がなくなったっつうか」

 早乙女は、思った。長身で端正な顔立ち、家はあの渡部薬品の一族。しかもその唯一の後継者ということでそれなりの資産も持っている御曹司。女性がそんな彼を放っておくはずがない。だから勝手に女性の扱いに手馴れているとばかり思い込んでいた。

「……もしかして、初恋、とか」

「……はい」

 百九十センチの巨体が小さく見える。せわしなく煙草を弾いていた手が、それをぱきりと折ってしまう動揺も、彼が初めて見せてくれたもの。……信頼と対等の証に見えた。

「女の子って、言葉そのものよりも、声とか仕草とか、表情だよね、きっと」

「は?」

 そう呟いて彼が上げた顔を見れば、耳まで真っ赤になっていた。

「例えば穂高っちの今のそれが、不機嫌じゃなくって気恥ずかしいっていうか情けない気分って言うか、そんなものだろう? だけど普段が普段だから、穂高っちのことをよく知らない人が見れば、怒って顔を真っ赤にしてると思うかも知れないじゃん?」

 益々彼の口がへの字に曲がる。だがもう早乙女の中に、びくつく怯えはなくなっていた。

「女の子はみんな、基本名女優さんだからさ。顔色とか平気で隠しちゃうんだよね。でも逆を返せば、わざと臭わせる表情や声色にも出来ちゃうんだ」

 イヤとかダメとか無理だとか。その声の色を聴いてみなよ――。

「……はい」

 しおらしい言葉と神妙な顔の癖に、やっぱりどすの利いた低い声が返って来る。それがあまりにもおかしくて。おかしくて、嬉しくて、近しくて。

「……ぶっ」

 我慢の限界を、越えた。思い切り声を上げて爆笑してしまった。

「なっ、おま、やっぱバカにしとったんやろうっ」

 怒声とともに胸倉を掴まれる。でも、もうそれも今なら解る。

「バカになんかしてないよ。穂高っちも僕とおんなじ、普通の人なんだなあって」

 思ったままを口に出来る。その心地よさが堪らなく嬉しかった。

 きょとんとした顔で呆然と見下ろす彼から、難なく掴まれた襟を取り外す。

「でも、週三は元気過ぎ。僕らより仕事量が全然多いんだから、その内彼女じゃなくて君が倒れちゃうんじゃないか?」

 誰もその場にいないのに、なんとなくコソコソと部屋の一番奥へとふたりして席を移した。


「――って、マジか! 美咲賢いっ。意外とソッチ方面やったらこっちを立てる女やってんな」

「そんなの、こっちが仕込むからに決まってるじゃないの」

「……お前、TPO次第で人格を使い分けるタイプやったんか。何、その上から目線」

 コソコソ、ひそひそと、そして緩み切っただらしのない顔で下らない下世話な話に興じる。

「今日は僕がメインの日だからね。ホテルはきっと美咲が取ってると思うんだ。絶対今日中に仕上げて定時帰宅してやるっ」

「一緒に住んどるのに、わざわざとかあり得へんし。同居だと何かと大変やな」

「まあねえ。まぁ、だからマンネリを防げるってメリットもあるけどね」

「マンネリなんてホンマにあるんかいな」

「どのくらい一緒に暮らしてるの?」

「半年ちょい?」

「つき合いは長いんだっけ」

「んー……いつからがつき合い言うのんか解らん。けど、年単位、かな」

「結構長いんだ」

「つき合いは長うても、邪魔が多過ぎてふたりの時間はかーなーり、少ないっ」

 課長席の後ろに隠れて密やかに話すふたりを照らす日差しが、出入り口の扉から伸びる影を彼らの上に落とさないという意地悪をした。

「だいたいだな、俺が渡した鍵をなんで姉貴に渡すかなってとこからむかつくねん」

「え。それは後々面倒でしょう。いつ入って来るか解らない、とか」

「せやねん! この間もやっとこいざっ! みたいな雰囲気まで持ち込んだところで姪っ子が遊びに来よって、俺もう涙目」

「あはは……ご愁傷サマ。なんでまた、彼女は鍵を渡しちゃったのかな」

「あのクソ女、東京での親代わりなんだから預けて当然だろうとか抜かしよってん。子供やないっちゅうねん」

(あれ? また……)

 心の中に、引っ掛かる。その引っ掛かりが早乙女にコツという靴音を聞き逃させた。

「うん、でも、まあ、せやな。今日は男がメインの日やもんなっ」

 気合の入ったひと言とともに、握られた穂高の拳が妙にいやらしい。美咲とつき合い始めて間もないころの自分を思い出し、早乙女は穂高に気取られぬようコッソリと顔を伏せてからクスクスと笑った。

「二日我慢したし、イヤ言われる前に押し倒」

「コラ、エロ男子達」

 響くアルトに肩が大きく揺れる。腹の底から冷たいものがこみ上げて来る。恐る恐る振り返る刹那、穂高と目が合ってしまった。多分、彼の瞳は自分のそれよりも遥かに怯えていた。

「えっと……くぅちゃん、あのね、これは」

「……デバガメすんなや、このクソ女」

(あっ!)

 やっと解った引っ掛かりが口にされるよりも早く、強烈なゲンコツが早乙女と穂高の頭にゴツ、ゴツとふたつ物凄い音を立てた。

「昼休みはとっくに終わってるわよっ。電話にも出ないで何バカな話してるのっ。室長がカンカンになって帰って来てるわよ。部屋で待ってるから、さっさと室長室に戻りなさい。早乙女君、あなたももう基礎工事が始まってる物件なんでしょう。課長が夕方までには仕上げてくれないと打合せで出掛けてしまうって言ってたわよっ」

 翠は一気にまくしたてると、穂高の腕を取って無理やり立ち上がらせた。

「ほら、その手をいい加減にどうにかしなさいよ、みっともない」

「離せ、このクソ女。いちいち指図しなやっ。俺はお前の子供と違うわっ」

 皆に「犬猿の仲」と囁かれ、疑ったことさえなかった、その裏の裏の、そのまた裏。穂高がやたら「クソ女」と言う相手。それは独りしかいなかった。それに今やっと気がついた。

「えええええええええええ! うそおおおおおおおおお!」

 頭の中が真っ白になり、気づけばそんな大声で叫んでいた。

「……早乙女君、何が?」

 剣呑に目を細める翠が、怖い。その隣で耳まで赤くして口をパクつかせる穂高の顔が面白過ぎる。早乙女はどんな顔をしていいのか解らないまま、混乱した頭の中に廻るものをそのままつるりと口から出していた。

「……週三日」

 自分のその声ではっと我に返る。慌てて口を覆った手が、穂高のスラングな握り拳になっていた。みるみる耳どころか首まで真っ赤に染まっていく翠を見て、早乙女はそれが事実だと居心地の悪い空気の中で思い知らされる破目に遭った。

「な……っ、おまっ、って、おい、翠っ」

 穂高の顔色が尋常じゃない色に変わったと同時に、翠が一瞬ふらつき、彼に思い切り倒れ掛かった。

「……っの……バカ穂高ッッッ!!」

 姿勢を正したかと思えば、バチンと派手な音が設計室に響く。同時に部屋の扉が開き、どやどやと人の波が押し寄せる。

「なに、どったの、くぅちゃん」

 パーテーションで仕切られているだけのこのフロア。早乙女の「ええええええ!」と翠の「バカ穂高ッッッ!!」がフロアに戻っていた社員全員を呼び寄せていた。

「あ、いえ、サボリ室長補佐をやっと確保出来たものですから。すみません、大声出しちゃって」

 沈着な声で答えた彼女が、あっという間に穂高とそろいの顔色を「ポスト久我」のそれに戻す。だが、一瞬早乙女を見つめた吊り目の大きな瞳が、「ばらしたら殺す」と告げていた。

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